映画 小説・ノンフィクション・コミック・ゲーム その他
1
SPLIT
ミスター・ガラス

   
2

サスペリア    
3

ファーストマン    
4

ゴジラ キングオブモンスターズ    



 




 私は観る映画のほとんどを題材主導で選び、監督の名前(や役者の名前)で観にいくことはほとんど無い、とはいえ例外的にその名前だけで劇場に足を運ぶ監督はいるわけでその数少ない一人がシャマランだった。
 過去形なのはなぜかといえば枠から外れたからだ。

 そもそもシャマランの魅力はナイーブなばかりの主題の立て方にある。
『畑にミステリーサークルが出来た、家の周囲で怪しい物音がする、宇宙人の侵略に違いない』今どき映画の冒頭でこう提示されて素直に受け取る観客はいないだろう。
『大事故に巻き込まれたのにキズ一つ負っていない男がいる、彼は不死身のスーパーヒーロに違いない』も同様で、特にすれっからしの観客でなくとも文字通りには受け取らない。

 政府の陰謀である、集団幻覚である、概念上の存在である、イドの怪物である、仮想現実の中の出来事だった、まあなんでもいいが、観客はこれを「どう落とし込むのか、お手並み拝見」という気分で観る。

 ところがどっこいシャマランはこれを正面突破するのだ。「サイン」の半分が過ぎたあたりで絵に描いたようなグレイ型宇宙人が登場した時私は思わずのけ反り「マジか!」と叫んだ(心の中で)

 ぽっと出のラノベ作家でもこうはしない、というかエンターテインメントがこれだけ拡散しコンテンツが溢れている現在、ここまで捻りのないお話を作るのは勇気が要るだろう。捻りがないということはバッファがないということだ、少しのミスや緩みがあれば即叩かれる、なので普通は斜に構えたり、多様な見方の出来る余地を残したりするものだ、結末を観客に投げっぱなしにして、どのように受け取られてもそれは観る側の自由ですなどと逃げを打つものもある。

 シャマランはそうではない(そうではなかった)侵略宇宙人(!)も超人ヒーローも人魚も、概念上の存在や都市伝説やイドの怪物ではなく、実際にそのものとして出して押し通す、これが魅力だったのだ。

 おかしくなったのは「レディ・イン・ザ・ウォーター」からだ。プールの底に人魚が居る、と説き起こし、実際に人魚を出すところはシャマランらしいのだが、ストーリー、登場人物全てがファンタジー寄りでこの世の出来事感がない。
 足が地に着いたリアルな世界観の中でトンデモ設定を押し通すところがシャマランの魅力だったのに、これは閉じた世界の中の夢のような出来事として描かれている。 ひょっとして自分のアドバンテージを理解していなかったのか?という疑惑を抱かせる作品だった。

 疑惑を決定づけたのが次作の「ハプニング」だ。風が吹くと突然人が集団自殺を始めるというイントロは緊張感ありまくりでさすがシャマランという演出だったのだが、その後がいただけない。地球環境に対して人間は有害であると認識した植物が、人類を滅ぼすために催眠物質を放出するようになったのだ!、という大上段に振りかぶった設定はさすがシャマランというありえなさだったのだが、後半急速に後退し、そうかもしれないしそうでないかもしれないになり、現象はいつの間にか終了し、結局なんだったのかわからない、で終わってしまう。一大スペクタクルを展開しておきながら起きた事に関してその原因も、それが終結した理由も示さぬまま終わってしまうというのは凡庸な監督の作った凡作の典型である。シャマランとしてこれはどうよ?と思っているとラストで再び現象が始まったことを匂わすカットが挿入されて終わる。
 全てが終わったあと「実は事件は終わってなかった」的なくすぐりを入れ、意味ありげな雰囲気にしてみせるのも今や手垢のついた演出といえるだろう。
 シャマランが堕落した!と私は断じ、以後「新作出たら見に行くリスト」からその名を外したのだった。

 なので「SPLIT」が発表された時も無視を決め込んだ、これは「アンブレイカブル」と同じ世界観の物語であるとらしいとも聞いたが、「監視者」ブルース・ウイリスも、「ミスター・ガラス」ことサミュエル・ L・ ジャクソンも出てこないらしいのでまあいいかと思っていたのだ。

 というところで今回の「ミスター・ガラス」である。どうやら正統な「アンブレイカブル」の続編でブルース・ウイリスもサミュエル・L・ジャクソンも出るらしい、というか原題で「GLASS」と言うからには今回は「ミスター・ガラス」が主役なのだろう。
 
 ミスター・ガラス。転んだだけで骨折する骨形成不全症という難病を背負い、自分のような虚弱の極みにいる人間が存在するならその対極、何をもってしてもキズを負わない無敵のヒーローのような人間がいなければならないと確信する男である。彼はそのような『アンブレイカブル』を見いだすために大量殺人を繰り返し、ついに見いだした男を正義のヒーローとして覚醒させようと努力する。ブルース・ウイリス演ずる冴えない中年男がついにヒーローとしての道を歩み始めるや、苦しみばかりの自分の人生にも意味があったと満足して自ら罪を告白する。

 目的のためには手段を選ばない冷血と正義のヒーローを世に送り出したいと願う二面性、自分がこの世界にとって無価値なものではないかと怯える純粋さと誰にも理解されないビジョンを持ち続ける強い精神力。ヒーローに対する友情と献身、悪意を持たない稀代の悪役。
 いままで紡がれた無数のエンターテインメントの中の無数の悪役の中でも特異なキャラクターである、もちろんすべての悪役について知っているわけではないが、シャマランはまったく新しい悪役を産み出したのだと思う。

 『アメコミのヒーローは実在したのだ!』という飲み込み難いテーマの故に微妙な評価がつきまとう「アンブレイカブル」だが、私はこのミスター・ガラスのユニークさの故に内心で傑作認定しているのだ(なぜ内心なのかといえば、どうしたってこのテーマが飲み込めない層は居ると思うからで、相手がどんな感性なのかわからない状況ではお勧めできないからで、傑作と口に出していえばお勧めしたと受け取られるかもしれないからだ)


 さてしかし、そんなわけで「ミスター・ガラス」は観にいくこと決定であり、なので「SPRIT」も予習(!)しておくことになったわけだ。


◆SPRIT

 しかし、シックスセンスを予備知識なしで観た人とそうでない人はまるで別な映画を観たような鑑賞体験に違いない。同様にこの「SPLIT」の世界観がアンブレイカブルと同じであると知って観るのとそうでないのでは120度くらい違う方向性を感じるのではないか。
 当時、町山智浩という映画評論家が

「シャマランの新作『スプリット』は彼のある過去作品を観ていないとまったく意味がわからない映画なんですが、その作品を特定するとネタバレになるので『シックス・センス』『アンブレイカブル』『サイン』のうちどれか、とまでしか言えないのです。」 2017年5月12日

 と呟いて物議をかもしたほどである。
 
 実際にはシャマラン本人が、このツウィートより2週間前に。

My new film is the sequel to #Unbreakable AND #Split. It was always my dream to have both films collide in this third film.
『私の新しい映画は、アンブレイカブルとSplitの続編です。この3作目の映画の中で両方の映画が衝突するのは、私の夢でした。』

 と呟いている(公式ネタバレ?)ので町山氏が呟いたこと自体は構わないと思うのだが「ネタバレがあると言うことさえネタバレだ」と怒る人が出るほど微妙な映画であるのは確かだ。

 さてこの「SPLIT」23の人格を持つ多重人格性障害の男が女子高生3人を誘拐、監禁するところから始まる。映画の大半は犯人と監禁された女子高生が会話することで構成されまったく動きがない、にもかかわらず画面からはピリピリするような緊張感が放射され2時間観るものを飽きさせない。そしてここが重要なところだが、この映画がどこに向かっているのか、どこに着地するのか全く読めない、ここはさすがにシャマランとしかいいようはないだろう。

 映画のキモは入れ替わり立ち替わり現れる人格が口を揃えて言う「ビースト」の存在である、これは世界を浄化するためにやがて現れる24番目の人格で 全ての人格の上位の存在であり畏怖の対象であり、人間がさらに進化したもので体格さえ違うのだという(!)女子高生達はこのビーストを覚醒させるための生贄であるらしい。

 彼(女性人格も存在するが)は定期的に精神科医のカウンセリングに通っているのだが、このカウンセラーは「人格が変化すると体質も変化する」と唱え、学会では異端視されている危ない人だ。しかしもしそれが本当ならビーストとは何者なのか? ビーストが出現したら何が起こるのか。

 これがアンブレイカブルワールドであると知っていれば先は読める(ような気がする)し、知らなければあっと驚く結末に「フザケルナ!」と怒る人も出るだろう、その点で言ってもこれは正統な「アンブレイカブル」の続編である。

 シャマランが公式ネタバレして2年近く経つので私は遠慮会釈なくバレ込みで書いてしまったが、当時であればとうていお勧めできない映画であるに違いない。町山氏の葛藤も理解できるというものだ。

 結論として、シャマランファンならばアンブレイカブルをたとえ観ていなくとも満足する映画であるといえるだろう(まあアンブレイカブルを観ていないシャマランファンというのも考えにくいのだが)
 シャマランのファンではないが、変化球の好きな映画マニアであればアンブレイカブルを観た上で鑑賞すれば充分に楽しめるだろう。

 特にシャマランのファンでなく、アンブレイカブルを観ていないのならこれを観ることはまったくお勧めできない。これはそのようなエッジな作品である。


◆ミスター・ガラス

 さてでは「ミスター・ガラス」である。これがアンブレイカブルとSPRITの続編であることは公式に(監督のツウィートではなく)配給会社が宣伝しているので、ネタバレ問題は生じない。



 予告編より、「ミスター・ガラス」「群れ」「監視者」のそろい踏み

 とはいえしかし絶賛公開中ということでもあり、内容に触れるのは避けた方が良いと思われる、なので予告編の範囲内だけで言う。

 上の絵は、3人の立役者を前に精神科医が、『あなたたちは自分がアメコミの登場人物のような超人だと信じている、でもそれはただの思い込み、自分の超能力の証拠だと思っている事はすべて合理的な理由が付く』と説いて治療(!)を行っているシーンだ。
 絵的には3人と精神科医が椅子に座って向かい合っているだけの静的なものだが、画面から伝わる緊張感はただごとではない。そしてこの物語がなにか破滅的な終局に向かっていることだけはわかる、どこに向かっているのかまったくわからないのだが、崖に向かって疾走する車に乗せられているようなせっぱつまった危機感が放射されているのだ。

 さすがシャマランという演出である。そもそもこの「アンブレイカブル・ワールド」はアメコミの登場人物のような超人がこの世にリアルに存在するというトンデモな世界観であり通常どうハンドリングしようとバカ映画にしかなり得ない代物だ。
 ところがシャマランはこれを一点の緩みもないサスペンスドラマに仕立てているのだ、これは超絶技巧である。

 シナリオ、演出、カメラワーク、照明、セットデザイン、全てに監督の神経が張り巡らされ、コントロールされて初めて成立する工芸品のような映画がこの「ミスター・ガラス」なのである。

 一見の価値があると言えるだろう(ただし前2作を観てからにすべし)



 






 リメイク版にオリジナルと同じタイトルを付けないでくれるかな、データーを検索するにも人と話をする時にも混乱するからさぁ、というわけでダリオ・アルジェント版「サスペリア」を40年ぶりにリメイクした新作である。

 さてそのオリジナル「サスペリア」だが1977年に公開されるや大ヒットを記録し。あまりにヒットしたので日本ではアルジェント監督の2年前の作品「Profondo Rosso」(紅い深淵)が「サスペリア2」として公開されたほどである。

(話は変わるが、このような怪しい商法は今なら顰蹙ものだが昔は似たようなやり方がまかり通っていた。
 たとえばスティーブン・セガール主演の「UNDER SIEGE」(包囲下)は海洋冒険ものだということで、当時流行っていたかわぐちかいじのマンガ「沈黙の艦隊」から名を借り「沈黙の戦艦」として公開された。これがヒットするやセガールの次の映画「ON DEADLY GROUND」(死地)は前作とまったく関係のない映画であるにもかかわらず<続編>「沈黙の要塞」という名で公開された。これがそこそこのヒットを記録すると、関連のない次作「FIRE DOWN BELOW」(点火)は<沈黙シリーズ完結編>「沈黙の断崖」として公開された。完結と銘うったはずなのだが次の「THE PATRIOT」(愛国者)は「沈黙の陰謀」という名で公開された、もちろんこれも前作と無関係である。面倒になってきたので詳細は省くが以下「沈黙のテロリスト」「沈黙の標的」「沈黙の聖戦」「沈黙の追撃」「沈黙の脱獄」「沈黙の傭兵」「沈黙の奪還」とこのシリーズ(!?)は続く。
 ちなみに「沈黙の戦艦」には正式な続編「UNDER SIEGE2」があるのだがこれは「暴走特急」という名で公開されている、なんでや)

 さて元に戻ってサスペリアである。
 当時「けっして一人では見ないでください」という宣伝文句とともにブームになった映画だが、これは「美少女が血まみれになって死ぬのを眺めて楽しむ」といった代物で志の高いものではない。まあ「志高きが故に貴からず」という言葉もあり(ない)志が低いからといってつまらないわけでも観る価値がないわけでもなく、つまりはこれは「美少女を鉄条網のプールに落として血まみれにする」(!)などアルジェント監督のフェティシズムを楽しむ映画なのだ。そして志の低さを補って余りあるのがアルジェントの美学である、絢爛なセットデザイン、象徴的なライティング、繊細美麗なゴブリンの音楽、どれを取っても間然するところのないファンタジーである。映画のジャンルとしてはサスペンス/ホラー/スプラッターなのだが、従来そういった映画がグロテスクな演出や不気味なセットなどによってことさらにおどろおどろしい映像を作っていたのに対し、スタイリッシュなホラー、スタイリッシュなスプラッターという新機軸を打ち出したところが目新しく評判になったのだ(と思う)

 ということでこれがウケた理由はわからないでもないのだが、見るべきは表層的なものに留まり、私自身はさほどに感銘は受けなかった、というかむしろ「なんで真っ赤や真っ青な照明なんだ、わざとらしすぎるだろ、舞台照明かよ!」 などと思っていた、つまり評価はあまり高くない映画だったのだ。




これでもか、と言わんばかりのカラーライティング、全編こんな感じである



 
 さてそのような、スタイリッシュであること(だけ)がウリだった映画がリメイクされるという。あまり期待は出来ないがまあかつて一世を風靡した映画だったし一応観にいくか、くらいのつもりで劇場に足を運んだ。

 驚いた。

 かつて外界から隔絶した、箱庭の中のような、ファンタジーな場所で展開していた物語は様代わりし、1977年のドイツの世相を反映したものになっていた。
 終戦から30年以上経っているのにいまだ第二次世界大戦の傷を抱えて生きる人々、壁によって分断された街、ドイツ赤軍により頻発するテロで揺れる社会などが生々しく描かれている。実際この映画はドイツ赤軍によるハイジャック事件(ドイツの秋)と時間軸を同じくしており、背景として常に事件の推移が語られるのだ。そのような重苦しい空気の中で描かれるのがカリスマダンサーによって主催される舞踊団の閉鎖的で緊張した練習風景だ。

 映画の狂言回しはホロコーストで妻を無くし彼女を助けられなかった自分を責め続けている孤独な老人クレンペラー医師である。
 舞台となっている舞踊団の建物はドイツ分断の象徴、形となって立ちはだかる戦争の傷跡ベルリンの壁に面して建っている。


 え~~~~っと、こういう映画でしたっけ?


 シュラスコ料理を食べにいったら精進料理を出されたような・・ってわからないですかそうですか、あまりに予想外な世界観を提出され戸惑っているうちに映画はどんどん進みあーこういう狙いなのねと思った頃には終わってしまっていたのだった。

 映画はなるべく白紙で観に行くのが吉というのが私の信条だ。しかし誰でも劇場に足を運ぶ際にはその映画が「自分をどんな気分にさせてくれるのか」について一定の期待があると思う。つまり恋愛映画を観にいく人は感動を、アクション映画を観に行く人は爽快感を、そしてサスペリアを観に行く人は血まみれのおもちゃ箱を、なのでその方向性が170°くらいも違う映画を見せられたのでは修正が追いつかないのだ。


 舞踏学校外観 before



after




 観終わったあとで世間の評判をあらためて収集してみると、たとえば前項に名前の出た町山智浩氏は『素朴な民間信仰がキリスト教の振興で邪教というくくりに追いやられその関係者がやがて魔女というレッテルを貼られて弾圧されるようになった。この映画は舞台がモダンバレエの舞踊団だが、美しく明るいクラシックバレエこそがバレエであると信ずるゲッペルスによってモダンバレエは弾圧されていた。これは魔女とナチとバレエの映画なのだ』等と述べている。
 
 クレンペラー医師はナチを憎み自分を責めているがこれはナチが台頭してきた時、それを傍観してきた自分に対する怒りでもある。彼は自分に何の益もないのに舞踊団の秘密を暴こうとし続けるが、これは魔女を信仰するのもナチを信じるのも根は同じで、何かを盲目的に信仰するのは間違いなのだという彼の思いがなせるわざと言える。
 一方映画の背景に「ドイツの秋」が語られ続けるわけだが、社会を変えようとする運動がテロになってしまったというのがまた皮相である(ちなみにこの一連のテロの中でダイムラー・ベンツの重役が殺害されるのだが彼は元ナチスドイツの親衛隊員である)

 というわけでこの映画はきわめて社会的、政治的、宗教的映画なのだ、だがしかし実のところこのような背景が映画を観ている最中に観客に理解できるだろうか(できはしない)町山氏だってどうなのだろうと思う。

 手を止めて考える時間を作ることのできる小説と違って映画は観客の理解が追いつこうが追いつくまいが先に進んでしまう。なのでこの映画の場合、伝わってくるのはこれがきわめて複雑な映画、語源どおりのコンプレックス「衝動・欲求・観念・記憶等の様々な心理的構成要素が無意識に複雑に絡み合って形成された観念の複合体」な作品であるということだけだ。

 ということでこれはスタイリッシュがウリな(だけ)の前作とまるで世界の違う映画である。「アメリカから来た少女がドイツの舞踊団(前作では舞踊学校)に入団したらそこは魔女崇拝の秘密結社だった」ということ以外共通点がないこの映画にサスペリアという名を付ける意味があったのだろうか?

 完全オリジナルというと企画が通らないので、有名作品の続編、あるいはリメイクと銘うって予算を獲得し、しかし監督には前作をリスペクトするつもりなどなく、出来上がった作品は名前だけが同じの別物だったということがよくある(日本の某作品で監督が「前作を見たことがないと」公言していたことがある)
 あまりの路線変更にはこれを疑わざるを得ず、そうならばその作品は評価できない、それは前作の監督を初めとする製作関係者、その作品に思い入れのある多くの観客に対する裏切り行為であると思うからだ。
 
 そして、ダリオ・アルジェントはこの映画について Luca Guadagnino’s ‘Suspiria’ Remake “Betrayed the Spirit of the Original ”「ルカ・グァダニーノ監督によるリメイク版『サスペリア』はオリジナル版の精神に対する裏切りだ」と述べている.

 更に言うと、これは深読みしすぎなのかもしれないが、この映画、観客がリアルタイムで処理しきれないのを承知の上で各種要素を過剰に盛り込み意図的に「意欲作」「問題作」感を醸し出しているのではないかという疑惑も拭いきれないのだ。


これについては、石上三登志氏の言葉を引用したい

 すぐれた映画とは、とにもかくにもまず、すぐれた娯楽から出発する。そして、すぐれた娯楽に徹底しているうちに、それが”何か”を語り、”何か”を訴え出すということがもっとも望ましく、それを実証してみせたのが、ジョン・カーペンターの敬愛するアルフレッド・ヒッチコックでありハワード・ホークスである。

 私はこの言葉に全面的に同意する、ついでに日野啓三氏の言葉も紹介しよう

 言わんとすることが、あらかじめあったら、基本的にダメだと思う。何かを外から作品にこめようとしちゃダメだ。作ったものにおのずからこもっていなくちゃ。

 映画とはそういうものだと私は信じている、この映画をお勧めしきれないのはそこのところだ。


 





 地球以外の天体に初めて足を下ろした男、ニール・アームストロングの映画である。
 宇宙開発に興味のある私は勇んで劇場に足を運んだのだがあてが外れた。

 これは宇宙開発についての映画ではなく「家族の愛の物語」だったのだ。
 まあ、大地が裂け海が割れ地中から宇宙人(?1)が出現しようともテーマは「家族の愛の物語」であり、主人公が職場放棄しようが火事場泥棒しようが家族の為なら問題ナシというのがハリウッド映画であり、これはある程度予想していた(予告編にも葛藤する夫婦の絵はあったし)とはいえこれはその度合いが予想を超えていた。

 この映画は任務のプレッシャーによってストレスのかかる家族とそれを乗り越える夫婦の愛の物語であり、それがほとんど全てであって宇宙開発のアポロ計画のはほとんど背景に過ぎない。
 なんというかカメラは常にニールの周囲数メートルの所にいて、常にニールにフォーカスを合わせ続けているといった感じなのだ。なので彼がどのような任務に就いているのかは彼の背景に見えるものからしか伝わってこない。客観の絵、小説で言えば地の文がないようなもので、これは一種のPOV映画(ブレアウイッチやクローバーフィールド等の主観映画)と言えるだろう。
 主観映画のいいところ(?)は面倒な世界観の構築や物語のつじつまを合わせる必要のないところなのだが、これはそういう映画ではない、にもかかわらずニール本人の立場やアメリカがを取り巻く社会情勢、宇宙開発の現状など広い視野からの背景説明が一切ない。

 宇宙開発の映画と思ったのがそもそもの間違い、これはそういう映画じゃなく家族の愛の物語、人間ドラマなんだよという意見もあるだろうが、それにしても、と思う。
 これだと崇高だが危険と隣り合わせの職業、たとえば消防士とか海難救助隊とかに就いた男が主人公なら代替可能である。しかしニールが取り組んだ月着陸という任務はまさしく前人未踏であり先例のないミッションなのだ、そこに横たわる危険と難題は過去の経験から推測することの出来ないものだ、なぜ「ファーストマン」というタイトルなのか、主人公がニール・アームストロングなのかを考えたら、もう少し彼の置かれた立場を説明したほうが良かったのではないか、「史上初」という言葉が冠せられる男はそう多くないのだ。

 さてところでアポロ計画にはそういう意味で適切なエピソードがある、アポロ1号の地上訓練中にカプセル内で火災が発生し3人の宇宙飛行士が焼死したのだ、この映画でも触れているのだがあまりにあっさりしているので観客には背景が伝わらないと思う。

 これはカプセル内に純酸素が満たされていたことによって引き起こされた事故だ。純酸素内は通常燃えないものまで発火してしまう極めて危険な環境だ、なぜそのような仕様になっていたかというとカプセルの設計と重量のためである。

 我々が普段呼吸している大気はその大半を窒素が占め酸素は20%ほどしか含まれていない、これを酸素分圧は1/5気圧であると言う。
 人間は吸い込んだ空気を肺に取り入れてガス交換を行うのだが、そこで問題になるのがこの酸素分圧である、肺内部の酸素分圧「肺胞気酸素分圧」が「動脈中血酸素分圧」より高ければ酸素が血中に溶け込むのだ。通常、人は1気圧の(窒素込みの)大気を吸入しこの酸素分圧1/5気圧を確保しているわけだが、吸い込む気体が純酸素であれば1/5気圧でも人は呼吸出来るのだ。

 宇宙船の設計においては船内を1気圧より低くすることで得られるメリットは大きい、気密を維持するのも楽だし窒素を持って行く必要がないのも重量的にお得だ、なので宇宙船は大気圏外を飛行する場合は1/3気圧の純酸素で満たされている(※他の要因によって1/5ではなく1/3になっている)
 問題は発射時だ、この当時のアポロ司令船のハッチは2枚の扉で構成されていたが、内開きになっている内層のハッチの密閉状態を維持するため、発射から大気圏を出るまでは外気圧より高い約1.2気圧に維持することになっていたのだ。

 1気圧の純粋酸素でも怖いのに更に高圧である、NASAがなぜこの危険を看過したのかわからないがここでまさしくマーフィーの法則 Everything that can possibly go wrong will go wrong.「何事であれ失敗する可能性のあるものは、いずれ失敗する」が発動して3人の宇宙飛行士は焼死したのだ(原因は配線のスパークによるものだろうとしか判明していない)
 これこそがアポロ計画が前人未踏のミッションであることの象徴だろう、消防士や海難救助隊と違って関係者はまず何が危険であるかを探りだし、次にその問題の解決策を編み出す必要があるわけだ、そこに前例は存在しない。そしてその問題の洗い出しと解決策のどちらかにミスがあれば即座に人が死ぬのだ。ニールが全編を通じてテンパっているのも当然と言えよう。
 このニールがテンパっていることが奥さんの不安を呼び家庭の危機につながるのであるからたとえばこの事故などはもう少し背景を説明してもいいのではないかと思う、しかしこの映画はあっさり流してしまう、なぜと言えばそこにニールが居なかったせいだ、しかしこれではただ同僚が事故で死んだというだけである。

 この事故についてもう少し書く。
 司令船で火災が発生した場合どう対処するかについては前もって手順が定められていた。それによればハッチ正面に座る副操縦士がハッチの開閉操作を行い、向かって右座席の船長はそれを補佐し、左座席の飛行士は外部との通信を担当し、2人の操作をジャマしないようシートに座ったまま身動きせず待つ、ということになっていた。 
 事故後ハッチが開けられたところ、副操縦士のホワイトと船長のグリソムはハッチを開こうとした状態で死亡し、飛行士のチャフィーはシートベルトを締め天井を向いたまま死亡していた。3人は炎に巻かれながらマニュアル通りの行動を取っていたのである。
 あまりに悲惨なこのエピソードを映画に盛り込むことは出来なかっただろうが、この当時の宇宙飛行士がどれほどの覚悟を持って任務に臨んでいたかの証左にはなるだろう。
 主人公の置かれた環境や背景を描かずにおいて真の人間ドラマは描けないと私は思うのだがなにゆえここまで主観映画にこだわるのか。

 この異常なまでのこだわりは月面着陸シーンにも遺憾なく(?)発揮されている。
 ニールの献身と努力によってついに彼が月面に降り立つシーン、この映画のハイライトである、にもかかわらず月着陸船が月面に着陸する客観の絵がないのだ。
 映し出されるのは着陸船イーグルからの絵のみ、実際にニールが見たであろう逆噴射で月表面の砂が飛ばされている映像だけだ。




当時16ミリカメラで撮影されたこの動画は今でもYouTubeで見ることが出来る


 これはニール・アームストロングという男の人間ドラマなのだ、という関係者の意気込みは伝わってくるのだが、過剰なこだわりがかえってその効果を減じているようにしか見えない。

 私は結局「なんでだよ、見せろよ!」とか悪態を(内心で)つきつつ脳内で補完して見てしまったのだが、宇宙開発について特に興味のない人がこれを観てどう思うのか、真に主人公の思いに触れることが出来るのかはなはだ疑問と言わざるを得ない。

 結論、お勧めできない。

 トム・ハンクスの「アポロ13」は宇宙開発、家族の愛の物語、宇宙飛行士同士の友情物語など様々な要素がいい案配にミックスされた傑作である。「ファーストマン」を観るくらいならこの「アポロ13」を観たほうが幸せな映像体験となるだろう。


 





 以前にも何度か言ったことなのだがヤンキーは『怪獣』というものを理解していないし、ことによると理解できないのでないかと私は疑っている。

 昨今ハリウッドから日本のサブカルチャーに影響を受けたと自称する監督の怪獣映画(?)が公開されることがある。監督自身も「子供の頃、東宝の怪獣映画が大好きで」てなことを言っていたりするのだが登場するモンスターはどうみても『怪獣』ではない。
 怪獣はでかくなった野生動物ではないしクリーチャー(この世のものならぬ化物)でもない、しかし、たいていの場合出てくるのはそのどちらかだ。

 そして「どちらか」ならばまだマシで時にはその2つが共存することさえある。たとえば2017年の『キングコング 髑髏島の巨神』では出てくるのはでかいゴリラであるコングを筆頭に、でかくなったタコ、でかくなった蜘蛛、でかくなったバッファローなどでかくなった動物シリーズである。まあそれはそれで最後まで押しとおせばよかったのだが(よくないが)コングの仇敵、最終ボスとして出てくる「スカル・クローラー」はまさしくクリーチャー、この世のものならぬ化物である。
 同じ天をいただく生物とはとても思えない、というかこれは生物なのか?と思ってしまうほどに異形な、世界観の違う代物だ。これをキングコングと共演させて平気な感性はヤバイ。


 さて怪獣の始祖にして王たる「ゴジラ」がハリウッドに進出したのは1998年、トライスター・ピクチャーズ版『GODZILLA』だが、このゴジラは足が逆関節でマグロを喰い、放射能炎を吐くこともなくビルの谷間を逃げ回り、ついには通常兵器で倒されてしまう、つまりでかいトカゲでしかなかった。

 東宝のゴジラというリファレンスがあってさえ彼らはそれをでかくなったトカゲとしてしか視覚化出来なかったのだ。認識阻害の呪いでもかかっているのだろうか。

 これはアメリカではゴールデンラズベリーの「最低リメイク賞」を受賞してしまった。 東宝では『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』内で登場人物が「アメリカにもゴジラに酷似した巨大生物が出現し『ゴジラ』と名付けられたが、日本の学者は同類とは認めていない」と発言させているし『ゴジラ FINAL WARS』ではX星人総督に「やっぱりマグロ食ってるようなのはダメだな」とまで言わせている。

 この映画の圧倒的不評を糧としたのかハリウッド版ゴジラ第2作レジェンダリー・ピクチャーズ版「GODZILLA ゴジラ」の造形はかなりマトモである、東宝ゴジラの発展版としてでかくなったトカゲでもクリーチャーでもない圧倒的な力を持つ生物として描かれている。

 やればできるじゃん、と言いたいところだったがどうもこれは先に言ったリファレンス、着ぐるみゴジラのお手本があったから出来たことのようだ。
 なんとなれば仇役怪獣の「ムートー」の造形がダメダメだからだ。古くは「クローバーフィールド」以降「スーパー8」「スカイライン 征服」「カウボーイ&エイリアン」などに出てくる化物に共通の、悪魔的な風貌、ナメシ皮のような皮膚、手を使って歩行する邪悪な化物である。




左 『GODZILLA ゴジラ』の「ムートー」  右『キングコング 髑髏島の巨神』のスカルクローラー


下左は『クローバーフィールド』 右は『カウボーイ&エイリアン』どいつも、これでもかと言わんばかりの邪悪顔(?)だ


そしてこいつらは皆、前足を着いて歩行する、なぜ4つ足歩行と書かないかと言えば、スカルクローラーは前足しかないからだ


 怪獣は怖いものだが、それは邪悪であるという意味ではない、悪夢から生まれ出たものでもない、彼らはその生態が人と相容れないために時として我々と対立するが、それは同じ生物として互いの生存を賭けて戦っているだけだ。
 
 日本人には大いなる力は恐れるものであると同時に畏れを抱く対象でもあるという思想がある、人智の及ばぬ自然現象に対するアニミズムだ、怪獣はその延長にあると私は思っている。

 そこがどうやらヤンキーとは違っている、彼らにとって怪獣は悪しきものであって滅びるべきものであると思っているらしい、つまり怪獣には常に正邪という概念がつきまとうのだ。
 ゴジラは今や東宝版のそれと同じく善悪を超越した存在となり、悪の範疇から出外れたようだが、それ以外の「敵役怪獣」に邪悪な要素が付加される傾向に変化はない。

 現在そのような映画を作り続けているのがレジェンダリー・ピクチャーズだ。
 
 レジェンダリーは今般東宝映画と提携して『モンスターバース』というシリーズを発足させた。そして『キングコングvsゴジラ』を実現すべく、両者をを同じ世界観に取り込んだ(『キングコング 髑髏島の巨神』の最後にキングギドラの壁画が登場する)
 
 その日米の大スターが激突するメインイベントの前哨戦として組まれたのが今回の映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』だろう。
 
 さてしかし、キングギドラ、モスラ、ラドンはゴジラと並び子供の頃の私に重大な影響を与えたスターである。彼らは私の職業選択に重大な影響を与えている。
 さらに言えば私はキングギドラを飛ばし、その3つ首を操演した現状最後の操演技師である(『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』)今の特撮事情を考えれば今後着ぐるみのキングギドラが映画に出演する可能性は低く、私がそのまま最後の操演技師になる可能性は高い。
 往年の大スターであったた彼がハリウッドでどういう扱いをされるだろうか。モスラ、ラドンはともかくキングギドラはあきらかにゴジラの仇役である、レジェンダリーは我らのキングギドラを邪悪なクリーチャーとして描くのではないだろうか、私はかなりの不安を感じていた。

 なので公開初日の初回上映に劇場に駆けつけたのだった。


 面白かった!


 ここまでハリウッド版怪獣映画をディスっておいてなんだと思われるだろうが、まあ普通の怪獣映画だった。
 怪獣映画を含めSFやパニック物、非日常を扱ったいわゆる「特撮物」はいろいろなウソや無理で構成されており関係者の努力にもかかわらず壮大に(あるいは深く静かに)壊れてしまうことも多い。なので内外を問わず「普通に面白い」映画として成立することは希であり貴重なものなのだ。
 これは私が地面に置いた縄の縄飛びほどにハードルを低くして鑑賞したため評価が激甘になっているためかもしれないが、世間の評判も実はそう悪くない。


 まあしかし「面白い映画」だったからと言って、これが「出来の良い映画」だったというわけでない事は言っておこう。

 出来の良い映画は面白い映画とイコールだが、その逆は必ずしも真ではない。

 映画監督牧野省三は映画を構成する要素として「1 スジ、2 ヌケ、3 ドウサ」という言葉を残した。 映画にとって一番重要なのはスジ(ストーリー、脚本)であり、次に重要なのはヌケ(映像美)であり最後はドウサ(演技、役者)であるという意味だ。そのデンで言うとこの映画はヌケしかない。
 圧倒的な映像が映画全体を支配し、あとの2つはそのおまけである。

 私は「シン・ゴジラ」について触れた時、これは怪獣映画ではないと述べた、なぜなら映画の中心に怪獣が居ないからだ。それで言えばこれは圧倒的な怪獣映画である、映画の中心にはゴジラを含む4大怪獣が居て最後まで焦点が合いつづける。

 お話は4大怪獣が激突する必然性を作るために最小限存在するだけで、映画の周囲をクルクルと舞っているだけだ。薄っぺらいお話のゆえに登場人物の性格描写や行動原理も説得力がなく、主役の科学者など途中何度か人格変わってないか?と思われるほどである。 役者とその演技は語るに足るお話あってこそのものだ、お話が映像の接着剤程度にしか扱われていないこの映画ではそこに見るべきものはない。

 最近のハリウッドのステレオタイプ「欠損した家族と再生の物語」風の設定があったのでお話をそっちに振られたらヤダなあと思っていたのだが、そんなものには目もくれない映像オリエンテッドな映画だったのもよかった(のか?)

 ではその映像がどのように良かったのか、という話をしたいところではあるのだが、この映画は今絶賛上映中なのであまり詳しく言うのははばかられるのでポイントのみ言おう。

 ゴジラは前回に倣った造形で「神」がその名に含まれるだけある堂々たる押し出しである。その位置づけも人智を超えた偉大な存在であるという東宝ベースなものになっていて安定した作りになっているといって良いだろう。

 心配されたキングギドラは大きなトカゲあるいは異形の生物ではなく、オリジナルと同じ中国の「竜」をベースにした怒れる神的な造形になっていた。
 モスラは幼虫が若干キモチ悪かったが成虫は聖なる昆虫というアイデンティティ(元々インファント島の守護神なので)を保っていた、まあ終始発光しててもうすこし見せろと思わないでもなかったが。
 ラドンの何も考えてない野良怪獣(!)ぶり、つまり生存原理が人類と相容れないから対立するが本人(!)に悪意などはない感もちゃんとしていたと思う。

 つまるところ造形もさることながら、怪獣それぞれの性格づけも立ち位置も東宝版に対するリスペクトが感じられるのだ、これが私がこの映画を好感する最大要素である。
 
 ついでに言うと、死にかけたゴジラが復活する際伊福部昭のゴジラのテーマがかかった時は不覚にも感動してしまった。

 人間ドラマも家族愛も深淵はテーマもなく、見せどころが映像しかないトンデモ映画を132分、最後まで飽きさせずに見せきったという点で成功と言えるだろう。
 ハリウッドの大作だと思えばいろいろ突っ込みどころもあるが、かつての東宝のチャンピオン祭りが復活したのだと思えばこれで充分と言ってよい。

 来年はいよいよ「ゴジラ対キングコング」実に60年ぶりの再戦である、ハードルを可能な限り低く維持して待っていよう。



PS

 リスペクトは随所に感じられるのだが、特に多いと感じたのが『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(私が参加したやつ)である。
 アナログ版キングギドラとモスラが登場した最後の映画だから参考にする部分が多かったのかもしれないが、これリスペクトを越えたパクリじゃね?と思われるカットまで散見する。
 話のもって行き方もさることながら画面構成がまるで一緒というカットがいくつかあるのだ。神谷特撮監督に突撃取材したが(最近ご一緒したので聞いてみたのだが)「あれ同じカットだよねえ」と本人が言っていたことをここに報告しておこう。
(なので、今回の映画が面白と思った方は『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』も鑑賞いただきたいと思う)