SCRIPT SHEET 2002

映画 小説・ノンフィクション・コミック・ゲーム その他
とっとこハム太郎 ハムハムランド大冒険    
  エンプティチェアー  
ユリョン ー幽霊ー    
パールハーバー    
  模倣犯  
ロード・オブ・ザ・リング    
  上と外  
アメリカン・サイコ    
処刑人    
10 ブラックホーク・ダウン    
11 クレヨンしんちゃん モーレツ!大人帝国の逆襲    
12 ミスター・ルーキー    
13 アラクニド    
14 スパイダーマン    
15   永遠の森 博物館惑星  
16 ワンス・アンド・フォーエバー    
17   MAZE  
18   ジェットコースターにもほどがある  
19     遊園地特集
20 オクトパス
スターウォーズ クローンの攻撃
   
21 模倣犯    
22
バイオハザード
SPACE STATION
   
23   ロシア幽霊軍艦事件  
24   インザプール  
25 WXIII 機動警察パトレイバー    
26 パニック・ルーム    
27   ドリームバスター  
15   過ぎゆく風はみどり色
幻獣遁走曲
猫丸先輩の推
  

 

とっとこハム太郎 ハムハムランド大冒険

 <ゴジラをマリオン−日劇東宝−で改めて観て来ました(自腹です)、でそのついでなのですが・・・>

 ハム太郎は観たことないし、ミニモニはおろかモー娘さえロクに聞いたことがない私ですが出崎の名前だけは信用していたわけです、なにしろあのガンバの出崎というわけで「ガンバの冒険」といや私のTVアニメベストテンを挙げればぜったい上位にランクインする傑作だからです
 (原作より出来がいい、これはなかなかに大したものです、面白い原作からそこそこ面白いアニメが出来るのが普通で、一方つまんない原作から面白いアニメが出来ることはよくあり、でもかなり面白い原作からもっと面白いアニメが出来るのはマレと言っていいでしょう)
 だから何を知らなくともきっと観どころの一つや二つは作ってくれるだろうと思っていたのですが・・観てビックリ、観るべきところが何もない。

 ストーリー全体の転結も変だし、部分的な平仄もあってないし、「これのどこを観ろと?」という作品でした、ハム太郎が動いていればそれでいい完全な幼児以外これを腹を立てずに観ることが出来る人間がいるとは思えません、映画として必要なものが抜けおちています、どんな映画にも最低限感じられる自分の映画を面白くしようとした努力の跡や、その手触りを感じとれません、いったい何があったのですか?

 
エンプティーチェアー  −小説−


 回をおってつまんなくなっていくのが普通のシリーズものでジェフリー・ディーヴァー頑張っています。
 今回は腹心の部下(にして恋人)のアメリア・サックスが犯罪をおかしてリンカーン・ライムの手から逃げ出し、ライムは科学捜査と推理力の全てを駆使してサックスを追うと言う話です、ネタで勝負といったところですがまず成功といってよいでしょう。

 「ボーン・コレクター」で最後に1回どんでん返しをやり「コフィン・ダンサー」では2回やってみせ、ならばこんどは3回とおもいきや気前よく4回やって見せてくれたサービス精神も好感度大です、読む価値アリ、でも前2作読んでない人は順に読まなきゃダメですが。

 

ユリョン−幽霊−

<ビデオ鑑賞です ビデオ販売のみと思っていましたが劇場公開してたのね>


 韓国製潜水艦映画、かわぐちかいじの「沈黙の艦隊」を恥も外聞もなくもろパクリした作品で、お話のバックボーンはおろか個別の潜水艦戦の戦術までいただきでやっています、日米に対する「怨」をネタに作られた映画が日本のマンガの剽窃で出来ていてはまずいのではないでしょうか?

 ということを抜きにして観れば、緊張感もあり役者もお芝居も良く、90分なりを面白く観ることの出来る作品ではあります。
 
 それにしても潜水艦のセットを1パイ(セットは1杯2杯と数えます)作っておき、あとはシナリオで見せるというのはアリだなあと思いました、舞台が限られていても狭くても貧乏臭く見えない。
 あと特撮がもう少々頑張ればけっこう贅沢に見えたのに(冒頭ドックに入った原潜の絵で船尾にピントが合っているとセイルにピントが来ていないのには萎えました、昭和30年代の特撮じゃないんだから)


 

パールハーバー

<ごめんなさいビデオで観ました、どうしても1800円の価値があるようには思えなくて>


 長いラブストーリーから一転して大スペクタクルのクライマックスに致る、という構造は何かに似ているな〜なんてとぼけるまでもなくもちろんこれは「タイタニック」

 「シナリオ分析プログラム」というものさえ存在し、監督やシナリオライターに始めて何分までに登場人物の紹介をせよの、何分で最初の事件を起こせのということまで口を出してくるハリウッドメジャーであれば「タイタニック」の大ヒットを充分に分析、研究してこの映画を企画したのではないだろうか?

 にもかかわらずあちらは記録的大成功、これは大失敗(重役更迭だったかな)なにが違うと言えば監督が違うとしかいいようはない。

 「タイタニック」は船が沈没を始めたところで大災害スペクタクル映画になりかねなかった(「タワーリングインフェルノ」とか「大地震」とか)ジェームス・キャメロンの資質(こけおどかしな娯楽映画好き)からしてもそうなる可能性は大だった、ところがキャメロンは奇跡的に踏ん張って、それだけで映画が成立しそうなデザスターに目を奪われず恋人達の動向に焦点を合わせ続けた、これが映画の求心力を増し集客に貢献したのだと私は思う、恋人達をそっちのけにして船の沈没を描写すれば一部のマニアは大喜びしたろうが記録的大ヒットには結びつかなかったろう。

 この映画はどうか? というとトラトラトラになったとたん大はしゃぎでパニック描写を始めてしまった、偏った見方をする私(なるほどこれがCG爆煙、これがCGアクター、これはリアルサイズプロップね、とか)がスゲーとか言ってるようじゃ実はいけないのではあるまいかね?
 (タイタニックでは「もうすこし船の沈没を見せてくれー」という欲求不満で一杯だった、ここのところの差は実は大きい)

 映画としてもかなり底の浅い出来で、だいたい日本って重要なマーケットじゃないかと思うのだけど山本五十六が野っ原でのぼり旗立てて軍議してるってなに? 武田信玄じゃないんだからさ、日本のパイロットが日系ハワイ人に「逃げろ!」って叫んでるカットを1つ日本向けに挿入したってエクスキューズにもなりゃしませんて。


 

模倣犯 −宮部みゆき− 小説


 はげしく面白く3500枚を一気に読んでしまいました、長いけれど長さには意味があってムダがありません、高村薫がブンガクし始めて長くなっていったのと違って平易でエンターティメントに徹した長編ミステリです。

 面白いには面白いがいったいこのお話のどこが「模倣犯」なんだ? と思った方には衝撃のラストが待っています、楽しみに待つように、しかし書いてからタイトル何にしよ? ということで思いついたなら不思議でもなんでもありませんがこれは3年もかかった連載小説、3500枚書く前にこれを狙っていたのか! と思うと宮部みゆきの構想力に舌をまかざるを得ません。

 読み終わってしばらくたつとこれって実は警察がアホなんでお話が成立してんじゃねえの?という疑問が湧きますが(多分そうですが)読んでて気になるものでもなくさしたるキズではありません、推薦します。

 さてここで重要な注、今度これ映画化されます、しかし普通に過不足なく映画化出来る小説はせいぜい2〜300枚程度のもので、1ケタ違うこの小説がまともに映画化出来るとは思えません、映画が映画なりに面白くなる可能性はなしとも言えないので、出来る前からダメとは言えませんが「似ても似つかないもの」になるのだけは間違いありません、すくなくとも映画を観て小説の出来を判断するのは止めましょう。
 たとえば「ボーン・コレクター」は映画はゴミですが小説は傑作です。


 



ロード・オブ・ザ・リング −映画−



 指輪物語といえばファンタジーのルーツであるし、映画も出来が良いと聞けばつまりはガチガチのファンタジーってことだと思うし、ファンタジーにどうしてもなじめない私としてはどうしたものか悩んではいたのだけれど、まあ自身こういう商売でもあるし、見て損はないかなと思って観てきたのですが、まずは面白かった。

 とにもかくにも圧倒的な映像美、これだけでも1600円(ワーナーマイカルではwebからダウンロードした「優待券」をプリントアウトしていくと200円引きになる)の価値は充分にあり3時間は飽きさせない(でも途中で2回時計を見た)

 なによりデジタル以外ではこれは映像化出来まいと思われる絵ばかりなのにもかかわらずデジタルくささを感じさせない生っぽさが見事。

 実際大平原でのモンスターと人間(亜人間?)との大合戦や室内での接近戦ってのは、ハムナプトラ2でもスターウォーズ(ファントムメナス)でもやっているんだけどこれらはなんとなくそらぞらしくて、記号というか状況説明というか「一応そういう風に見えるから、そんなことがあったとしておきましょうね」という代物で、目に映るものを通り越して話の中に引き込まれる求心力とか、逆にスクリーンから飛び出してきて観客の心に踏み込んで来るような迫力とか、当然あるべき映画的興奮が微塵も感じられなかったのだけどこの映画はそうではない。

 ひょっとしてILMってたいしたことない?

 というような圧倒的な映像に引きずられて最後まで面白く観てしまうのだけど、観おわるとなんだかなあ、という部分の多い映画ではあります。

 とにもかくにも圧倒的に長い原作を刈り込む必要があった為に説明不足な部分が多数あり、時にそれが致命傷にまでなってしまっているわけなのです。

 たとえばビルボが指輪を入手したいきさつが説明されていないので、なぜゴラムがビルボの名前や土地の名前を知っていたのかわからない、だからなぜブラックライダーが現れるのかわからない。
 ビルボが何をしてきた男なのかの説明がないのでなぜ村を出ていくのかわからない・・・などはその典型。

 こういうくだりを観ているとこれって結局は原作読んだ人向けのもの? と思ってしまうのだけどもちろんそんなバカな話はないのであって(ここまでは原作を参考にしていただきたいとか、原作と食い違うここは映画ならではのエピソードであるので違っていて当然です、などと言うわけにはいかない)映画は映画世界内部で完結している必要があるのは言うまでもない。


 まあこれなどはちょっとした瑕瑾と言えるのだけれど、致命的なのはこの話全体が「旅の仲間」(タイトルだから仕方ないが実際には「Fellowship」は仲間意識/連帯感とでも言うべきものだろう)に全然なっていないことだ。

 本来これは出自も趣味も違う9人の仲間が辛い旅を続けていくうちに次第に仲間意識を持つに至るお話であるべきで、これを描かなくちゃ実はこの映画何も描いていないと言っていいのだけど、描けていない。

 あまりに時間がなさすぎて旅のディティールを描く暇が無かったため、結局烏合の衆がぎくしゃくした関係のままついには分裂していくようにしか見えない(だからアラゴルンが最後にフロドを追わずピピンとメリーの救出に向かうのが唐突に思える)

 つーかそれまでなんとか仲良くやってきたパーティがガラドリエルの陰謀で崩壊の道筋をたどったようにも見えるのはまずいでしょ、これって趣旨と正反対と思うんだけど。

 脚本家や監督は原作を読み込んでいるだけに原作をどこまで刈り込めるか、刈り込みすぎると初見の人間がどんな感想を抱くかが読めなくなってしまった結果ではないのだろうか。

 つまるところは盛り込み過ぎで、過程を描く暇がなかったってことで、でも華麗な映像美がそれをおぎなってあまりあるので、観てソンした気はしない・・ってこれどっかで言ったセリフだなあ、なんてもったいを付けるのをやめて単刀直入に言えばこれは「千と千尋」そっくりの構図なわけだ。

 あれよあれよという映像で観客を飽きさせず最後までひっぱれば成功といういわゆるジェットコースター感覚の映画はいわば使い捨ての映画で、「千と千尋」や「ロード・オブ・リング」にかかわった人達の才能は使い捨てにするはもったいない。

 それが結果として「観ている時は飽きないけど観おわるとなんだかなあ」というジェットコースタームービーと同じではまずいでしょう。

 とりあえず面白かったからいいやというのではかえってこの映画をおとしめると思うので言うけど、これはちょっとばかり失敗しちゃった映画だと私は思う。

 失敗の原因は原作の長さで映画に置き換えるには多分3部作でも追いつかないのだと思う、とすればやはりこれは企画の失敗としか言いようのないもので、根元的には解決不能な問題と言える、あとはそれらしい雰囲気を出しつつ最後まで飽きさせない絵作りで持たせるしかないのだけれど(それはいけていると思うのだけれど)それじゃ指輪物語を映画化した甲斐はない(だめじゃん)


追伸

 指輪物語のファンにとっては、ついにあの世界が映像化された!というだけで大満足という可能性はあります、指輪物語そのものに限らずファンタジーもの大好きな人間であればゲームやアニメでなくては映像化出来ないと思っていたあの世界観がついにリアルに再現された、というだけで嬉しいという可能性はあります。

 でも私はそうではありません(あえて言えばアンチファンタジー派です)だからこの映画には納得のいかない箇所が数多くあります、たとえば冥王サウロンって強大な魔力を持ってるって言うし、指輪も自らの意思を持ち持ち主の元へ帰ろうとしているのじゃよ、って言うのにそのサウロン様は自分の指輪の場所ひとつ探し出せないわけ? と思うわけです。
 ブラックライダーも目と鼻の先に指輪があるのに全然気が付かないし指輪の魔力ってそんなもんなの?

 まあ魔力たって魔法たって目に見えなきゃあることはわからないし、離れたところにあるものには手が出ないんだ、ということならそれでいいんだけどその割にサルマンは雪山越えをしているパーティを正確に遠方から探知/攻撃しているわけで、この世界観の中では人智を越えた探知能力と影響力ってのはアリなわけで、だったらもっと強大な魔力があるサウロンなら自分と呼び合うはずの指輪のありかくらいは探知できて当然と思うんだけどどうか?

 あと、ガンダルフはサルマンとサルマンの塔で念力合戦しているわけで念動力あるはずなんだけど、坑道のトロール戦で物理攻撃しかしないのはなぜか、とか。

 「中ボス戦に備えてマジックポイントを温存してるに決まっているでしょ!」とゲーマーなら言うだろう、いやほんとにそうとしか思えないんだけどフロドここで死にかけているんだからね、ミスリルなければ死んでるんだからね、温存してちゃまずいって。

 と思えばバルログ戦ではいきなりの大魔法戦でバルログぜんぜん相手にしないし。

 でもそれならと思うのは、1000匹くらいいたのにバルログを怖れて逃げ出すオークなんて実はまるで目じゃなかったんじゃないの?とか

 サルマン念力でぶん投げているんだから階段崩れて足止めくらったとき、仲間をブン投げるってのもアリじゃなかった? とか

 重箱をつつき始めるといくらでもつつける、いろいろあるんだけど魔法っていう概念が絶対的にヤバイのだと私は思うね。



 わかっている、こういう人間がファンタジー観たり読んだりしちゃいけない、でもね、ファンタジーだからって作品内のつじつまが合わなくていいってことはない、それがどんな理屈にそっていてもかまわないから合理的でなければいけない、そうしないとドラマがスポイルされる。

 高いところへ昇っていく、手がかりのない外壁にしがみつく、というサスペンスを作っておきながらいよいよという時になってコナンはラナを抱えて数十メートル(?)飛びおり全然平気、じゃあ今までのサスペンスって何だったの?ということになる。
 
 「映像の力で押し通してはいけない」これは押井守が宮崎駿に噛みついた一文だ、なぜなら「ドラマをスポイルするから」だと。

 魔法というのは合理的に説明するのが困難だ、だから制作者の恣意的運用に任されてしまうことが多い、魔法合戦が面白いとなれば魔法アリで、魔法を使うと話がややこしくなるときは魔法ナシで、という具合になりかねない。
 
 しかしこれは世界の成り立ちに深くかかわっている概念なのだ。

 たとえば、撃たれれば死ぬと思えばこそ撃たれまいとする、撃たれる前に撃とうとする、撃たれそうになった主人公に感情移入する、隠れれば見えないからこそ隠れようとする、露見しそうになれば緊張する、隠れているかもしれない敵に怯える。

 これがゲームや映画のサスペンスを支えているわけだ、撃たれても死ぬこともあれば死なないこともある、隠れていても見つかる場合もあれば見つからない場合もある、制作者の恣意的運用でどちらともなるとなれば、そんな映画やゲームにはつきあっていられない。

 ファンタジーに限ってあるときは魔法を使い、ある時は使わないという不整合に皆が無頓着なのは何故だろう、ファンタジーてのはそういうものさと開き直るのは「ファンタジーって結局こどもだましでしょ?」という見方を助長するだけだ、多くの人がそこをとやかく言わないのはファンタジーに対する深い理解があるせいではなく、正面切って論じるべき対象として捉えていないだけだ。

 まじめにとやかく言う私は貴重な人材なのだよ、狭くて深い穴を掘って同好の士だけで楽しむだけでいいならそれでも良いが、それはファンタジーにとって不幸な事ではないのだろうか。


 


 

上と外 −恩田陸− 小説




 恩田陸SS作家説というのを考えてみた。
 SSというのは主にゲームやアニメのファンがその作品のサイドストーリーを自分で書いたものであり、2次創作物とも呼ばれている。

 ハッピーエンドでおわった主人公達の1年後とか、戦ってばかりいる登場人物の休日とか、作品中では深く語られなかったエピソードの補完とか、そういった代物でwebでは一部で異様な盛り上がりを見せている分野である。

 こういったSSは簡単に誰でもそれなりのものが書け、それなりにウケがいい、まあ当然と言えば当然で、舞台設定、人物設定、状況説明、メインとなるストーリーはもう完成されていて、SSの作者はできあがった舞台の上にほんの付けたりをするだけで良いからだ、書く方ももちろん読む方もその作品の熱烈なファンであるのだから、ちょっとしたアイデア一つネタ一つで内輪ウケするお話を作るのは簡単と言える。

 しかしこれはもちろん小説ではない、小説を書くということは(アニメやゲームでも同じだが)無から有を生み出す作業だ、司馬遼太郎は「小説を書くということはマヨネーズを作るほどの厳密さも要求されない」と言っている、わかりにくいたとえだが要するにやり方が決まっているわけではない、自由にやっていいのだ、ということだろう、逆に言えば作者は自己責任においてどうともなりうる白い紙の上にたった一つのストーリーを選択し、唯一無二の主人公を構築しなければならないということだ。

 どうともしていいというのは頼れるものがないということでもあり、自由と引き替えの責任を負うということだ、それが創作というものだろう、「自分だったらこうする」ということから踏み出していないSSの作者はそれを果たしていない。

 そして恩田陸である、恩田陸をSSの作者と同列に論じてはいかにも不当だろうとは思う、しかしこの作者が創作の苦しみを全て一心に引き受け、よるべない創作の大海にこぎ出しているとはとうてい思えないのだ。

 そもそも「月の裏側」はジャック・フィニイの「盗まれた街」から「ライオンハート」はロバート・ネイサンの「ジェニーの肖像」から、「光の帝国」はゼナ・ヘンダースンの「ピープル」シリーズから、とインスパイアされた小説を自ら挙げているくらいだ、「上と外」は特に挙げられた名は無いがハガードの秘境物などがベースにあるのは間違いない。

 結局恩田陸の小説は何かに触発された「私ならこうする」というものなのだ、これはSS作家の基本姿勢そのものだ、それでも1本の長編小説を始めから終わりまで書きおろせば、ま・だ・し・も、「光の帝国」などは「書かれざる大長編」のエピソード集といったティストのものだ、半村良とか栗本薫なら全30巻くらいで書きそうな大伝奇ロマンの「さわり」だけをサッと書き流したもので肝心の本筋はなし、これってずるくないか、というかこれじゃSSそのものだ。

 「オリジナル無きSS」という新ジャンルを編み出したと言えなくもないが、実際には確たる1本の原作が存在しないだけで、過去に書かれた幾多もの小説、映画のイメージの上に築かれた漠然としたイメージを利用しているだけとも言える。


 で「上と外」はどうなのか、ということだ全部で千数百枚に達するこれは少なくともSSではない、しかし恐るべし恩田陸、この大長編にして読後感はそれまでとまるで変わらない(!)

 活動的で機転に富んだいかにも「ますっぐな」少年とすこしばかり生意気な少女が南米の密林にただ2人取り残されてサバイバル、というのは「じゃあどこで見たわけ?」 と問いつめられると困るのだけどどっかで見たようなシチュエーションで、迷い込んだ怪しい古代遺跡とそこで行われる怪しい儀式とくればなんだかな〜(「魔宮の伝説」?)というステレオタイプです、まあそれでも王道を行く面白さがあればいいのですが、さわりの作家としての限界かこの小説は長いだけで全体を通して読者をひっぱっていくダイナミズムがありません。

 サバイバルはサバイバルとして、怪しい儀式は怪しい儀式として、地下迷宮の探索は探索シーンとして孤立して読者の目の前に現れるだけで、各エピソードが有機的に結びつき大団円に向かって収束していく醍醐味がないわけです、最後の方で偶然による予定調和を連発して事件を解決していくのには目が点になりました。

 ヒロインが地下迷宮(網の目のような地下水路ですが)を探索中事故によって目印を失い自分の居場所がわからなくなります、まあありがちですが王道ですからいいとしましょう、しかし、こういうシチュエーションを設定した以上、このピンチから脱出出来たのは知恵と勇気を十二分に発揮したからだ、ともっていかなくてはお話にならないと思うのですがそうなっていません、後を追ってきた主人公が「たちまち見つけて」しまうのです。

 しかもこの主人公も充分な準備抜きで迷宮に踏み込んだため「自分も迷って」いるのですが、それにもかかわらずヒロインと偶然出会い、しかもそこには地上へつづく地面の裂け目があるのです、この2人何もしていません。

 そしてヒロインを地上に送り出した主人公は鉄砲水により押し流され迷宮に取り残されてしまいます、いかにもな成り行きですがそれも許しましょう、しかし彼が助かるのは流れ着いた場所が偶然にも「目印のそば」であったからです、彼の知恵と勇気を生かす余地がありません。

 ヒロインが地上にでた場所はジャングルのただ中で危機的状況は変わりません、どうするのかと思っていたら両親が偶然「そこにヘリコプターで捜索に来て」救出されます、彼女なにもしていません。

 これでは冒険小説じゃありません、小説の形態こそとっていますが小説としての屋台骨にも問題がありそうな展開です、恩田陸って構成能力ないんじゃないの? という疑いを補強するのに充分な出来と言えるでしょう。

 恩田陸の全出版物17点のうちの10作(「六番目の小夜子」「象と耳鳴り」「三月は深き紅の淵を」「月の裏側」「木曜組曲」「光の帝国」「上と外」「ドミノ」「ライオンハート」「ネバーランド」)を私は読んでいます、あと7作も読むつもりでいるくらいですから、読んでいるぶんには面白い作家ではあるのです。
 とはいえこのように読むたびに少しづつ不満が溜まっていくようではいずれ見限る時がこないとも限りません、一応まだ期待の作家リストに入っているのですから「さわり」の作家、SS風作家であることから脱皮してくれないと困るのです(脱皮したらいいところも一緒になくなったりして)

 



アメリカン・サイコ −ビデオ鑑賞−




 昼はウオール街のパワーエリート、夜はお金持ちの友人と高級料理店めぐり、帰る途中で娼婦を拾い、家に帰って惨殺する、という主人公に日常をガラスのかけらを振りまいたようなきらきらした刺激的な文章で描いた問題作の映画化。

 何を食うか、どこで食うか、一番シャレた店を知っているのは誰か、そこに予約を取れる顔なのはだれか、何を着るか、何を聞くか、一番高級なカセットプレイヤーは何か(※サンスイだそうだ)誰の名刺が一番かっこいいか、ドナルド・トランプは(没落する前です)どこでピザを食うか、あそこの美人と一緒にいる男を知っているか、という文章「だけ」で出来ている原作の目の眩むような退廃美はとうてい映画化できまいと思っていたのですが(この小説のおもしろみはその会話文の中に出てくる名詞の過剰さが全てなので)けっこうサマになっているのでちょっと驚き、でも主人公の退廃と狂気のモザイクを描くにはなんとしても時間が足りなかったとしか言いようはない。

 やっぱり長編小説を映画化するのって無理なんだよね、といういつもの結論にたどりつくしかないのだけれど、この原作のように過剰な部分が全て、という小説では刈り込んだ途端に別なものになってしまうので、うまく刈り込めればという議論自体が成立しないのだ。
 なまじ良くできたサブセットであるだけにこの映画を観る意味はない、面白いから原作を読め。


 


処刑人 −ビデオ鑑賞−




 敬虔なクリスチャンの兄弟がロシアンマフィアと一線まじえるハメになり、神の御心のままに凶悪なマフィアをぶち殺しまくるお話です。

 本国では物議をかもしたそうですが(当然ですわな)無信仰なジャパニーズである私には全然OK、というかもっとヤバくて殺伐とした映画かと思って(期待して?)観たのですがこれがスタイリッシュで痛快でスピード感あふれてて、最高に面白かったです、抑制された殺戮シーンは殺伐ともしておりませんし野蛮な感じもありません。

 後半「スタイル」に淫した感じがあって(「どうですシャレた映画でしょう?」という主張が透けて見える)ちょっとやりすぎた部分のないでもありませんが、まず観てソンのない映画です、レンタルビデオでちょっとヒマつぶしをという人に特にお勧めします。


 

ブラックホーク・ダウン 



 1993年平和維持活動の一環としてソマリアの内戦に介入したアメリカの失敗に終わった強襲作戦をリアルなタッチで描いた戦争映画です。

 近代戦でもあり、リドリー・スコットもバカじゃないので(たとえばジョン・鷹派・ミリアスなどはバカですが)英雄礼賛、かっこいい戦争巨編なんかにはなっておらず、戦争は悲劇であり、無意味であるとは最低限言っているのですが、ここに描かれている悲劇も無意味さも全てはアメリカの一人称でしかなく、それを額面通りに受け取れるのはヤンキーだけです。

 劇中、勇敢なアメリカ兵に射的の的のように撃ち倒されていくるソマリア民兵にもそれぞれ家族があり仲間があり、個々の事情があるはずなのですがそれはまったく、驚くべき冷淡さでもって切り捨てられています、このあたりは古き良き西部劇のインディアンとまったく同じ扱いです。

 私は一般的な日本人としてイスラム教徒であるソマリ族よりもアメリカ人にシンパシーを感じるのですが、アメリカ人が無事なら「あとはどうでもいい」というほどには肩入れ出来ません、アメリカ兵1人が死ぬシーンを情感たっぷりに描かれると、さっきおまえらは機関銃で何十人と相手をなぎ払っていたじゃないか、お互い様だよ、と思ってしまうわけです。

 というかこの戦闘でアメリカ兵は19人が死亡するのですが、対するソマリ族側は1000人以上が死亡(!)しているのです。
 収支はプラスでしょう・・なんていっちゃいけないんでしょうが、「この戦闘でアメリカ側に大きな損害が出た」=「悲劇だ」という風な扱いでは、両者を俯瞰して見る視点がまったく欠けているとしか言いようはありません。

 最後は妙にものわかりよく、戦争は無意味だ、という方にもっていこうとしているのですが、これでは「アメリカにとって無意味だ」という風にしか取れません、妙な言い方ですが正義と人道の名において介入したのなら何ごとも無意味であるはずはないのです。

 この敗北(なのか?)を機にアメリカでは厭戦機運が高まって、結局2週間後にソマリアから手を引くのですが、勝手すぎるだろうとしか思えません。


 故郷に帰ると皆が言う、なぜ戦争にいくんだ、戦争が好きなのか、と。
 皆わかっていない、俺たちは仲間のために戦うんだ。

 というちょっとかっちょいい主人公の最後のモノローグもピントはずれです、銃弾飛び交う最前線では仲間のために戦っていてもいいのですが、どうしてそこで戦うハメになったかという前段についてまで「仲間のために」を敷延してはまずいでしょう。


 

クレヨンしんちゃん  嵐を呼ぶモーレツ! 大人帝国の逆襲   −ビデオ鑑賞−





しんちゃんの町に『20世紀博覧会』がやってくる、20世紀に流行ったもの全てがあるというその博覧会にはむしろひろしやみさえなど親の世代がはまってしまう。

 巨大ヒーローや魔女っ娘に扮した自分主演のビデオを製作してくれるアトラクションや、昔のおもちゃ、遊び、食べ物、はたまた大阪万博(の再現)など懐かしい数々のものに彼らはのめり込み、託児所に子供を預けて夢中になって遊び回る。

 そんな親を見てかすかな不安を抱く子供たち。

「懐かしいってそんなにいいものなのかなあ」
「このままじゃママがママじゃなくなちゃうような気がするんだ」

 そんなある日TVから「今夜20世紀博から重要なお知らせがあります」というアナウンスが流される、放送を待つ人々、彼らに向かって流された「お知らせ」はただ一言。

「あすお迎えにまいります」

 これは怖い、近年こんな怖いシーンは無かったとおもえるくらい怖い。

 要は「昔はなにもかも良かった」という懐古主義の秘密(?)結社が人々を洗脳し昔の暮らしを取り戻そうとしている、ということなのだが、親たちが次第に自分たちのことを忘れていき、ついには自分を捨てて町を出ていってしまう、という展開に劇場に足を運んだ子供たちは恐怖するだろう。

 しかしこの映画のおそるべき所はその子供たちを連れて劇場に来た「大人」に向けてのメッセージも持っているところなのだ、「昔は良かっただろう、子供時代は良かっただろう、難しいことは何も考えずにあそんでいられた頃が懐かしくないか、昔に帰りたくはないか」という誘惑に心を惹かれない大人はいない筈だ。

 つまりこの映画は大人と子供がまったく違う映画として見ることが出来るという驚くべき構造をもったまま進行していくのだ、これはシナリオの超絶技巧と言って良い。

 子供サイトの構造が「洗脳された大人を子供たちだけでとりもどすのだ」というシンプルなスラップスティック仕立てであるのに対し、大人サイトには葛藤がある。

 この20世紀博会場の中には永遠の夕陽に照らされた昭和30年代の町があり趣旨に賛同する人々が暮らしている、ここで「懐かしい匂い」を醸成してニューカマーの洗脳に利用しているのだが、そこに気づいたしんちゃんはとうちゃんに靴の匂いをかがせる(とうちゃんの足は臭いのだ)

 父ひろしは自分の足のくささで洗脳がとけるのだが、無邪気に遊んでいた子供時代、初恋、学生時代、必死に仕事を覚えた社会人1年生、みさえとの婚約、しんちゃんの誕生、と人生を急速に追体験し、ついに再び大人である自分、父親である自分に目覚めるシークエンスに心動かされない大人はいない筈だ。

 善きもの、懐かしきもの、喪われて2度と戻ってこないもの、それを再び手にするチャンスを与えられながら、あえてそれらから決別する道を選んだひろしの悲しみは大人にしかわからない。

 妻と2人の子供をかかえ30年代の町からの脱出をはかるひろしが「ちくしょう、なんだってここはこんなに懐かしいんだ」と叫び、涙を流しながら永遠の夕陽の中を「オート3輪」で走って行くシーンに私は鳥肌が立った。


 この映画子供にゃわからん・・というか子供を充分に納得させておきながらこの映画の製作者たちは自分たちとつきそいの親たちに「昔のほうが良かったとしても、俺たちは大人なんだから、後ろ向きになるのはやめて、大人なりの責任を放棄せずに生きていこうよ」というメッセージを送っているのだ。

 ラストに吉田拓郎の「今日までそして明日から」が流れるあたり「我々は確信犯です」というプラカードを持つ人々の姿がかいま見える。
 
 私は「まずメッセージありき」という映画は基本的に好きじゃないのだが、子供向けのスラップスティック・コメディの中に「つきそい向け」のメッセージを込めてしまうというアイデアを思いつき、実行に移し、成功させてしまった制作者たちの腕前の素直に脱帽しせざるを得ない。

 これは傑作です(内容空虚な「千と千尋」なんぞよりよほど中身があるな)


 

ミスタールーキー



 肩を壊しプロの道を断念した元高校野球少年が阪神タイガースのトレーナーに出会いその(中国四千年の?)秘術で肩を治療してもらったことで、再び投げられるようになる。
 彼はすでに中堅サラリーマンなのだが会社にも妻子にも内緒で(顔をマスクで隠し)甲子園限定のストッパーとしてマウンドに立つ。

 この謎の投手「ミスタールーキー」の活躍で阪神タイガースは優勝を狙える位置に来る。

 という設定は「面白そうじゃん」としかいいようのないものなのですが、今ふたつみっつなのは何故、と言えば答えは簡単で「シナリオが練られていない」に尽きます。

 おもしろそうじゃん、で思考停止したのか、撮影に向けて立ちはだかる様々な難題の解決方法へ気を取られてしまったのか、お話がとても薄っぺらいのです。

 先に述べたストーリーは骨格でしかないのであって、これを実際の「お話」に落とし込むにはそれから先が重要なはずです。
 2足のわらじを履く野球選手が本当にいたとしたら実生活でいったい何が問題になってくるだろうとか、奥さんにバレるとしたらそのきっかけは何だろうとか、覆面投手がいたとしたらマスコミはどういう取材をするだろうとか、思考実験をくりかえしてエピソードを考え肉付けしていくべきなのですが、あまりやったようには見えません。

 また致命的な欠陥として「野球のおもしろさ」が描かれていません。
 この映画は家庭(と今の仕事)を大事にしなければと思う反面、何をなげうっても野球人生を歩みたいと思う主人公の葛藤を描く映画なのですが、同時に「野球ってのはこんなに面白いんだ」と観客に思わせるものでなければいけません、なぜなら妻子とそれを養うための安定した仕事を失う危険を侵してまで彼は野球にのめりこむわけで、それだけの価値は野球にあるのだ、という演出がなければ映画が成立しないからです。

 ところがそこが全然描かれていません、試合に勝つための戦略とか戦術とか、投手とバッターの駆け引きとか、はたまたミクロな視点では走る、打つ、捕る、投げる野球選手のかっこよさとか、そういうものを描いてこそ野球映画であると思うのです。

 ところがこの映画では「ミスタールーキーが敵の反撃を抑えるシーン」「味方がピンチになるシーン」という具合にストーリーの都合に合わせたシュチエーションが細切れに現れるだけで、試合の流れとか駆け引きとかがまったく表現されていないのです。

 すぐれたスポーツ映画とはとりもなおさずそのスポーツの魅力をあますとことなく描きだしているもので、この映画はそこで完全に失敗しています、この映画を見にくる観客は改めて説明するまでもなく野球の面白さを知っているはずだ、とでも思ったのでしょうか?

 監督が東大野球部出身ということでそのへんに期待したのですが、むしろ自分にとって当然なことだけに大きな見落としをしてしまったのかもしれません。

 おすすめ出来ません。


 

アラクニッド   −ビデオ鑑賞−





 クモ映画である、クモ映画にろくなものはない、多分足が多すぎるのがいけないのだろう。

 過去に観た多くのクモ映画はそのほとんどが目を覆うような惨状を呈していた、なんとかなったのはたとえば「アラクノフォビア」等リアルサイズのクモ(本物のクモ)を使ったものだけだ、つまり作りものでクモを表現するのは非常に難しいということだ。

 そんな映画をなぜ観るのか?と言えば好きだからとしか言い様はない、最近はあきらめが先に立って、今度はいったいどんなしょうもない映画を見せてくれるのか、といった歪んだ愛情に変わってきた感があるが、ダメダメでもへろへろでも巨大なクモを観せてくれるというなら私は観る。

 まあそれもこれもレンタルビデオ前提の話なのだが。


 さてこの映画のストーリーだが、南海の孤島で奇病が蔓延し島民が全滅の危機にひんする、調査隊が派遣されるがそこは宇宙生物が支配する島だった、というものでまあ「ありがち」な感じなのは許すんだけど・・・

 島に上陸してすぐ、同行してきた昆虫学者(クモ学者)がなにか気になるものを見つけて崖下で標本採取を始めると、なにやら上でうごめくあやしい影、姿こそ見えないもののどうやら主役の大グモ君がこの人物を狙っているらしい、よだれ(?)がしたたってこの学者の帽子のツバを溶かしてしまう、本人は気づかない、あわや!ってところで集合がかけられ彼は危地を脱するんだけど、その際この学者は「ツバのとけた帽子」を観て一瞬変な顔をしたもののすぐいいことにして(!)その帽子をかぶって行ってしまう、あんたはホントに科学者か?

 というシーンは私のモンスターパニック映画チェックリスト(1999年度分の「ディープブルー」評をぜひ参照されたい)が警鐘を鳴らすのに充分なもので、こりゃお話のほうもヤバイぞと思ったのは見事に的中してしまいました。

 このあと一行は村に向かってジャングル内を進んでいくのですが、隊員の一人が人食いダニに取り付かれ体を内部から食い荒らされて死亡してしまいます(「エイリアン」と「スクウォーム」のパクリですね)
 全員唖然というところでシーン変わりするのですが、次の夜のシーンで私は目を見張りました、全員が地面にジカに寝ています、アホですかあんたらは。

 こうなった理由は想像がつきます、このダニは実はサスペンスを盛り上げるためのワキ役でしかなく、ストーリー上はどうでもいいものです、制作者たちにしてみればただの前座で雰囲気を作ってくれたあとは忘れていいくらいのつもりだったのでしょう、そのため観客がダニの恐怖をどれだけ引きずるか予想出来なかったのだと思います(実はこのダニシークエンスがこの映画で一番怖いところだったのですが)

 さてこの映画、巨大グモが近年には珍しくCGではありません、昔ながらの操演怪獣です、実際にはこれがCGだったら私は観なかったかもしれません、CGならいまや何でも出来ます、足が100本あるモンスターでも(はたまた1本も無くても)画面に登場させることは可能です、そのかわり実在感、存在感が皆無です、ああそうですか、という絵にしかなりません、映像の空洞化と言ってよいと思います。

 私としては8本の足をワキワキと動かして活躍する怪物君が見たいので、電子の生んだ幻影を見たいわけではないのです。

 といって今回のアラクニッド(蜘蛛類)君が大活躍かというとそうではありません、制作者達は過去のドンキホーテ、つまりとうてい出来ないことに果敢に挑み、大失敗した大グモ制作者達と違って出来ないことはやらず、出来ることを生かすシナリオでこの映画を運営しているのですが、それはそれでつまらないものです。

 結局クモを破綻しないように動かすということは「全身をなるべく見せないこと」とか「引き絵で歩かせないこと」あるいは「明るい場所に出さないこと」ということに他ならないからです、もうちっとムチャしても良かったんじゃないかと思いつつも、カメラクレーンの先端にくくりつけたらしいアップ用ギミッククモの動きは私が雨宮慶太監督の「タオの月」で動かしたモンスター「マカラガ」そっくりで、そのいまひとつらしくない動きのひとつひとつに心が痛んでしまって冷静に画面を見ていられませんでした。

 監督のジャック・ショルダーはまぎれもない名作「ヒドゥン」を生み出した人なのですが何故に大グモ映画という負け戦に手をだしてしまったのでしょうか?

 また、大グモがダメダメであったとしてもシナリオで見せきるという手はあったと思うのですが何故にあのようなゆるんだシナリオ/演出なのか理解できません。

 今回この文章を書くにあたって改めて資料をあさったところこれはスペイン資本でスペイン俳優を使いスペインで撮影された「ファンタスティック・ファクトリー」プロジェクトというものの第1作だそうな、このFILMAX社はディズニー傘下のミラマックスと共同製作などもやっている制作会社であり、メインスタッフもアメリカから行っているのですが、やはりハリウッドから物理的にも資本的にも遠くなると、こういうことになってしまうのかもしれません。

 結論、モンスターパニックフリークス以外立ち入り禁止。
  


 


スパイダーマン




 予告編で見たところ肝心かなめのスパイダーアクション(クモの糸を使った空中ブランコ)がフルCGだったんで、あまり期待しないで観にいきました、見せ場がCGって映画はスターウォーズを筆頭として盛り上がらないこと必定だからです。

 CGもずいぶん進んでいるはずなのですがあの映った瞬間にわかる違和感、内容空虚な感覚はいまだに払拭されていません、以前はそれでも補助的に扱われていたので気にならなかったのですが、なまじ技術が進んで来たために最近ではここぞという場面に大量に投入され、気が付けば観ているものすべてがCGだったりすることも珍しくありません、結果として映画の印象そのものが空虚なものになってしまいます。

 以前バットマンのメイキングで、CGバットマンがビルから飛び降り歩道に着地して歩み去るというカットが紹介され、これはCGであるにもかかわらず役者が芝居をしていると誤解されかねないので俳優組合からクレームがついて没になったと紹介されていたのですがもはやそんなことは言っていられないのでしょうか、この映画では「このくらい役者にやらせろ」と思われるカットまでCGで作られています。

 一番気になるのが敵役グリーンゴブリンで、グライダーと呼ばれる飛行装置に乗って飛んでいるCGカットはことごとく「いまどきこれかよ」という出来でしかありません。

 ・・・でダメだったかというと「そうでもありません」SFXに映画のすべてをゆだねるなどというバカな作り方をしていないからです、お話でちゃんと見せています、その辺はさすがにサム・ライミと言えるでしょう。

 またCG空中ブランコもさほどに違和感がありませんでした、物理シミュレーションしてないだろうという「作った感」まるだしのアクションではありますが爽快感はあります、また長年コミックスを見て疑問に思っていた点、「クモの糸でブランコ出来るとはいえ、ビルの谷間をどうやったら進んでいけるのか(大通りの上には糸をくっつける場所はない)」という疑問に答えてくれたことです、一枚絵のコミックスと違ってごまかしようがないのですね、これの回答を爽快感あふれる絵で見せてくれただけで私的には合格点というところです。

 あ、でももうひとつ、ヒロインは高校の番長(?)に惚れられ、貧しい家の出の主人公に惚れられ、大金持ちのボンボンに惚れられ、それぞれの人生まで狂わせる魔性の女なのですが「とてものことそうは見えません」、これでこの映画は当社比20パーセントくらい印象悪いのですが、あれヤンキーがみると大納得な人選なのでしょうか?だれか教えてください。

 

 

永遠の森 博物館惑星 菅浩江 −小説−





 月と地球の引力均衡点ラグランジュポイントの一つに浮かぶ博物館衛星、そこには人類が手に入れられるかぎりの動植物、美術品、音楽、舞台芸術があつめられ、学芸員達は知覚をコンピューターとを直接接続して、これら収集品の分析、研究、保存に励んでいる。

 総合管轄部署に勤める主人公は各部のなわばり争いを調停する立場にあり、そのバランス感覚を生かして次々と持ち込まれるもめ事をさばいていくという短編集。
 ・・と言われればおもしろそうではある。

 そういったもめ事の、表面的に見ればなんということもない事がらの一つ一つに実は人の心が生み出した複雑微妙な謎がひそんでいて、美と真実の前に謙虚にひざまづく主人公だけが真実に近づける、と言う設定はいわゆる北村薫に端を発する

 「日常生活におけるささいな出来事から隠された謎を読み説く、日常ミステリー」

 の一種であって、面白くなる可能性はあったのだけれど、これはダメ。

 この「日常ミステリー」はともすれば人のこころの綾、心理のひだひだをとっくりかえしひっくり返してみせることが全てになってしまう(これは日本のブンガクがやっとのこと抜け出してきた「私小説」に逆戻りする危険性をはらんでいるとも言える)

 肝心なのは何が言いたいか、それで何を表現するかであって、人の心を接写し拡大して見せる行為自体に価値はないのだ・・・と思うのは私の勝手で、そこに価値を見いだす人がこの小説を面白いというならそれはアリかもしれない、私の理解が及ばぬところではあるけれど、その方面の完成度は高いからだ。

 というわけで面白くなりそうな予感をはらみつつ、この短編集はついに最後まで消化不良を起こしたような読後感を残して終わってしまいました。
 妙にペダンチックで叙情的で、いささか意地悪く言えば、こんな良いお話をうまく書ける自分はなんて良い作家なんでしょう、と作者が思っているらしい感じがそこかしこに感じられるあたりも読後感を悪くする原因となっています(←すごい意地悪)

 


ワンス・アンド・フォーエバー


 いままでに見た戦争映画の中でもっともデキの良い映画かもしれません。
 ならばデキを評価するポイントって何?

 それは以下のごとし。

1・戦争を賛美していないか
  賛美しているものは論外です
2・国威発揚の具になっていないか
  戦争を賛美せずとも観おわった人間が肩で風を切って劇場を出て行くようでは下です <例、(アメリカ人にとっての)パールハーバー・U−517)
3・物の見方が一方に偏っていないか
  戦争は無意味で悲劇であると言ったとしても、自分にとってそうだというだけなら上等とは言えません<ブラックホークダウン>
4・リアルか
  戦闘表現について私がリアルなんて言っても笑止なのですが、すくなくとも敵は数だのみで力押しするだけ、知恵と勇気で立ち向かうのは味方だけ、なんてのはダメです。



 そこでこの映画です、何が良いってベトナム軍がバカじゃないこと、ベトナム正規軍の司令官はかっこいいです、頭が良く、果断で、冷静で、部下思い、敵司令官がこれほどかっこ良く描かれた戦争映画を観たことがありません、この人観るだけでも価値があります。

 あと、お若いかたには意味ないことかもしれませんが天下のオノ・ヨーコ様が「反戦映画として観る事が出来る」と推奨なさっている(はっきりいってビックリです)ので私は観にいったのです(納得できるものでした)

*       *       *

 なお、歴代の戦争映画ベスト5(見る価値あり)は以下のとおり

1・Uボート(必見)
2・フルメタル・ジャケット(「シャイニング」がホラーというよりは孤独な男の挫折と狂気の物語りであるのと同様、これもただひたすら狂気の映画ですが)
3・地獄の黙示録(これは「戦争映画」じゃなく一種のファンタジーですが)
4・博士の異常な愛情(これは「戦争映画」じゃなくブラックジョークですが)
5・プライベートライアン(ノルマンディ上陸シーンを観て驚くべし、敵が「記号」でしかないあたりやや点数低いですが)

 こうしてみると実は「まとも」な戦争映画はUボートだけ?
 このワンスアンドフォーエバーもしごくまともなので、ちゃんとした戦争映画はあわせて2つってことですね
(にしてもキューブリックが2つはいったのは凄い)


 


MAZE   恩田陸 −小説−



 恩田陸の悪いところが凝縮されてしまった一品。


 そこがどこかもあきらかでない「アジアの西の果て」人里離れた荒野の果てに迷路がある、誰がいつ作ったのかもわからない、高さ数メートルの壁によって構成されたいわゆる巨大迷路。

 そこに足を踏み入れると何人かに一人は出てこられない、同行者にも何が起こったかわからないまま消えてしまうのだ、その迷路は過去数百年のうちに数百人の人間を呑み込んでいることだけはわかっている。

 そして現代、氏素性のあきらかでない4人組がそれぞれの思惑を押し隠してこの地にあつまる、この迷路の正体が何であるか、人の消失にルールがあるのかを解明するために・・・

 とくると、面白そうには聞こえる、これは一種の知的ゲームであって作者の用意した謎と答えを次々に体験していく遊びだ、遊びであるから舞台とその背景は作ったようなものでもよく、リアリティなどは無用であるがままに受け入れることになっている。

 ここまで極端でないにせよ本格推理ものなどは似た構造をもっていて、雪に閉ざされた山荘とか奇妙な習俗に支配された村などはその舞台装置だ、ここに疑義を呈しても始まらない。

 しかしそのような「作った世界」を構築したからには作者は知力を振り絞って論理的な罠を組み立てなくてはならない、小説が普通に要求されるリアリティとか人物造形とか、はたまた情景描写とかを振り捨てたからにはそれに見合うだけの面白さを読者に提出する義務を負うのは当然だろう。

 というか、普通は作者が自分の考えたアイデアを夾雑物抜きで楽しんでもらいたいと思うがゆえにいっそのこと世界を限定してしまおうという方向に進むもので、奇妙な舞台が先にあって、それに見合うお話を考えなくちゃいけないということではないはずだ、普通は。

 でも、普通でないのが恩田陸なのである、「雰囲気」の作家、「さわり」の作家であるこの人は過去の面白い作品をいいとこどりして、自分流にアレンジしてみせるのを芸風にしている。

ジャック・フィニイの「盗まれた街」から「月の裏側」
ロバート・ネイサンの「ジェニーの肖像」から「ライオンハート」
ゼナ・ヘンダースンの「ピープル」シリーズから「光の帝国」

という具合だ、この「MAZE」にはベースとなった特定の小説は揚げられていない(上の3つは作者がみずから書いている)が、人工的に構築された閉じた世界の中に人間を放り込んで化学反応を見るように何が起こるか見てみる、という手は昔からあった。

 たとえばちょっと前に話題になったカナダ映画の「CUBE」などがそれだ、年齢も職業もバラバラな男女数人が一片4メートルの立方体の部屋に閉じこめられる、この部屋は前後上下左右の6つの面にハッチがあり、そのハッチを通ると元いた部屋と同じような部屋に出る、その部屋にも6つの面にハッチがある。

 彼らに共通項はなく、なぜ、そして誰によって閉じこめられたのかまったくわからない、脱出しようと試みる彼らの前には死の罠が待つ、部屋の入り口に刻印されている3組3桁の数字、それは罠を避け脱出路を示すヒントなのだろうか?

 というこの映画は人工的な知的パズルの典型で、加えて異常な状況に追い込まれた人間心理を描く試験管にもなっている。
 頼れるリーダーは暴君になり、他人を思いやる精神は優柔不断となって危機に際して他人の足をひっぱりかねない、まったくの役立たずと思われた人物が実は・・などというあたりもありがちながら良く描けてる。

 劇中で起こったことを理解するために、後でビデオで検証し、時には電卓を叩いて数字を確かめないと真の理解には達しない(!)というのはどうかと思うが、作者は閉ざされた空間を生かすべきアイデアを知力を振り絞って考え抜いたには違いない。

 この映画の公開が「MAZE」の2年前というのは怪しい、まあネタ元が何であるかはどうでも良いことなのだが、問題は恩田陸がこの監督の1/100くらいしか頭使ってないだろう? ってことなのだ。

 つまり恩田陸がこの小説を書くにあたってこの状況から起こりうるありとあらゆる事を考え抜いたとは思えない、MAZEの正体について仮説の全てを数えあげたとはとても思えない、例によって「何となくそんな雰囲気」で流してしまっているのだ、これじゃダメだ。

 いままでの恩田陸の小説は舞台や人物設定がそれなりに説得力のあるものだった(英米の小説をローカライズしているのだからそれも当然なのだが)そのためそこで語られるお話が多少雰囲気重視(内容空虚ってことですが)であってもそれなりに見られたのだが、このように舞台が書き割りで、人物がお話のために存在する将棋の駒であった場合にはどうにもならなくなる、いったい何がしたかったの? ということになってしまうのだ。

 恩田陸はこういうトリッキーな話を書くべきではない、これは小説としての体裁さえ整っていない中途半端な作品と言わざるを得ない。

 


ジェットコースターにもほどがある  宮田珠己  −エッセイ−



 ジェットコースターマニアのおっさんが本場アメリカに渡り11日間で35のジェットコースターに乗ってきた、という話を中心に、日本その他の国をあわせ全部で109の絶叫マシンに乗りまくった体験をまとめたエッセイ。

 遊園地マニア、ローラーコースターマニアとしてははずぜないと思い読んだのだが、どうもいけない、文章に熱がない、なんとなく好きという以上のものを感じない。

 この作者もともと旅行エッセイの本を何冊も出している人で、この本もカメラマン同行でアメリカに渡っている、要するに商売のネタとしてなんか変わったことをやってみただけじゃないの? という疑いを禁じ得ない、本の最初に「私も最近までアメリカの遊園地についてはほとんどなにも知らなかった」などとも書いてある、本物のコースターマニアが怒るぞ。

 おまけにプロにしては文章がへた、軽妙な諧謔に満ちた文ではあるが、

『すなわち仏教でいうところの総本山ほどの意味と思われる。遊園地界のなかでもそのぐらいスゴいという話だ。なぜ仏教でいうのか、という疑問は残るが、その点は今深く追求しないのである』

 などと言うあたりでわかるように椎名誠のパクリでしかない(「本の雑誌」で紹介されるわけだ)

 ちょっとダメダメな本。


 


遊園地特集 
−東京ディズニーランド、ディズニーシー、ユニバーサルスタジオジャパン その他−





 私は遊園地フリークスである・・と書こうと思ったがやめておく。

 世の中には気合いの入ったマニアが居る。たとえばの話ここに「ジェットコースターにもほどがある」という本がある、これはジェットコースター好きのおっさんがアメリカに行き各地のジェットコースターに乗りまくるという本である。
 この人の場合それを本にするあたりいまひとつ徹底してない「お金もらったらそりゃお仕事でしょ」ということだが、似たようなことを何の見返りもなく行う人は大勢いるわけで、自前で行くのは関東近郊の遊園地のみ、遠隔地や海外は仕事のついで以外では行ったことがないという私ではフリークスなどと名乗る資格はないと思うのだ。

 とはいえ遊園地好きは人後に落ちない、「遊園地なら私も好き〜」という人間を100人くらい集めたなら勝つのではないか(ってどう勝つのだ?)

 参考のために思いつくまま行ったことのある遊園地/テーマパーク/アミューズメントスポットを揚げてみよう。

東京ディズニーランド
東京ディズニーシー
ユニバーサルスタジオジャパン
花やしき遊園地
アメージングスクウェア
小山ゆうえんち
西武園ゆうえんち
東京サマーランド
あらかわ遊園
後楽園ゆうえんち
としまえん
よこはまコスモワールド
ネオジオワールド(現、東京レジャーランド)
◆東京ルーフ
八景島シーパラダイス
◆二子玉川園
読売ランド
富士急ハイランド
日本ランドHOW
◆東京ジョイポリス(新宿)
東京ジョイポリス(お台場)
東武ワールドスクウェア
◆谷津遊園
東映太秦映画村
◆向ヶ丘ゆうえん
エキスポランド
◆御殿場ファミリーランド
ナガシマスパーランド
宝塚ファミリーランド
那須ハイランドパーク
◆船橋ヘルスセンター
多摩テック
◆朝霞テック
◆横浜ドリームランド
奈良ドリームランド
東武動物公園
◆八瀬遊園
セントーサ島(シンガポール)
上海動物園

といったところか、◆はすでに閉園した(合掌)遊園地で、並びは思いつき順。

 このうち関東近郊のものはほとんど複数回行っているし、後楽園、としまえんは2ケタ以上行っている、更にヤマイコーコーというやつで機会があればメカニックとしてあるいは美術部として遊園地内部に入り込みアトラクションの製作やメンテの仕事をしているので並の遊園地好きには勝つ(ってだから何だ?)と思う。

 映画屋になっていなければ遊園地屋(どういうものかわからないが)になっていたのではないかと思える私はマニアとしてはかなり「イッて」いる方だと信ずる、ここで偉そうに感想/批評のひとつくらい言えるだけのことはしてきたと思うのだがどうだろう。


 さて、まずは外資系テーマパークだ、遊園地関係についていずれ書きたいと思っていたもののディズニーシーとユニバーサルスタジオジャパン(以降USJ)に行っていなくては何の説得力もあるまいと思って今まで後回しにしていたわけで、今年続けて制覇したからにはまず最初に取り上げてしかるべきだろう。

 始めに身もフタもなく結論を言ってしまえばこれはディズニーシーの圧勝、他の2つと比べてみればその完成度の高さは図抜けていて日本の遊園地などはもう足下にも及ばない。



 ディズニーシーはマクロからミクロまで、パークの基本設計から照明器具の支柱やその固定ネジにまで気を配られデザインされている。

 まずは園内どこに居ても「外の世界」が見えないところが凄い、比較的開けた場所に作られているとは言え近くにはホテル群もあるし高架の鉄道も走っている、でもそれを見せない、東京湾とパークの「海」の間には外周道路とモノレールがあるのに内部からでは壁一枚で仕切られているようにしか見えない、これは基本設計の勝利だろう。

 作り物も大きいほうで言えばランドマークたるプロメテウス火山、山容もさることながら流れだして固まった溶岩の造形と質感が出色の出来でロングで見ても寄ってなでさすってもアラがない。

 ミクロと言うのはたとえば火山近辺のエリア<ミステリアスアイランド>を統一するパスト・フューチャー(←過ぎ去った未来、「過去から見た未来→レトロ・フューチャー」とも言う)なデザインだ、先ほど照明と言ったがこのエリアでは照明が時代がかっているのはもちろんのこと配線まで全て布巻き線が使われている。

 この布巻き線はレトロな演出に使われるため、南米奥地を模した<ロストリバー・デルタ>のエリアでも多用されているがロストリバーデルタにおいてはこれは未開の象徴であるため照明は裸電球で、ブリキの安っぽい傘がついており器具の留めネジは「錆びて」いる。一方ミステリアスアイランドの照明は当然ながら世紀末文明らしくアールヌーボーだ、その支柱も植物的曲線を多用した装飾過多なもので留めネジは真鍮だったりする。

 このように一体だれがそこまで見るんだ(見たが)という部分にまで気を遣い観客の夢が覚めないように手をつくしているわけだ。



 もうひとつ言うと、このミステリアスアイランドのアトラクション「海底2万マイル」のエントランスには長い待合いスペースがある、時には1時間以上も並ぶ観客を飽きさせないようところどころに見物用のセットが組んであるのだがその一つにネモ艦長の執務室といったコーナーがある。
 その机には「Harvest Kelp」(昆布の収穫?)と名の付いた「潜水服を着た人間が機械を使って海草を刈り取っている絵」が置いてある、背後には海図があり海図の貼られた製図版には一風変わった(関節が多い)ドラフター(?)が付いている。

 いったい誰が待合所の1コーナーのさらにその一部でしかない製図版用に「この世のものでないドラフター」のデザインを考えるのか、もっともらしい「海草収穫機」を考えたのは誰か、これを銅版画風に仕上げたほうが感じがでると判断したのは誰か、改めて言うがこれは1つのアトラクションの周辺部のほんの一部でしかないのだ、このレベルのデザイン、アイデアがパーク全体をあまねく覆っていると考えると、つぎ込まれた才能、労力(もちろん資金も)に気が遠くなる思いがするのは私だけではないだろう。


 思うにディズニーランドは東京ディズニーランド(最初に開園した方)の成功で「どれだけつっこんでも回収できる」という確信を得たのだろう、でそれに倍して(数倍して?)徹底した世界の構築を目指したのだ、このディズニーシーを見てしまうと、ディズニーランドは作り込みが甘い、始めはきっと腰が引けてたんだろう。

 たとえばの話、なんでワールドバザールに屋根を付ける?日本は雨が多いから降られたときの客を引き留める作戦なのだろうけどこれじゃ「古き良きビクトリア王朝風の町並み」もブチこわしで、開放感はなく「ゲートをくぐった瞬間に目の前に広がる別世界」というインパクトを激しく減じている。

 ミート・ザ・ワールドってのもわけがわからない、歴史民族博物館じゃないってーのよ、お堅い日本人向けにはこういう教養ものの一つもあったほうがウケると思ったんだろうか?、遊園地に遊びに来て福沢諭吉に説教されたいと思う人間がいると信じた人たちがいたってことが信じられない(今年になって閉鎖されたが20年持ったのが不思議)

 当時本家では人気のあった潜水艦のアトラクションが作られなかったのは日本人には潜水艦アレルギーがあったからだと言われていた。
 (ホントかどうかわからないもののホントだとしたらそれは間違った理解なのは言うまでもない、アレルギーの根拠とされた佐世保の抗議行動は「原始力」潜水艦が「核」兵器を持ち込むという「」の部分にたいしてのもの、つまり反核運動であって反潜水艦運動じゃないのだ、現にディズニーランドをパクった横浜/奈良のドリームランドには潜水艦のアトラクションがあったし)

 などなどから見えることは本場のテーマパークをそっくりそのまま、というキャッチフレーズとは裏腹にけっこうローカライズをしているってことだ、本場のアメリカンテイスト全開で輸入したのではダメだろうという判断だったのか「こうしておけば日本でも受け入れられるかな?」というおよび腰な部分が見えるわけなのだ、開業してしばらくは定休日があり、冬は週休2日だったてのも自信のなさの現れと言える。

 しかしディズニーシーは違う、このテーマパーク自体はどこかにあるもののコピーではないので比較検討できないが少なくとも日本向けに特化した施設やアトラクションはない。
 屋根もない、雨対策をして興ざめさせる愚かさに気が付いたということで、そこから見えるのは徹底すればこの方向で間違いないという自信だ。


 そしてここが出来てみて初めてわかるのはこれが「テーマパーク」ってもんだろうということだ。
 テーマパークというのはあるテーマにそった世界を構築するということだがディズニーランドの場合はそれが徹底していない。
 <ウエスタンランド>とか<アドベンチャーランド>なんてのは既存のイメージに拠って立てるのでまだうまくいっているのだが<トゥモローランド>なんてのは今ひとつ漠然としていて「自分は今未来の街にいるのだ」とはとうてい思えない。

 私はいまディズニーランドという遊園地に居てこあそこにある建物がスペース・マウンテンこっちがスター・ツアーズ、そこにゲームセンターがあってレストランがあれという風にしか思えない、とはいえ実際問題としてそんなことはあたりまえでそうでない状態なんて思いもよらないものだったのだいままでは、しかし。

 ディズニーシーはそうではない。

 ここに漠然とした場所はない、ここは連絡通路であそこはアトラクション、ここはレストランの入っている建物という風にはなっていない。
 ここは南ヨーロッパの港街と言えばそのようにしか見えず、20世紀初頭のニューヨークと言われればそこに違和感を覚える建物は建っていない、他のエリアにしてもアトラクションが入っている建物があれですという唐突さはなく、アトラクションもレストランもおみやげ屋もテーマにそったしかるべき風物の中に組み込まれていて間然するところがない。

 これがテーマパークというものか、とディズニーシーを見て初めて思えるわけだ。


 だからここは歩いているだけで楽しい、顔を上げてもつま先を見ても大丈夫、大きく空を見回しても見えてはならないものが見えることはなく、先に述べた照明は言うにおよばず、ゴミ箱やトイレの看板の「男女の絵文字」までその場所に合わせたリキの入った装飾がなされている、だから「ディズニーシーという遊園地に居る」、というよりは「南米奥地の辺鄙な船着き場に居る」という風に思うことが出来る。

 
 さてここまでディズニーシーに絶賛の嵐を送ってきた、ではここに死角はないのだろうか? と言えばある、それは。

 『アトラクションが面白くない』ということだ。

 それってダメじゃん!

 そうなのだ、これはまあディズニーシーに限ったことではなく、両パークに共通の弱点なのだが、特にライド系は狙いが絞れていないというか絞る気がないというか、何をどう見せたいのかわからないものが多い、これは明るく楽しくファミリー全体にアピールしようと思うあまりに誰にとっても中途半端なものになってしまっているということだろう。
 演出が金太郎アメなのも気になる。
 
「海底2万マイル」では観客は小型潜行艇に乗って海底の神秘を楽しんでいる、とアクシデントが起こり、潜行艇はコントロールセンターからの制御が不能となり深海へ、パニック! するとそこには海底人の住む世界があり彼らの助力を得ることによって無事帰還出来る。

 「センターオブジアース」は観客は地底探検車に乗って地下世界の神秘を楽しんでいると突如火山活動発生、探検車はコースをはずれて パニック! 地下世界奥の地底怪獣に襲われるが無事かわして帰還。

 「インディ・ジョーンズ・アドヴェンチャー」は観客はジープに乗って「クリスタルスカルの神殿」に若さの泉をさがすツアーに出かける、しかし神殿の守護神の怒りに触れて怪奇現象続発、パニック! ついには(例の)石の球につぶされかけるのだがすんでのところで無事帰還。

 「ストームライダー」はモーションライド(体感物)だが、観客は台風の目の中に降下する飛行機に同乗し、ミサイルによって台風を消滅させる作戦を見物する、台風の驚異を体験しつつミサイルの発射シーンへ、成功かと思われた瞬間落雷でミサイルが誘導不能となり戻ってきて飛行機に突き刺さる、パニック! 

 という次第だ、ディズニーランドの「スターツアーズ」も観客は惑星エンドアに向かう宇宙ツアーに参加したはずが乗った宇宙船はいつの間にか宇宙戦闘に巻き込まれ パニック! というストーリーになっている、いいかげんにせいよと言いたい。

 お宅は母体が映画会社だろうにシナリオライターはいないのか?

 <昔渋谷にあった「スターポート」というモーションライドはやはり観客の乗った宇宙旅行用のロケットがコースを外れ「ロケットレース」に参加するというもので。
 東京ジョイポリスの「ホラーライド」は墓場の中を走るトロッコ(?)に乗っているとゾンビが出現トロッコが脱線させられて、コースを外れ谷底へ、 パニック!
「激送 ワイルドジャングル」はジープに乗って遺跡見物に出かけるとと遺跡の床が崩れてコースを外れて パニック!
 「激流 ワイルドリバー」はボートに乗って川下りを楽しんでいると急な流れに巻き込まれコースを外れて パニック! 
 「アクアノーバ」は海底都市遊覧ツアーに参加していると捕獲して研究中だった巨大海底生物(タコですな)が檻から脱出 パニック!
 というものだ、揃いも揃って思考停止もはなはだしい>

 凡百の体感ライドは「スターツアーズ」のマネをしているのだからいいとして(よくないが)本家が20年たった今も(これだけ亜流が輩出したそのあとで)何も変えていないって何なのだ? 

 このようにストーリーが金太郎アメなところへもってきて、演出が似た感じの、中途半端な、あえていえばぬるいものばかり。老若男女全方位向けな結果なのだろうとは思うが「アトラクションで充分な満足は得られない」というのはディズニーランドの弱点だろう。

 しかしそれにしても、また何で皆似たような腰の据わらない演出なんだろうと思う。
 そりゃ「ホーンテッドマンション」で血も凍る恐怖を提供するわけにはいかないのはわかる、でもエントランスのエレベータでおどろおどろしい口上と共に首つり死体なんか見せてホラー色を全面に押し出しといてなぜライドに乗って最初に見せる「ゴースト」が『文学史上に名を残すゴーストライター達です』っていきなりジョークなのだ?
 その後あれこれと怖がらせ風なものを見せた挙げ句に結局は「墓場で陽気なお化け達が大騒ぎ」という風にまとめるし、どういうポリシーなのかわからない。
 せめてここが怖がって楽しむホラーハウスなのか、陽気なお化け達が遊ぶファンタジーなのかくらいの方向性は統一してほしい。

 「カリブの海賊」も最初のフォーリングダウン(滝下り)のショックから始まり「怖い海賊」の「迫力ある襲撃シーン」から「宝の山の上のガイコツ船長」とくるので脅かし系かと思うとやはり最後は「陽気な海賊達が港街で大騒ぎ」になってしまうし、ディズニーランド建設費の1割を要したというアトラクションにしてはやはり方向性がさだかでない。
 比較的高年齢むけと思われるライドがこれで、もとから子供(幼児?)をターゲットにしている「イッツ・ア・スモールワールド」とか「シンドバッド・セブンヴォヤッジ」なんかはもうベタベタに甘いので(それはそれで統一感はあるが)全般的に味付けが甘すぎる、せめては「スリル系」は(あんまり怖く出来ないならそれでもいいから)一貫したイメージを貫いて欲しいと思うのだ。

 (で、「ホーンテッドマンション」は今ふたつだなあと思って「ピノキオの冒険」に入ると、これはファンタジー色を押し出した楽しいアトラクションという予想を裏切って、ウソついた子供がロバになるあたりの情景などがおどろおどろしく語られ、終始雰囲気暗く、「けっこう怖いぞこれ」ってのがまたなんなんだか)


 ディズニーシーはディズニーランドより全般的にましになってはいるのだが、傾向は同じ(まあ「全方位向け」という枷をはずせない以上画期的なことにはならない)シナリオが同じという問題はかえって悪くなっているというべきで、もうちょっとなんとかして欲しい。

 しかしキャストの芝居心や観客のノリが重要になるアトラクションがほとんど姿を消したのはディズニーランドの反省だろう。
 「ジャングルクルーズ」のスキッパーのパフォーマンスはアメリカ版のシナリオを直訳したという話だが、もともと陽気なヤンキー相手に書かれたものなのでシャイな日本人相手だと空回りして寒い。一度無反応な観客に業を煮やしたスキッパーが「皆さんすこしは反応してくださいよ、私も一人で騒いでいると恥ずかしいんですから」などと上司に知れたら減棒もののセリフを吐いているのを経験したことがある。
 「シンデレラ城ミステリー・ツアー」も最後の「勇者になりたい人はいないか」でシ〜ンとしていると案内役には辛いものがあるようだ、そのためか一度問いかけもせずいきなり観客の一人を指定して「君が勇者になれ」とやっているのを体験したことがあるがいいのか、あれ。

 ・・というわけで観客参加型のアトラクションはものの見事にディズニーシーでは姿を消した、この辺は改良されたと言えるだろう。
 <唯一インターアクティブと言えるのはヴェネツィアン・ゴンドラだけ、これは大騒ぎするわけではないので比較的問題は少ないが、それでも観客の反応は弱いのでゴンドリエ(こぎ手)は苦労している(「それではここで一曲歌いましょう帰れソレントへとオーソレミオどっちがいいですか」 ・・・シ〜〜ン)>

 結局、私の見たところではディズニーシーで一番見どころがあったのはライブショーである「ミスティックリズム」というやつだ、これは。

 『ここで繰り広げられるのは雨や滝を自在に操る水の精霊、地を揺るがし岩山をも動かす大地の精霊、炎を司る火の精霊たちによる幻想的な世界、力強いリズム、目を見はる空中パフォーマンスの数々。ジャングルの神秘と伝説の幕が切っておとされます!』

 というもので、若干「ライオンキング」入っている気がするが、吊りや火薬などの特殊効果満載のダンスレビューだ、映画屋が言うのもなんだけどやっぱり生身の人間がその場に居合わせた観客のためだけに、その場かぎりのパフォーマンスを見せるというのは贅沢で良い(2回見てしまった)

 なもので、これはライブならいけるかと思ってショー関係も見てまわったのだが、基本的には着ぐるみ関係は子供だましというべきで、大人向けを全面に押し出している「アンコール」は。

『華やかなアメリカのエンターテイメントの歴史がいま、ひとつのミュージカルに。豪華で伝統的な雰囲気に包まれた劇場、「ブロードウェイ・ミュージックシアター」で上演される「アンコール!」は、数々のすばらしいナンバーに載せてお贈りする魅惑のレビュー 』

 と気負った惹き文句の割には今ひとつ、これをブロードウェイなんて名前のついた劇場にかけるのは看板負けだと思う、宝塚とかSSK(松竹歌劇団、もうないけど)のほうがなんぼかましと思うがまああっちは一回の公演でディズニーシーの入園料と同等がそれ以上の料金を取るわけで、アトラクションの一環でしかないこれを比較するほうが間違っているのかもしれない。


 あと昼と夜に水上ショーがあるのだが見る方は陸上、演者は船の上ということで一体感に欠ける、花火と火山の共演という演出は良かったけれど全般としては素晴らしいというほどでもない(ショーはもうディズニーランドのエレクトリカルパレードが断然素晴らしい)

 などど、とりとめなく長々と書いてしまったがそろそろまとめに入らねばなるまい、つまりはディズニーシーはテーマパークとしては並ぶもののない傑作で園内をぶらぶらしているだけでも充分楽しい、アトラクションはもちろんつまらないということはないので、過大な期待をいだかなければ楽しめる、行くならともあれディズニーシーだ。

 はるばると中国、韓国からもお客は来ているし、もちろん全国から泊まりがけで遊びに行く人間も多いだろうがその価値は充分にある(関東近郊に住んでいて簡単に行ける人間は幸せである)


 お勧めしたからにはノウハウをちょっとだけ、ということで以下はちょっとした観光ガイドだ。


  ディズニーシーだけのことではないが問題はアトラクションの待ち時間の長さだ、しかしこれはファストパス(アトラクションの予約券、1時間先から2時間先になってしまうが指定時刻に行けば待ち時間なしで乗れる仕組み、一定時間経過しないと次は取れない)を駆使し、空き時間には並ばず見られるショー見物など入れていけばよい、夕方になると団体さんはいなくなるし全般に空いてくるので、スタンバイ(普通に並ぶ)でも待ち時間は短くなる、朝から晩まで園内にいれば乗れないアトラクションが出ることはないだろう(逆に言えば朝から晩までいなくてはもったいないわけだ)
 ハイシーズンの土日ではなかったが、すくなくとも私は一度も長蛇の列につくことなしに全てのアトラクションを見て、ゆっくり食事をして、お茶も飲み、ミスティックリズムは2回みて、最人気と言われるセンター・オブ・ジ・アースやインディジョーンズにも複数回乗ることが出来た。

 もちろんそのためにはまえもってパークガイドやショーのスケジュール表を入手して作戦を練っておく必要はあるだろう(これらは全てWeb上で手に入る)
 お泊まりの人はディズニーシーの一部であるホテルミラコスタに泊まると最高だと思う(ポルト・ パラディーゾ・サイドと言うパークビュー側の部屋だと眺望からしてヨーロッパの港街に居る気分になれ、宿泊そのものがアトラクティブになるはずだ)が、まあ2ケ月くらい先まで埋まっている。

 ガイドはここまで。

 ディズニーリゾート(「ランド」と「シー」を合わせてこう呼ばれる)についてはおおむね語ったと思われるので次はUSJだ・・・という予定だったのだが語るに落ちたというかなんというか、このところ次々と明らかになる不祥事で書く気95パーセント減になってしまった。

 行く必要なし、と切って捨ててもいいのだがそれだと運営に問題があるのでそう言ったように見えてしまうと思うので、いちおう予定どおりのことは書こうと思う。

 実は不祥事発覚以前に予定していた原案でも結論は。

 「今ふたつなのでお勧めはしない。ヘタな国内の遊園地などと比べるとそれはもちろんよくできているので、近くに住んでいてちょっと行ってみることが出来る人なら行くなとまでは言わない。遠くから行く必要はない、関東人ならディズニーリゾートへ行くべし、名古屋近辺ならナガシマスパーランドがいいと思うよ、どこに行くにしてもお泊まりを余儀なくされる人ならディズニーリゾートへ行くべし(多少予算がかさんだとしてもUSJとは比べられない)」
 というものだった。

 ともかく全般的にしょぼい、本家のユニバーサルスタジオには行ってないので比べることは出来ないのだが、本物もこうなの?と首をかしげるようなものもある。
 そしてツメが甘く真に観客にエンターティメントを提供しようとする意欲があるのか疑いたくなるような部分が目に付くのだ。

 例をあげると、特徴的なのが「ジュラシック・パーク・ライド」だ。

 ここの恐竜が今ひとつだよというのは聞いていた、専門のスタッフがつきっきりで調整し本番のあいだわずか数秒動いてくれればいい映画用のアニマトロニクスと1年365日、朝から晩まで動きっぱなしで、しかも直射日光にも雨風にも耐えなければならないアトラクション用では出来も動きも違うのは当然でそこのところは覚悟完了して臨んだのだ。
 ところがライドであるボートに乗って河を下り恐竜が出現して私は目を疑った、恐竜の足首のピローブロック(軸受け、体を左右に揺らすために付いている)が見えている、そして本来それを隠すべく置いてあるのだろう植物の「プランター」が見えている、しかも色は白、なんじゃこりゃあ!

 入園してからあちこちを見るになんとなくチープだなあとは思っていたのだ。
 ニューヨークやハリウッドブルバードがアスファルト舗装でいいのか?などディズニーリゾートを見てしまうとどうしても気になる。

 しかしあちらが「夢と魔法の国」そのものであるのに対しこちらは「夢と魔法の国を作る映画スタジオ」へご招待という体裁をとっているわけでそもそも方向性が違う、かけられる費用も違うのかもしれないし同じ観点で批判しちゃいかんよな、とか善意に解釈して見ていたのだがこれは許されない、これは予算の問題などでは全然ない。

 問題は「やる気あんのか?」 これだ。

 いつからこうなのだろうか? アトラクション完成時にデザイナーがチェックしていないとは思えない、プランターはもちろんだが、ピローブロックも(知らない人が見ると気にならないかもしれないがそれが何だが知っている人間には気になってしかたないものであるはずなので)隠してあったはずだ。

 メカの調整や植栽の手入れをしているうちに動かしてしまったに違いないと思うのだがこれはライドのチェックをしている係員が気が付くはずのものだ、プランターをちょっと置きかえるか土をかけるか、緑に塗るでもいいが、お金をかけずにこれを修正するのは簡単だ、なぜ放置する? 一体数千万円というアニマトロニクスがプランター一個でブチこわしだ、というかお金の問題などではなく、これをお客に見せたら恥ずかしいと思わないような人間はとっととエンターティメントから足を洗って欲しい。

 このようなツメの甘さはUSJのあちこちで散見される、この<ジュラシック・パーク>エリアの広場では、イスラ・ヌプラ・ダンサーズのショーというものが行われる。

 イスラ・ヌプラ(原作ではイスラ・ヌブラル)というのはジュラシックパークが作られた中米コスタリカの沖にあることになっている架空の島だ。
 この名が冠されたダンサーであればエキゾチックなダンスを披露してくれると思うのは当然だと思うのだが・・・単なるストリートパフォーマンス、いやホコ天? まあこの際ダンスの質について語るのはヤメにするが、その音響さんが機材一式をかかえて植え込みの陰に座っているのは何故? 
 どのみちスピーカーなんかはその時だけ広場にむき出しで置くんだからパフォーマンスの一環として音響君も片隅に陣取ったって構わないと思うのだがそれは見せたくないらしい、でもだからといって見せない工夫があるわけでなく背の低い植え込みの陰に隠れて、頭だけ出してこっちを窺っているのだ、ヘンだよ。

 またメインストリートの突き当たり<ニューヨーク>エリアのすぐ裏では新しいアトラクションの建設中なのか工事が急ピッチですすんでいる、一応書き割りは建っているのだが背が足りないので壁の向こうで稼働中のクレーンがしっかり見えている、そのためこの近辺には日常的な「工事現場の空気」がただよいニューヨークという雰囲気を駆逐してしまっている。
 ところでよく見ればクレーンの吊り荷は見えない、だからクレーンをそこまで伸ばす必要はないのだ、アームを縮めるか、寝かすか、それだけのことで観客の夢を壊さないで済むのに無頓着すぎる。

←同じ場所だ↑ 夜は雰囲気最高

 始めに私は遊園地内部の仕事をしたことがあると書いた、ディズニーランドにも何度か侵入した(いや別に非合法な話ではないのだが、「来てもらっても根岸君のギャラは払えないよ」と言うのを「いやもうアルバイトと同じ扱いでいいですから」と言って無理に美術部に紛れ込んだのだ)

 たとえばビッグサンダーマウンテンの乗り場近辺のスプリンクラーとその配管を塗装したのは私だ。スプリンクラーは消防法上当然必要なものだが、西部の開拓地という雰囲気を壊す。そのため目に入っても違和感がないようにサビさせるのだ、実際には赤、茶、黄色などの塗料をスポンジで叩き古びた配管が錆を吹いているかのように見せかける(これをエイジングと言う)

 レールの間に脚立を2つ立て、渡り板を渡して上に乗り一日中上を向いている地道な作業だ、「うむ、この手順だとなかなか本物らしくなる、これはサビているとしか見えん、とか、あの辺は今みるとなんだかヘンだな」などと一人で納得したりしなかったりしながらだんだんとプラットホームから離れていく(慣れてきた頃に視線から遠い方をやるのは作戦ミスだ)
 その作業を「いくらなんでもここは見えないだろ」ってとこまでやることになっている、塗っている場所からホームが見えなくなってもまだやるのだ。

 階段の手すりのニス塗りというのもあってそれは面白くなかったが、これは芸術的手腕(!)が問われるので苦労する甲斐がある(といっても、それこそこれはアトラクションの一部のそのまた周辺でしかないので「うまくいったぜ」なんて言っても現場では誰も見てくれない)その後ビッグサンダーマウンテンが完成して一観客として訪れた時は自分の作品と再び対面するのが楽しみだった。

 ところが完成された状態では天井に照明は当たっておらず何も見えなかった、これじゃ塗装してなくたってわからないよ、という状況である(ライドに乗ってずっと天井に目を凝らしている私を係員はいぶかしく思ったかもしれない)

 しかし、観客の夢を壊さないためにここまでやっているのだ相手は、後発のUSJが手を抜いてどうする、せめて金のかからない(知恵とか機転でなんとかなる)バレ隠しくらいちゃんとやれ。

 バレだのツメだのという細かい部分でなくアトラクションにも問題がある、多いのが中身のないアトラクションだ、はなはだしいのが「ステージ22」というもので。

 『ユニバーサルスタジオの超大作映画で実際に使われた小道具や舞台装置、衣装など、映画の舞台裏をのぞきましょう』

 というのだが、なぜこれが「フリントストーン2 ビバ・ロック・ベガス」なのか理解に苦しむ、誰かこの映画見た? 私は観てない、すくなくとも同時にこのスタジオに入った観客20人が観てないことは賭けてもいい。
 ここはこの映画のセットや小道具が雑然と置いてあるだけの空間で観客はそれを勝手に見てまわるだけ、まったく面白くない。

 これに「アトラクション」と名付けるのは恥ずかしいだろう、そう名付けりゃ客もアトラクティブなものを期待して入ってくる、失望させるのは間違いない。
 (それでもこれがETとかターミネイターとかジュラシックパーク関連の物ならまだ何とかなったかもしれない、どういう判断でこの映画のネタにしたのか理解に苦しむ)

 「アトラクション」とも言えないアトラクションをもう一つ、「ユニバーサル・スタジオ・モーション・ピクチャー・マジック」と称するアトラクションは。

 『不可能が可能に。スクリーンの秘密が今、スティーブン・スピルバーグの解説で明かになります』

 と言う。これは観なくちゃ!と思うけどその実態はスピルバーグの解説で過去のハリウッド映画の「名場面集」を観るだけ、「不可能が可能」でも「スクリーンの秘密」でもなんでもない、ウソだろ? と人は思うかもしれないがこれはホント、私もその場でウソだろ? とつぶやいたのだ。

 これなどははっきり言って「騙し」、客だましてどうするよUSJ。
 


このきらびやかなエントランスが「騙し」とはお釈迦様でもきがつかない


 これらを観て思うのは、きっとハードを作ったらソフト(中身)に回す金がなくなったのだろうということだ、しかし「あまり面白くない」ならまだしも「つまらない」とか「騙された」(!)と思われたら決定的にマズいと思うのだ、2年目に入って客足が落ちてきたというのも当然でこれじゃリピーターは来ない。
 (ディズニーランドは驚くべし観客の97パーセントがリピーターなのだと言う)

 集めた才能に問題があるのではないかと思われる部分もある、「ウォーターワールド」は海面が上昇し地面がすべて水没したあとの世界が舞台だ、アトラクションはその海上都市のセットで行われるのだがこの場所は全て錆びた波板の鉄板を張り合わせて出来ている、錆びていない波板をエイジングしてサビサビに見せかけているのだが、とてものことそうは見えない「茶や赤のスプレーをまだらに塗った」ように見えるのだ。

 ディズニーランドは母体が映画会社で映画のセンスを生かした美術が成功の秘訣と信じている、日本においても美術を映画屋にまかせるという方針で臨んだため大手映画会社の美術部門がこれを一手に引き受けている。
 エイジングなどの特殊な効果は特撮美術の得意技で、そのため私の知り合いの腕のいい人間が何人も参加しているのだ、サビなんてのはお手の物で、これはビッグサンダーマウンテンまわりのセットを見れば一目瞭然だろう、早い話が「サビているようにしか見えない」、これを見ちゃうとウォーターワールドのセットは見るに耐えない。

 USJは映画屋に声をかけなかったのか、あるいは声をかけたものの必要数が集まらなかったのではと思える、まあ映画屋は圧倒的に東京に集中しているし、特撮美術の専門家などは関西にいるはずもないのだが

 というようなこともある。

 全体にチープでソフトに問題があり、さらにツメが甘けりゃヤバイぜUSJ。


・・・・・というのが、当初の草案だった。

 ところがそれどころではなかった、不祥事である。

 まずは賞味期限切れ食品問題、シュリンプサンド喰った身としては人ごとではない(時期は違うのだが)これは「レストランの冷蔵庫に期限切れの食材が入っていた、凍ってるんだから大丈夫だろう使っちゃえ」ということではない。
 食品の保管を委託した倉庫との間に「期限切れの食品は搬出しない」という契約が結ばれていたため、担当者が倉庫に出向き中でラベルを張り替えたという確信犯なのだ。

 さらに許しがたいのはやはり水飲み器に工業用水をつないでいたという一件で、気づいたあとも2ケ月放置していたというのは言うべき言葉を持たない。

 事件発覚後に「利用者からの健康被害の訴えはないので問題はなかった」などと言うあたりの意識の低さは雪印なみと言ってよいだろう(「殺菌処理されていない水」というとそれほど悪いイメージはないが、これは大川、淀川の水から沈殿物をのぞいただけのもので実態はまんま河の水、健康被害がなかったら不思議なくらいだ)

 ジュースのタンクにトイレの汚水がかぶったというのは設計ミスだという、社員食堂の水道にエアコンの冷却水をつないでいたこともあったという、ともかくミスが多くそれを発見する機能がない。

 最近では基準を超えた雑菌が検出されて冷水器の使用禁止処分を受けたが、これも保健所の検査でわかったことだ。

 発覚した不祥事についてはホームページでお詫びをしているのだが(お詫びの内容が日々増えている)この冷水器については「メーカーより購入しそのメンテナンスもそのメーカーに委託していた浄水器をつけた水飲器」などと表現し「自分せいじゃないもんねと」言わんばかりである、そのメーカーを選んだのも、チェック出来なかったのも自分だ、任せていたものは自分の責任でないというなら、USJの他の何も信用出来ない。


 ・・・ということだ、それでわかった、納得した、このように客の健康被害についてさえ頓着しない会社であればそりゃ「プランター」なんてどうでもいいに決まってる。


 というわけで結論だが、当初は「お勧めしない」だったが今はハッキリ「行かない方がいいんじゃない?」 というレベルに落ち込んだ。

 今、急に施設の安全確認と称して「高所の看板や照明器具」を点検しているという、唐突でそのわりには行動が具体的なんだけど思い当たるフシがあっての行動ではないのかと疑いたくなる。
 それに看板や照明だけでいいの?と言う疑問もある。
 むしろ点検すべきはアトラクションの方だろう、スプラッシュダウンする「ジュラシック・パーク・ライド」なんて何かあったらそれこそ人身事故になる(と、誰もが思うと思うのだが、そういうクリティカルなものより先に「高所の看板や照明器具」の点検が来るあたりに疑問が湧くのだ)

 やばいことになってきた(by XBOX)

 ということで2大外資系テーマパークを総括した、最後にすこしばかり日本の遊園地について触れたい。

 USJは論外だがディズニーリゾートはそうとうに良い、しかし、大人から子供まで楽しめるという枷によって、元気な若者が力一杯遊び倒すというのには向かない、絶叫マシンに乗って叫んだり、酔って蒼い顔をしてへたりこんだりする楽しみはここにはない。

 実のところ私が日本で一番楽しい遊園地だと思うのは「としまえん」だ、夏のクソ暑い日にまずはプールに入り、もつれたタコの足のような「ハイドロポリス」(ウオータースライダー)や流れるプールなどの7つのプールで陽が傾きかけるまで遊び、夕闇迫る遊園地で今度は絶叫マシンやドイツから輸入された100年前の回転木馬「カルーセル・エルドラド」に乗り、お化け屋敷に入りショーを見て縁日の屋台を冷やかし、最後に花火を見て帰る、これをして夏の一日を遊び倒したと言える。

 ディズニーリゾートは何を見ても何をやっても、全体にレベルが高くてつまらないことはない、そのかわりにレーダーチャートで言えばとんがっている部分が無い。
 としまえんは良くも悪くも遊園地である(アミューズメントパークであってテーマパークではない)しかしレーダーチャートが振り切れている部分が多くある、元気な若者がワイワイ遊ぶならこっちだと思う。

 同様に富士急ハイランドも悪くない、とにかく富士の裾野というロケーションがいい、視界が広くて空気が良い、富士山を間近に身ながらジェットコースターに乗るのは最高に気分のいいものだ。
 そのジェットコースターも「FUJIYAMA」「ドドンパ」と攻めまくっているところが嬉しい(しかし「バードメン」で事故っている、ヤバイのかなここも)
 評判になったウオークスルータイプのホラーハウス「戦慄の閉鎖病棟」も「戦慄迷宮」さらには「ホテルバージョン」と改装を繰り返し守りに入っていないあたりに気合いが入っている。

 中部の人はナガシマスパーランドで決まりだ。
 実はここには1回しか行ったことがなく、それも仕事の帰りに寄ったもので全てのアトラクションに乗れておらず、それも世界最大の名を長く保持していたジェットコースター「スチールドラゴン」が出来る前なので、大きなことは全然言えないのだが、その時すでに遊園地全体の出来の良さというものを感じた。
 
 園内は奇麗で整備されており、ジェットコースターは出来が良くて演出も良い(コースレイアウトが悪いジェットコースターが世の中にはけっこうある)感心したのはお化け屋敷で、切り妻屋根の三角の壁部分に扉があり正時になるとそこから舞台がせり出してきて「お化けが舞い踊る」というのはまたなんというぶっとんだセンスだろうか、これを見ただけで私はこの遊園地が好きになった。
 以後細かく観察するとそこかしこに「来たお客様を楽しませずには帰さない」という精神が横溢していてますます気に入ったのだった、この精神が衰えていなければ今もここは最高のアミューズメントパークだろう。




 というところだろうか、始めに上げたものの中では(遊園地というくくりだけで言うとすればだが)他の場所は残念ながら少し落ちる。

 たとえば「花やしき遊園地」は好きな遊園地だがむかしの入園無料だった頃が一番よかった、その頃は「遊具もある公園」でしかなくよく近所のおばあさんが散歩のついでに一休みしていた、アトラクションはどれも眠ったようなものばかりで、そもそも人影もまばらな遊園地だったのだ。有料化して以後はまるで別な場所になってしまい都市型アミューズメントパークに変身しようして絶叫マシンを詰め込んでいるがこうなるとここはどうにも狭すぎる。
 ここを目的として行く場所ではとうていない(が、まあこれは浅草見物の一部に組み込まれていると考えるべきものなのだろう)

 後楽園ゆうえんちも狭く、アトラクションはどれも中途半端なものだ(が交通の便の良さで他を圧倒している、山手線の内側にある遊園地は他にない)
 リアルタイムの(オンエア中の)「戦隊ヒーローショー」が見られるのはここだけだがそれは「小さなお友達」以外には意味はなく、大人にとって最高に楽しいという場所ではない、しかし東京ドームの行き(や帰り)にフラっと寄れるというのは便利で遊園地気分を手軽に味わうことはできる(現在「コースターランド」が全面改装中なので新装後には期待できるかもしれない)

 など、それぞれにすこしづつ問題がある(念のために言えば関東近郊以外の遊園地は一度だけ、それもけっこう昔に行ったというところばかりなので今でも本当に「落ちる」かどうかわからない)

 とはいえ、誰も彼もディズニーリゾートに行けというわけではない、一度は行って見る価値はあるし、どうせどこかに行くのならここしかない、というだけだ、もちろんディズニーリゾート以外は行く価値はないというわけでは全然ない。
 
 というか地元に遊園地があるならとりあえず足を運んで欲しいと思う、昔はよく行ったという場所ならなおさらだ。
 親に連れられて、子供同士で、友人らと、彼女とデートで、何度も足を運んだ遊園地には遠くの大型アミューズメントパークからは得られない楽しさがある、こういう場所をつぶしてはならない。

 横浜ドリームランドは閉園が決まってからは大入りだったらしい、たとえ何年も行っていなくとも(これから行く予定など全然なかったとしても)知っている遊園地が閉鎖されるのはさびしいものだ、そこに幸せな記憶があるならなおのこと何か貴重なものが失われる気がするはずだ、ドリームランドに集まった人の数がそれを証明している。

 自分がもうそこに行かずとも誰かが今もあそこで楽しんでいるのだと思えることは実は大切なことなのだろう。
 
 手遅れになってから惜しんでも仕方ない、手近なゆうえんちにブラリと遊びに行くのもまた大人の楽しみだ(そうか?)
 いや、少なくともそう考えて「遊園地」をもり立てていかないと、日本がつまらない場所になってしまうのだけは間違いない(と思う)

 


オクトパス 
スターウォーズ エピソード2 クローンの攻撃



 タコ映画は難しい、というかかつては不可能なジャンルだったと言ってよい。操演で(アニマトロニクスでもだ)まともにタコが動かせるわけはない。
 「フランケンシュタイン対地底怪獣」(1965年東宝)の海外版でラストに大ダコが出てくるのだがこれが唯一まともに操演でタコに挑戦しそれなりの成果を挙げた作品だろう。

 というわけでレンタルビデオ屋で見てもまったく触手が、いや食指が動かなかったのですが(380円ですらもったいないに違いない)しかし先日TVでやるというのでまあタダなら腹も立たないかなと思って見たのですがこれが凄いのなんの。


 キューバ危機の際、キューバに化学兵器を持ち込もうとしたソ連の潜水艦がアメリカによって撃沈され、以後その海域では突然消息を絶つ船舶が後をたたない。
 調査のためアメリカの原子力潜水艦に生物学者(通り相場で色っぽい女科学者だ)が乗り込み調査に向かう。
 その船はテロリストの護送の任務も負っておりその国際的テロリストとFBIのエージェントも同乗している、そのため艦内ではエスピオナージも繰り広げられるのだがそれはさておき、問題の海域に達するとたちまち大タコ君の襲撃にあい潜水艦は手もなく大破して深度800メートルの岩棚まで沈下する。

 艦長は「これは圧壊深度だ、この水圧では艦は長くは持たない」と言う、たしかに水圧でリベット(?使ってるのか今時)が次々にはじけ飛び、艦内はどんどん浸水していくのだが・・・胸まで水に浸かって助けてくれ〜とか言っている乗組員が天井(?)を破って侵入してきたタコの足にからめとられて外(??)へ引きずり出されるのだ!

 ちょっと待て〜〜! てなもんである、その足はどっから来た? 足が出ていった後から水が入ってこない(こないんです)のは何故だ?!

 あんたらまじめにシナリオ書いているのか? できあがった映画を見ておかしいとは思わなかったのか?

 さてその潜水艦は原子炉の制御が不可能になり「このままでは原子炉が爆発するぞ」と艦長がもっともらしく宣言する。
 「そうなるまえに小型潜行艇で脱出だ」、ふむふむ、そういう風に結末を付けるわけねと思う、よくある手だがたしかに「魚雷を喰らっても平気」だった化け物はそのくらい派手にいかないと始末できない。

 すったもんだのすえ生き残った数名は危機一髪で脱出成功、浮上する小型潜行艇の背後では大爆発が起こる。

 海上に出た生き残りは豪華客船に救助されるのだが、驚くべし大ダコ君は死んでおらずこの船をも襲い始めるのである。
 どうするよ?と思っていると新米で今ひとつ役立たずだったFBIのエージェント君が突如覚醒「俺に任せろ」と叫ぶやテロリストが持っていた10数本のダイナマイト(??)を持って再び小型潜水艇に乗り込み、不敵な笑みをうかべつつ大たこ君に突撃するのだが。
 大タコ君はダイナマイトごとぱっくりと潜行艇を呑み込むと爆発でバラバラになってしまうのだ!
 
 コラコラ、ちょっと待て〜〜!

 もう一度聞くけど、あんたらまじめにシナリオ書いてる? 出来た映画見た?


 というところで「スターウォーズ、クローンの攻撃」だ。オクトパスの100倍くらい予算のかかっているこの映画はしかし100倍くらい突っ込みどころがある。

 冒頭から少しばかり言うが。
 命を狙われていることが明らかになった共和国にとっての最重要人物アミダラ姫をなぜ往来に窓が面している部屋に寝かせる?
 その部屋の警報装置は窓に穴が開いてもわからないの? というかR2D2が耳を澄ましている(?)以外の警戒はしてなかった?
 その暗殺者はジャンゴフェットのダーツ(吹き矢?投げ矢?)で口をふさがれるのだが。
そのダーツはカミーノ星で使われているものだとオビワンの友人が言う、カミーノ星の奴らはあくどいみたいなことも言うのだが・・・カミーノ星人て正直は最大の美徳であるらしい相手を疑うことを知らない人たちなんですけど?
 (この人たちはジャンゴフェットの別契約までオビワンに話してしまうんだけど正直にもほどがあるというか無防備というか、言っちゃいかんだろうそれは)
 そしてここが問題なのだが、カミーノ星って水の惑星でしかもひょっとしたらいつも嵐らしいんだけど、ここで誰が/どうやって/何のためにダーツを使うの?

 ちょっと待て〜〜! の連発である、ジョージ、あんたまじめにシナリオ書いてる? 出来あがった映画見た?

 

模倣犯 −映画−



 原作を褒めちぎったためか映画の方の感想はまだですか? というお問い合わせを複数いただいているのだが、はあ〜〜〜(嘆息)という感じである。

 なぜと言えば、これは見るべきところもなく深く静かにつまらないからだ。
 たとえばつっこみどころ満載のスターウォーズであればあれがダメだったのこれがおかしいのと見た者同士いくらでも話が続けられるのだが、これは「どう思う?」「全然ダメ」「そうだよね」で仕舞いである。

 豪快なスウィングをする近鉄の中村(ホームラン以外眼中にない)なら三振しても見に行く甲斐はあるけど、2流の打者が当てにいったあげくにぼてぼての内野ゴロになりアウトになる様は見る価値がない、といったところだろうか。


 もともと3500枚という大長編は映画にしようがない。実際には350枚でも苦しいくらいでどうしたって刈り込む必要があるわけだが、原作の枠組み残そうとすれば各エピソードや人物の書き込みが甘くなる、元が3500枚ではこれはスカスカな印象にならざるを得ない。
 かつて「マークスの山」(原作高村薫)が同じ経過をたどっていたが、元が重量級であるとかえって映画は薄っぺらなものになってしまうと言える。

 この映画はその穴を「スタイリッシュな」とか「華麗な」映像美で糊塗しようとしているのだがこれがまた滑っていて見るに耐えない、ソニーの24pデジタルカメラで全編撮影されているのだがなまじデジタルソースなだけ絵をいじりやすく、やらんでもいいことまでやっているという印象である。

 これは原作では3500枚のディティールに埋もれて目立たない
1・犯人ピースが何したかったのかわからない。
2・後ろ盾も何もないライターが「電話一本で解決出来た」
 という2大弱点がボリュームの減少によって透けて見えてきてしまい、そこから目をそらすのに必死ということなのかもしれない、そうとすればこれはやはり映画向きではなかったということである。

 これがヒットしている(らしい)のが不思議なのだが・・中居人気?

 


バイオハザード −映画−
SPACE STATION −ドキュメンタリー映画−


 なんでこの2つがペアなのかと言えば同時に同じ場所で(「はしごで」って意味ですが、もちろん)観たからです。

 品川プリンスホテル(東京ローカルな話題で申し訳ない)に新しい建物を作っていたのは知っていたのだけれどこれが「エクゼクティブタワー」というダブルルーム専用の宿泊棟で、下層にボウリング場、10スクリーンのシネコンプレックス、IMAXシアターが出来ていたのだった。

 シネコンはどこでもおおむねスクリーンが見やすく、座席は座りごこちよく、設備もきれいなので最近は贔屓にしているのだがここはまた別格、なにしろ従業員はプリンスホテル職員なので応対がホテルレベルの言葉遣い/挙措挙動なのだ、付帯の軽食どころもアメリカンなジャンクフードしかない他のシネコンとは一線を画してうまいものが食える(でも高い)、いい気分で映画を観られるのは保証つきなのでお近くの人には是非お勧めしたい・・というところで本題に入ろう。

 まずは「バイオハザード」である。
 原作をゲームに持つ映画ってのはたいてい面白くない、ましてや監督が「俺はこのゲームの大ファンで何十時間もプレイしたぜ」なんてのは危険なわけで、主演女優がこれまた「やり込んでいる」なんてのは最悪と言ってよいのだがどうだ、驚くべきことに出来が良い。

 モンスターパニック(ホラー)ってのは綱渡りみたいなものでダメダメになるポイントは山のようにある、そこをクリアしてとりあえず映画として成立させるだけでも難しいのだがけっこう面白い、これは奇跡的な出来事である(それが奇跡なら一体なにを求めて私はそんな映画を観にいくのか)

 語り口もホラーの味付けもほどよく、原作に対する距離感もいい感じで「本当に熱心なファンなの?」と思われるほどである、つまりは優秀な監督ってこと?(と思う反面、「イベント・ホライズン」の監督かと思うと納得出来かねる部分っだったりする)

 といって諸手をあげて大絶賛というわけでもなく気になる部分は多数あり、一番問題なのが「これじゃゾンビ映画でバイオバザードじゃないな」ということだ。

 まあバイオハザードというゲームそのものがジョージ・A・ロメロが確立した「ゾンビ物」のフォーマットにタダ乗りしてそれにアクションとアドヴェンチャーというインターアクティブ性を加味したものであるわけなので、そこからインターアクティブをはぎ取ればゾンビに戻るのはやむを得ないのだが、何も同じ場所に戻ることはないと思うわけだ。
 バイオハザードというゲームがゾンビ映画と懸けへだたっているのは自ら動かなければ物語が前に進まないということで、向こう側にゾンビがいることがわかっていても自分の意思でドアを開けなければならないということや飛び道具がなければ(嫌でもなんでも)ナイフ一丁でもゾンビと戦わなくてはならないことだ。
 残念ながらこれは映画に戻った途端に消し飛んでしまう要素だがゲームには更に謎解きとかミッションクリア性が加味されている、これはアドヴェンチャーゲームとしての側面だがつまりプレイヤーが状況を把握出来るということだ。

 ダメなモンスターパニック映画の要素として何度も私が挙げているのは主人公達がどこにいるのか(そしてどこにいけばいのか)観客にわからないこと、どうすればピンチにおちいった主人公達が助かるのかわからないことなどだ、アドヴェンチャーゲームにおいてそんな状況はあり得ない。

 アドヴェンチャーゲームは別名「おつかいゲーム」とも呼ばれ、壮大華麗なゲームでも実際には細かなミッション(おつかい)の連鎖で構成されている。
 「主人公が世界を滅ぼそうとしている魔王を倒す」というのがお話の主題であるとしてそれは「魔王を倒すには竜の剣が必要である」という前段によって分断され「竜の剣は火の山にある」とされ、「火の山の場所は賢者しか知らない」となり「賢者に会うためには××の試練を受けなければならない」と条件を付けられる、この入れ子構造は大作ゲームになれば際限もないほど細分化され、最後には「この部屋の扉を開けるには銀の鍵が必要でその鍵は地下室にあるのでとってこい」というアイテムさがしに落ち着く(これがつまり「おつかい」である)

 「おつかい」によって話を複雑化させてプレイ時間を引き延ばしているわけなのだが、全体を貫くストーリーと前へ前へとプレイヤーをひっぱっていくダイナミズム、各ミッションの必然性でこの「おつかい性」を感じさせないゲームもありこれがつまりは「よくできたゲーム」なのだ。 
 
 さてこの「おつかい」にはかならずなにかしらの障害が用意されている、この障害を取り除く作業こそが「ゲーム性」で、クリアしたときの達成感が前進のための原動力になる、単純なアドヴェンチャ−ゲームではこの障害は屋敷をウロウロしてノンプレイヤーキャラクター(NPC=コンピューターの操る登場人物)をさがす(話を聞く)だけだったりするが、アクションゲーム要素の加味されたたとえばバイオハザードなどでは「地下室に向かう途中にはゾンビがいる」ので「ゾンビと戦え」ということになる。

 よくできたゲームというものは主人公のすべきこと、細かなミッションとその必然性がプレイヤーにきちんと伝わっているというものだ。

 もちろんのこと自分の立ち位置は頭に入っていなければならない。
 この「立ち位置」というのは「マップ」上のどこに自分がいるかという意味から、ストーリー展開上自分がどこにいるか(入れ子構造になっているおつかいのどのレベルにいるか)ということも含んでいる。

 実際問題として自ら動かないと話が進まないゲームにおいてはこれがわからなくてはストーリーが前に進まずゲームは終わらない、まずいモンスターパニック映画のように主人公たちがどこにいるのか、何をすれば助かるのかわからないようではゲームにならないわけだ。

 バイオハザードはもちろんよくできたゲームなので、こまかなおつかい/謎解きの必然性からマップまでキチンとプレイヤーに伝わっている、でも・・・というのがこの段の結論なのだが・・・でもこの映画はそうなっていない。

 どこにいるのかよくわからず、何をすれば助かるのかもよく見えず、肝心のゾンビも始めのショックシーンではうじゃうじゃ出てくるものの以後は必要な時に必要な分だけ出てくるという恣意的な運用になっている、これは実はダメなモンスターパニック映画の典型だ、せっかくゲームを経て戻ってきた映画なんだしゾンビ物としては上々の出来なんだから「ここに戻ってくることないのに」というのが私の惜しいと思う点なのである。

 もう一つ言えばバイオハザードがゾンビ物から首ひとつ抜け出していたのは人型ならぬゾンビが色々登場した点であったと思うのだが、この映画ではラスボス(?)以外は「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」(聖典だ)と変わるところがない、この妙に落ち着いてしまっているあたりにも不満を感ずる、もうすこしハジけても良かったのではないか?なにしろ。

 「アリス」が地下にもぐって「女王」(「ハートの女王」ではなく「レッド・クイーン」だが)に会うとか。
 その敵コンピューターシステム「クイーン」のインターフェイス用ホログラム映像が少女の姿をしていてそれは皆川亮二のマンガ「ARMS」の敵コンピューターシステム「アリス」そっくりだとか。
 「クイーン」の防御システムが「CUBE」の罠そっくりだとか
 ラスボスモンスターの培養タンク(?)はファイナルファンタジー7で人間をモンスターに改造する魔光カプセルそっくりだとか

 いろいろとオタク監督らしいオマージュやパクリが全開なわりには元ネタからの流用があまり見られないのは何故だ? というあたりにも不満が残るわけなのである。

 まあ観てもソンはない映画と言ってよいとは思う、ミラ・ジョヴォヴィッチもサービスサービスだし?





 というところで時刻は15時37分、2分遅れで始まったおかげで終わりも2分遅れ、「SPACE STATION」の上映開始まで3分しかない、エンドロールが終わるや劇場を飛び出しアクション映画のようにエスカレーターを2階分駆け上がるとそこがIMAXシアター、切符は買ってあったのでそのままエントランスへ向かい3Dメガネを受け取って席に着くや上映が始まった。

 ・・・というところで「IMAX」って何だという話なのだが、これは70ミリフィルムを横使いする上映システムで、フィルム面積が通常の70ミリ映画の3倍(通常5パーフォレーションのところを15パーフォレーション)35ミリフィルムの10倍という面積をもつ映画のことなのである。

 フィルム面積がでかいということは1コマに含まれる情報量が多いということで大画面に投影しても細部までくっきりした映像が楽しめるということだ。
 ちなみに品川IMAXのスクリーンは22×16m「高さが6.5階建てのビル程ある」と自慢しているのだがそのとおりに驚くほどでかい。 

 もっとも通常の映画館のスクリーンの10倍あると豪語している方はちと怪しい、新宿ミラノ座の18×8mと比べると2.5倍でしかないからだ、まあミラノ座は国内最大級ではあるけれど格下とくらべちゃダメでしょう・・とはいえ2.5倍のスクリーンに10倍の情報量を持つフィルムを投影するわけでそのシャープネスは格段に違う。

 スクリーンがでかいといっても劇場がまたでかくて離れて見るしかないのでは意味ないがIMAXシアターは椅子がスクリーンに近く、視界の全てがスクリーンに覆われるようで臨場感満点である。
 つまりこのシステムが何に向いているかというと映像そのものが売りであり、細部までくっきりすっきり見せることが全てである映画、つまりドキュメンタリーなわけでこの国際宇宙ステーション建設計画の記録映像である「SPACE STATION」などは最適な映像ソースということになるわけなのだ。

 しかし35ミリカメラですら熟練のスタッフがつききりでメンテナンスしているものなのに、国際宇宙ステーションにカメラクルーが乗り込んだという話は聞かないのに、35ミリのカメラよりよほどでかくて重くて複雑なはずのIMAX3Dカメラでよく撮影が出来たものだと思ったら、なんとこれは各ミッションのたびに何百時間という時間をかけて宇宙飛行士をカメラマン/ライトマン/録音技師にする訓練を積ませた結果であるという労作なのだった。

 ともかくこれはあれこれ語っても仕方がないものなので一度体験して欲しいとしか言いようはない、私はこの映画をみてやっとスペースシャトルのでかさを体感できたような気がするし、この経験だけでも1100円(2館はしごのおかげで200円割引)の価値はあったと思うからだ。

 まあIMAXシアターは日本に20館ほどしかなく同じプログラムを上映しているわけではないので、観てみたい、と思っても観ようがない人も多いとは思うのだが、チャンスがあれば観てソンのない映画であると言って良いだろう。

 


ロシア幽霊軍艦事件 島田荘司 −小説−


 巨大建造物を倒したり、回したり、水浸しにしたりして「豪腕、島田荘司」とまで言われた筆者だが最近どうも話が小物でいけない。

 この作品はロマノフ王朝もの、というかブロードウェイの舞台や映画、最近ではFOXがアニメにもしているアナスタシア・ミステリーに島田荘司が新たな一石を投じたというものだ。
 
 「箱根の芦ノ湖に軍艦が浮かんでおりそこからロシアの軍人が降りてきている写真がある」という華麗な謎から入るあたりはまあ「本格ミステリー」の第一人者らしくはあるのだが (※ 芦ノ湖は山の上の小さな湖であり軍艦が配備されるような場所ではない、そもそも造船所もなく、遡上していけるような川もない湖にその船はどうやって現れたのか?)
 御手洗潔自身はねぐらである馬車道通りからほとんど離れず、いずれにせよ歴史的事件の謎解きであり、アームチェアデティクティブといってよい本作は小品という印象をまぬがれない。
 他の作家が書いたなら、良くできた話だよね〜まあ面白いかな〜という評価をくだすところだが相手が島田荘司では不満である。

 私は氏には巨大構造物を倒したり、回したり、水浸しにしたり、惨殺死体が累々と横たわる現場に白い馬にまたがった御手洗潔がさっそうと現れ、免許の更新が迫っているのにつまらない事件に僕を呼ばないでくれとか言い放ったりする一級のエンターティメントを書いて欲しいのだ。

 帝銀事件とかのドキュメンタリーとか、ましてや「御手洗くんと石岡くん」などといった同人ノリのアンソロジーに一筆寄稿するのはヤメにしていただきたいと切に願って今作の感想のかわりとしたい。

 



イン・ザ・プール 奥田英郎 −小説−



 「伊良部総合病院」の神経科は地下室にあり、ひと気のない廊下の先に患者のめったにこない診察室がある、医者の名前は伊良部一郎、病院のあととり息子と見えるこの男はなぜ隔離されたような場所にいるのか?

 訪れる患者は強迫神経症や被害妄想など神経を病んだ人ばかり、しかしこの医者はそれを治そうとはしない、いや、しないばかりか妄想を助長させるようなことばかり言う、いや、言うばかりか行動に移す。

 毎日水泳しないと気がすまず、会社をさぼってまでプールに行くようになってしまった会社員に良いプールを教えてと言う、一緒に泳ごうと持ちかげる、泳ぎを教えてくれと言う。ストーカーに24時間つきまとわれていると主張するコンパニオン嬢に、ボディガードを雇えと言う、相手は一人じゃないかもしれないなどと言う、患者の妄想は強化され、加速し悪化の一途をたどる・・・・でも治る。

 デブでマザコンでナルシストで自信過剰で、患者の尻馬に乗って騒ぎまくるこの伊良部一郎の方が患者よりよほど重いビョーキであり、あっと言う間に追い抜かれ、ついていけなくなった患者の方の憑き物が落ちてしまうのだ。

 患者はこの主治医をあきれてながめ、自分たちが疾走してきた道を振り返り、そして改めて思う「ひょっとして名医?」

 5編の短編が皆同じ経過をたどるのでちょっと読み飽きる感じはあるのだがそのドライブ感はどれも快調であり、コメディとして良くできている、小品ではあるが暇なら読んでソンはないと思う。
 


WXIII 機動警察パトレイバー 




 「機動警察パトレイバー」は押井守個人の作品ではないが少なくともアニメーション、特に劇場用の前2作は押井の作品としか言いようのないものだった。

 それが押井抜きで3作目が作られるという。お手並み拝見というかやめときゃいいのにと言うか、まあ興味津々ではあるもののかなりの不安をもって私はこの作品の制作発表を受け止めたのであった。

 前2作はだまって劇場に足を運んだわけだが今回はどうにも1800円なりを払う価値があるとは思われず結局ビデオが出るまで待ちになっていたのだが、まあ正解だったと言えるだろう。

 映画はあいかわらずのティストである、つまり聞き取りにくいセリフ回し、おもわせぶりなカット割り、形而上の問題が中心に据えられた作品テーマ、シンメトリーなあるいは極端に偏向した画面構成、カメラやレンズを意識した作画、長い無声部分、未来と過去が共存する都市の風景、苦悩する主人公、等々。

 ところで実写映画は監督がどう希望しようと無いものは写せない。こういう風に下町風景が広がりその背景には近代的なオフィスビルが立ち並んでいる絵が欲しいんだ、と言ってもそういう場所が無ければ撮れない。でもアニメなら描けばOKだ、だからアニメーションは演出家の個性を作品に反映しやすい、前2作が押井色全開なのは当然なのだが、にもかかわらず今作が「あいかわらず」であるとすればむしろそれはおかしいと思わなくてはならない。

 今回の監督(監督と総監督ってなに?)が押井守と同じ嗜好、センスの持ち主であったのだろう、なんてことはもちろんなくて「キープコンセプト」という呪縛があったに違いないと思うのが当然だ。

 しかし押井映画全般に通じるあの不親切でわかりずらい映像がギリギリ商業映画として通用するのはただただ押井守の才能のゆえであり、その綱渡りから落ちないでいられるのは自分の求めるものに忠実であるからだろう。

 それを他人がマネしたらどうなるかと言えば形だけ似せたまがいものになるのは当然である。

 この映画がわかりずらく、カタルシスもなく、「なんか違う」という混乱した印象しか残らない作品となってしまったのはそこに原因があると思われる。

 




パニックルーム −ビデオ鑑賞−




 ジョディ・フォスター主演のサスペンス。

 金持ちの夫と別れた主人公は娘を連れてマンハッタンに移り住む、そこは以前大金持ちが住んでいた4階建ての邸宅(タウンハウス)で3階の寝室には「パニックルーム」という部屋が併設されていた。

 分厚いコンクリートで囲まれた壁、鋼鉄の扉、中には邸内各所を監視出来るTVモニターと専用電話、食料までも用意されているその部屋は強盗が侵入してきた時警察が駆けつけるまであいだ身の安全を確保するための避難場所なのである。

 最初の夜賊が侵入してくる、そのタウンハウスの前の持ち主は死亡しているのだが遺産の多くが行方不明となっていた、賊はそれがパニックルームに隠されていることを突き止め盗みだすべく侵入してきたのだ、彼らの誤算はそこがまだ空き屋だと思っていたことであった。

 主人公は娘を連れてパニックルームに逃げ込む、専用回線はまだ開通していなかったため外部と連絡が出来ない。

 パニックルームの扉は内部からしか開けられないので賊はなんとか主人公達をそこから追い出さなくてはならないのだが主人公達が出てくるはずもない。賊の一人はそのパニックルームを作った人間なので追い出す方策を考える、一方主人公達は外部と連絡を取る方法を考える。

 つまりこれは「そっちがこうするならこっちはこうだ」という条件の限定されたゲームである、シナリオライターの腕の見せ所と言っていいだろう、話を整理すれば舞台劇にもなりそうな一幕ものであるわけだが期待通りに最期まで飽きさせない。

 こまかい話を書いてしまうと興を殺ぐのでこの辺でやめておくが観てソンのない良くできたサスペンスと言えるだろう、映画らしいスペクタクルがあるわけではないのでビデオ鑑賞でも問題はないと思われる。
(もっとも、登場人物の動きに変化がないことをカバーするつもりらしいカメラワークには注目されたい、3階のベッドルームから後退移動してドアから出て行ったカメラが階段の手すりの間を抜けて一階に行くなどさりげない部分にハイテクを使っている、階段の手すりはカメラが通り抜けられるほど広くないのだ)

 




ドリームバスター −小説− 宮部みゆき




 その世界では人間の肉体と意識を分離する研究が行われていた、しかし実験は失敗して暴走、人体実験に使っていた50人の凶悪犯罪者は意識だけの存在と化して次元の穴を抜け別な次元の別な世界−つまりはこの地球−へと逃亡してしまった。

 精神だけの犯罪者は心の弱った人間をのっとって体を手に入れこの世界で犯罪を犯している、しかし狙われた人間が完全に乗っ取られる前に犯人を捕獲しようと次元の裂け目を通って賞金稼ぎがやってくる、狙われた当人と賞金稼ぎがコンタクトを取れるのも、犯人と対決するのも夢の中だけなのである・・・・という小説である。

 文中の「肉体と意識を分離する」とか「時間軸までまっすぐ突き抜けた抜け穴」とか「夢の中には時間が存在しない」などというセリフは「宇宙からの怪電波を受信しました」とか「放射能の影響です」などという昔ながらのSF的ジャーゴン(専門語。職業用語。訳のわからない言葉。『大辞林より』)であり既存のイメージに乗ってなんとなくわかったような気にさせているだけだ。
 肝心の実験なども「データーも資料も、研究員たちも政治家もすべて吹っ飛んだので、何をやっていたのかもわからない、どんなエネルギーを使用していたのかも不明だ」と逃げを打っている、つまり作者は背景をキッチリ描くつもりがないらしいのだ。
 
 書きたいのは主人公達の活躍であって細かい世界観なんか抜き、と言わんばかりのこの小説からは出来の悪いジュニアファンタジーの香りが漂う。書き込みが勝負の宮部みゆきがどういうことなのだろうか?
 
 被害者がつけ込まれる心のスキ、といったものも宮部みゆきならいいかげんどろどろしたものを持って来そうなものなのにありきたりである。

 一番疑問に思えるのが主人公たる賞金稼ぎ二人組の人物造形だ。

 口も回れば手も早い小生意気な少年と、禿頭でちょびヒゲ、体格のいいじいさんという組み合わせとか。
 どちらも口が悪く何かと言えばののしりあいを始めるが実はこれ以上ないほど互いを信頼しているという設定とか。
 能天気で明るく見えるが実は少年は悲惨な生い立ちであってそれを表に出さず頑張っているとか。
 相棒の少年が本当の名前さえ知らないじいさんはぶっきらぼうな態度とは裏腹に実は人間味にあふれているだとか。
 じいさんはすぐに拳を振り上げるが相棒の少年は慣れたものでヒラリとかわしてそれを喰わないだとかのドタバタ描写はもうビックリするくらいのジュニア小説ノリである。

 腕は立つが直情径行な騎士が天然ボケのお姫様にいいようにひきずり回されるとか。
 盗賊団の頭領だが時折悲しい目をしている男は実は放浪の王子だとか。
 汚い恰好をしたスリの子供をひっとらえて連れて帰り無理矢理風呂に入れてみれば実は女の子だったとか、ジュニア小説の人物設定には黄金のパターンがいくつかあると思うのだがこれはまさしくその王道、これがコバルト文庫のライトなSFサスペンスで今年デビューした高校生あがりの女流作家の作であるというなら納得だが、宮部みゆきの小説と言われるとまったく了解出来ない。

 これは大長編のほんのイントロにすぎないという噂だからこれから「らしく」なるのかもしれないが、以後らしくなったとしてもこの一冊のどうしようもなさが帳消しになるわけではないと思うのだ。

 




過ぎゆく風はみどり色
幻獣遁走曲
猫丸先輩の推測

−小説、猫丸先輩シリーズ− 倉知淳




 短編集「日曜の夜は出たくない」でデビューした「神出鬼没の童顔探偵」猫丸先輩の初の長編。

 衆人監視の離れでの密室殺人、降霊会での殺人などクラシックなティスト満載のミステリーで謎解きも名探偵が関係者を一同に集めてアッと言わせるという趣向であり、メイントリックは「いまどきそれかい!」と言いたくなるようなアンフェアギリギリな代物であまりの古さに新鮮な感動を覚える作品である。

 解説で法月綸太郎がこれはディクスン・カーであり、本人がそのつもりで書いているわけでないなら倉知淳は「天然カー」であると絶賛している、私としてはカーってのは妙なメカニカルトリックを駆使する作家というイメージしかなく、むしろチェスタートンと言いたいくらいである、というものそもそも今回のメイントリックがチェスタートンの時代なら許されるかもしれないクラシックな香りを漂わせているからだ。

(「警察官が監視している建物のなかで殺人が起こる、警察官はその建物に出入りした者は誰もいないと保証する、姿無き殺人者? 実は犯人は郵便配達人の恰好をして建物に出入りしていたのだが、<普段見慣れているものは目に入っても気にならない>ので警察官は見逃していたのだ」というトリックを考えたのがチェスタートンである。
 つまり、これは20世紀初頭のミステリ創生期なら驚くべきアイデアとして通るだろうが今どきこれはどうよ? という意味として捉えられたい)

 つまるところ作者はそれらを全部承知の上でミステリーのパロディをやっている気配があるので、カーだとかチェスタートンだとかアンフェアだとかレッドへリングだとか(ってこれは言ってない)大学のミステリー研の使いそうな用語を満載した感想を書き出した時点でこっちの負け(作者の手の内で遊ばれている)と言えるだろう。

 だからこれはある程度ミステリー(社会派でなく、西村京太郎とか赤川次郎とかのキヨスクリーグでない、古典もしくは新本格ミステリー)を読んできた人間が「いまどきこれかい!」(この作者もやってくれるぜ)と驚く作品なのである。私はちょっと驚いたのでソンしたとは思わないが読み手を選ぶこの作品をとうていよそ様にはお勧めできない。

 「暗い井戸の底をのぞき込むような」人とヒロイン佐枝子に評された猫丸先輩だが、30過ぎて定職にも就かず、世の中を面白いか面白くないかだけで区別して生きている、猫に似た容姿を持つこの男が普段どういう生活をしているのか描いた短編集が「幻獣遁走曲」

 体裁は北村薫が創設した「日常ミステリー」に近いものである。日常ミステリーは日常生活の中で発見されたささいな謎の陰には人間性に深い理解のある探偵にしか突き止められない深い意味が隠されている(それは人の悪意、善意、愛情、性(さが)などの発露なのである)というものであった、しかしこの作品はそうではない。

 公平に分配するために一ヶ所に集められていた「松茸狩りツアー」の松茸がなぜ半分持ち去られていたのか? というどうでもいいような謎から事は始まり、真相は思いもかけず深いところにあったなどと言うことは全然なく、やはりそんなことどうでもいいだろうというところに落ち着く趣向である、つまりはパロディ、しかし元ネタというかターゲットというかを知っていればこそパロディであるわけで予備知識なしで読めばほとんどジョーク集でしかないのではないかこれは? はっきり言ってターゲットが狭すぎると思う。

 さて最後が「猫丸先輩の推測」、ここではもはや「推理」ですら無くなっていることに注目していただきたい。
 基本的には「どうでもいいような謎とそのどうでもいいような真相」という上記の続編ではあるが、前作がそれでも一応の解決にまで話をもっていくのに対し今回猫丸先輩は「これは一つの解釈であってそれが本当のことなのかどうかは僕は知らない」で終わらせている(だから「推測」なのだ)日常ミステリーに対するアンチテーゼも極まっていると言えるだろう。

 ところで思ったのだが。

「不可能趣味にあふれた幻想的なまでの謎」と「隠されていた深い真相」が新本格ミステリーだとすれば。

 「日常生活の中のささいな謎」と「実は深い真相」が日常ミステリーであった。

 ここに倉知淳が「日常生活の中のささいな謎」と「ささいな真相」という裏日常ミステリーというべき新ジャンル(なのか?)を創設した(のか?)

 まあ一発ネタに近いので後に続く者がいるのかどうか疑問ではあるが、こうして整理すると第4象限が空白であることに気が付く。
 
 つまり「不可能趣味にあふれた幻想的なまでの謎」と「ささいな真相」という裏本格ミステリーだ、誰かこれにチャレンジすると新ジャンルの創設者として名を残せるかもしれないと思われる(うそ)