「 気をつけなければならないのが映画評論家だ、彼らは試写で映画を観なければ仕事にならず、配給会社は自社の作品をけなした人間を試写から閉め出してしまうので、彼らの言うことにはバイアスがかかっている。」

根岸泉






              TR>
  映画 小説・ノンフィクション・コミック・ゲーム その他
1
君の名は。    
2
虐殺器官    
3
シン・ゴジラ    
3
キングコング:髑髏島の巨神    
4
カリフォルニアダウン    
5
エイリアン コヴェナント    
6
ブレードランナー 2047    



 



 当初、男女2人の高校生の心が入れ替わる話だと聞いて「いまさらそれか?!」と思い見るつもりが無かった。

 しかし公開されるや意外にヒットし、劇場によっては満員札止めまで出ていると聞いて「レンタル化されたら観るリスト」にまで格上げされた。何にしてもファンタジーなラブストーリーくらいに思っていたわけだ。

 ところが公開1ヶ月を過ぎても人気が衰える様子がない。そしてこれが大どんでん返しのあるトリッキーなお話であるらしいということを聞くに及んでマズイと思うようになった。

 なにしろ意外なヒットにマスコミが取り上げることも多くなり、それに関する記事、批評、レヴューを多数目にするようになってきた、まともな映画評論家ならば肝心な部分は伏せて書くものだが、一般記事レベルまで拡散してくると「犯人はヤス」レベルのネタバラシを平気で書く質の悪い記事も出てくる、つまりうっかりネタバレを目にしてしまう危険が増してきたということだ。

 私としては監督が何か仕込んだならそれを白紙の状態で見てみたいと思う、というわけで公開5週目に劇場に足を運んだのだった。

 平日なのにもかかわらず一番大きなスクリーンが満員だったのが衝撃だった、場内満員の劇場を目にするなどいつ以来のことだったろうか。

 
 さて先に結論を言ってしまうと、見るべき映画、劇場に足を運ぶ価値のある映画だったと言えるだろう、いわゆるジャパンクールである。
 これについては何度となく書いているので『エヴァンゲリヲン新劇場版:序』の感想として書いた一文を引用することにする つまり

 「Coolな映画である。前にも何回も書いたと思うのだが、日本のアニメーションはある高みに達した文化である。「芸術」と言い切っても構わない。それも純粋芸術ではなく、美術工芸といった実用と美を高度な領域で融合させた技である。」

 この項で私は「日本にはエヴェレストたる宮崎を筆頭に庵野、押井、大友、板野、出崎などの最高峰が並び立ち、さらに気鋭の後進演出家も輩出している」とも書いたのだが、その一角に新海誠は食い込んだと言えるだろう。

 さてこの映画について特筆すべきは(さんざん言われてきたことなので今更感はあるだろうが)気象、天候、季節、つまり自然現象の描写が一頭地を抜いていることだ。

 上記の著名監督の作品を始めとして私がクールだと思うアニメーションはまずその動きの素晴らしさが際立つ。登場人物の演技、躍動感はもちろん、扉の開閉の演技(?!)にまで神経が行き届いている、つまり簡単なパーティションの仕切りは軽くスパッと開き、厳重な隔壁はその何トンもあるであろう重量を感じさせる動きで閉まる。(エヴァンゲリヲン)

 飛行機のプロペラが停止するときの、多気筒のシリンダーが不規則にミスファイヤしながら停まっていく滑らかさの欠けた(あきらかに電動機とは違う)停まり形(スカイクロラ)
 板野一郎の「板野サーカス」に至っては「誘導されたミサイルが描く軌跡が生理的に気持ち良い」というあまりにニッチなポイントで評価されていたりする。

 アニメーションとは「命を吹き込む」ということであり、命を吹き込むとは「動きを与える」ということであるわけで、そこに才能が集まってきたのは当然なのだが新海誠は少し違っていた。

 従来の著名作家が背景をないがしろにしていたというわけではないが、基本注力していたのが前景たる登場人物であるのに対し新海監督の主眼は明らかに気象や天候などの自然現象、つまりは背景なのである。

 実際、地平の向こうに沈んでいく夕陽や、その光りをうけて輝く雲が画面の主役となり、ここまで観客の心を打つものになりうるとは思わなかった、

 新海誠の描く世界にはあきらかに奥行きがあり空気がある。これを観てしまうと今までのアニメーションは書き割りの前で芝居をしていたのだなあと思えるほどだ。

 隅々まで神経の行き届いた空気感、これが新海映画の真骨頂である。



 とまあ持ち上げに持ち上げているわけだが不満に思うことがないでもない。というかおおいにある。

 基本はストーリに関することだ、この映画はミステリーで言うところの「叙述トリック」が使われている、つまり嘘は言っていないが額面どおりに受け取っていくと作者の仕組んだ罠にはまってしまうというものだ。

 この形式で重要なのはトリックが暴かれたとき読者(観客)がなるほどそうか!と膝を叩けるものになっているかどうかにある、つまり騙された側を納得させられるか否かであり、ここで「いやそれはおかしい」となったらぶち壊しなのだ。
 しかしこの映画残念ながら穴がある、それも町一つ飲み込む隕石孔くらいの大穴が開いている。

 それは何か・・という話になるわけだが、これはどうしてもネタバレせずには書けない、劇場公開が終わったら書こうと思っていたところが終わらない。
 年明けにはと思ったのだが絶賛ロングラン上映中でいまだ1日4回上映である。

 バケモノか?と思うわけだが、さすがにもう「観るつもりはあるけどネタを知らない」というイノセントな人は居まいと思われるので公開半年を過ぎた今書くことにした。


 ということでネタバレ開始


 この映画のミソは男女2人の高校生の心が入れ替わるファンタジー&コメディタッチのラブストーリとおもいきや、中盤でシリアス物に展開し、タイムトリップSF的な「明確なゴール(と立ちはだかる試練)」のあるダイナミックな物語に変貌する所にある。

 この仕掛が成功するためには観客が2人の入れ替わりが空間だけでなく時間までも隔たっていることに気づかせない必要がある、そしてこの映画において観客はまったくその事実に気づかない、しかしこれをうまくいっていると言って良いのだろうか?

 観客が時間のズレに気づかないのは登場人物の2人が気づかないためだ、しかしそんなことがありうるだろうか?
 これについてもさんざんに言われているので今さら感はあるのだが、要するに自分が3年前の「過去」にタイムスリップしていることに、自分が3年後の「未来」に来ていることに多感な高校生が「気づかないわけがない」これに尽きる。

 2人の入れ替わりが何回起こったかはっきりしない、ただ瀧くんは「週に2,3回、ふいに起こる」と言っている。2週間で4、5回起こったことをこのような言い方はしないだろう。これは「この何週間かのうちに、平均するなら2,3回づつ起こった」という言い方である、つまり最低でも数回、ことによると十数回の入れ替わりが起こっていることになる。

 ならばしかし、2人はこの間1回たりともカレンダーの年号を見なかったのだろうか?
 2人はスマホの日記アプリを使って入れ替わり中の出来事を報告しあっているのだが、日付に年号は入っていないのだろうか、スマホの待ち受けに年号は出ないのだろうか。

 三葉の時間帯では日本は彗星大接近という世紀の天体ショーに沸き立っているはずなのだが、三葉に入れ替わった瀧くんはこれを見聞きし「あれ、これ3年前じゃね?」と思わなかったのだろうか。

 三葉は瀧くんの体に入っていた時まったく彗星の話題を持ち出さなかったのだろうか(奥寺先輩とのデートは三葉の認識では彗星大接近の当日だったのに)


 劇中、時間を隔てた入れ替わりが明らかになった時、即座に以上のような事が頭をよぎった、映画最大のクライマックスで「なるほどそうか!」ではなく「おかしくないか?」と思わせた時点で映画は大減点である。

 映画というのは立ち止まって考える暇もなく進んでいくので、この問題について突き詰めて考える暇はなく、とりあえずあ~面白かったで終わるのだが、当然すぐにあれこれ思い返すことになる。するとこれ以外の違和感が出るは出るはのオンパレードだ。

 先にカレンダーやスマフォの年号を見ないか?と言ったが、3年ずれていたら日付と曜日の関係もずれているはずである、日記アプリでそれに気づかないはずがない。

 100歩ゆずって2人ともアプリの日付と曜日のずれに気づかなかったとしても「時間割」に従って生きる高校生が曜日を意識しないわけがない。
 本人は日曜日のつもりで起きた日が平日だったということが起きないわけはない。

 1000歩譲ってそんなことも起きず、曜日も気に留めなかったとしてもデート当日にそれが起こったことは明らかである。

 つまり(三葉が設定した)瀧くんと奥寺先輩のデートは朝10時からの待ち合わせなので当然休日だ、一方三葉は学校に行こうとしている。
 意識だけが入れ替わっていると思っているなら三葉は「あれ?今日は平日?!」と思わないといけない筈だが違和感を覚えている様子はない、ここがこの映画最大のウィークポイントである。

 入れ替わりが時間をもまたいでいると承知していたなら三葉が違和感を覚えなくともおかしくはないがそれは2つの理由からあり得ない。

 1つ目は、三葉が瀧くんと奥寺先輩はデートの最後で彗星ショーが見られると思っていることだ。地元(!)の三葉もその日が彗星再接近の当日であると思っているのだから、彼女はその日が同一の日であると思っているわけだ。

 2つ目は時間がずれていることを2人が気づいていれば、どれだけズレているか調べない筈はなく「そうなるとこの映画は成立しなくなる」からだ。

 要するに気づいていない、しかしこれだけの変事に遭遇しても時間のズレに気づかないとするのは無理がありすぎる。

 更に言うと、この日三葉は東京に出て(3年前の)瀧くんと遭遇するわけだが、学生服を来て単語帳をめくっている瀧くんを見れば三葉なら「奥寺先輩とのデートはどうしたのよ!!」と叫ぶ筈である。
 (そもそも三葉の承知するところでは瀧くんはデート中なのであり、そのデートコースは三葉が設定したのだから、駅で瀧くんを張っているのは変なのだ)

 つじつまがあっていない。


 このあたりまでは劇場を出るあたりまでに思いついたことなのだが、家に帰ってこの映画に感じる違和感を丁寧に洗い出してみるとさらに出る。


 そもそも心が入れ替わるという超自然現象を共有している相手がどこに住んでいるか興味がないというのはおかしい。というか2人は当然その知識を持っているはずなのだ。
 
 三葉の東京行きも漠然と東京というだけで瀧くんと出会えるわけはない、三葉は彼が通学に使う最寄り駅を覚えていかたからこそ出会えたのだ。入れ替わりの回数が増えるにつれ相手に入っていた間の記憶も残るようになったと思われる。

 ならば瀧くんは三葉の通う高校が「糸守高校」であることを知っている筈だ

 となるとたまさか入った展覧会で見覚えがある風景を見て初めて三葉の住む場所が飛騨であったかと知るというのはおかしい。
 「心の中の景色が実存する場所であったことを偶然知る」というのは映像的にインパクトのあるイベントだが(要するに「未知との遭遇」でロイ・ニアリーがデビルスタワーをTVで見たシーンなのだが)つじつまが合っていない。



ロイ「ガガーン!



 まあそもそも「糸守」という名前を聞いた時点で、3年前の悲劇を思い出せということなのだが。

 もうひとつ、カタワレ時に出逢った2人がお互いの名前を忘れないように手の平に書いておこうと言うシーンだ。
 三葉が消え、手にしていたはずのペンが地面に落ちるシーンで劇場から「ああ!」という悲鳴があがった、それくらい観客は感情移入していたわけで、私もこれはアニメ史に残る名カットだとその時は思ったのだが、思い返すとこれもおかしい。
 
 なんとなれば「目が覚めた時名前を忘れるかもしれない」という危機感をこの時この2人が持っているわけはないのだ。
 記憶があやふやだったのは最初だけ、あとは2人とも相方の名前を覚えている、そもそも前日、瀧くんは図書館の彗星被害者名簿に三葉の名前を見いだしているのだ、それは心に刻み込まれた名前の筈だ、忘れてしまうと思うほうがおかしい。

 つまるところこれはその後2人がお互いの名前を忘れ、出会ったことも、そこで起こったことも忘れてしまうということを知っている(!)制作者の意識が登場人物に反射しているだけだ。
 観客がおかしいと思わないのは、映画の冒頭2人が大切な何かを忘れ、喪失感だけを抱いて生きているという描写があるせいだ。

 あまりにも制作者が作品世界に没入しすぎて、前後関係を見失っているストーリー展開というのをタマに見かけるのだがこれはその典型と言えるだろう。

 展覧会のシーンといい、これといい印象的なシーンを作ることに気を取られてそれを支えるべきストーリーがあまりにおざなりなのではないだろうか。


 ついでに言うなら、この2人がいつの間に恋愛感情をいだくようになったのか、まったく描写がない、ラブコメディ風の「角突き合う2人」があったと思ったら、次は「運命の恋人」である。
 お互い「人の体を使って無茶ばかりする困った奴だ」と思っていたけど良いところがあるじゃないか、というエピソードを一つでも入れるべきだったろう。
 時間と空間を越えて心が入れ替わる2人が運命の恋人であるのはドラマの構造上当然なのだが、枠組みがそうだからこの2人は恋人なのですではドラマを軽んじすぎだろう。

 

 などなど書いてきたが、要するにストーリーは穴だらけであるということだ。
 映像がすみずみまで神経が行き届きまるで工芸品のような精緻な出来であるのと対照的にお話はまるで神経が行き届いていない。

 思うのだが、これはこの映画がひたすらに新海誠という人物の等身大のものだからということなのだろう。
 つまりは作家性を重視した小品だ、ヒットはして欲しいしセンター前に抜けるクリーンヒットであって欲しいが興収200億を超え日本映画トップを窺うという程のヒットまでは期待されていなかったわけだ。

 最初から上を狙っているシン・ゴジラであればブレーンを集めて隙のないシナリオを練るところだが、これは監督の個性を最大限生かす作りになっている(2年間一人で構想を練っていた、という話も聞いた)
 そのため作者の得意なところは素晴らしい完成度になり、不得意なところはそれなりの出来になってしまったということだ。

 
 「見るべき映画」と私は最初に述べた、それはどのような欠点を内包していても、それを越えて見るべき映像美があると思うからだ。
 しかしこれは「傑作映画」ではない、傑作というのは良いお話と良い映像の2面を兼ね備えているものにこそ付けられるべき名称だろう。

 日本アニメーションのひとつの到達点である本作を多くの人に見てもらいたいと思う反面、この映画の持つ欠点ががまったく考慮されていないがごときの大ヒット(と賞賛)に私は複雑な思いを抱いている。




 


  


 アニメ化されると聞いて反射的に「これは無理だろう」と思った。原作を読んだのは数年前のことなのでディティールは忘れてしまっていたが、ともかく本がぶ厚かったのと内容が密なのは覚えていたからだ。

 基本小説を映画化する場合、無理なく移植できるのは中編程度、料理の仕方次第では短編でも映画の原作には充分だったりする。印象として内容が充実していると思える小説を映画化すると刈り込まなくてはならない部分が多すぎて「この小説である必要があったのか?」という代物になりかねない。

 とはいえこの小説ははSF小説マイベスト10とかを編纂するなら候補に挙がるであろう作品でありどう料理されたか興味があったので若干の不安を抱きつつも劇場に足を運んだ。

 そして鑑賞後「あれ。主要シークエンスが全部盛り込まれていてしかも、過不足なくまとまっているな、おかしいな」(!?)と思い、改めて原作を読み返したのだった。
 そして「お話的」にはまずまず原作通りであることを確認した。ということはこの小説が物語としては充分に映画に収まる内容だったということであり、膨大な(ように見えた)部分はそれ以外の何かであったということだ。

 何であるかと言うとそれは一人称で延々と語られる主人公の独白である。映画は普通に客観視点なのでつまりはこれはまったく別な作品ということだ。

 もっともそれはこの作品が不出来であるという意味ではない、というかよく出来たアニメ、前項にひきつづきジャパンクールな映画なのである。

 そもそも(あたりまえなことながら)小説と映像では表現方法が違う、移植した時点で違う作品になるのはあたりまえで原作通りでないことが瑕疵であるとは限らないのだ。

 話が脇道に膨らむがここで「Another」について触れたい。
 実のところそのことを強く意識させられたのが綾辻行人の小説「Another」とそれをアニメ化したTVシリーズなのである。

 これは、中学校のある教室にすでに死んでいてこの世に居ない筈の人間が紛れこんでいるという話だ。
 傍証から居てはいけない人間が居るのはあきらかなのだが、クラス全員の記憶が改竄され誰がソレなのか判別することが出来ないというホラーだ、こう言っちゃ何だがよくあるタイプの怪談話と言ってよい。

 原作は主人公とヒロインの2人が暗闇の中を手探りで歩いているような暗い印象の作品で充分に面白いのだがアニメはまったく違う作品になっていた。

 小説に於いては書いてないことは無いのと同じだが、映像化しようとすればどうしても描かなくてはならないものが出てくる。教室のシーンを描こうとすれば主人公の周りのクラスメイトも描かなくてはならないということだ。
 アニメの製作者たちはこのクラスの生徒30人に顔と名前を与え、席次を決め交友関係も設定した、日常の風景で、あるいはショックシーンで彼らは与えられた個性に即した芝居をしている。

 脇役と言えるほど主人公にからむわけでなく、モブと呼ぶには距離が近い彼らに血肉が与えれた結果この作品は青春群像劇となった。ラストの大パニックシーンで彼らがそれぞれの人間関係や性格にしたがって行動しているのを見て私はこのアニメはあきらかに原作を越えたと思った。

 これ以前、私は基本原作(小説)至上主義であり、映像化された作品の評価はどれだけ原作を忠実に映像化できたかで判断していたのだが、以降は違って当然いかにうまく変えるかが勝負という風に考えることにしたのだった。
 そういう意味ではこの虐殺器官というアニメは充分に傑作と言えよう。

 まず小説では単語でしかなかった全てのものが視覚化されている、ステルス輸送機「空飛ぶ海苔」、強行着陸用の一人乗りカプセル「侵入鞘」、眼球の表面に形成される情報ディスプレイ「オルタナ」など「いかにも」なものはもちろん、主人公シェパード大尉の軍服や普段着や戦闘服、持っているハイテク武器。

 我々になじみのある田舎の町と中学校の教室と違い、どれもこれも非日常な世界の視覚化であり、これに説得力を持たせられるかどうかがこういった映画の勝負どころなのだが、ジャパンクールなアニメはこういった方面が実に巧みであってこの映画も見応えのある映像となっている。
 普通に言って「見て損はない映画」と言えるだろう。

 とはいえしかしこれを見て攻殻機動隊あるいはメタルギアソリッドの亜流と思う観客も居るのではないか、要するにこの映画は出来の良い近未来、デジタルパンク&デストピアSF映画でありそれ以上のものになっていないのだ。

 この原作を使ってここに留まっていたのではそれこそこの小説を原作にした意味がないのではないか?というのが私の偽らざる感想である。

 では、この原作小説「虐殺器官」の本質とは何であるかというとホラーである、近未来デジタルパンクホラーとでも言うべきだろうか。

 主人公シェパード大尉はアメリカが創設した秘密部隊「特殊検索群i分遣隊」の隊員である。この組織の役目は世界各国の要人の誘拐あるいは暗殺というダークな仕事であり シェパード君本人はこれを「キャリーで豚の血をぶっかけられたシシー・スペイシクのようなウエットな仕事」と言っている。要するに血まみれのダーティワークだ。
 存在そのものが秘匿され表に出てこられない闇稼業なのだが、小説の大半を占める彼の独白は深い内省にあふれ、イノセンスであり、文学青年のような趣だ。

 ニーチェで言えば、彼は「深淵をのぞきこんでいながらまったく深淵からのぞきこまれていない」のだ。
 なぜそんなことが可能なのかというと、それはアメリカ軍が高価なデバイスである特殊部隊員が壊れないようありとあらゆる方法で彼らを守っているからだ。

 視界にデジタルデーターを表示する「オルタナ」や、体のダメージを自動的にリカバーする「スマートスーツ」「環境適応迷彩装備」(おなじみの光学迷彩だ)などのデジタルギアはもちろん。彼らは薬物やナノマシンや心理カウンセリングによって「戦闘適応感情調整」を施される、これは理性や倫理観で判断を鈍らせ最前線で自らを危険にさらさないように、あるいは戦闘後に罪悪感などで精神を病まないように心を守る仕組みだ。

 紛争地域での「幼年兵遭遇交戦可能性」が高い任務ではこれが徹底して行われるため「まだ乳房もロクに膨らんでいない女の子」の胸に穴をあけても彼らは何も感じない。

 最後に彼らは痛覚マスキングも行う、これは痛みを「感じる」部分と痛みを「認識」する部分が脳の内部で分かれていることを利用し、戦闘で負傷した場合でもその痛みが存在することは認識出来るが実際には「痛くない」という状態を作りだし、痛みが戦闘の障害になることを排除するわけだ。

 つまり彼らは物理的、化学的、デジタル的に何重にも守られている。

 その不気味な「調整」が生み出したのがダーティワークをこなしながら内面は永遠の文学青年のシェパード大尉というわけだ。

 任務の最中にあってもカフカやバラード、ナボコフ(ロリータ)あるいはブライアン・イーノについて静かに語る彼は特殊部隊の戦闘員というより赤ずきんちゃん気をつけての薫くんのようでもあり、ライ麦畑のホールディング君のようでもある。

 ライ麦畑の崖のそばに立ち、遊んでいる子供が崖から落ちそうになったらつかまえる仕事をしたいと言い出しそうなこの男が「ぼくは完璧だった、どう完璧だったのかというと、迷いなくこどもたちを撃ち殺していくことができていた」と独白しながら任務を遂行していくのだ。これはホラーである。

 彼がなぜこのような文学青年でありつづけることが出来るのかというと、それは現実と向き合う必要が無いからだろう。
 イノセンスな青年は現実と向き合い壁に突き当たって挫折したり妥協したり、あるいはその壁を乗り越えることで大人になっていく、しかし彼は「物理的、化学的、デジタル的」に外界から隔離され、苛烈な現実と直面しないでいられる、それ故に大人になれないのだ。

 この怖さを認識した時、読者は伊藤計劃の仕掛に気づくことになる、シェパード大尉の一人称は「ぼく」である、30歳になる特殊部隊の軍人が自分のことを「私」でも「俺」でも「自分」でもなく、「僕」ですらなく「ぼく」と呼んでいる不気味さは日本語で書かれた小説でしか表現できないホラーと言えよう。

 つまるところ本質にこの小説は映像化するに向いていなかったということだ。
 




 





 

 「映画は観客に見られて初めて完成する」と言った監督がいる。
 一度公開された作品は読者のものだ、ということもよく言われる。

 これは小説家や監督が「これはこういう風に見てくれ」と言ったところで受け手が抱く感想をコントロールすることはできないし、注文をつけることも出来ないということだ。
 これはホラーのつもりで作ったものがコメディとして評価されても作り手側は文句が言えないということだ。
 しかし、受け手が製作者の「つもり」から自由であるとするならば受け手側の「つもり」からも制作者は自由であると思われる。

 つまりゾンビ物のホラーと思い込んで見に行ったらコメディだった(バタリアン)とか、女子高生の日常系コメディだと思ったらゾンビ物のホラーだった(学校ぐらし)に対して「これはホラーじゃない」とか「日常系じゃない」ということをもって非難することは出来ないということだ。

 (まあ、時に配給会社が本当の事を言うと当たらないとみて観客を騙しに来る映画もあるので怒っていい映画もある、たとえば押井の新作だと思ったらまったくの続編だったとかなんとか・・)

 つまり見る前に勝手にラベルを貼り、ラベルどおりでなかった事を評価を下げる理由にしてはいけないのだ・・と前置きした上で言いたい。

 これは怪獣映画ではない、と。

 だってゴジラですよゴジラ、怪獣の始祖、もし彼なかりせばその後にガメラもウルトラマンもその他多くの怪獣特撮映画も無かったであろう原点中の原点。ハリウッドにまで進出したキング・オブ・モンスター、この大スターを12年ぶりにひっぱり出した映画が怪獣映画でないなんて誰が想像できるだろう(出来ない)

 しかも総監督が日頃特撮好きを公言する庵野秀明、監督・特技監督が平成ガメラの樋口真嗣とくればこれは堂々たる怪獣映画が見られると期待することを誰が責められるだろう(責められない)

 しかしこれは怪獣映画ではなかった。

 では怪獣映画とは何であるのか。それは怪獣が主役で物語の焦点に怪獣が居て、すべての事象がその焦点を中心にグルグル回っている映画である。

 そしてシン・ゴジラの中心にゴジラは居ない、焦点となっているのは日本の政治形態、官僚システムなのだ、つまりこの映画は政治風刺映画・ポリティカルフィクションと言うべき物なのだ。

 もちろん「怪獣映画」にも政治、官僚システムが描かれることはある、とはいえそれは怪獣に振り回され怪獣強いぞ怖いぞという要素の一部として描かれるのが普通だ。

 ところがこの映画はそうではない、映画の焦点は終始政治・官僚システムに合っていてブレることがない、そしてゴジラはその風刺のための装置の一つとして扱われている。

 これは映画におけるゴジラの「動き」を見ればあきらかだろう。蒲田に上陸したゴジラが何故第3形態に変化したあと海に帰っていくのかといえば、それはその後のタバ作戦において総理大臣に「すべての武器使用を許可します」と言わせるためにある。

 現代日本の意思決定システムをリアルに描写しようとしたら現在進行形の怪獣災害(?)に対して、自衛隊の武器使用を許可するのは難しい。
 なので一旦海にお帰り戴いて、怪獣に蹂躙された蒲田の惨状を政治家に(観客に)見せ、この怪獣が首都を直撃したらえらいことになると周知徹底させ、やっとポリティカルフィクションとしてリアルな自衛隊の総攻撃を描くことが出来たのだ。

 そして見せ場であるタバ作戦、丸子橋の攻防でその実力を見せつけたゴジラがなぜ東京駅付近で停止してしまうのかといえば、やはりその勢いのままゴジラが活動を続けたら日本の政治は「ついて行けない」からに他ならない。

 (この作品世界内で言うなら、政府はワタワタするだけで何も決められず、泥縄式に取った対策も効果がなく、なすすべもなく東京は壊滅し、再進化の兆しが見えたところで核ミサイルを撃ち込まれて終わってしまう)

 発売されたブルーレイで確認したところゴジラは1時間7分目に停止、再起動(ヤシオリ作戦の開始)するのが1時間40分、つまり2時間弱の映画の後半37分をゴジラは停止し続けるのだ。
 この映画の最大の見せ場は瀕死の状態に陥った政治体制が再起し、ゴジラ退治のため国内外に対して様々な政治決断をする描写にこそあるわけで、ゴジラが現在進行形で活動していてはこれをリアルに描くことは出来ない、なのでしばらく止まっていただくしかなかったということなのだ。

 つまりはゴジラはポリティカルフィクションという焦点の回りを回るいくつかの(便利な)装置の一つでしかない。

 実のところ劇場での鑑賞中に私は田中光二の「爆発の臨界」を思い出していた。この小説は後に東宝が「東京湾炎上」として映画化したものだが、大型タンカーをハイジャックしたテロリストが要求を呑まねば東京湾で自爆テロを行うと宣言する作品である。
 原油を積んだタンカーが爆発すれば東京湾は火の海となり沿岸の石油精製施設も誘爆、有毒ガスで首都圏は死の街と化す、というサスペンス&アクションだ。
 東京を人質に取られた政府が東京湾上の(動かない)脅威に右往左往するというポリティカルフィクション部分が似ていると思ったのだ。

 つまり日本の政治機構に負荷をあたえ機能不全に陥らせる何か(暴力装置)があればこのシン・ゴジラも成立するんじゃないのかということだ。

 テロリストでなければエイリアンでも良い、怪獣でもいいのだがゴジラである必然性はない。
 (ゴジラであることによってむしろ弊害が生じているように見える、という話は最後にすることにする)


 さて、私は出自(?)がSF者であるためか、映画のストーリーにも論理性や整合性を求め(過剰に求め?)、辻褄が合っていなかったりすればその評価は最低だ、とはいえしかし「スター」の価値というものは信じている。

 映画とは、どんなに話がヨレて演技も演出も死んでいようが、主役がキまくっていればそれでイイという、お手本の作品がこれだ。(「黒蜥蜴」について リリー・フランキ-)
というやつだ。

 映画は興行というくらいで見世物の一種でありご贔屓の役者を見に行くものという側面は抜き難くある。
 作品は主役<スター>と分かちがたく結びつけられていて、ターミネーターといえばシュワちゃんだ。バイオハザードはジョボビッチの映画であり、マトリックスはキアヌの映画だ。
 ここ何年もハリウッドは主役を世代交代させようとして失敗している、インディ・ジョーンズでもパイレーツ・オブ・カリビアンでも息子世代の話にしようとして後がない。
 ターミネーターもジョン・コナーの話にしようとしたが成功しなかったようだ(ジョン・コナーも息子世代だと言えないこともない)
 エイリアンは「プロメテウス」でプレストーリーを始めたがやはりあれはシガニー・ウィーバーの映画なのではないだろうか。
 
 何が言いたいのかと言うとターミネーターを見に行くということはアーノルド・シュワルツェネッガーを見に行くことだったということだ。

 同様に我々はゴジラと銘打たれた映画を見に足を運ぶときは当然「スクリーン狭しと暴れまくる」ゴジラを見るつもりで行く、このゴジラが37分間静止していたらそれがどんなに映画として完成度が高くとも肩すかしをくらった感を拭い去ることは出来ない。

 この映画を見た後に感じる拭いきれない違和感はこれに尽きる。

 つまり「これはゴジラの映画ではない、それどころか怪獣映画ですらないのではないか、怪獣映画ですらない映画にゴジラを出す必要があったのか?」ということだ。

 
 ここで先に述べた「ゴジラであることで生じた弊害」について述べる。
 怪獣映画の宿命であるのだが、話を盛り上げるため怪獣は怖いぞ凄いぞといって売り出す必要がある、しかし映画を終わらせるため最後にはそれを退治しなければならない。
 しかし始め無敵と言ったものを倒すのだから相当の工夫が必要だ。

 そしてそれがゴジラとなると不可能に近い。なぜなら劇中でも言われたとおり彼は名前に「神」がはいっている超自然的な存在なのだ。

 自衛隊の総攻撃程度で倒すのはもちろん、傷一つつけることも出来ず歩みを止めることさえない、それが正しくゴジラというものだ。
 なのでタバ作戦まではゴジラ映画と言えなくもない。

 そのゴジラがラスト、電車爆弾程度で足をすくわれるのはおかしくないか、ビルを倒しただけで転倒し短時間とはいえ行動不能になるのはおかしくないか、そして毒を体内に流し込まれるのを甘受しているのはおかしくないか。
 ビルが重いので動けなかった(!?)としても口が動かせるならポンプ車の注入パイプをかみ砕けばいいだけのことだ、それとも気絶でもしていたのか、神が、自衛隊の総火力をくらって傷一つ負わなかった完全生物が?

 「ゴジラでそれはないだろう」ということだ。
 
 ヤシオリ作戦は本当なら停止しているゴジラの口に凝固液を流し込むのが正解だと思う、しかし中盤で動かなくなったゴジラを動かないままで終わりにするわけにはいかず、最後に見せ場を作ったということなのだろうが、これもまた大スターを使ってしまった弊害と言えるだろう。

 様々に言ってきたが、ゴジラを出すなら堂々たる怪獣映画を作るべきだろう、ということだ。
 この映画はポリティカルフィクションの出来が良く、相手が「俳優」でないために言っていることがわかりにくいという部分はあると思う、なので言い換えてみる、次のように言ったら理解されやすいだろう。

 ターミネーターの新作だというからアーノルド・シュワルツェネッガーが無双するアクション映画を期待して観にいったら、殺人マシン対策に苦慮する官僚のドラマを見せられてがっかりだったよ、と。 








ゴジラは世界のミフネに並ぶ東宝の看板スターだ (東宝スタジオ正門、左に「7人の侍」右に「ゴジラ」)







 これで何匹目のドジョウだよという企画。
 そしてB級感あふれる予告編



 あ~これダメなやつだ、きっとまた欲張りどもがお宝求めて髑髏島に行き、キングコングや恐竜に出くわして大騒ぎを繰り広げるおもちゃ箱に違いない・・・と思っていたのだった。

 ダメと思いながらなぜに身銭切って劇場に足を運ぶのかというと、初代コングにはお世話になったからだ(「キングコング」のウィリス・H・オブライエンと彼の弟子「アルゴ探検隊」のレイ・ハリーハウゼンが居なければ私は特撮屋になっていないだろうという確信がある)
 つまりは、ダメぽいけどお布施として観にいくか、くらいの気持ちだった

 し・か・し 観てビックリ、ハードボイルド映画だった。
 ハードボイルドとは何であるかそれは「情緒に流されず、自分の生きかたに妥協しない人間(とサル)」の物語である。

 時は1973年(ベトナム戦争が終結しアメリカがベトナムから撤退を始めた年)

 髑髏島に巨大生物がいると長年主張しながら黙殺されつづけていた科学者ビル・ランダはやっと実現した(そしておそらく最後のチャンスである)島の調査に人生を賭けている。

 調査隊の輸送を担当するのはベトナムで戦っていた攻撃ヘリ部隊、その指揮官レストン・パッカードは戦場以外に自分の居所を見いだせない男である。

 調査隊が雇ったガイドはイギリスの元空挺部隊員、父親が第二次世界大戦の空軍の英雄で、その父親を越えるべく軍に身を投じたがさしたる功績を挙げることができずいまだに戦う場所を求めている。

 髑髏島には第二次世界大戦中の戦闘機パイロット、ハンク・マーロウが住んでいた、マーロウは大戦中日本の戦闘機と相打ちとなってこの島に不時着し以来28年島から脱出することが出来なかったのだ。

 そしてこの島には守護神キング・コングが居る。コングは島の守り神であると同時に世界の守護者でもある。
 というのもこの髑髏島には地下大空洞への通路があり、地下は化け物どもの巣になっている、これを放置すれば出てきた化け物が地上を支配してしまうだろう。コングはたった1匹でこの化け物どもを倒し続けているのだ。



 つまり

 名誉のため自分の説を証明する証拠を持ち帰らねばならない男。

 戦いが人生そのものになってしまい戦いのない世界に身の置き所がない男。

 自分の価値を証明するまで帰れない男。

 28年島に捕らわれ続けた男。

 世界をたった1人(1匹)で守り続けている孤高の戦士。


 つまりこのお話は帰るに帰れない、引くに引けない男たちの話なのである。

 この4人と1匹の意地が絶海の孤島で激突するのが今作「キングコング:髑髏島の巨神」なのだ。びっくりするほど男くさいハードボイルドな映画である。

 さてしかし、意地とこだわりで自分の人生を歪めてしまった男たちの中にあって、ただひとりマーロウだけは自分の意思でなく「帰れなくなった」男である。
 相打ちとなり共に不時着した日本の戦闘機乗りイカリ・グンペイと友人になり、化け物に殺されたグンペイの形見の日本刀を振り回して戦う男。
 シカゴ・カブスの成績を気にかけ、残してきた妻を遠くからでも一目見たい(再婚しているかもしれないから)と願う男。彼だけがマトモな精神、マトモな正義感を持っているというのも皮肉が効いている。

 ということでこれは思いがけず面白い映画だった、大ホームランではなくセンター前に抜けるヒットといった佳作なのだが、さしたる期待もなく観にいったらけっこう面白かったというのも映画の楽しみというものだろう。



 といいつつ何だが。


 2回連続で似たようなことを言うようで気が引けるが。


 これは「キングコング」ではないな。


 キングコングという映画の最大のミソは髑髏島からニューヨークに渡る大スペクタクル、大アクションが「美女が野獣を殺したのさ(Beauty killed The beast)」という一言に集約されてしまうところにある。
 つまりは髑髏島の王、野獣の中の野獣、破壊の権化だったコングの映画は実は美女に心を奪われたピュアな男が身を滅ぼすお話だったというアイロニーにあったのだ。

 歴代のリメイクは基本そのフォーマットを踏襲している、そのため毎回「絶叫ヒロイン」が登場する。




初代絶叫ヒロイン フェイ・レイ


 
 今回も女性の報道カメラマンが調査隊に同行するのでああこれが今回の絶叫担当ねと思ったのだが驚くべし。絶叫しない(!)
 コングと彼女が交感するシーンはあるものの、コングは道を誤る(?)こともなく、自らに科した戦いに身を投じるのだ、なんというハードボイルド、こいつはフィリップ・マーロウか。

 ということで今作は決定的に作品の狙いが違う、製作者達が描きたかったのは男と男の意地のぶつかり合いで、コングはその要素の一部でしかない、そういう意味ではシン・ゴジラに近いものがあるのだが、シン・ゴジラと違うのはコングはテーマを表現するための便利な装置ではなく、ガッチリ組み合った男達の一角として一番の存在感を出していることだ。

 (この映画中国資本が入っているせいか、中国人の美人俳優が科学者という役どころで出ているのだが、まったく、これっぱかりも、唖然とするほど見せ場がない「そんなもの見せる映画じゃないんだよ」という製作者達の思いが透けてみえるわけなのだが、よくこれが通ったな)


 ということでこの映画のキング・コングは歴代のキング・コングとは一線を画している、つまるところ美女で身を滅ぼさないコングはコングではないと思うのだ。

 では今回の彼は何であるのか、それは映画の冒頭でヘリコプター隊員が端的に言っている、予告編でも使われている。









 




 
 原題は「San Andreas」つまりサン・アンドレアス断層だ、これはサンディエゴからロサンゼルス、サンフランシスコの地下を通って西海岸に至る全長1300Kmの断層だ、東京-鹿児島間が1000km弱と思えばいかにこの断層が巨大か理解できるだろう。

 とはいえ日本でサン・アンドレアス断層と言っても知る人は少ない。
 一方、アメリカではこの巨大断層がいつかカリフォルニアを引き裂き、州の半分が海に沈むだろうという終末論的未来予想が(面白半分、怖いもの見たさ半分で)語られている、「カルフォルニアダウン」という邦題はそこから来たものだろう。

 ということでこれは地震パニック映画である、地震パニック映画は大仕掛けで大風呂敷で派手な特殊効果満載な映像オリエンティッドな娯楽大作が多いので大好きだ。

 1974年のチャールトン・ヘストン主演の「大地震」はその代表作で、もし私が映画ベスト10を挙げるなら考慮の対象となる映画である。
 (ちなみに「大地震」の舞台もこの映画と同じロサンゼルスである)

 さてでは、私はこの「カリフォルニアダウン」を大喜びで観に行ったか、というとそうではない、それどころか最初から「レンタルでいいや」リストに入っていて、しかもレンタル開始されても手を出さずにいて、ついにケーブルTVで、つまりタダで観られるとなって初めて視聴したという代物だ。

 家で、TVで レンタルで(amazonプライムで?)「映画を観た」という人に対し、大画面で木戸銭を払って観て初めて映画を観たと言えるんだ、特にスペクタクル映画は「引き絵」が多いんだから、大画面で見なくちゃ観ることの意味さえ失われるよ。と常日頃言っている私としてはこれを観たと言っていいのか、この鑑賞を元に利いた風な口をきいていいのか、と思わないでもないのだが、これには訳がある。
 そもそもこれは本当に地震パニック映画なのか?ということだ。

 パニック映画スペクタクル映画について触れるたびに言うことだが、最近のハリウッド映画は「家族の愛と再生の物語こそ正義」という病に罹患している。

 2008年のスクリプトシートから引用すると。

 まず気になるのが典型的なハリウッドフォーマットなシナリオ。
 家庭は崩壊し、あるいは欠損している
 (中略)
 家族の再生をテーマに据え、再生(再会)をもって映画を終わらせる
 宇宙戦争、ジュラシックパーク2、デイアフタートモロウ、ディープインパクト、ダンテズピーク、ボルケーノ等々で毎度おなじみの設定だ。


 ということになる、これらの映画では壊れかけた家庭、家族が再び結束し、再生する様が描かれる、迫る危機は「家族が乗り越えるべき試練」という記号的な何かであって、映画がフォーカスしているのは家族愛である、つまりそれはファミリー映画なのだ。

 ということで今回これも地震パニック映画の体裁を取ってはいるが、私の好きな大スペクタクルエンタテインメントではないのではないかという疑いがあったわけだ。
 
 そしてそういう目で見てみると宣伝文句では。
 
家族との絆だけを武器に、次々と襲いかかる困難を、力と知恵と信念でなぎ倒す男

 と書かれているし予告編では主演のドウェイン・ジョンソンが






 と悲壮な顔で見得を切っている

 どっからどうみてもこれはヤバイという確信があって劇場に足を運ぶのには二の足を踏んでいたわけだ、公開されてからも良い噂が伝わってくるわけでもなく、これはレンタルでいいやと思い、そのうち忘れてしまった(!)のだった。

 (日本の観客は観客でどんなジャンルでも「感動しました!」的な映画が是であるという病に罹患しているので、たとえ家族の愛の物語であってもうまくいっていれば一定の評判は立つはずなのだ)

 なのでまったく期待を持たず、ハードルは地面に置いた縄のナワ飛びほどの低さに置いて鑑賞したのだが、やはりというかダメだった。



 主人公レイはロサンゼルス消防局の救難ヘリのパイロット、数多くのミッションに成功しているベテランであり「離婚の危機に直面している」

 あ~はいはい、と思って見ていると彼はヘリでロス上空を飛びながら奥さんと電話で夫婦間の問題について話しあっている、いいのかこれ、と思っていると大地震発生、すると彼は奥さんに「どこのビルに居る?、助けにいくから屋上に出ろ」と言い一目散に飛んでいくのだ、ダメだろこれは。

 火山が噴火したとみるや、逃げ惑う市民を尻目に自分の母親と子供を助けに行ってしまうダンテズピークの市長といい勝負である。
 市長の方が責任は重いと思うが彼女は職場放棄なだけ(!)とも言える、この場合は非常時における貴重な機材であるヘリを私用で使っているのだ、これをおかしいと思う日本人は多いと思うのだがヤンキーはそう思わないのだろうか。

 さてレイは無事奥さんを救出するが今度は娘が遠く離れたサンフランシスコでピンチに陥っていることを知る(参考までに言うと東京ー大阪間よりはるかに遠い)
 しかしヘリは故障して使えなくなる、不時着したレイは足を確保するため車を手に入れようとするのだが最初から盗む気満々である。

 始めは不時着したショッピングモールの駐車場で車のドアを次々と引っ張っている、つまりカギをかけ忘れていた車があればそのままかっぱらうつもりだ。しかしセキュリティに問題のある車は見つからない。次に火事場泥棒が車に盗品を積み込んでいるのを発見するや今度はその車を奪おうとする。
 レイは泥棒を殴り倒し「これは盗難車だ」と言うのだが、車は盗難された途端に所有権フリーになるわけではないのでこれは車泥棒が入れ替わっただけだ。

 この文章を書くにあたってくだんのシーンを見直してみたのだが、この夫婦不時着した途端ヘリがつっこんだ服飾店で服を盗んでいる、その前の救出劇で2人の服はボロボロなのだが、一片の迷いも無く、流れるように、手近なハンガーから服を引き剥がしているのだ。
 これらはアリなのか、とういうか無いだろう。

 さてサンフランシスコに着いた2人だが、街は崩壊していて地上を進むことが困難だ、すると次のシーンで2人はボートに乗っている、直接の描写はないがサンフランシスコ湾でボートを盗んだと思われる、泥棒行脚である。

 ショッピングモールの車といいこのボートといい災害に直面した所有者がそれを使って脱出しようとすることは充分考えられるのであり、あてにしていた足が無くなって唖然としている様を想像することは容易なのだがこの倫理観の無さはなんだろう。
 
 これが文明崩壊して久しく、法の支配も失われたデストピアが舞台であるというならまだしも、地震が1回起こっただけでこの「やったもん勝ち」な描写には違和感がありすぎる。

 ついでに言うと娘の側である。彼女は自分のピンチを助けてくれた2人の兄弟と行動を共にしているのだが、お父さんと連絡を取らなくちゃと言って彼らを連れひとけの無くなった電気店に入り込む。
 携帯はこの大災害で通じなくなっているのだが、レスキュー隊の隊員を父に持つ彼女は固定電話回線なら生きている可能性があることを知っているのだ。固定電話回線を見つけた彼女は(商品の)電話器を使い父親と連絡をつける。

 これはまあ緊急避難としてギリギリ有りかなとは思う、ブツは盗んでいないし。
 と思っていると彼女はフラッシュライトをポッケに! 君の親父はさっき火事場泥棒をドヤ顔で殴り倒していたんだが、と思うが、これは大災害を生き抜くのに必要になるかもしれないアイテムなので1000歩譲って許すことにする。

 そして後半のクライマックス、彼女はついに両親と巡り会うのだが気がついているのは彼女だけ、2人を乗せたボートは気づかず行ってしまう、とみるや同行していた兄弟の弟がレーザーポインタを取り出して合図を送りついに親子は合流。
 いやお前そのレーザーさっきの電気店で「かっこいい」とか言いながら振り回していたやつだろ、持ってきてたのかよ。
 (偶然)役にたったとはいえそれは「かっこいい」だけで持ってきた盗品だろう。

 というわけでこの映画、泥棒家族とその仲間が活躍する、胸にモヤモヤが詰まりっぱなしの映画なのでありました。


 登場人物の中に母親の新しい恋人という男がいるのだが、こいつがピンチに陥った娘を置いて逃げる「自分のことしか考えない倫理観の無い男」という描写がなされていて最後は(ご多分に漏れず)悲惨な最期を遂げるのだが。
 「お前が言うな」と映画に向かって言いたい(?)くらいである。


 ハリウッドが作る映画はエンタテインメント映画、スペクタクル映画ですら家族にフォーカスしたドメスティックなものになってしまってつまらなくなったと10年来言っているのだが、それでも今までは。

 火山映画なのに主人公(市長)は職場放棄し、母と息子を助けに行って以降は個人視点(ダンテズピーク)
 恐竜映画なのに主人公(パークの責任者)は職場放棄し甥っ子を助けに行って以降は個人視点(ジュラシックパーク2)
 異常気象なのに主人公(気象学者)は職場放棄し息子を助けに行って以降は個人視点(デイアフタートモロウ)

 など、責任感のなさが気になる程度だった。しかし今回の映画は積極的に排他的個人主義であり、普通に犯罪を行っているのだ、これを家族を守るためなのだから仕方ない、むしろ英雄的な行為だと主張するならハリウッドはどれだけ病んでいるのだろう、アメリカではこの映画はかなり「当たった」らしいのだかアメリカ市民はどれだけ偏ってしまっているのだろう。

 やっぱり映画の主人公ってのは筋の通った正義感、倫理観がないと壮快感がなくてつまらないよね、と私自身は再確認したのであった。

 最近の映画なのでCGの出来といい、デジタル合成のクオリティといい最高水準のパニック映像なのだがこのようにお話がひどすぎて感情移入できない、当然ながらお勧めしない。









崩壊した世界でスーパーに立てこもるのはお約束(?)だが、
諸星あたるとその愉快な仲間達は崩壊した世界にあってもスーパーから商品を持ち出す際に借用書を書いている
(うる星やつら2 ビューティフルドリーマー より)



 





 映画製作がハイリスク・ハイリターンなギャンブルと化してしまった今、製作会社は様々な方法でそのリスクを回避しようとしている。
 それはたとえば人気俳優の出演、有名監督の起用、知名度の高い原作の映画化だ、とはいえこの3つが揃っていても赤字に沈む映画が存在するのがこの商売の怖いところだ。

 不確実なリスク回避の方策の中で比較的確実なものがある、それが続編だ(かつて角川春樹は続編は前作の7割の興収が見込めると言っていた)
 時には続編が1作目を超えるヒットになることもないではない、といっても大成功した例は「ターミネーター2」(前作の7倍!)くらいしかないのだが少なくも失敗の可能性が低く、ヒットが望めないこともないというのは大きい。

 なので各社とも続編ビジネスに励むわけなのだが、当然というべきかそう長くは続かない、それはマンネリに陥ってしまうからでもあり、作品が内包する無理や歪みが次第に露呈してくるというケースもあるが一番の問題は主演俳優の加齢だ、エンターテインメント、アクション物などは主役が溌溂としていてこその映画なので主役がおじさん、おばさんになってくればどうしても華が無くなる。

 そこで各映画会社が考えるのがバトンタッチだ、主役を交代させた新シリーズというわけだがこれもまた難しい、ターミネーターではT-800シリーズ(つまりシュワちゃん)からジョン・コナーへ、インディ・ジョーンズとパイレーツ・オブ・カリビアンでは子供世代へのバトンタッチを試みたが反響が思わしくないのか後が無い。

 結局「ターミネーター」はシュワちゃんと共に登場しシュワちゃんと共に去るのだろうし、「バイオハザード」はジョボビッチと共に終わるだろう、もう少しいけそうな「パイレーツ・オブ・カリビアン」もいずれ終わらざるを得ない。

 エイリアンもシガニー・ウィーバーと共に終わった、と思っていたところが新シリーズである、しかも禁断の技、プレストーリー『前日談』だ。


 さて一度作品が当たった場合、その金の卵を産むガチョウからどれだけ金を取り出せるかは製作会社の手腕が問われるところだ、先に述べたような手堅い(とはいえ先細りがあきらかな)続編ビジネスは当然として、プレ/ポストストーリー、アナザーストーリー、コラボレーションなどのスピンオフ作品が作られることも多い。

 その点日本のアニメなどは徹底していてオンエアと同時にノベライズ、コミカライズ、カードゲーム、スマフォゲーム化はデフォルトであり、当たれば舞台化し、劇場版を作成し、時にはアナザーストーリーの変化球、ガールズサイド(青年向けの作品である場合、女性視点のお話)などというものまである。

 (昨今、小説のアナザーストーリーを別な作家に書かせるという荒技も登場している、短期間に荒稼ぎをするためか、作家当人にスピンオフを書かせたのはいいが、そのために続編の間隔が空いてしまって人気に陰りが出るという現象が発生したためなのか、ともかく同じ世界観の小説を別人が書いているのだ。メディアが変わって製作の主体が変わるのはやむをえないとしても、これは何か大事な一線を踏み越えているとしかいいようがない)

 と、若干の私憤が混じって話が逸れたが、苦し紛れのスピンオフの中でうまくいった試しがないのがプレストーリー「前日談」というものだ、という話だ。

 何故難しいのかといえば、それは続編がなぜヒットしないのかということを考えればわかる。
 オリジナルの第一作は始めに語るべき構想(テーマとかドラマとか)があってそれを効果的に表現するために人物や舞台設定をすることが出来る、なので統一された世界観を表現できるわけだが、続編はその人物、舞台背景をそのままに別のストーリーをはめ込まなくてはならない。
 料理に合わせて器を選んだのに、こんどは器に合わせて料理を作らなければならないようなものだ(そうか)

 前作を踏襲すれば代わり映えがしない、何のために作ったのか分からない、既にマンネリなどと言われるし、ガラリと変えれば前作のファンからぶち壊しなどと言われ、そっぽを向かれる。

 とはいえそれでも続編はまだマシなのだ、なぜかと言えば背景とマッチしていさえすればストーリーがどう展開するかは自由だからだ、ところが前日談はお話の落ち着き先まで決まっている、観る側もその話がどう終わるか知って観ているのだ、つまり入り口と出口があらかじめ決まっている、これを予定調和という。完全フリーハンドなオリジナルでさえ当たるとは限らない映画にあってこれでヒット作が作れるわけがない。

 スターウォーズのエピソード1~3がイマイチなのは、アナキン・スカイウォーカーがやがてダークサイドの落ちることを誰もが知っているからだ。
 可愛いアナキン坊やの冒険を見ても、使命と愛の間で揺れ動く青年を見ても、カッコいいオビワン・ケノビ先輩を見ても、彼らはこれからどうなってしまうのだろうかとわくわくすることは出来ない。やがてすべてむなしく闇に飲まれると思って観ているのだ、これでスペクタクルな映画を作るのは無理だ。

(しかもそのためエピソード4~6で語られた宇宙の正義を体現する高潔なるジェダイナイツは実は一人の若者の苦悩さえ理解しようとしない硬直した組織だったということになり、足下で画策されていた反乱さえ察知できない能無し集団であるように見えてしまうのだ)

 つまりは「前日談」はうまくいくはずのない禁断の技なのだ。
 なんでこんなものに手を出したのか、と思っていたのだが、この新シリーズ第2作たるコヴェナントを観て狙いが見えてきたように思える。

 簡単に言えば新シリーズはそもそも同じ土俵で勝負する気がないのだ。

 2012年私はプロメテウスについて以下のように書いた。

 結果「ダークナイト・ライジング」も「プロメテウス」も『敵が何をしたいのかよくわからない』という欠陥が生じてしまった、どちらも映画の内容を200字以内で説明するのは不可能だろう。
 
 エイリアンが乗組員全員を殺せばエイリアンの勝ち、あるいはバットマンがジョーカーの野望を挫けばバットマンの勝ち、というような明快なゴールが見えない映画というのは娯楽大作として問題があるとしか言えない。


 
そして今作を見て確信したのだが、リドリー・スコットはそもそも娯楽大作を作る気がない

 なにを作りたいのかと言えば、人はどこから来てどこへ行くのかという永遠のテーマに対する挑戦、人間の心理を深く考察する芸術作品だ。

 いやいやいや、リドリー、エイリアンでそれをやるなよ。と言いたい。

 リドリー・スコットも80歳を越えている、功成り名を遂げてパチパチしたエンターテインメントではなく、映画史に残るような良い映画、哲学的/思索的映画を作りたくなったのかもしれない。
 エンターテインメントの王者であったスピルバーグが後年、スピル(エンターテインメント)とバーグ(社会派)に分裂したのと同じ現象だろう。

 とはいえそれなら(バーグのように)イチからそういう映画を作ればいいのだ、一大エンターテインメント、アクション&SF映画であったエイリアンの上に方向性の違うドラマを乗せて欲しくないのだ。これはエイリアン原理主義者の勝手な望みというわけではないと思う。

 ネタバレになるので前回書かなかったが、前作、舞台は惑星LV-223(馬蹄形のエイリアン宇宙船<実はエンジニアの宇宙船>がある惑星)なのだから前日談であることは明らかである、にもかかわらずエイリアンが登場しないのだ。
 
 なるほどそのためタイトルからエイリアンという言葉を外したのか、とは思ったのだが。エイリアンシリーズの最新作であるにもかかわらずエイリアンが出ないというのはゴジラの新作でありながらゴジラが活躍しない以上の肩すかしである。

 そしてエイリアンの代わりに映画を引っ張る敵役が不在である、エイリアンもどきのモンスターは脇役だし、不老不死の妄執に取り憑かれたウェイランド社長は小物だし、異星人デザイナーの目的も不明だし、アンドロイドのデヴィッドは捉えどころがない、『敵が何をしたいのかよくわからない』と書きはしたが実のところどれが敵なのかも定かでないと言うべき状況なのだ、なので主役たるショウ博士が光らない。


 というわけで『なにがやりたいのかよくわからない映画』というのが前作の感想だった。つまりその時点では特段これが芸術に振った映画とは思っていなかったのだが、今作「エイリアン・コヴェナント」を観てリドリーの狙いが分かった。

 この映画にはついに我々の良く知るエイリアンが登場する、しかし最後にチラっと顔見せするだけで主役ではない、エイリアンの前身たるモンスターも出てはくるが特段の活躍はしない、では誰が主役なのかというとアンドロイドのデヴィッドである。
 この映画は人造人間であるデヴィッド君が自分は何者なのか、人間とは何か、人とアンドロイド、創造者と被創造物の違いはなにかと様々に思索するお話である、つまりアンドロイドに反射させて人とは何か考えさせる映画なのだ。

 映画のラスト、デヴィッドは宇宙船コヴェナント号のマザーコンピューターに音楽をリクエストする。
 選んだのはワーグナーの歌劇「ラインの黄金」の第4幕「ヴァルハラ城への神々の入城」だ、浅学にして私はこれが何を意味するのか、というかそこに意味があるのかさえ理解できなかった。
 
 しかし鑑賞後、各所の映画評を読むとこれこそが映画を読み解くキーである的なことが書かれているので調べてみた。

 以下はオペラ対訳プロジェクト(https://www31.atwiki.jp/oper/pages/177.html)というサイトから一部引用だ。

LOGE

im Vordergrunde verharrend und den Göttern nachblickend
Ihrem Ende eilen sie zu,
die so stark in Bestehen sich wähnen.
Fast schäm' ich mich, mit ihnen zu schaffen;
zur leckenden Lohe mich wieder zu wandeln,
spür' ich lockende Lust:
sie aufzuzehren, die einst mich gezähmt,
statt mit den Blinden blöd zu vergehn,
und wären es göttlichste Götter!
Nicht dumm dünkte mich das!
Bedenken will ich's: wer weiss, was ich tu'!


ローゲ

(舞台前方にとどまり、神々の後ろ姿を見送りながら)
あいつらは、終末に向かってまっしぐら・・・
しぶとく生き延びられると、固く思い込んでいるけどね。
あんな奴らと付き合うなんて、恥もいいところだ。
ううむ。全てを舐めつくす炎に再変身したい欲望が、
心にふつふつと湧き起って来るぞ・・・
かつて俺を拘束した奴らなんぞ焼き尽くしてやる!
あんな先見性のないバカどもと心中なんかするものか・・・
例えそいつらが「神々の中の神々」であってもね!
ふむ。悪くない思いつきだったな!
じっくり考えてみよう・・・俺様の心が誰に読めるってんだ




 ローゲとは通常ロキと呼ばれている北欧神話の悪神のことだ、ロキはアース神族の敵「霜の巨人」の出でありながらアース神族の長オーディンの義兄弟である。最初はアース神族と行動を共にするがやがて悪行を咎められて拘束される、ラグナロクでは拘束から逃れ霜の巨人とともにアース神族と戦う(そして共倒れとなる)
 前作「プロメテウス」では被創作物である人類が神たるデザイナーに一矢報いる話だった、今回は人類の創造物であるアンドロイドが悩み苦しみ、やがて人類に反旗を翻すお話だ、新シリーズはまさしく「ヴァルハラ城への神々の入城」がテーマなのだ。

 知ってみればこれはなんと神々しい映画だったのだろうか!!

 しかし、それは「エイリアン」ではない。


 リドリーはこの新シリーズが3部作であると言っている。次回作はこのコヴェナントの前に来る話だというのだがとうてい本当の話とは思えない。
 現状では謎が謎を呼んでいるままだし、どうあっても人・アンドロイド・エイリアンが3つどもえで戦って共倒れ(!)になり惑星LV-223上にエイリアンの卵だけが残される(そしてノストロモ号が来るのを待つ)話が無いでは前日談が終わらないからだ。

 まあリドリーが主導する限りこの最終段のお話でも、思索的、哲学的なお話になりそうで期待は出来ないのだが、本当に次作がコヴェナントの前日談だとするとそれが娯楽映画になる目はない(デヴィッド君がイジイジするだけの映画になるのは確実だ)

 人気シリーズが終わる様はいくつも見てきたがこれはまた意外な終焉を迎えた(迎えつつある)としかいいようがない。さすがリドリーとは言えるかもしれないが。


 







 前作をリスペクトしつつ正統に進化した続編である、追加要素も成功しており前作のファンであれば見るべき傑作と言えるだろう。

 という一行で終わってしまっていいくらいなのだが、まあせっかくなのでもう少し書く。

 まず「続編」が難しいと言う話だ、これは以前にも前項「エイリアン コヴェナント」でも書いたがそもそも面白く作る事自体難しい。なので成功した例は極めて少なく興業成績的に大成功というと「ターミネーター2」くらいしかないのが実情なのだ。
 作品的には「エイリアン2」も大成功だと思うが、これら2つは前作の路線を否定して成立している。

 「ターミネーター2」は前作で圧倒的な敵役だったターミネーターT-800(つまりシュワちゃん)が味方になるという大転換だ。
 「エイリアン」は『宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない。(In space no one can hear you scream.)』というホラー&サスペンス物だったものが、エイリアンの大群と宇宙海兵隊(!)のドンパチが見せ場のアクション物となり、キャッチフレーズは『今度は戦争だ(This time it's war.)』になっている(日本では「エイリアン2」となっているが原題は「Aliens」である)

 ということでどちらも目先をガラッと変えて成功しているのだ。
 まあガラッと変えれば成功するというわけでもない、というかガラッと変えて勝負に出た続編は星の数ほどもある。
 「前作の敵役が味方だった」はもちろん「前作のラスボスは実はザコだった」「信頼できる味方が実はラスボスだった」「前作のラスボスは実は主人公の父親だった(!)」など枚挙にいとまが無い。しかし前作の描写がちゃんとしていればしているほど「そんなわけあるか、前作の感動をないがしろにするな」とか「俺のTレックスをかませ犬にしやがって」になりかねない、続編のターゲットは前作の熱心なファンなので路線を変えるとヘイトを稼ぐだけに終わる可能性も高く、実際に死屍累々なのだ。

 それでもそういった作品が多いのは製作者側が世界構築の自由度を増やそうと模索した結果だろう。
 コヴェナントのたとえ話で言えば、料理の系統もそれを盛る器も決まっているところへ前より旨い料理を出せと言われるより「今度はエスニックだ!」とちゃぶ台をひっくり返したほうがやりやすいということだ。
 つまりそれほどに「前作を踏襲した正統な続編」で成功するのは難しい。

 しかし今作はその難題を見事にクリアしている。
 科学は素晴らしく進化しているのに幸せそうでない人々、悪化している環境、幸せでない人々は人造人間レプリカントを使役し、差別して憂さを晴らしている、レプリカントである主人公はブレードランナーとなってレプリカントの犯罪者を追っている、という設定は前作そのままだ。
 今回レプリカントはその心理的安定性のために幼少から今までのニセの記憶を植えつけられている、そのニセの記憶を作るデザイナーもいてデザイナーは埋め込み記憶の素材に本物の記憶を使ってはいけないことになっている、などというのが追加要素だ。
 
 実のところ前作でもレプリカントはニセの記憶を持っていた。全てのレプリカントが持っていたわけではなさそうだが、事件の中心にいる何体かが持っていたことは確かなので全てが新要素というわけではない。
 今回目新しいのはレプリカント本人がそれが作られた記憶であることを認識していることだ。

 自分の持っている記憶が真性なものであるかという疑問は、自分が本当に自分で思っているとおりの人間であるかを危うくし、アイデンティティーの崩壊をもたらしかねない問題である。
 それを中心に据えた物語は多く作られ、押井守などはその第一人者である、というか押井の映画はすべて「虚構と現実の狭間で苦しむ主人公の物語」だったとも言える。
 キャメロンは押井の熱心なファンらしいが、リドリーも押井観てるんじゃないのか・・という疑問はさておき、それが作られた記憶であることを知りながらアイデンティティーの危機に陥らず、むしろそれに愛着を持っている(でないと心理的安定性に寄与しない筈なので)という設定は目新しい。更に「この作られた記憶は実は作り物ではないのではないか」という錯綜した悩みはこの映画で初出なのではないだろうか。
 
 更に言う、この悩める主人公は「バーチャル恋人」と暮らしている、多分ホームコンピューターにインストールして使う市販のアプリケーションソフトだ、しかし2人(?)の間には真の愛情が存在する(ように見える)
 ホログラムでしかない「彼女」だが彼女には自我がある(ように見え)彼女は自分の欲求として実体として彼に触れることを望んでいる。
 確かなものが何もなく霧の中をさまようようなこの物語の中にあって、確固たる自我を持ち、一番人間らしく見えるのがこのバーチャル彼女なのだ。
 
 つまりこの映画は虚構と現実、バーチャルとリアルが交錯し、前作より遥かに複雑、重層化したお話になっているのだ。

 そんな不安定な世界で自分の存在意義を模索しつつ、自分の中に存在する倫理を頼りに行動する主人公は他者の悲しみ、苦しみに共感することが出来る内省的な人物で、人を踏みつけにすることしか考えない「人間」よりよほど人間らしく見える。


 「そうだよリドリーこういう話にすべきだったんだ、というかこの企画があったならエイリアン コヴェナント要らなかっただろう」と私は映画を観ながら思ったのだった。
 (前作「ブレードランナー」はリドリー・スコットが監督であり、今回リドリーは製作総指揮という立場にある)

 人が生み出した人造人間は知的、情緒的に人と同等(ことによると人より上等)な生物であるがその出自から人から差別され劣等な種として扱われている。
 自分達の立場に悩み苦しむ彼らの物語は種族を越えた疑問に昇華する、いったい人とは何か人間らしいとは何なのか。
 というのが「エイリアン コヴェナント」「ブレードランナー2047」に共通するテーマである、老境に至ったリドリー・スコット(御歳80才である)は今やそんな哲学的なものにしか興味がないのだろう。

 とはいえそれをエイリアンでやるには無理があった。
 話は逸れるが再び「エイリアン コヴェナント」について書く。
 枝葉をばっさり切って言うとこの映画は
 「アンドロイドのデヴィッド君は知的、情緒的にあきらかに人類より上だという自覚がある、しかし製造主であるウェイランド社長は彼が自分に従属することを疑わない。デヴィッドはその扱いに違和感を覚えつつも確固たる信念を抱けない、彼はそれを自分が被創造物であり、人間が自分の創造主であるからだと考える。自分という優れた種を生み出したが故に人間は自分より優位にあるのではないかということだ。そこでデヴィッド君は次のように考える、自分も新たな種を生み出し創造主となることが出来れば人間と対等、あるいはそれ以上の存在となれるのではないかと。そして彼は新種の生物を創ることを目標にする」
 ということだ だがしかし それで作ったのがエイリアンじゃダメだろう。

 エイリアンは闘争本能と生殖本能しかない生物で、言ってみればタダの猛獣だ、第一作では「完全生物」などと呼ばれていたが、ノストロモ号の乗組員がエイリアン相手に手こずったのは彼らが戦闘員ではなくロクな武器もなかったせいだ、腐食性の体液も宇宙船内ではエイリアンの武器となった、しかしオープンな場所で戦ったらエイリアンはたいした猛獣ではない。
 たしかに人間では相手にならないだろう、しかしたとえば地球生物代表であるグリズリーなら一蹴するだろう、武器を持たせたら地上最強な人間でも同じである。
 (プレデターは通過儀礼-成長の儀式とも言う-としてバンジージャンプの代わりにエイリアンと戦う)
 エイリアンの戦闘能力はその程度だ。生殖の面でも変態の途中に他の生物(人間かそれと同等の体躯と代謝系を持つ生物)が必要だという時点できわめて不完全な生物である。

 こんな生物を作り出したからと言って何の自慢にもならないだろう。
 また作りだしたと言っても、アンドロイドは人間がイチから創りだしたものであるのに対し、エイリアンは惑星LV-426の土着生物(イカみたいな)を品種改良したものでしかない。
 デヴィッド君はコヴェナントの最後ですごいドヤ顔をしているのだが、それでいいのか! 君の自己肯定の源は自分の知性ではないのか、知性のかけらもなくいろいろな面で半端な生物を作って何が証明できたというのか。

 ということで「それはそもそもエイリアンに乗せるべきテーマではなかった」というのが結論だ。リドリーがこの路線のまま進むならエイリアン新シリーズの行く末は暗いものになるだろう。

 と思って見れば今回のブレードランナーが改めて「正統に進化した続編」であることがわかる。

 前作のラストシーン、逃亡したレプリカントのリーダー、ロイ・バッティは自分の寿命が尽きる寸前に仲間のかたきであり、今の今まで殺し合いをしていたデッカードの命を救う。
 「何故彼が自分を助けてくれたのかわからない(中略)おそらく命を大切にしたのだろう、たとえそれが自分の命でなくてもだ。 彼は知りたがっていた、自分がどこから来てどこへ行くのか、いつまで生きられるのかを、しかしそれは人間も同じなのだ」
 とデッカードは独白する。
 レプリカントと人間に違いなどない、ことによればレプリカントのほうが上等なのではないかということを思わせるもの悲しく印象的なラストだ。
 今作のラストもそれに匹敵する印象的なものに(詳しく書くとぶち壊しなので書けないが)に仕上がっている。

 希有であり、傑作と呼んでいいだろう。


ps

 公開版にあったデッカードの独白はディレクターズカット版、ファイナルカット版では観ることが出来ない。あまりにも説明台詞すぎるとリドリーが切ってしまったからだが、私は公開版のほうが好きだ。 そこは観客の想像に任せるのではなく、レプリカントはたとえ憎い相手であってもその命を大切にできる種なのだ、と言ってしまったほうが映画のテーマを明確に示せると思うからだ。