意図行為



「意図」に関する覚え書き。初歩的なことを教科書的に纏めただけなので真新しい論点は何もありません。



0.
 オペラを見に行くこと、新聞を読むこと、ビールを飲むこと。これらはいずれも行為である。他方、石につまずく、あくびをする、などの身体的な振舞いを行為と呼ぶことには躊躇いをおぼえる。では、行為を(単なる)振舞いと区別するものは何か。この問題に答えるに、我々はまず意志・意図という概念について考察しなければならない。

1.
 アリストテレスの『ニコマコス倫理学』第3巻は、われわれの行為はいかなる場合に「意図された」(ヘコーン)行為であると言えるか、ということが主題となっている。こうしたことが問題となるのは、行為者の意図がその行為の責任・評価と密接な関係にあるからである。そこで、意図された行為の特徴は「意図に反する」(アコーン)行為との対照によって光を当てられる。予め結論的なことを言ってしまえば、意図された行為とは、行為のはじまり(アルケー)が行為者自身のうちにある行為のことであるとされ、意図に反する行為は、外力や無知に起因する振舞いと関係付けられている。
外力という場合、次の二つのケースを区別する必要がある。まず、アテネに向かう船が風の力によって全く別のところに運ばれてしまう、といったことがありうる。しかしこれは、そもそも行為の名に値するものとはいえまい。また、専制君主の脅迫によって何か悲惨なことを成さねばならない、といったこともありうる。これは、通常は行わない事柄をあえて選択させられるので、意図された行為と意図に反した行為との混合的な性質を持っている、とアリストテレスは言う。 無知による行為とは、行為者がその行為の性格や結果などを知らずになしてしまうような行為であり、酔っ払いや怒りに我を忘れた人の振舞いとは区別されなければならない。アリストテレスは意図に反した行為を「意図しない」(ウーク・ヘコーン)振舞いと区別し、前者を、ある振舞いについて、それを後で悩んだり、しなければよかったと考えるようなものとして規定している。
 さて問題は、ある行為が意図的であるのは、行為のはじまりが行為者自身のうちにあるときだ、という規定である。この規定は、第一に、飼い犬が歩行者に怪我を負わせた場合に、飼い主が責任を問われるといったケースを挙げることで疑問に付することができるかもしれない。とはいえ、この場合、怪我をさせた行為主体は確かに犬であるが、飼い主はそれを事実上「容認」した責任を問われている、と説明することができるかもしれない。

2.
 第二に、「行為のはじまりが行為者自身のうちにある」という規定は、行為の原因としての意志を秘匿的な心的出来事として捉える、近代の機械論的説明とも結びつきうるように思う。この<心的状態→行為>といった図式は日常的な直観にも適合するのだが、しかし、意図を行為そのものから分離せしめる伝統的な意志理論は多くの問題点を抱えている。これについて述べよう。
 例えば、意志が発揮される時刻をどのように定義すればよいのだろうか。ライルの卓抜な例を用いれば、「少年は高飛び込みをするという意志作用をどの瞬間に経験したのだろうか。それは彼が梯子に足をかけたときだろうか。あるいは最初の深呼吸をしたときだろうか。「1,2,3−飛び込め」と数えおえ、しかし、まだ飛び込んでいないときであろうか。」
この問題が解決できるにせよ、心的状態の現れとして行為を把握する場合、行為者は意図をどれだけ持っているのだろうか、という問題が生じる。というのも、行為の意図の記述は、理論家の関心によって(原理的には)無限の述定を許すように思われるからだ。例えば、この愚にもつかないレポートを書くという行為において私は、「卒業するため」、「自分の考えをまとめるため」、「ワープロを打つため」・・・などの意図・目的を持っており、私はとてつもなく過大な情報処理を表出していることになる。行為者はこうした無限の意図を心中に併存させねばならないのだろうか。

3.
 こうした難点を抱える伝統的な意志理論と袂を分かち、行為の意図をその意図に関する記述から考察した代表的な論者として、我々はエリザベス・アンスコムを挙げることができる。彼女の主著『インテンション』の行為論を暴力的に単純化すれば、

a. 師の教えに従って秘匿的な心的出来事を拒絶しつつ、
b. ライル流の行動主義を回避しながら 、
c. 「何故?」という問いが受け入れられるような意図行為という概念規定に達した。

と纏められよう。すなわち、「何故?」という問いへの、行為当事者の答え方(行為の理由)に定位して「意図」の含意を遡及的に照らし出すのである。「ある行為を意志的なものとして記述する場合、為された時点におけるその行為に付随する何かあるものを付与しているのではない。行為を意志的と呼ぶことによってそれを意志的行為のクラスに帰属させているのであり、したがって、私が規定した意味で「何故?」という問がその行為に適用できることを示しているのである。」
 例えば、「何故あなたは飛び跳ねているのか」という問いに「ダイエットするためだ」という答が与えられたならば、「彼はダイエットしている」と言うことができる。つまり意図による説明はある文脈にその行為を位置づけ、解釈を与えるということができる。
勿論、この定義はそれだけでは不十分である。なぜなら「行為の理由とは何か」ということが問題にならざるをえないからだ。そこで、アンスコムはこの問が受け入れられない場合を考えることによって、意図行為という概念の解釈基準を明らかにしようとすることになる。

4.
 まず、そのような行為をしていることを知らなかったという場合、この問いは受け入れられない。例えば、板を鋸で挽いている男に、「何故鋸でキーキー音をたてて隣人を悩ませるのか」と尋ねた時に、「私はそのようなことをしていると知らなかった」と答える場合である。けれども「何故鋸で板を挽いているのか」と尋ねた場合には、そのような答が返ってくることはないだろう。
このように、自分の行為を特定の記述のもとでは知っていても、別の記述のもとでは知ってはいない、ということはしばしば生じうる。『オイディプス王』の悲劇で、オイディプスはたしかにライオスを殺してイオカステと結婚したが、自分が父親を殺し母親と結婚したとは知らなかった。アンスコムの基準によれば、オイディプスの父殺しと近親姦は意図行為ではないということができる 。
 「何故?」の問いが退けられる第二の場合は、「自分がそうしていることを観察によって知った」という場合である。ここで、アンスコムの観察によらない知識knowledge without observationという概念について触れておく必要があるだろう。まず、「観察が成立する」とは、独立に記述できる感覚に基づいて判断がなされる場合をいう。「リンゴが皿の上にある」。これは観察による知識である。ところで、われわれは殊更に観察するまでもなく、自分の現在の姿勢や四肢の状態をわきまえているといえるだろう。例えば、自分の膝が曲がっていると判断する場合、何か膝にうずきを感じてそれによって判断するわけではない。丁度そのように、自分の意図行為については、それがいかなる行為であり、何のための行為であるか観察によらず知っているというわけだ。

5.
 こうした議論を踏まえた上で冒頭の問いに戻りたい。まず、普通、「意図行為」を単なる「行為」と区別する場合、後者の方が前者より外延が広いので、まずは後者の概念を規定すべきであるように思われる。しかし実際には、行為を規定するためには、意図行為の概念を規定する必要があるのである。その理由は、「ある出来事が単に生じたことではなく私が為したことであるためには、そのもとでこれが意図的となるような特定の記述が存在しなければならないから」である。すなわち、行為とは特定の記述のもとで意図的となる出来事なのである。
 あくびや石につまずくことは、どうして意図行為とは見なさないのか、という問題には次のように答えられる。それは、あくびの振舞いを意図的とする記述は普通存在せず(相手の話が退屈であることを知らせようとしてあくびのフリをする、という場合はありうるが)、また何故あくびをするのかについて当人は直接的知識をもち得ないからである。実際には我々は、睡眠不足とか緊張のためといった、あくびの生理的な原因に関する知識を持ち合わせているが、これらは全て観察に基づく知識なのである。かくして、あくびという振舞いは行為ではなく、単なる身体的動作に過ぎない、という直観を説明できるのである。

6.
 さて、冒頭の問題には以上のような答えを出すことができると思われるが、実際には、こうした解答は幾つかの前提を踏まえた上でなされている。特に、アンスコム以降の論者が問題としたのが「理由」と「原因」の峻別である。黒田亘によれば、この区別は『パイドン』のアナクサゴラス批判に由来するようだが、それはともかくとして、行為の説明として「原因」を破棄する(ようにも見える)以上の議論は、まだ詳細に検討されるべき問題を含んでいる。以上の議論は、現代における哲学的行為論の出発点にすぎない。




参考文献
G・E・Mアンスコム.(菅豊彦訳)(1984)『インテンション』(産業図書)
アリストテレス.(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学・上』(岩波文庫)
J・O・アームソン.(雨宮健訳)(2004)『アリストテレス倫理学入門』(岩波現代文庫)
S・エヴニン.(宮島昭二訳)(1996)『デイヴィドソン』(勁草書房)
黒田亘(1992)『行為と規範』(勁草書房)
G・ライル.(坂本百大訳)(1987)『心の概念』(みすず書房)

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