秋山瑞人 電撃文庫 一部で一時えらく盛り上がった小説であると聞いて読んでみた。 曰く、中学2年の夏休みが終わって、一人の転校生がやってくる。 美少女、無口、無表情、世間知らず、人付き合いの方法を知らず、外界に無頓着、しかし彼女は宇宙からの侵略から世界を救うための最終兵器のパイロットなのであった。 なんのとりえもなく平々凡々に過ごしてきた主人公と彼女の淡い恋。 世間から秘匿されている宇宙人との戦いはしかし人々の生活を変えてゆく、緊急事態、非常事態、そして疎開。 出撃が増えるに従って次第に衰弱する彼女、やがて2人は手に手を取り合って駆け落ちをする、戦いに世界に目をふさいで・・。 ・・っておい、前半はエヴァンゲリオンの梗概で、後半は「最終兵器彼女」のそれだろう! と思う。 これは創作と言えないのではないか、既存の作品が作り上げた一定のイメージにただ乗りして細部を改良した小説、「おれならこうする」的小説。昨今はやりの「2次創作物」にちょっと毛が生えたものでしかないんではないか、と思うのだが、きっと言っても意味はないのだろうな。 つまり作者も読者もオリジナリティにあふれ、新境地を切り開いていくような作品を求めているわけではない。 どっかで見たような舞台設定とどっかで見たような人物設定、安定した世界観の中での細かな差異を楽しみ評価するというムーブメントがもはや確固としてあり、 されにそれは従来の作者(創作・送り手)読者(評価・受け手)という二極構造すらあいまいなものにしている、つまり作者は読者代表であり、読者は「作品」をSS小説化し、ゲーム化し、マンガ化し、立体(フィギュア/コスプレ)化して送り手となる、そこにいるのは作者と読者ではなく、受けてと送り手が混然一体となった巨大なエネルギー「祭り」であるわけだ。 こういった流れは遥か昔からあったわけだが、インターネットの普及がそれに拍車をかけたのは間違いない。 趣味を同じくする人達との交流が、年に何回かのイベントや、同人誌の発行と購入でしかなかった時代と違って、今は二次創作やそのフィードバックが瞬時に行われ、祭りは加速しやすい。 私はそれをかなりおっざっぱに「おたくムーブメント」と呼ぶのだが。それらに従来手法の評論を加えても無意味だろう。 なんで丸太に載って急峻な坂を滑り落ちねばならないのか? なんで狭い道に怒り狂った牛を放したあげくにそれから逃げ回るのか? それらに意味を求めてもムダであるようなものだ、簡単に言えばおどらにゃソンソンなのである。 輪に入り切れなかった人間はそれを評価する視点を持てないわけで、参加できなくてつまらないから、なぜ彼らが熱狂するのかわからないからといってそれらを排斥するわけにも行くまい。 一見それらが書籍という体裁をとっているがために、私はついその出来不出来をテーマだの、ドラマ性だの。オリジナリティだの、はたまた人物描写だのという部分をもとに判定してしまうのだが、実はその精神においては私とトライアスロンくらい離れているのかもしれない。 1.5キロ泳いだあと40キロ自転車を漕ぎ、さらに10キロ走ることのどこが面白いのか私にはよくわからないのだが、それと同様にこの小説の価値が私にはわからない。 しかくの あすかコミックスDx 祭りの外から見てるといい加減飽きないか?と思うのだが、おたくムーブメント渦中の作品にはいくつかのステレオタイプな人物設定がある。 ひとつが長身、長髪、金髪(?)の美青年の存在で、たいていは無口、無表情、一見冷酷ということになっている。実際には心やさしかったりするわけだが、照れで、あるいは過去のなにがしか出来事のゆえに、自分を隠して振る舞っているわけだ。 対して配置されるのが、キュートな美少年だが、これが短身、でイノセントで、元気で明るくて、いたって普通の感覚の持ち主であったりする、つまり読者代表といった役どころだ。 この少年は美青年に振り回されつつも、そのポーズには騙されず、美青年から離れず、社会生活とのインターフェイスを勤めるということになる。 さてこの作品は言うところの「日常生活ミステリー」である。 事件に巻き込まれる主人公の小学生が読者代表であり、謎を持ち込む相手が近所にすむ美青年であればまったきのステレオタイプになるのだが、ちょっと捻ったというのがそれが祖父「爺さん」であるところだ。 しかしこれを捻ったとホントに言っていいのか、オタク小説を私は「おれならこうする小説」あるいは「細部改良型小説」と呼んでいるのだが、既存のフォーマットに乗っていることはなんの変わりもない。 結局この爺さんは「元」美青年であるだけで、無口、、無表情、一見冷酷という属性をそのまま引き継いでいるのだ。 ついでに言えばこの爺さん、孫から学校で起こった事件、怪異を一言二言聞いただけで、謎の全てを瞬時に見抜くのだが、それについて何も語らないので騒ぎが更に大きくなってしまう。 金田一耕助を初めとする「防御率の悪い探偵」(事件が起こってしまっているのに解決を先延ばしにし、事を大きくしてしまったあげくに、「私にはすべてわかっていたのです」とか言う探偵)の典型なのだ。 しかもこれは大横溝の一大奇談と違って短編集であり、さしたる事件でも謎でもないものを一編の話に仕立てているために、その構造がえらく気になる。 つまり、「爺さん、最初から口に出していればそこで解決したろうに、あんたほどの洞察力があるなら、何もするな、と言ったところで孫が黙っていないことくらいわかるだろ?」ってことだ。 つまり、この話は爺さんが事件に中途半端に介入し、しかも真相をちゃんと口にしないからこそ、話として成立しているわけで、なんで孫が危ないマネをするまでほっておくのか、という当然の疑問をただ「爺さんは無口だから」で押し切るのはムリがあると思う。 主人公とその脇役達、人間関係や人物造形はまあそれなりには面白いけれど、ステレオタイプであるのは否めないし、そもそもキャラ立ちだけでマンガを評価するほど私はマンガを軽んじてはいない。 いびつな映画である、見ているときはその映像的迫力に押しまくられ何を思う間もなく、やがて大満足という印象を抱いて劇場を出てしまうのだが、思い返すとストーリーが全然頭に入っていないことがわかる。 なぜ夢を覚えておけないのか? 波瀾万丈だった筈のストーリーが起きた途端に頭から消え去ってしまうのはなぜか? それは夢に論理性がないからだ、という話を聞いたことがある。 ロード・オブ・ザ・リングもそれに似ている、今私の頭に残っているのはシーンの断片ばかりであり。3部作全体を通したストーリーや人物の配置、行動はまるで覚えていない。 これにはまず地理が理解できないということに大きな要因としてあると思う。 彼らの旅がどこで始まり、どこへ向かい、どこで終結したかがわからない。 たまに映る手書きの地図も書かれている文字を読むことが出来ないし、象徴的すぎて実感がない、そもそも縮尺(笑)すらさだかでない。 映画の文法としてもおかしなところは随所にある。 そもそも魔王サウロンはなぜ復活したの? 指輪はいずれにせよ失われていたわけではないのに。 サルマンはどこへ消えたの? オークですら喰われてしまう婆にサムが勝てるのはおかしくない? サウロンのやったことって、よ~く考えると力自慢で知性が不自由なオークを大量生産しただけだよね? 世界を手中に収めることのできる魔法の指輪が足下まで来ているのに見えないと気が付かないサウロンの魔力って何? ブラックゲートに陽動部隊が来たといって、領内をカラにするあんたってバカでしょ アルウェンは悪の力で次第に衰弱している、っていつの間にそんなことに? エルフはどこへ消えたの?フロドはなぜ一緒に行っちゃうの? いちども画面に登場しない海賊って脅威には見えません。 死者の谷のみなさんめちゃ強、そもそも死なないし(!)全部おまかせしておけばよかったのに。 樹の人たち初めに出てあと出番ないですけどいいんですか? あとから思うといろいろ不備な部分があるのに気が付く。 実はこれらの多くは原作を読んだ人間に聞くと説明してくれるのだが「原作を読んでなければわかりません」というのは映画じゃない。 映画は映画内部で一つの完結した世界を作るべきであって、原作が壮大すぎてまとまりませんというなら細部を刈り込む必要がある、「完全映画化」という言葉にこだわったのかもしれないけれど、あの海賊の扱いなどはあきらかに出さないほうがマシ。 時間が足りないというにしてはそもそもモブシーンの戦闘が長すぎる。 初めの頃はこれは凄いと喜んでいたけれど、延々どこまでいっても見せ場は戦闘場面、はっきりいってお腹いっぱいです、もすこし削っていいからお話を丁寧に見せてください。 ・・・というわけで、見る価値あり、しかしこれが天下の大傑作かというと、とてものことそうとは言い切れない、偏った映画と言わざるを得ないだろう。 尚、この映画で見るべきは引き絵を多用した集団戦闘シーンなのでTVで見てはいけない、つぶれて何がなんだかわからなくなってしまうだろう、なにしろその迫力を楽しむ以外特に見るべきところはないのだから。 「芸術」という言葉は今の私にとっては良きもの尊きものというよりは 「『ゲージュツ』しようという意識が見え透いてイヤ」とか、あるいはダメ、とかいうフレーズでしか使わないものになっている。 これが古典的な芸術作品にたいする共感し難さを反映したものであるのは言うまでもない。 ではなぜ私はそれらの「芸術」に共感できないのだろうか? もちろんそれはまず第一に私が教養のない野蛮人であるからかもしれず、その可能性は否定できないのだが、時代性というものの故であると一応ここでは主張しておきたい。 つまり芸術として今も残る多くの作品はそれが生み出された当時から「お高くとまりやがって」とか「重々しければ偉いと思っているのかね」というものではなかったはずなのだ。 それはその時代の技術と経験と知識と、そしてあるたぐいまれなる才能が幸運な出会いを果たし、その当時の多くの人々の精神にゆさぶる「何か」であったと思うのが自然だ。 しかし時代はくだり、同じ感性を持つ人間の数は減少し、大多数の人にとっては共感し難いものになっていってしまったわけだ。 しかしここであらためて「芸術」という言葉から手あかを洗い流し、虚心にその言葉を取り扱おうと思う。 前置きが長くなった。 もう言いたいことは理解されたのではないかと思うのだが、この「イノセンス」は過去の名画や彫刻、あるいは音楽作品でもかまわないのだが、それらに匹敵する価値を持つ作品、つまり「芸術」だと言いたいわけだ。 ルミエール兄弟が1895年に世界初の映画を発表してから百年、アニメーションが生まれて数十年、CGムービーが生まれて十数年、その間に培われた技術、経験、知識と押井守という才能が今幸運な出会いを果たしここに現代人に「何か」を与えうる作品として姿を現したということだ。 これは今我々の心に届き、観たものの精神をゆさぶり、新たな地平を見せてくれる、それは過去の名画がその時代の人々に提供したものと同等な喜びなのではないだろうか? それこそが「芸術」というものなのではないのだろうか? 絵筆がコンピューターに変わり、キャンバスがスクリーンに変わろうと本質になんの変わりもないと私は考える。 観て損はない、いや観るべし、これが私の結論だ。 階調も少なければ解像度も低く、サラウンド効果のないTVでこれを鑑賞することは絵画を画集で見るよりなお意味のない行為である、絵画は世界に一個しかオリジナルがないが映画は劇場の数だけオリジナルがある、新たな芸術が生まれ出た瞬間に立ち会いたければ次ぎの休みに劇場に走れ。 ![]() 『いつの頃からか「塔」は映画にとって不吉なものの象徴となった」 というフレーズを考えついた、ずいぶん昔のことだ。 魔王は塔の上に君臨し、あるいは姫をそのてっぺんに幽閉する。 主人公は内部の螺旋階段を、はたまた手がかりすらないその外壁をよじ昇る 短剣一つを、あるいは消防ホースを身につけて。 しかしこれについて深く考察することもないままに時はすぎ、やがて運命の9月11日がやって来た。 あの日以降、すくなくともスポンサーのついた場でこのことに触れる機会はなくなったと言っていいだろう。 このささやかなホームページといえど、公共の目に触れる場所に置いてある以上、くずれ落ちる塔は悪の滅びの象徴である、と言い切ることはもはや出来ない。 ともあれ、倒壊する魔王サウロンの塔を見ながら改めてそう思ったとだけここに書き留めておこう。 ビデオ鑑賞 秦の大王(のちの秦の始皇帝)は長年3人の腕の立つ刺客に狙われていた。 そこへ、その3人を倒したと称する男が現れる。 男は3人の刺客の得物を証拠の品として差しだし、報償として通常100歩までしか近づくことのできない大王に10歩まで近づくことを許される。 大王がどうやって腕の立つ3人をしとめたのかと問うと。 男は、策略をもちいて仲間割れをさせ討ち取ったのですと答え、そしてまずその様が描かれる。 すると大王は、それでは彼らが器の小さい者であったということではないか、私はその3人と仕合ったことがあり彼らがそのような小物でないこと知っている。さてはお前は刺客であって、私に10歩の距離まで近づくためにあの3人と共謀したのであろう、と言う。 ここで大王の思う共謀の様子が描かれる。 聞き終わった男はしかし、さらに驚くべき話を始め・・と凝ったシナリオワークが展開されなかなかに飽きさせない。 また話が2転3転するたびに衣装を初めとした映像美術全体のカラーコーディネートが変化し、見た目もあざやかである。 中国でこれほどにスタイリッシュな映画が作れたということに驚く。 (もっともアクションシーンのワイヤーワークはもはややりすぎで、飛んだり跳ねたりを超えすでに人が空を飛んでいるようにしか見えないのはどうかと思う) 見て損はない、ただしビデオで充分 タランティーノの怪しい東洋趣味が炸裂した怪作。 ・・・いや、東洋趣味じゃないな、東洋趣味の映画というのはフジヤマ・ゲイシャ・スキヤキと単語3つしか知らないヤンキーが思いこみで作ったインチキなものを普通指すわけだがこれはそうじゃない。 ギャング映画、カンフー映画、ヤクザ映画にジャパニメーションまでを深く読み込んだオタク監督が確信犯的に作った映画であってこれは、すくなくともインチキではない 暴走していく映画をあれよあれよと見ていくうちに終わってしまうわけだがその疾走感はたまらない。 一部ではこれは映画じゃないと言われたらしいが、まあうなずける出来ではある。 主人公が見ていない他人の回想シーンに主人公がナレーション付けるのはなぜ? その最後に「ほらね」って観客に同意を求めるってどうなのよ? なんて、承知で映画の文法をふみにじる監督の作戦に乗ってしまうのもシャクな話ではある。 私はこの映画のオマージュをすべて見切れるほど達人ではないけれど、キメのカットで鬼警部アイアンサイドのジングルが鳴ったのでびっくりし、主人公がかたきを追って東京に来るシーンでグリーンホーネットのテーマが流れたので嬉しくなり、かたきの親衛隊がカトーマスク(グリーン・ホーネットの助手カトーが付けている覆面、ちなみにカトーの役は若きブルース・リー)をしているシーンで膝を叩き、主人公が「死亡遊技」の際のブルース・リーの衣装で乗り込んで来たのに大笑いし、GoGo夕張という女子高校生の殺し屋が(ちなみにGoGoとはタツノコプロの「マッハGoGo」から夕張は映画祭の開催地から取ってつけたらしい)鎖分銅を使うので、悶絶しそうになりました。 GoGo夕張はお嬢様系の顔立ちに黒髪ストレート、ブレザーとチェックのミニスカート、ハイソックスという「間違いのない」もので、つまりその他のおかしな部分はすべて承知の上でやってるわけです。 この分銅をグルグル回す美人女子高生に対するのはブルース・リーの遺作の衣装を着た主人公、持っているのは日本刀、その刀を鍛えたのは引退した刀鍛冶で名前が服部半蔵、演じたのが世界のソニー千葉。 この濃縮されたオタク空間を楽しまないでいったい何を楽しむというのでしょう。 ラストの大立ち回りでは首が飛び手が飛び、足が飛ぶのでスプラッター嫌いな人にはいまひとつお勧めしにくいのですが。 桃太郎侍がザコを何人斬ろうとみな画面外によろめき出ていってフレームに残らないのはなぜかと言えばそれが一種の記号であり、殺陣という名の演舞であるのと同様、これはキッチュな線を狙ったスラップスティックなジョークであり、残酷というにはあたりません。 ビデオでOK、一度見て驚くべし。 機本伸司 4才で微積分を理解し、9才で現代物理学に偉大な貢献をする巨大粒子加速器の発案者となり、16才で大学に進学し・・そして引きこもってしまった天才少女。 かたや、何のとりえもなく将来の展望ももてない、サエない男の主人公。 この2人がチームを組みゼミのテーマとして「宇宙の作り方」に取り組む。 ・・ときたら、まあ一定の方向性を読者は見いだしますよね。 頭はいいが世間知らず、周囲ととなじめない自分に悩みつつも気の強さでそれを押し隠している少女と。性格だけはよくて、傍若無人な彼女に反発しつつも捨ててはおけず、結局いいように振り回されてしまう主人公のデコボコ珍道中。 反発しつつも最後はお互いに足りない部分を補いあって・・・と。 ところがそうじゃない。実際彼女が「自分に足りない独創性を補うために君と組んだ」と言っているのだから小説の肝心なところで、彼の独創性がいかんなく発揮されなくてはならないのだがそうなっていない。 伏線だけ張っておきながら利用されていないミステリーを読むような妙な読後感を覚える。 この小説のテーマーは宇宙はどうやって出来たか?人の手で宇宙を作り出すことは出来るか?という壮大にして途方もないもので、このコンビの手によれば出来るかも、という話になっていくあたりがヤマになるわけだ。 もちろん常識的に言って出来るわけもない、しかし出来るようなウソをついていく部分で作者の手腕が問われるわけだが、どうもうまくない。 勝手な言いぐさかもしれないが、この小説においてはまず宇宙の起源についての現代物理の立場をまず読者に理解させる。 次に、主人公達の理論が正しければたしかに人の手で宇宙が出来るかも、という知的興奮を得られるような理論を展開していかなくてはならなかったはずなのだ。 なにかギアが噛み合っていない、納まるところに話が納まっていない、消化不良を起こすような小説でありました。 大倉崇裕 大雨で孤立した山間の村でおこる連続見立て殺人、本格ミステリーの王道を今さらのように歩むからには、なにがしかの仕掛けというか勝算というか、あらたな視点が存在するのかと思って読んでみればこれはびっくり何もない。 横溝正史が100年前に書いたような(ウソです、生誕百年です)古典的本格ミステリーそのもので、金田一物がすでに内包していた弱点のひとつであるいわゆる「防御率の悪い名探偵」までも引きずっている。 「防御率の悪い名探偵」というのは、人がどんどん死んで行くのに「真相はだいたい読めたがまだ言えない」とか「人の名誉にかかわるのでうかつなことは言えない」などと言いつつ関係者が一通り殺されるまで何もしない探偵のことだ。 さらに事がすべて済んだあとになって、私には最初からすべてわかっていましたぐらいのことを言い放ったりするのだが、人の生き死ににかかわることなんだからわかっていることから言え、とか、見込みでもいいから被害者(候補)を守れ、というごくあたりまえの事をしない。 本格ミステリーとは論理のアクロバットとも言われ、理屈が破綻したら成立しない形式の小説なのだが、なぜかこの部分に関しては大破綻しているものが多い。 古典の香りただよう小説ではあるが、古典のもつ弱点まで引き継いでどうする? また犯人の性格描写が始めと終わりで変わってしまうという(赤川次郎のかつての得意技だった)アンフェアや。 ネタバレになるので詳しくは書けないが芸のためには人を殺すこともいとわないほど厳しいと描写される人物(この事件は古典落語家の名跡争いが騒動の元になっている)が自分の芸を冗談のネタに使っていたという大矛盾が存在したりする(しかもそれが事件の元凶だ) また登場人物の一人の周辺にちょっとした異常が起こるという描写がある。 地の文でわざわざ触れておきながらその人物はそれについて何も説明をしようとしない、これは触れられたくないワケがあるのだな、隠すからには何がうしろ暗いことがあるのだな、と思うのが小説上の常識というものだろう。 もし作者が読者の裏をかこうと思うなら「ワケありではあるもの、実はうしろ暗いことではなかった」とすべきもので、「実はなんの意味もない、日常ありうるちょっとした事故でした」と落とすのはアンフェアのそしりを免れない。 たとえばの話、我々は待ち合わせに遅れていったり、客に出そうとしたコーヒーをこぼしたり、いつも閉まっているはずの扉を閉め忘れたてなことはよくある、意味ありげに見えても何の意味もない事件はいくらでも起こりうるのだ。 しかし小説にそれを適用することは出来ない、なぜなら作者は「選択」をおこなっているからだ。 小説に登場する事物にはすべてなにを書きなにを書かないのかという作者のフィルターがかかっている、書かれたことによって意味が生じるのだ、制約のある字数、枚数を使って描写したことが、意味のないことでしたというのはレッドヘリングでは許されない行為である。 総体としてトリックのために人を将棋の駒のように動かし、動機は弱いという、よくある(出来のよくない)本格ミステリーとしかいいようはない。 貴志祐介 「黒い家」で完成度の高いサスペンスを描いた作家が今さらのように密室殺人に挑むというから期待して読みました。 密室殺人というのはもちろん矛と盾の関係なのであって、まずどうやっても犯人がその部屋に出入りできた筈はありませんと読者に証明してみせ、次に実はこうやって犯行に及んだのですと謎解きをせねばならないわけです。 最初の証明が怪しかったり穴だらけだったりすれば、謎解きが意味を失うのは当然であり、それが完璧であれば謎解きが苦しくなるのは言うまでもありません(というか、完璧なら小説が成りたちません) この作者はきわめてきまじめな作風であるらしく、今回防犯防盗技術について詳細に調査、研究した気配があります。 その資料のこなれが悪く、ナマな形で小説に出てくるあたりいまひとつ小説としてどうかと思う点もないではありませんが、密室の抜け道を一つ一つ理詰めで消していくあたりは見事です。 ま、要するにそこが完璧であったが故に、メイントリックが苦しいものになってしまったわけで、ミステリーの、特に密室ものなど機械トリックの読後感である「なるほど、そういう手があったか!」とうなる醍醐味はありません。 ・・というか・・そりゃムリなんじゃないの?と思わせるあたりで大失敗とも言えるでしょう。 そもそも小説中に機械装置を登場させ「完璧です」と登場人物に言わせておいて、謎解き編で「その弱点をつきました」と言われても読者は納得するわけにはいきません、たとえ作動原理を作者が丁寧説明していたとしてもです。 我々が普段使っている道具ならまだしも、日常的でないものの動作原理にメイントリックを仕掛けるというのは一種のアンフェアです。 また、叙述トリックがいくつかあるあたりにも作者の苦しい手の内を感じさせられます、叙述トリックというのは、あえて読者が間違った理解をするような描写を行って真相を隠し、あとで読み返してみると「ウソはついてないでしょう?」という逃げがうってあるという技法です。 これで「騙された快感」を読者に与える事が出来るのは相当な手練れであって、残念ながら貴志祐介にその腕はありません「インチキじゃん?これ」と思わせるのみです。 とはいえ、いくつもの欠点を持っているとはいえ、たとえば「七度狐」がいわゆる「雪の山荘」物から一歩も出てこなかったのと比べて、この作品の志は違うと言えるでしょう。 あえて「密室物」という古典的テーマを選びながら、「今」を舞台にしたあたらしいミステリーを書こうという意欲にあふれていることは確かです。 防犯コンサルタントの主人公と女弁護士さんのでこぼこコンビ具合もステレオタイプながらなかなか面白く、第一部(探偵編?)は一気に読ませます。 (第二部、犯人編?も読むと言うだけなら一気に読ませます、ちよっと納得しかねるだけ) 1600円の価値があるかどうかは微妙なところ、新しい密室ものがどう料理されているか気になるミステリーファンなら読んで損はないかもしれません。 京極夏彦 (※ 大沢オフィスとは大沢在昌が設立した小説家のマネジメント事務所、大沢在昌、宮部みゆき、京極夏彦が所属している) しかし、コロコロコミックをおもわせる、厚みが本の幅の半分近くにもなる新書版を手にすると、またお祭りが始まるのだと思って楽しくなる。 同じ長くても最近の宮部みゆきのそれは私が勝手にスティーブン・キング症候群と呼んいる過剰な人物描写によるものあって、必要を通り越して長い。 これは私に言わせれば人間を細かく描写することが面白くなってしまったブンガク病である。行き着くところは高村薫がミステリーファンを振り捨ててあっという間に達してしまった境地であり、前へ前へと進んでいくダイナミズムを失ったエンターティメントではない何物か、少なくとも私には無用の何かに化してしまうわけだ(こわいこわい) くらべれば京極堂はおなじ長くてもその中身はケレンに満ちており、ブンガクなんぞに逃げる気配もない・・いままでは・・ということで期待に満ちあふれて読み始めたのだがこれはどうだ。 関口巽が独白を始めるのである(※ 関口巽は京極堂シリーズの狂言回しであり、事件の語り手でもある売れない小説家である)自分の精神がいかに病んでいて、自分がいかに役立たずか、自分がいかに生活力がないか等を延々と手を変え品を変えて語り続けるのだ、その枚数ざっと140枚(今数えた)たしかに京極堂シリーズをこの陰摩羅鬼から始める読者はほとんどいないかもしれない、とはいえ続編でもなんでもない一個の小説でこれはアリなのか? この間ストーリーが動いていないのである、私はハレの日に参集している参拝者である、メッカに向かう信徒のように、炎天下の幕張メッセ前に何時間も並ぶオタクのように、日本シリーズの切符売り場に3日3晩泊まり込む野球ファンのように、この難行苦行も耐える、けれど新参者はあきれて本を閉じるのではないか? やっと終わったとみるや、今度は木場修太郎(一匹狼の刑事、いつものメンツの一人だ)が出てきて事件の背景について長々と語り始める、、これがまた長い。 なぜこんな構造なのかを説明する前に、ざっとあらすじを紹介しておいたほうがいいだろう。 白樺湖畔の洋館「鳥の城」で元華族の当主が5度目の婚礼を行う、翌朝新婦は死体で発見されるのだが、婚礼の翌朝に新婦が殺されるのは5度目なのである。 過去20年の間に行われた4度の婚礼でも新婦が殺されており、今回は警察が威信にかけても犯行を阻止しようと張っていたにもかかわらず、同じように新婦は殺されてしまうのだ。 ミステリーの成り立ちからいって、犯人はご当主以外ありえないわけだが、この当主が殺人など犯す人間でないということがこれはもうありとあらゆる手をつくして語られる、ではその真相は?というのが今回のテーマである。 今回の事件はは婚礼の晩とその翌々日、わずか3日の間に起こっっている、さらには開巻冒頭いきなり関口が犯人を指摘し、その真相にも思い至ったと独白してから、回想が始まるという形式になっているので、最初から事態がダイナミックに動いていかないことは定まっているのだ。 これで1500枚は重たい。 話が関係者の内省で埋め尽くされるのもむべなしと言えるだろう。 解決編のペダントリーに充ち満ちた京極堂の憑き物落としはいつに変わらない圧巻ではある、あるのだが今回は相当の京極堂信者でないことには耐えられない鈍重さであると言うしかない。 テクニックもセンスも一級品、ましてや巨匠大友が9年(ホントですか)の歳月をかけて作った超大作である。 そこに集められた才能、つぎ込まれた技術、費やされた時間と予算、それらがいかんなく発揮されたこの映画は超特級の完成度をもって我々の眼前に迫る・・・・映像だけは。 そしてこの、どうしようもない箸にも棒にもかからない、アホらしいと言うにもほどがあるお話はなんなんだろうか? 「絵」の完成度のために費やされた才能や予算、あるいは時間の1%すらもシナリオにはふり向けられなかったとしか思えない。 その絵のすばらしさとお話のひどさ、ナイヤガラ瀑布のごとき落差には目がくらんでしまう程である(っていうかほんとにクラクラしました、上映中) 自分とこの兵器の優秀さをデモンストレーションするためだって、一介の私企業が英国に戦争しかけるってそりゃムチャでしょ、それって首謀者はテロリストとして処罰され企業はお取りつぶしになるだけでしょ。 むしろ驚異の新動力「スチームボール」で世界征服、と言ってくれたほうがすっきりする。 もっともその「スチームボール」もどうやらただの高圧蒸気らしくって、しかも3つしかなくて、それがいかに高圧(どんな高圧?)だって世界征服が出来るわけもないのだが。(ついでに言うなら、一国を相手に戦争をおっぱじめるにしてもどこに勝算があるのかわからない) これをこそ荒唐無稽と言うべきで、この設定が映画の根幹にあるかぎりどうにも映画とまともに向き合う気持ちになれない。 昔からよく言われる言葉だが まあ、きっといなかったんだろうな。 今年は押井、大友、宮崎と三大巨匠が次々とアニメーションを発表したわけだが、どれにも同じ香りが漂っている、つまり巨匠の暴走。 誰の意見もきかず自分の好きなように映画を作る、というのは監督の夢ではあろうが けっしていいことばかりではないという実例がここにある。 映画が個人の才能に完全に寄りかかると、その個人の長所は際だつがまた短所も際だってしまうわけだ。 作品が大作になればなるほど、そのでっこみひっこみの差が大きくなり、やがて映画そのものが破綻する。 基本的にアニメの巨匠は、映像に(のみ?)才能があり、その興味が向いている。 自分の頭にある映像を形にしたい(それが出来れば他になにもいらない?)という欲求にブレーキをかけうる強権のプロデューサーが必要だろう。 今世紀(始まったばかりですが)最大の破綻した映画にくらくらしたい人は見てみるとよろしい、そのつもりで見れば損はしない(かもしれない) 神秘の短剣 琥珀の望遠鏡 小説 フィリップ・ブルマン どんな質問にも答えを返す「真理計」を持つ少女と、どんなものでも切れる「神秘の短剣」をもつ少年が、言葉を話すクマを友とし、魔女と手を組み、世界の果て・・はおろか、パラレルワールドを旅し・・・どころか、死者の国で死者を解放し、さらには神と天使に戦いをいどみやがて人間のための楽園を手に入れるという、壮大華麗なファンタジー小説、別名「ライラの冒険シリーズ」 総計3000枚を軽くオーバーするこの小説をファンタジーにアレルギーのあるこの私が一気に読み通したのだから充分に面白いといえる。 とはいえ、私がこの小説の持つ(であろう)面白さを充分に堪能したのか、と言うとそうではない気がする。 変化に富み、スピード感のあるストーリー展開に思わず引き込まれてしまうが、それはなんというかジェットコースターの楽しみ方であって、本来この小説はいわば川くだり、つまりまわりの景色をも一緒に楽しむものなのだと思うからだ。 まわりの景色というのは舞台装置であり世界感であるわけだが、私には、そしておそらく多くの日本人にはこれが理解できていないと思う。 つまりあたりまえのように信仰をもち、神と悪魔、あるいは天使、あるいは罪と罰というものに慣れ親しみ(?)確たるイメージを持っていないとこの物語の真のメッセージは伝わらないのではないだろうか。 そもそも神も天使も人間を抑圧する支配者であって、そこからの脱却を図らねば人間に真の安息は訪れないというのはキリスト教圏の読者にとってはショッキングな展開なはずだ。 いったいにみすぼらしい、あるいはヘタレな、あるいは悪意ある天使ってアリなのか? このへんの事情が私にはまるで理解できない、普通の冒険談としてこれを読み、面白いなぞと述べている私の感想に何か意味があるのだろうか? 傑作である。 自分が参加した映画であるから良いことを言っている・・わけではない・・と思う。 ウルトラマンというものにはどうしてもある種のご都合主義というものがつきまとう。 まあ、ウルトラマンにかぎらず、ヒーロー物はみなそうなのだが、なぜ彼は敵と戦うのかとか、なぜ敵と主人公が出会うのか、というあたりがあいまいなのだ。 強大な力を手にしたとしても何もしない人もあるだろうし、悪事に手を染める奴だっているだろう。 なぜ彼は戦いの道を選ぶのか? それは彼がヒーローだから。 としか言いようのないあやういバランスの上に成り立っていたりする。 この映画ではそうではない、なぜ彼が敵と出会うか、なぜ戦うのか、を可能な限り丁寧に説明している。 また特撮が良い、ますます手前ミソに聞こえるだろうが、ミニチュア特撮のある頂点を示し得ていると思う。 怪獣映画というものの宿命として怪獣が出てきた途端に、彼らはミニチュアワールドという別世界に行ってしまう。 オフィス街になぜかあるビルの向こうがわの広場 海を隔てたコンビナート。 どことも知れぬ荒れ地 そこは現実の、人が暮らしている場所とは切り離された空間である。 そこには人の気配がない・・・というより、それはいかに良くできていようと「良くできたミニチュアセット」という以上のなにものでもない。 怪獣映画ファンというのはその良くできたミニチュア、つまりこの世によく似ているがこの世のものでない別世界を楽しむ人々の意であったのだ。 よく言えば様式美(黒子が見えたと騒いではいけない)であり。 悪く言えばお約束(「特撮は薄目をあけてみなくてはいけない」by岡田斗司夫)というやつである。 ところが! この映画はそうではない、驚くだろうがそうではないのだ、まあちょっとそんなところもないではないけど(あはは)そうじゃないところが多い。 つまり、良くできたミニチュアを楽しむのではなく当然の舞台装置としてミニチュアが機能しているのだ。 怪獣が出現し、あるいはウルトラマンが巨大化した途端に、あっちの世界に行ってしまって、さよ~なら~、ということがなく彼らは我々のいるこの世界に留まる。これは凄いことだ。 結果、ウルトラマンと怪獣が大きく見える。 誤解をおそれず言うなら、本当に(薄目を開けたり、脳内補完せずに)ウルトラマンと怪獣が大きく見えた映画というのは私が怪獣映画を見始めて以来初めてかもしれぬ。 見て損はない、大人でさえも。 やはり、と言うべきかイメージの突出とドラマの破綻は「千と千尋」より更に進行し、もはや映画としての体をなしていないというところまで来てしまった。 なぜこうした事が起こってしまうのか? と言う事は今更私が言うまでもなく20年近く前に押井守が言っている 「宮崎駿の刺激的なストーリーボードはドラマをスポイルする」と。 つまり、原作にインスパイアされた宮崎の頭の中には刺激的なイメージが次から次へと雲のようにわき上がってくるのだろう。 それを絵にした時、インスピレーションが天才の手を通して絵となりこの世に生まれ出た時、それは何ものにも押しとどめられない輝きを持って映画を支配してしまうのだ。 そしてストーリーはそのイメージをつないでいく接着剤の役目になりさがる、つまりドラマが絵に隷属してしまうのだ。 イメージオリエンティッドな映画、それが宮崎アニメである。 もっともこういった映画はけっこうあるもので「ハウル」が別段珍しいと言うわけでもない、しかしこの映画においてはついにそれがある一線を越えてしまったとしか言いようはない。 あまりといえば説明不足なシチュエーション、あまりといえば支離滅裂なストーリー展開、なっとくできない人物造形。 「千と千尋」の時に私はこの映画に騙されてはいけない、絵でごまかされてはいけない、ジブリのブランドに目がくらんではいけない、この映画ははげしく破綻しているのだ、と世界の中心で叫んでみたのだが一顧だにされなかった、しかしさすがにこんどは気が付く一般市民も多いのではないだろうか。 つっこみどころは多いのだが、ここではとりあえず一ヶ所だけ言あげしておこう。 「ハウルとソフィーの心の交流って描かれていました?」と。 これは「千尋とハクの心の交流って描かれていました?」って言うのに通じる。 (まあ、千尋はハクにおにぎりもらっていましたけどね) 更に言うなら「アシタカとサンの間に何かありました?」ってことにもなるし。 はるか昔のことを言うならアスベルって何のために出てきたのでしょうか?。 ここまでくると恋愛描写下手と言うよりは、実は宮崎は恋愛なんてものに興味はなく、映画としてのバランス上単にカップルを登場させているだけじゃないのかと思われる。 映像博覧会をやりたいならそれでも構わない、でもその映画がそれ以上の何かであるフリなどはしないで欲しい (同じように映像オリエンティッドで破綻した映画「イノセンス」を私がはげしく推すのは、それが他の何かであるフリをしていないからだ) 監督自身に恋愛映画を作るつもりがないのだったらこの映画をハウルとソフィーの恋愛映画であるかのような体裁を取るのはやめて欲しい。 (同様にハクと千尋の間に何ごとかあったようなフリはしないで欲しい、千尋は成長しました、なんて言わないで欲しい)と思う。 中身がないのに、表面上はそれらしくとりつくろって何ごとか描いたようなフリをする映画を私は好きではない。 それは観客に対してとても不誠実なことのように思われるのだ。 奥田 英朗 伊良部総合病院の神経科ドクター伊良部一郎シリーズ(?)の第2弾。 およそいいことは言わないこのScriptSheet珍しく誉めているのが前作「インザプール」だ(詳しくは2003年度を読んでいただきたい) それは「デブでマザコンでナルシストで自信過剰で、患者の尻馬に乗って騒ぎまくる」主人公のスラップスティックな活躍が一種爽快であるためで、これを面白い、と言うことに関してはなにもためらいはない。 とはいえしかしこれは「名作である」と言うにはためらいのある代物であり、つまるところ良くできたブラックジョークであってそれ以上のものではない、という印象だった。 しかし!なんとこの「ブランコ」は直木賞なのだという。 え~~~~~~~~~~~~~~と思って読んでみました。 なるほど。 前作の悪ノリはそのままながら、伊良部先生を訪れる患者の描写がぐっと深くなったわけだ。 前作ではカリカチュアでしかなかった登場人物は、血の通った人間になり、孤独、不安、人間不信、猜疑心などを抱えて苦吟しているわけだ。 トリックスター伊良部一郎がそれらの悩みを向かうところ敵なしといった勢いで破壊していく構造は同じながら、人がこの世を生きていくかぎり避けては通れない悲しみをキチンと描いている分小説の格があがったわけだ。 ・・・って、この意地悪っぽい書き方でわかるかと思うのだけど、私はこの方針転換はあまり気に入っていない。 孤独な魂の叫びとか、人生の応援歌とか、そんなお話がキライなのだ。 よく言われることだが、泣かせるより笑わせるほうが難しい。 深刻ぶった小説はこの世にあふれているが、軽やかに飛翔する小説はめったにない。 私は読者を風に乗せてどこかに連れていってくれる小説が読みたいわけなのだ。 奥田英朗はことによってそんな小説を書いてくれる希有な小説家の一人ではないかと思っていただけに、この路線変更はちょっと残念である。 ま、残念なのも気に入らないのも私の好みの問題でしかなく、それなりに(って直木賞ですから)面白くよくできた小説ではある、読んでソンはない(インザプールから読んだがよろしい) 法月綸太郎 本格推理小説はトリックを重視するあまりに人あるいは人の死、または死体そのものを将棋の駒のように扱ってしまう傾向にある。 若手有望株でありながら、その非人道的な手法に疑問を抱き。作家みずから悩み、本人の名を冠した探偵が悩み、やがて本格推理の発表をやめてしまったノリりんこと法月綸太郎数年ぶりの新作がこれだ。 この休筆期間中に本人の中でなにかしら昇華され、結果としてより高度な小説が生まれたのではないだろうか?と思った期待はあっさりと裏切られ、驚くほど王道な本格ミステリーに戻ってしまっていた。 何の罪もない無辜な人がトリックのために殺され、その首がトリックのために切断されてあっちこっちに移動するといった展開はもはやあきらめたのか開きなおったのか。 そもそも人や物をあるいはタイムテーブルをこねくりまわして、理屈では可能ながらとうてい現実的ではないトリックを構成する手法は今あらためてノリりんがやらねばならないことなのか? まるで「トリック命、ウリはそれしかありません」といった素人の懸賞小説という感じだ、しかもこれは法月綸太郎の名があればこそ出版されるが、一般の投稿であれば下読みでさえ通るかどうか疑問な出来でしかない。 思うに人はミステリを読むからといって、詳細に人間関係のメモをとったり、タイムスケジュールを表にしてみたりはしない。 職場に向かう電車の中で、昼飯を食いながら、トイレで、普通に他のジャンルの小説を読むように読んでいってしまうのが普通だと思う。 したがって短時間のうちに、こみ入った事情を語られても頭の中で整理しきれない。 * * * 余談だが坂口安吾は自分の「不連続殺人事件」では読者が絶対に犯人を見抜くことは出来ないと言っている。 そりゃどんなんやねん、と思って読んでビックリした、登場人物が山のように出てきて、それがまたみなひとクセもふたクセもあり、利害、愛憎関係が複雑にからみあっていて、とうていその関係を「覚えきれない」 おそらく作者は何ヶ月もかけて詳細な人物相関図を書き、設定書をつくり、タイムテーブルを作ってこの小説を書き上げたに違いない。 これを普通のスピードで読み下したのでは理解できないのは当然である。 読者も作者と同様の手間をかける必要があるわけだがそんなことまでして小説を読む奴は(めったに)いない。 犯人を見抜くことが不可能なのはあたりまえなのである。 * * * この「生首」はそれと比べればはるかにおとなしいものだが、容易に了解可能できない事情の中にトリックが隠されているという構造は同じだ。 結局タネあかしをされても「なるほどそうだったのか!」という爽快感がない。 「へ~そうだったっけ?」というのが関の山だ。 でもね、それじゃ本格を読む意味がないんですけど~。 最近の若いもんが、ひょんなことから若いもんにはとうていウケそうにない活動を強いられ、しかし続けて行くうちに努力して何かを勝ち取ること、あるいな仲間と手をくんで目標に向かって進むことの重要さに気づいていく。というお話はたとえばスポ根ドラマの一典型としてあるわけだ。 その代表的傑作と言えるのが周防正行の「シコふんじゃった」であり、この映画がそれをベースに企画されていることはあきらかである。 相撲部に在籍8年、だれよりも相撲を愛し、真摯に稽古しているにもかかわらず一回も公式戦で勝っていない竹中直人の青木先輩に対し だれよりもジャズを愛し、蘊蓄は人一倍あるくせに演奏はまるでダメな小澤先生にやはり竹中直人を配するあたり監督にはこれを隠すつもりはないらしい。 パクりパクられは世の常でありお手本があったということ自体でこの映画がダメだというわけでは全然ない、しかし「シコふんじゃった」が間然するところのない傑作であるのに対し、この映画はあちこちにツメの甘いところがある。 鑑賞中なんどとなく「おいおいそれはないだろ?」と現実に引き戻される場面があり、映画に没入することが出来なかった。 そもそも「最近の若いもんが、ひょんなことから若いもんにはとうていウケそうにない活動を強いられ」る部分は重要であり、ここをはずすと映画が成り立たないのだが、これがそもそも納得できない。 夏の野球大会の応援でいそがしい吹奏楽部が食中毒で全滅、主人公たちは夏休みの補習からのがれるために代役を買って出るのだが・・・ 主人公とその一味は、全てのことにやる気のない無気力高校生として描かれている。 そしてこの補習は授業中に写真を撮ろうと、化粧をしようと、お菓子を食ってようととがめられることのないきわめてヌルいものなのだ。 いかにそれがかったるかろうと座ってさえいれば終わる補習に対し、まがりなりにも練習するフリをせねばならない吹奏楽をわざわざ選択する理屈はない。 吹奏楽部の唯一の生き残り(!)である男子生徒も、やる気もなければ演奏経験もない彼女らを代役に立てるくらいなら、まだしもどちらかを持ち合わせている生徒を集める努力をすべきと思うがその描写がない。 ブラスバンドを組むに足る人数が集まらなかったといって彼は急遽ブラスバンドをやめ、ビッグバンドのジャズをやることに決定するのだがこれも唐突。 そもそも彼が必死になって代役をかき集めているのは野球部の先輩に、最後の野球大会に演奏なしの応援など許さん。と脅されているせいであるわけで。まずは更にリクルートすべきだし、あるいは少人数でも格好がつくような編成を考えるべき、本来の目的を考えればまずブラスバンドであらねばならない筈なのだ。 つまるところ、田舎の女子高生がジャズをするという企画が先行しこまかな不整合には目をつぶったという印象をぬぐえない。 途中仲間の多くがドロップアウトしてしまい、ジャズに取り付かれた主人公ほか数人だけが地道に練習を続けているわけだが。 彼女らがスーパーマーケットの人寄せに演奏をしている(そこまで腕を上げたわけだ)のを偶然聞いた先の仲間が唐突にジャズに目覚め、楽器を買ってきて参加するのだが、あんたたちは素人同然のレベルのうちにケツを割ってるでしょ?一緒に演奏できるわけないでしょ? あるいは、町中で偶然出あったジャズに詳しそうな人を自宅まで尾行していくシーンがある、何がしたいのかわからない。 まあ教えを請おうとしているより他には考えられないのでそうなのかなあ、と思うのみだが、その人はべつだん大したことを言ったわけではないので、むしろ奇矯に見える。 彼女らの行動は彼が名演奏家であると確信し、彼に教えを請わずにはいられないと思いこんだ者のそれなのに、シナリオが弱すぎるのだ。 道に迷えるものが、市井の達人(見た目はだだの爺さんだが、実は一芸に秀でていたりする)に偶然出会うといったフォーマットがある、このシーンはむりやりそのフォーマットにお話をあてはめていると感ずる。 あるいは最後の演奏コンクールに出場する際、揃いの真っ赤な衣装を作っておきながら忘れていってしまい冴えない学生服のまま演奏するところ。 もちろん、冴えない学生服を着た田舎者の女子高生が観客の心を魅了するジャズを演奏してみせるというあたりがミソなので、ここはどうあっても揃いのかっこいい衣装を着ていては困るのだが、見る方としては「お大事の衣装そこで忘れるわけないでしょ?」としか思えない。 つまるところこれらを総合的に勘案するに「感動的なお話の枠組み」というものがあらかじめ存在し、その中に形も不揃いなら連続性にも問題のある、すき間だらけのエピソードをムリヤリに詰め込んだように思われるのだ。 本来映画とは、というか物語というのは、枠組みで出来ているのではない。 それは人の心の自然な動き、行動、それらが生み出す細かいエピソードの積み重ねの末に物語が姿をあらわすのであり。 その過程において制作者たちの人間性の理解が充分に正しければ、ことによって感動的なドラマが生まれる(かもしれない)というものだ。 物語の必然性とは別に「こうすれば感動するはずだ」というチェックポイントをあらかじめ設定して、話の不整合にもかかわらず強引に話を進めてもいびつな映画だ出来上がるだけだと思う。 ちょっと普通にシナリオが読める人間なら、この映画のあちこちがほころんでいるのはわかるのではないか? 修正するのはたいした手間とは思われない、ここまで大枠が出来ているならちょっとシナリオを工夫するだけで済むことだ。 映画を1年に何本もの映画を観る側、一回こっきり1時間半ほどで見てしまう側がこれだけ気になる不整合をなぜ、構想何年という監督やプロデューサーが気が付かないのかわからない。 ・・というのはレトリックで実のところ監督やプロデューサーは超えなければならない無数のハードルにすっかり気を取られ、それどころではなかったのではないか?という想像が容易になされる。 実際問題として、芝居の出来る個性豊かな女子高生役の女優を十数人集め、かつ彼女らにジャズを仕込む(それもただ演奏するだけではなく、人前で演奏して感動を与えうるというレベルにまで)というあたりで気が遠くなったであろうことは想像に難くない。 出来てしまえば細かなところが気になる映画だが、ゼロからそこまで練り上げた段階で 力尽きたのかもしれない、もちろん想像されるだけで事実はわからない、事実だったとして何のいいわけにもならないのは言うまでもない。 おいおいおい、面白いじゃないか、びっくりしたぞ。 ゴジラ、まるで気に留めてなかったのだが妙に評判がいいので観にいった・・とはいえまるで期待していなかったのだが、驚く出来だった。 まあ、怪獣を12体出すってそもそも無理がある、その他にも海底軍艦、X星人、妖星ゴラス、小美人と要素満載でまともにお話を語っていく暇はない、当然予定調和、お約束の連続であり思った通りに話は進んで行くのだがそのスピードが早い、いかなる想像力ををも超えてはるかに早いのだ。 高い襟に細いサングラス、怪しさ100%のX星人ルックで出てきたのは伊武雅刀、うさんくささ丸出しなのだが、見たとおりにX星人は悪いやつなのだろうか?などという引っ張りは一切しないでいきなり悪。 宝田明が輝くばかりの笑顔と派手な衣装で出てきて国連事務総長だと言う、そして世界に向かってX星人と地球の平和共存を説く、そんなうさんくさい奴の話だれがまともに受け取ると思うかよ・・と思う間もなく、いきなり悪。 つねにアクセル全開、すれっからしの映画ファンの意地悪い見方などはるかに置き去りにする展開の早さはもはや快感である。 ま、スピードが速い分やることは多くなる、時間と予算が変わらなければ細かい部分の出来が悪くなるのは当然。 たとえば細かいことながら、爆発炎上するミニチュア戦車の砲塔部分だけがはずれて飛んで行く、プラモ丸だし。 これって手をかけずにプラモ戦車を爆破した典型の映像だったりするわけで、こんな絵大きなスクリーンで見せていいの?とも思うが、それどことじゃなかったんでしょうね。 実のところウルトラマンスタッフはゴジラを歯牙にもかけていなかった。 認知度と上映スクリーンの多さで観客動員数がはるかに及ばないことは承知だが映画の出来ではこっちが上だ・・と。 私もそれは疑っていなかったのだが、これはいい勝負かもしれぬ。 もちろん映画のティストはまるで違う、ウルトラマンが寿司職人の握った江戸前寿司一人前だとすると、ゴジラはアジアン屋台村と言った代物だ。 一品一品の味はたいしたものじゃないが、シシカバブの隣にたこ焼きがありトムヤンクンの屋台が出ていると思えばゴーヤがあり、小竜包とドネルケバブの間にピロシキがあるといった具合、変化があって飽きないし、なにより楽しい。 食事をして楽しければ他に何がいるだろう? これはなにより、制作者たちの姿勢が表に出ていると言える、観にきていただいたからには何が何でも楽しんで帰っていただきたい、というサービス精神がスクリーンから強烈に伝わってくるのだ。 つまり、作る人の目がちゃんと観客のほうを向いている。 当たり前なことながら実はそうなっていない映画は多い、実名を挙げないが2004年に公開された巨匠達のアニメがそうだ(言ったも同然) 彼らの興味は、自分の頭の中のイメージをいかにフィルムに定着させるか。ということにしかないのではないか? それは焼き色が思ったとおりでないと窯から出した途端に湯飲みを叩き割る陶芸家と似たようなものだ。湯飲みがもともと実用品であるという意識などもはや微塵もなく、もちろんそれで茶を飲む人のことなんて見ていない。 この映画はそうではない、娯楽に徹し、いかにお客を喜ばせようかと腐心する制作者の顔が見える。 それが嬉しくかつ楽しい。強くお勧めする。 ところで音楽がどこかで聞いたような、シンセ黎明期によく聞いたようなオルガンっぽい安い音、そしてケロケロケロという聞いたようなリズム。 これってELP(エマーソン・レイク&パーマー)の音にそっくりだ、というかこれがもし「そうじゃない」となったらそれはマズイでしょ、という出来だったのでタイトルロールを注視してしまいましたが、お~、やっぱり御大キース・エマーソン! はげしくびっくり。 このサントラ買おうかな、ところで往年のファンとしては嬉しいかぎりなんだけど、ゴジラファンのみなさん。伊福部万歳なみなさんはこれってどうなの? |