Title

邪馬台国と卑弥呼へのアプローチ

更新日:平成18年10月22日

はじめに 邪馬台国いずこ
卑弥呼考 ヤマトタケるに秘められた古代史



はじめに
神社伝承学の父原田常治著『古代日本正史』にはユニークな邪馬台国論・卑弥呼論が展開されており、賛同者も少なくないが、一方で論拠不十分との声もある。最近、私は『ヤマトタケるに秘められた古代史』(けやき出版)を上梓し、原田説を補強したので、ここにその一部を紹介したい(崎元)。
 
拙著は三部からなり、主体は第一部の「二人で一人のヤマトタケる」ではあるが、ヤマト王朝との関係解明上、邪馬台国論にも及び、原田説の検証をおこなった。下記にその内容を示す。
第二部 邪馬台国と卑弥呼へのアプローチ
 第一章 邪馬台国いずこ
   ・ 『魏志倭人伝』の解釈
   ・ 女王国への道
   ・ その他の国々
 第二章 卑弥呼考
   ・ 卑弥呼を求めて
   ・ 卑弥呼の墓


邪馬台国いずこ
原田説の主張点とその根拠、及び拙著が補強した事項他。

主張点@:邪馬台国=宮崎県西都市(西都原古墳の辺り)、狗奴国(球磨国)=沖縄(琉球)。
根拠:『魏志倭人伝』が邪馬台国は奴国や不弥国の南とし、さらにその南にある狗奴国の位置が、中国の会稽(浙江省)や東冶(福建省)の東にあるべしとする文言にぴたりと合致する。

〈補強事項〉
中国正史(『魏略』265年頃、『魏志』285年頃 、『後漢書』440年頃、『宋書』488年完)を経時的に追っていくと、倭国の中心が九州島の南北線上から大和を中心とする東西に東遷している様子が明確になることを平野邦雄氏が『邪馬台国の原像』(学生社、二〇〇二年)で見事に指摘されたが、それが一目で分かるように図式化した[下表。拙著288頁])

上図から、『魏志』倭人伝の頃(三世紀)には、邪馬台国は九州島の南にあったと認識されていたことは間違いなさそうである。これはまた、『日本書紀』が描く神武東遷(日向より近畿)の記述と見事に一致している。それを宋の時代以降に成立した『後漢書』や『宋書』が邪馬台国を近畿の大和としたのは五世紀に朝貢を重ねた倭の五王の都と錯綜したからであろう。

主張点A:邪馬台国の次に記載の斯馬国以下21ヶ国は奄美21諸島である。(注:@より邪馬台国が九州島の南にあるのであれば、その南にある斯馬国以下の国々は必然的に奄美諸島となる)
根拠:邪馬台国=西都市、狗奴国=沖縄としたとき、奄美21諸島はちょうどその間にあること、および、下記4ヶ国について、国名と現在の地名(括弧で記載)とが合致する。
・斯馬国(種子島):大きな島なので馬の字が当てられている。
・鬼国(宝島):海賊が宝を隠したと言う伝説の島で中国から見て鬼の島。
・鬼奴国(きなこく・喜界島):鬼界島とも言われていたことは平家物語を見ても分かる(一部筆者追加)。
・邪馬国(奄美大島):奄美21島中最大の島で馬の字が当てられている。

〈補強事項〉
上記4ヶ国に加え、さらに7ヶ国が、島(国)の噴火岳名や島の特徴と良い対応があることを見出した。
例えば、好古都国(こかたこく:口永良部国)には古岳が、躬臣国(こじこく:加計呂麻島)には弓師岳がある。
また、郡支国(たきこく:黒島)には断崖絶壁には無数の滝が、烏奴国(あなこく:沖永良部島)には多くの鍾乳洞(穴)がみられる等である(いずれも魏志倭人伝の国名順と奄美21諸島との順番はそのままで対応する(下図[拙著290頁からの抜粋])。


Bその他、以下の項目について通説との比較により、原田説を補強した。
・『魏志倭人伝』の分段の区切りの問題
・女王国への道(距離と方角について)
・古代中国人の地理観
・女王国の東方の国
・投馬国、邪馬台国(邪馬壱国)と現地名(中津市、西都市)との語呂合わせ


卑弥呼考
原田説の主張点とその根拠(@〜A)、及び拙著が補強した事項他。
@卑弥呼=天照大神
根拠:天照大神は伊勢神宮や天岩戸神社等に「大日霊女貴尊」として祭られている。ここで大と貴尊は尊称であるので、固有部分は「日霊女」のみ。「霊女」は今でも「みこ」と読み、略字で「巫女」(みこ)とも書く。これに日を加えて「日霊女」=「ひみこ」、すなわち、卑弥呼は天照大神として津々浦々に祭られている。
〈補強事項〉
『日本書紀』は、神功皇后摂政元年を西暦二〇一年とし、巧妙に『魏志倭人伝』の景初三年(=二三九年=神功摂政三九年)や、正始四年(=二四三年=神功摂政四三年)等の記事を配し、神功皇后こそ卑弥呼であるとみなせると装いながらも、最後の最後には、神功皇后の死亡年を二六九年とし、二四七、八年頃に亡くなったと『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼とは明確に一線を画している。
すなわち、『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼とみなしているとする説は受け入れ難く、むしろ、みなしているようなふりをしているだけとすべきである。
『日本書紀』の本来の年代論を復元し、かつ、巧妙に紙背に埋め込まれたいくつかの暗号を読み解けば、卑弥呼=天照大神が見えてくる。

A卑弥呼の墓=西都原古墳中の男狭穂塚
根拠:『魏志倭人伝』が径百余歩(中国の一歩は両の足で歩いて一歩ゆえ約一・四m、従ってこの円墳は直径約一四〇m)とする巨大円墳は畿内には見出せない。唯一、南九州西都原古墳群中の男狭穂塚のみが、その径、一二八m(一五四mとする説もある)が計測されており、倭人伝にほぼ合致する。
〈補強事項〉
原田説が唱えられた昭和五一年頃は、西都原古墳群の築造開始年代は五世紀をさかのぼることはないというのが一般の理解であったから、原田説は一笑に付されてきた。しかし、昭和六〇年には北郷泰道氏が、平成七年には柳沢一男氏が、墳形研究面から、西都原古墳群には「箸墓類型」「西殿塚類型」「行燈山類型」があることを見出し、築造開始推定年代は四世紀前半となり、およそ百年ほどくり上がった。
さらに、研究が進んだ現時点では、西都原古墳群中の3基(81、91、100号墳)が三世紀後半に位置付けられており、西都原古墳群の開始年代は卑弥呼の時代にあと数十年ほどまでに接近している。男狭穂塚が卑弥呼の墓である可能性がかすかながらも浮上してきたのである。
残念ながら、これまで男狭穂塚は陵墓参考地として、考古学者でさえ立ち入りが禁止されていたので、年代論についてこれ以上のことは言えない。朗報としては、宮内庁の英断で平成16年末から男狭穂塚と女狭穂塚の両古墳で、レーダーによる地中探査が始まったようであるので、今後の進展に期待したい。

注:以下余談
男狭穂塚の築造推定年代は、周辺で見つかった埴輪片等から現時点でも五世紀中頃に留めおかれている。が、そのような視点は私には疑問に思える。なぜなら、それは男狭穂塚に隣接する九州一の前方後円墳・女狭穂塚の築造推定年代とセットになって考えられている節があるからである。
確かに女狭穂塚はその墳形といい、出土した埴輪から五世紀中頃の築造の可能性が高い。埋葬者として、日向国造家の出身である応神妃の泉長姫あるいは仁徳妃等も考えられ、河内から王権直属の造墓・埴輪工人等を派遣してもらい造営した可能性もある。そうであれば、その際、隣接する先祖の墓(男狭穂塚)にも埴輪等をささげ、鎮魂するのは自然な行為と思える。(男狭穂塚を女狭穂塚より先行した先祖の墓とみなすのは、その異様な墳形といい、円墳のすそに取り付けられた斎祀場とも思える方形状の台地が一部、女狭穂塚によって削られているからである)。
そのような可能性があるので、男狭穂塚の年代は、今後たとえ五世紀の埴輪が出土したとしても、それを編年の根拠とすべきではなかろう。その編年については、棺の材質や構造の情報等、多面的な考証が必要不可欠である。


ヤマトタケるに秘められた古代史
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  以上、拙著『ヤマトタケるに秘められた古代史』の第二部についてその概要を述べたが、拙著の主体は「第一部 二人で一人のヤマトタケる」、すなわち、邪馬台国に続くヤマト王朝についての解明にある。
  日本最古の正史『日本書紀』を詳細に検討するうちに、実は書紀の編者は建国の頃の歴史を知り尽くしていたらしいことが分かってきた。すなわち、書紀は幾多のメッセージに託して、倭王武の上表文中にある「先祖代々自ら甲冑をまとい東奔西走」して列島を統一した人物の本来の姿、及びその背後にある「幻の皇統系譜」を懸命に叫んでいたのである。
  拙著ではその叫びを表や図にしながら確認していくが、果して、書紀の叫びは史実か幻か?
  その答を求めて、書紀を片手に、各地に残る神社伝承や古代氏族系譜伝承、さらには考古史料を尋ね歩いたところ、それこそが史実であると主張する証拠が次々と見つかった。かの有名な稲荷山古墳出土の鉄剣系譜も書紀の叫びに見事に呼応していたのである。

  これらの詳細は拙著で論じたが、その概要を別のHPでも紹介しているので、ヤマトタケるに興味のある方はご覧下さい。
  (注:タケるとした理由は拙著で述べております。決してタケルの誤字ではありません(´_`;)。 尚、拙著は最寄りの書店からご注文あるいはネット通販(けやき出版セブンアンドワイ紀伊國屋書店BookWebジュンク堂書店アマゾン等)によりお求めいただくこともできます。)



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