ちょっと時期を外してプレイしている側もその手の覚悟はしておくべきことではあるのだ。
ゲームに限らずだが、映画でもドラマでも同様のことが言える。
日本史の教科書を読んで「マジかよ、この武将死ぬのかよ! 大河ドラマのネタバレ食らったわ!」などと嘆いてはいけない。

比企谷八幡






  映画 小説・ノンフィクション・コミック・ゲーム その他
1
スターウォーズ 最後のジェダイ    
2
映画大好きポンポさん  
3
バイオハザード ファイナル  
4
メッセージ  



 






 昔むかし、20世紀半ば頃のことだが映画は大衆娯楽の王様であり、黄金時代と呼ばれた時期があった。
 劇場(と書いて「コヤ」と呼んでいただきたい)では新作映画が2本、時には「豪華3本立て」で公開され1週間ごとに掛け変わっていた。

 当時の劇場は映画製作会社が自前で抱えていたので東宝の映画は東宝系劇場に、東映は東映系劇場にしか掛からなかった、ということは大手映画会社各社はそれぞれ年間100本前後の映画を製作していたということなのだ。まさしく黄金時代であり、キネマの天地である、銀ちゃんも行こうというものだ。

 さてしかし、それらの映画がすべて大作だったり、力作だったり、問題作であったりするはずはない、そういうものは盆と正月とゴールデンウィークにぶつけるものであって、ほとんどの映画は劇場の公開予定表「プログラム」を埋めるための映画「プログラムピクチャー」と呼ばれる小品だった。

<余談だが「ゴールデンウィーク」とは映画の活性化を図って1951年に大映が考えた宣伝文句である(なのでNHKは今でも大型連休と言う)>

 現在、映画は「ついに映画化」という言葉が示すとおり「特別な何か」扱いされているので「プログラムピクチャー」というものがどういうものなのかわかりずらいのだが、これは今のTV番組になぞらえば理解できるだろう。
 TV放送用に使える電波の周波数は決まっており、TV各局はその一部を総務省の許可を得て専有している、しかしこの独占的な立場と引き換えに1年365日休まず放送を続ける義務がある(放送法により12時間以上放送を停止することが出来ない)
 作りたいもの見せたい番組というものはもちろんあるだろうが、大前提としてとにもかくにも放送枠を埋め尽くさなけらばならないのだ。

 1週間ごとに入れ替わり消費されていく番組、それと同じことが半世紀前には映画で行われていた。作りたい作品ではなく作らねばならない作品、決められたスケジュールと決められた予算の中で生産され続ける映画、それが「プログラムピクチャー」だ。

 基本的にそれは低予算な作品なわけだが後になって再評価され名作扱いされている映画も多くあり、手抜きというわけではなくつまらない映画というわけでもない。
 とはいえプログラムピクチャーには一定の傾向がある、短期間に次々と作品をリリースする都合上シリーズ作品が多いということだ。
 ゼロから企画を立ち上げシナリオを練り役者を揃える単発物よりシリーズ作品のほうが断然効率がいいのは言うまでもないだろう。うまくすれば衣装、セットまで使い回しが出来るかもしれない。

 東映の任侠物、東宝の若大将シリーズ、松竹の男はつらいなどはそのシステムの中で生まれたものである。

 寡黙な健さんが理不尽な仕打ちに耐えに耐え、ついには長ドス一本持ってかたきの組に殴り込む。

 加山雄三演じる老舗のすき焼き屋の一人息子(若大将)は大学のボクシング部やヨット部や水泳部やラグビー部やスキー部やサッカー部や柔道部などの主将であり、マドンナ澄子と出会って恋に落ちる。若大将を一方的にライバル視している青大将に嫉妬され、澄子との関係が悪化する、ついでに父親の不興を買って勘当される。若大将は試合、大会、コンテストに出場し青大将の妨害工作でピンチに陥るがめげずに優勝、澄子と元のサヤに収まり、勘当も解ける。

 映画の冒頭、寅さんは柴又の団子屋「とらや」に帰ってくるが、ささいな事からおいちゃんとケンカになり「2度と帰ってくるか」という捨て台詞と共に再び旅に出る。旅先でマドンナと出会った寅さんは恋に落ちマドンナを伴ってとらやに帰る、一連の騒動の末寅さんは失恋し傷心のまま再び旅に出る。

 どれもこれも唖然とするワンパターンである、あらすじだけで言えば違いが出ない程似通った話だがそれでも圧倒的な人気を得て作られ続けた。

 <ホイチョイプロの馬場康夫は「東宝の若大将シリーズは、若大将の所属する運動クラブの名前が違うだけで、同じ脚本を元に書かれていた、若大将シリーズが終わったのは東宝に保存されていたオリジナルの脚本が古くなり読めなくなってしまったからだ」というヨタを飛ばしている>

 なにが言いたいのかというと、映画はなにも斬新で革新的でオリジナリティに溢れた新作を観る事だけが楽しみではないということだ。
 いつものメンツが出てきて、いつものパターンでドラマが進み、思い描いたとおりの結末に到るのを見て満足し家路につくというのも映画鑑賞の楽しみの一つなのだと思う。

 なぜこのような話を長々としてきたかというと、昔むかし私がまだ子供だったころ、黄金時代の残照で映画がまだ輝いていた頃、親に連れられて行った映画(シリーズ物)を観た後に感じたのと同じものをこの「スターウォーズ 最後のジェダイ」に感じたからだ。
 なぜそう思ったかについて書くことはネタバレにつながるので以下は未見の方は読み飛ばし推奨である。どんな映画か詳細に知ったのちでないと劇場に足を運ばないという趣味の方(一定数存在するらしい)ならどうぞそのまま。



 弟子の育成に失敗し辺境の惑星で隠遁する老師、その老師の元へ教えを求めてやってくる若きジェダイ。
 心の弱さを突かれてダークサイドに堕ち、強大な力を持つマスターに操られる若いフォース持ち、彼は愛するものを殺されそうになって覚醒し自分のマスターを瞬殺する。タイファイターに追われて狭い空間をアクロバット飛行するミレニアムファルコン。雪原(のような平原)を行進するスノーウォーカー。「ウォ~~」としか言わないのにいろいと話が伝わるらしいチューバッカ(!)まで、どこかで観たことのあるエピソードで溢れているこの作品は、激しく面白かったということもないが破調もなく、安心して最後まで観ていられて、それなりに楽しめたというまさしくプログラムピクチャーの味わいなのだ。

 映画の歴史に燦然を輝く天下のスターウォーズの新作の感想が男はつらいよと同じでは困るのだが、「新味は無かったが安定の面白さだな、これはこれでOK!」というまったり感が同じなのだから仕方ない。

 実のところこれは前作「フォースの覚醒」と同じだ、2年前私はこう書いた

 「帝国にとっても反乱軍にとっても重要な情報を握るロボットが帝国軍の手からからくも脱出。そのロボットは砂漠に住む(強いフォースの持ち主だがその力を自覚していない)若者の元に逃げ込む。
 戦闘に巻き込まれた若者は先輩の助力を得て「ミレニアムファルコン号!」で脱出、反乱軍の元へたどり着く。
 若者のメンター(助言者、指導者)となるべき人物は後進の指導に失敗して引きこもっている。
 反乱軍の基地のある惑星は帝国の惑星破壊兵器によって風前の灯火となる。若者と反乱軍は破壊兵器の破壊に向かう(先輩は若者の目の前で敵の指導者に殺される)
 トレンチをくぐり抜けXウイングファイターはついに敵に致命的なダメージを与え、宇宙を揺るがす大爆発、メデタシメデタシ」ってあれ、リメイクでしたかこれ。


 つまるところこの新3部作は、初めから男はつらいよ並のワンパターンなのだ、私はこれを「あまりに金字塔すぎて後を引き継いだディズニーとしては怖くて変えられないのだろう」と書いた、続く本作がこうなのだからこの見方が正しいようだ、感想まで引用だけで済んでしまいそうなあたりまさしくシリーズ物の味わい(!)である、いや悪い意味で。

 一方私は当時
「新顔達が新たな世界観の中で未知なる冒険の旅に出ることが出来れば、再び伝説を生まないとも限らない」
 とも書いたのだがこちらの方は望み薄である、
 というか(前シリーズ踏襲というのは256歩譲って良しとして)問題なのは新要素を活かせていない(活かす気がない?)ことだ。

 レジスタンスのパイロット、ポー・ダメロン(イケイケ)とトルーパー崩れのフィン(巻き込まれ型)は今までのシリーズでは見かけなかったデコボココンビでうまく使えば面白い要素になったと思うのだが、今回この2人は本筋とあまり関係のない「暗号解読者捜索エピソード」に放り込まれ、事実上出番はそこしかない。ところがこのエピソードは「何の意味もありませんでした」で終わってしまうのだ。
 向こうっ気の強い若者が頭の固い指導者の言うことを聞かず暴走して、ピンチになって協力者を得て、大冒険して、ついにゴールにたどり着いた結果「その甲斐はありませんでした」ってドラマツルギーとしておかしくないか? 最後にサラ・コナーがT-800に殺されるターミネーターか、王子さまに再発見してもらえないシンデレラか。

 結果、今作における両名の役どころは「役立たず」である。ひょっとしてルーカスのオリジナル脚本に書かれていない登場人物なので扱いに困って棚上げしているのか?

 ということで次回も銀河を股にかけた壮大なるまったりドラマになるに違いない。おそらく金の卵を産むガチョウに手を加えることはせず、スピンオフで稼ぐ作戦なのだろう。(オビワン主役のスピンオフが出来るとかなんとか)
 全世界のファンの最大公約数を取ったらこうならざるを得ないも理解できるので新展開しろとなどと言うつもりもない、しかしせめて新顔達にはもう少し本編と絡む出番を与えてやって欲しいと思う。


 さてしかし、前作でハン・ソロが死に、今回ルークが死に、次回レイアが死んで、ラストで全員半透明になって(!)若きジェダイを祝福するの図になる筈だったと思うのだが、キャリー・フィッシャーが亡くなってしまい製作者としては大いに予定が狂ったと思う。
 レジェンドであり、旧シリーズのファンの吸引役であり、劇中では残り少なくなったレジスタンスの中心人物という重要な登場人物がまったく引き継ぎすることなく居なくなることを物語の中で説明・吸収できるのだろうか。
 予定調和にまっしぐらだった企画に歪みが出ればそれはそれで面白くなるかもしれないと私はややイジワルな目で見つつ次作に期待している。


 






 映画の都ニャリウッド。敏腕プロデューサーである祖父から英才教育を受けた天才プロデューサー少女ポンポさんと彼女に見いだされた根暗映画オタクのジーン君が映画を撮るというマンガである。
 これはpixivに投稿されるやたちまち50万PVを記録しカドカワから書籍化された。
 読み終わった瞬間私が思ったのは「惜しい!」ということだった。作者の映画に対する愛情と蘊蓄の深さは伝わってくるのだがそれがマンガに活かされていないと思ったのだ。
 これは出版社に持ち込んで、編集者からダメ出しを受けて書き直し、というような過程を経ていればもっと面白くなったのではないだろうか。

 webに発表、即書籍化というのは近年増えてきた流れだが、このシステムだと個人の資質が生のまま出てしまう、つまり良いところはそのまま出るのだが本人に足りない部分(知識だったり技術だったりするわけだが)がそのまま穴になってしまう。良くも悪くも作者と等身大の作品になってしまうのだ。

 こういった中抜きシステムが隠れた才能を見いだすのに役立つということはあるだろうし、編集者からのダメ出しが若い才能を矯めてしまう場合もあるだろうが、商業作品を世に問う場合まずほとんどの場合客観的な立場からのサジェスチョンが有効である筈なのだ。

 あのヒッチコックですら初監督作品では1カットごとにスクリプターに「よかったか、これでいけると思うか」と聞いていたと言う『映画術』
 トリュフォーは「華氏451」で編集に行き詰まり友人の編集マンを呼んで意見を求め、結果2つのシーンの順番を入れ替えたという『ある映画の物語』
 伊丹十三は「自分の映画も、おそらくとんでもない読み違いがあり、その読み違いは人に指摘されるまでは自分にはわからないのだろうと思うと、ひたすら恐ろしい」と言っている『お葬式日記』

 マンガ家が外部の意見を入れぬまま作品を上梓するということは映画監督が企画からシナリオ、美術小道具大道具、演出から撮影照明編集までを一人で行うというに等しくよほどの天才でないかぎり穴が生じるだろう。

 出版社としては新人を手間暇かけて育成し、売れるかどうかわからない作品に賭けるよりネットから一定以上の評価を得た作品を拾いあげるほうがリスクが少ないのだとは思うが、そこは才能を見いだすまでにとどめるか、同じ発表するにしてもブラッシュアップしてから出版して欲しいと思うのだ。


 さてマンガにかぎらずwebでは小説投稿サイトが大興隆で、web投稿>PV上位>書籍化という流れが定着している。全部に目を通すなどとうてい不可能だがいくつか読んでみたところで言うとやはり「足りていない感」がある。
 人気があっただけに、なるほどここがうけたのね、という部分はあるのだがもう少しストーリーを練るとか、登場人物のキャラクターを書き分けるとか、伏線をうまく張るとかすれば面白くなるのにと思う作品が多い。

 先に近年と書いたが実際にはこの流れは6、7年前からという感じだろうか、web発小説の嚆矢にあたるのが「まおゆう 魔王勇者」ではないかと思う。これは2010年、2ちゃんねるに発表されて人気が出た小説をほとんどそのまま書籍化したものだ。

 舞台は剣と魔法のファンタジー世界、というかまあドラクエ的世界観であり、人類最後の希望である「勇者」がついに諸悪の根源「魔王」と対峙するのだが、魔王はその対決の場で「手を取り合って世界を変えよう」と勇者に持ちかける。
 魔王の考えるところでは人と魔物が争うのも、人の世が過酷なのもすべて貧しさが原因であり「経済」をうまく回すことによってこの世から争い事をなくことが出来る筈だという。(中世ヨーロッパ的世界観なのに「プリンタ用紙」とか、「公害・・といってもまだわからないか」などと口走るあたり魔王の中の人は現代人なのかもしれない)賛同した勇者は魔王と2人で世直しを始める。
 RPG的世界を経済活動という視点で切るというのは斬新な発想であり、面白いと思って読み始めたのだが、これがつらかった、この小説は会話文だけで構成されるという特殊な形式なのだがその割には台詞の書き分けが出来ていない、なので行頭の人物名しか発言者の目印がなく多人数が会話を始めるとイライラしてくるのだ。

 私はそうとは自覚していなかったのだが、それまで一定の水準をクリアした小説ばかり読んでいたらしく、やはり小説を書くという行為にはそれなりのテクニックというものが必要なのだと実感させられた作品と言える。
 つまるところこれは素材はいいのに調理技術が無いため旨さが伝わってこない料理という感じだろうか、ダメな料理のすき間からネタの良さだけは伝わってくるので、ますますストレスが溜まるわけだ、私は1巻を読み終わったところで見切りを付けてしまった(まおゆうは外伝を含め8巻出ている)

 <私が食い道楽なため、たとえ話にすぐ食い物が登場するのだがはたしてこれは有効なのだろうか・・・>

 とうことで、切瑳されていない作品をそのまま書籍化した場合の問題は始めから顕在化していたのだ、それに目をつぶったまま今に到り、出版はますます加速している。
 それでいいのだ! という層が常に一定数存在するなら構わないとも言えるのだが、長い目で見て完成度に問題のある作品ばかりのジャンルは消えていくのではないか。
 その好例といえるのがたとえば「ケータイ小説」だ、21世紀初頭、携帯電話が中高生に普及し折からのパケット定額制(←懐かしい!)という追い風もあって素人の書き手が携帯サイトにアップした小説が大人気となった。2007年の文芸書ベストセラーランキングのトップ3は書籍化されたケータイ小説である(トーハン調べ)しかしこのブームはわずか4、5年で終結した。おどろくべきことに2008年度はベスト100にケータイ小説が1冊も入っていないのだ。

 私はこのケータイ小説をただの1作も読んでいないので衰退した原因について確たることは言えないのだが、世の評によれば「語彙の少なさ、文章表現の稚拙さ、推敲の不十分さ」が問題と言われている、つまり琢磨されないまま出版されていたということだ。

 素人>即デビューの舞台は今やpixivマンガ、小説投稿サイトに移っているわけだが出版社の取り組みが変わらないとやがて玉石混交となり衰退する可能性がある、それも急速に。

 ここでアタリショックという話をしたい。アタリとはアメリカのゲーム会社でありゲームソフトをカセットで外部から供給する方式のゲーム機を世界で初めて発売した会社である。このゲーム機「Atari2600」は大人気となり、ロイヤリティを払えば誰でもソフトを開発、発売することが出来るようになると多くのサードパーティーが市場に参入した。
 しかし中にはソフトを開発する技術もない他業種(シリアルやペットフードの製造会社とか)からの参入もあり市場は粗悪ソフトであふれかえった。資金力のある会社が粗悪ソフトを宣伝力で売りまくったため急速に市場は冷え、空前のブームを呼んだ1982年のクリスマス商戦からわずか2年後、Atariは大量の負債を抱えゲーム機部門は他社に売却された。
 影響はAtari一社に留まらず、この騒動に嫌気が差したユーザーはゲーム機そのものから撤退してアメリカはその後「ゲーム氷河期」の時代となる。

 この一連の社会現象により「ソフトの粗製濫造により市場需要および市場規模が急激に縮退する現象」を『アタリショック』という。



アタリショック後、
ニューメキシコ州アラモゴード市にはアタリが売れ残ったゲーム機本体やゲームカセットを埋めた
「ゲームの墓場」があるという噂が立った。
 後継機種も埋められている、ゲーム『E.T.』がコンクリート詰めになり350万本埋まっている
などという話も生まれて都市伝説化しそこを舞台にした小説、映画まで作られた。 
2014年
ドキュメンタリー映像『Atari: Game Over』の製作会社はアラモゴード市委員会から許可得てこの場所の発掘調査を行った
するとETのカセットを始めとする多数のゲームが発見され都市伝説は伝説ではないことが判明した




 ケータイ小説の衰退はまさしくアタリショックだったように思う(まあ私は読んでないからわからないのだが)
 現在のweb投稿、即出版ブームが第二のアタリショックになる可能性は高い。コンテストに投稿、入賞、デビューという以外に新人がデビューする道が開けたという意味でこの方式は貴重なのだから出版側はもう少し手間をかけて発表する作品のクオリティを高めて欲しいと思うのだ。


 








 第一作が激しく面白かったので、途中グダグダになってもお布施くらいのつもりで毎回劇場に行っていたのだった。とはいえ「待っていたぜ!」というわけでもなく、惰性(!)で通っていただけだったので、忙しさに紛れて公開期間中に劇場にいけないでいたら映画の存在すら忘却(!!)してしまい、気が付いたら1年遅れのレンタル鑑賞となってしまった。

 ファイナルたって全然終わりじゃ無く「俺たちの戦いはこれからだ」で終わるんだろうな、と生暖かい気持ちで観てびっくり、きっちりとした最終話だった。
 映画の常としてバイオハザードという世界観のスピンオフはこれからも作られるかもしれないが(というか作られ続けているが)少なくともミラ・ジョボビッチによるアリス編は完全決着である。
 ここまで思い切りよくシリーズを終わらせた作品は他に思いつかないほど珍しくいい意味で驚いた。

 そして意外と地味に終わった所も好感度が高い、最終話というと今までにない巨大な陰謀とか(物理的に)巨大なモンスターとかが出てきて、敵も味方もオールスターというのが常道だ、そうしないと終わらないと思っている映画製作者達も多いのだが、今作はアリスがただただ始まりの場所、アンブレラ社の「ハイブ」に戻っていくというシンプルな構成であり、因縁の相手と最後の対決をするというクラッシックな構成だったのだ。

 余計なコケ脅かしを省いたぶんストーリーに破綻がなく、観ていて「オイオイそれはどうよ」という部分がないのも良かった。 
 まあそれは中盤回でアリスが超能力を使ったり、クローンの妹がいっぱい出てきたり、砂漠を装甲トラックで爆走したりと「それはどうよ」という話が多かったということの裏返しだ。私としてはこのシリーズはこうやって目先の派手さを演出するために内容が拡散していって、しまいにはバイオハザードでもなんでもなくなり、やがてジョボビッチが主役を張れなくなって終わるのだろうなと思っていたのでこの「目を見張るスペクタクルシーンのない」思い切りのいい最終話に好感したのだった。

 結論「地味に面白い」


 







 ドゥニ・ヴィルヌーヴが「ブレードランナー 2049」の1つ前に監督した映画である。
 ブレードランナーという映画はとんがった世界観と盛りだくさんなイベントでヘタをするとパチパチとした落ち着きのない映画になりかねない内容だったが、ヴィルヌーヴの落ち着いた語り口によりレプリカントという「人の心を持っているのに人でない者」の悲しみに観客が共感できる足が地に着いた映画だった。

 実のところ私はブレードランナー2049を観るまでドゥニ・ヴィルヌーヴという監督のことは何一つ知らなかった、しかしこの手腕に感服しこれは掘り出し物かもしれぬ(←なんという上目線)と思って前作を観てみることにしたのだった。
 そしてパッケージを見てこれ「ばかうけ」ではないか、と初めて気づいたのだった。





 
 べつにUFOがばかうけに似ていたからというわけではなく、私はこの映画を無視していた、なにしろ最近のハリウッドのSF(orパニック、orディザスター)映画はドラマツルギーを無視したご都合主義と家族愛至上主義に毒されていて観るに堪えないものばかりだからだ、なので無印(!)なSFは最初からパスなのである。

 しかしこの映画は一転、無印から注目株に格上げされた、まあ期待値が上がってしまったわけだが・・・

 この映画、地球に突然(ばかうけ似の)UFOが飛来する、しかし彼らがどこから来たのか何のためにやってきたのかわからない、エイリアンは姿を見せるのだがまったくコミュニケーションが取れない、そこで言語学者である主人公が呼ばれるというお話だ。

 つまりはこれはファーストコンタクト物なのだ。
 ところでよくあるファーストコンタクト物というのはエイリアンの戦闘マシンが3本足でノシノシ歩いて主人公がピンチに陥ったり、炎の壁でロサンゼルスが壊滅し主人公がピンチに陥ったり、農家の地下室の扉をエイリアンがドンドン叩いて主人公がピンチに陥らなかったり(※1)と、スペクタクルなシーンが盛りだくさんなものだが、この映画はそうではない、主人公がエイリアンとコミュニケーションを取る過程が描かれる「だけ」の映画なのだ。
 ヴィルヌーヴの語り口はブレードランナーと同じ落ち着いた足が地に着いたものだ、しかし!この映画でそれが有効だったのか?

 話はシンプル、映画の舞台はUFOの周囲に作られた前線基地とUFO内部の対話の間だけ、これで語り口がじっくりしているものだからまるで映画が動いていかない、映画というのはそれがどんなものであれ前へ前へと進んでいくダイナミズムが必要だと思うのだがその勢いがない。
 
 ところで話はそれるのだが私は私小説という文学のジャンルがキライだ、主人公の身の回りに起こった出来事をその情景から心理のアヤまでを微に入り細に渡って描写することの何が面白いのかと思うわけだ、そしてこの映画を観ているとそれと同じ拒否感が頭をもたげてくる、絶対値としてたいしたことのないものを精密に描写することが芸である、という主張には賛同できない。
 まあこれは私の趣味、好き嫌いの問題であって映画の良し悪しとは別なのだが、もうひとつの問題とリンクする。

 主人公はエイリアンとのコミュニケーションを探っているうちに奇妙な夢を見るようになる、これがこの映画の重要なキーなのだが、その描写がわかりづらい。映画の文法からしてそれは普通に回想シーンなので観客は当然主人公の過去の出来事なのだと思うわけだが。どうやらそうではないらしい、どうやらそれは当人には身に覚えのない出来事らしいのだ。
 この謎が解けるときは映画が終わる時なので謎が謎のままでも構わないのだが、観ている最中にはそもそもこれが謎であるのかどうかすらよくわからない。
 メタな話をすればヴィルヌーヴがこれを明解な謎として提示しているのか、違和感のある夢を点描として放り込んで観客に奇妙な味を提供しているだけでのつもりなのかがわからず、自分はひょっとして監督が提示した重要なヒントを見逃したのか、いつのまにか映画を間違って解釈し始めたのかと不安になるのだ。
 じっくりと落ち着いた語り口で、人の心理を細やかに描写している(筈の)映画でこれはない。

 そしてこの謎についての解も最終段になって主人公の口から語られるだけだ、ここまで引っ張ってセリフで説明して終わりかよ、映画なんだから絵で見せろよ、と思うわけなのだ。

 結論「地味につまらない」





※1 宇宙戦争、インディペンデンスディ、サイン