SCRIPT SHEET 2000

  映画 小説・ノンフィクション・コミック・ゲーム その他
  疾風号と私  
ゴジラミレニアム    
ブレア・ウイッチ・プロジェクト    
ウルトラマンティガ-THE FINAL ODYSSEY-    
    ロフトプラスワン
ノイズ    
  秘密  
  亡国のイージス  
  バトルロワイヤル  
10   ホワイトアウト
月の裏側
屍鬼
 
11 スクリーム 1・2・3    
12 WHITE OUT    
13 ミッション・トゥ・マーズ    
14   ∀ ガンダム  
15     CPU換装-クロックアップ新事情-
16     ケチケチ大作戦-自作新事情-
17 スペースカウボーイ    
18 インビジブル    
19 アイアンジャイアント    


疾風号と私


 感動の秘話「目の見えない操演技師、愛犬と二人三脚の映画作り!」というブラックジョークをかつて仲間内で考えました。

 映画の特殊効果を請け負う操演技師××氏は○年前の交通事故の影響で今は完全に目が見えない、しかし愛犬「疾風号」と共に今日も現場へ出かける、火薬の位置は長年のカンを元に、タイミングは疾風号がたよりだ、彼がワンと無くたびにシャミセンを引く。

 という危ないネタです、更に「耳に不自由な録音技師」とか「◇◇が■■な△△」とか(あぶなくて言えない、不謹慎でどうもすみません)

 しかしなにはともあれジョークではあったのだが・・・

*  *  *

 「CG WORLD」という月刊誌がある、コンピュータグラフィック技術に興味のある人、将来CGで喰っていこうと思う人たちのための雑誌、といった位置づけらしい(そのわりにはつっこみが甘い)

 そこに「VFX MOVIE!!」という連載がある、1回に1本の映画を取り上げそこで使われたCG技術について解説するという形式のものだ、11月号が「アルマゲドン」で12月号が「ガメラ3」だったのだが、これが凄い、なにが凄いといって「ガメラ3」にはCGがほとんど使われていない、と言い切っていることだ。

 本文を一部引用すると「ガメラ3をみるとほぼアナログ特撮しかおこなっていないことに気がつくだろう」と書いてある、いったいどこをどう見たら「アナログ特撮しかおこなってなく」に見えるのだろう? 筆者にはイリスとガメラの空中戦がミニチュア特撮に見えたというのだろうか?

 さらには渋谷の街の特撮は渋谷の空き地にミニチュアを組んで東急ビルなどを借景している、などとムチャクチャなことも書いてある(渋谷のど真ん中に空き地があるか)

 目が点になるとはこのことである、スタッフの一人が編集部に抗議したところ「見解の相違」と言われたという、結局大映がデータを付けて正式に抗議したところやっと編集部で内部調査が行われ、その結果「筆者は映画を観ずに記事を書いたらしい」ことが判明したのである(!)

 目の見えない操演技師はいないが観てない映画を評論する映画評論家は存在したのである、事実は小説より奇なりとはこのことか(ちょっと違うか)

 筆者はしばらく謹慎ということになったらしい、しかし「謹慎」というのは復帰するという意味だと思うのだ、もしそうなら編集部の見識を疑う。

 そもそも「ガメラ3にはCGが使われていない」などという記事をそのまま掲載する体制がおかしい、担当編集者は「ガメラ3」を見ていないのか?(CG専門誌の編集者で「G3」を見ていないのは不勉強だろう)そして見ていない映画を何故特集するのか?、ライターが見てるかどうかくらい確認しないのか? 見ていない映画の記事の内容はノーチェックなのか? 編集部がまともに機能しているとはとても思えないのである。

 いいかげんな雑誌に署名記事を書いていたこの筆者、名前は maiki tarou(本名か?) 復帰したら注意する必要がある、また他で見たらやっぱり注意だ。
 だいたいこやつは過去のガメラシリーズのサブタイトルも間違って書いている、私自身はお金をもらっているわけでもない自分のHP用記事であっても映画のタイトルを書くときはデータベースにあたって製作会社、発表年月日などを確認してから書いている、ウソを書いて信用されなくなるのは怖いからだ、この男に誠意がないのないのはももちろんのことだが、自分自身署名記事を書くにあたって怖くないのだろうか? 理解できない。

 CG WORLDの次の号に「お詫びと訂正」は載った、しかし事の重大さを微塵も感じさせぬ誤字誤植の訂正のような小さな囲みである「ガメラ3にCGは使われていないと書きましたが134カット使われていました」(!)などという質の違う訂正を書いてよく恥ずかしくないものである。
 お金をいただいて読んでいただいた記事がこれだけ「違って」いたら背景説明をするのが当然ではないだろうか。
 連載も署名が「編集部」となっただけで何事もなかったかのように続けられている(そのつもりで見なければ気が付かないくらいだ)署名記事の筆者の突然の降板に対してもなんの説明もなしなのである、これは無責任な編集者と無責任なライターがよってたかって作っている無責任な雑誌であると断じざるをえない。

ゴジラ ミレニアム

 なにはともあれキング・オブ・モンスター、見に行かなくちゃと思っていたところが関係者が皆よってたかって「つまんないですから止めたほうがいいですよ」と言う、そしてまた関係者がまわりにいっぱいいるのだ。

 まあ自分が参加した作品を手放しで誉める奴もあまりいないのであるが、これがずいぶんと極端なのだ、いったいどんな仕上がりなのかとおそるおそる見にいったら・・・な~んだ面白いじゃないですか、これ。

 と言ったところ特撮デザイナーの高橋氏いわく「それはあそこのメシはまずい、と聞かされていた店に他にいくところもないからって覚悟して行ったら、普通のメシがでてきたのでうまく感じるわけですよ」とのことである、うん、そうかもしれない(!)

 バカにしているだろうか? でも全ての映画がめくるめく映像美で人間ドラマで現代社会を鋭くえぐる問題作である必要はないわけで、1時間半きっちりと白昼夢を見せてくれていっとき浮き世のウサを忘れさせてくれるならそれは良い映画なのだと思う。

 怪獣映画は怪獣大好き少年がカッコイ~、スゲ~と言ってくれればまず成功なのだと思うそして「ゴジラ ミレニアム」はかなりいい線までいってると思うのだ。

 実際問題としてこの映画では本編はなにもやっていないというに等しいが(怪獣が出現して、対決するに必要な説明しかしていない)特撮のじゃまをしていないのは評価出来る、ヘタな(ステレオタイプな)文明批評をしたり環境保護を歌い上げるくらいならこのほうがよほど映画として上である。

 しかしこの映画はあきれるほどに「ガメラ」をパクっている、自分が参加したから言うわけじゃないが(それともそうか?)「ガメラ」が東宝、円谷、東映に与えた影響は大きいと思う、でも天下の「ゴジラ」でそれをまのあたりにするとさすがにちょっとびっくりという感じである。

 パクリパクられは映画の常であるからそのことを非とするつもりはない、ただここまでやったからには「ガメラ」との対比で話をすすめてもバチはあたらないだろう。

 先ほど飯屋のたとえが出たのでそのアナロジーでいくと「ガメラ」が良くできた一杯のどんぶり物だとすれば「ゴジラ」は(正確にいうと今回の「ミレニアム」は)豪華なフルコースである、味の完成度は一人の板前がその腕前をいかんなく発揮したどんぶり物の方が上なのだが、宴会や結婚式にそれを出すわけにはいかない、にぎにぎしい席には彩りもあざやかで味の変化に富み銀の食器も美しいフルコースが必要なのである、人はパンのみに生きるにあらずということだろうか(全然違う)

 とにかく豪華なミニチュア、たっぷりなCG、莫大な火薬量、そしてマッチムーブに次ぐマッチムーブ。

 マッチムーブとは動きのある下絵にCG等を合成することで、いかにも「わけあり」な止め絵での合成と違って、カメラが動いて(つまり絵が動いて)いる中に合成物がはめ込まれるため絵のリアリティが増す。
 しかし画面を解析して撮影時のカメラの動きを割り出す作業が必要となり単純な合成とはケタの違う手間がかかる、たとえばヘリの空撮などカメラが3次元に移動しつつ、細かく振動してたりするとこれは大変である、普通はここ一番という時に使用するものだと思うのだが今回のゴジラでは「なんでこんなカットにまで使ってるんだ?」とびっくりする贅沢な使い方をしている。

 このマッチムーブも含め数多くの特殊効果はうまくいっているところも、唖然とするほどダメなところもあるが鷹揚にすべて見せきってしまうあたりがまた横綱相撲といってよい。

 ガメラの花板は神経質すぎるきらいがあって失敗はもとより少しでもイメージと違っているカットは切りまくって認識出来ないほど短く(1コマとかに)してしまったり、合成素材を乗せまくって何が映ってるんだかわからなくしてしまうなどの悪いクセがある(「もうちょっと見せてよ」というのは演出としてアリだと思うが「えっ、今の何が起こったの?」というのは本末転倒だ)

 バレようが多少おかしかろうが派手な絵をば~~んと見せて大向こうをうならす特撮映画というのもまた映画の楽しみであると私は思っているのだ。

 とまれ内容的にも表現的にもガメラの敵じゃなかったゴジラがやっとその本領を発揮して、まるでタイプの違う豪華な怪獣映画として復活したということを一怪獣ファンとして私は喜ぶ、横綱の復活のきっかけが幕下の活躍であったということに(幕下のスタッフであった私は)快感を覚える(なにしろこっちは操演部が火薬までやって全4人、あっちは火薬と操演が別パートでそれぞれが倍ほどもいるのだから)

 未見の人には「見て損はないと言う」のが私の結論である。

 (とはいえいまさら言ってもしかたないことではあるがこれは劇場で見たい、豪華な料理は豪華な宴会場でこそ映える、どんぶりでもそうだがましてやフルコース、折り詰めにして持ち帰って家で食べたらどんな味になるか私には責任がもてない、もともとものすごくうまい料理というわけでもないのだし・・・)



ブレア・ウィッチ・プロジェクト

 クレジットタイトルに何故スタッフの名前を一杯出すのか? アイデアがすべてのこの映画に? 

 (未見の方で現在特段の前知識を得ていない方は、今後それ以上の知識を仕入れることなく、上の感想をも忘れたころレンタルビデオで見ることをお勧めします、アイデア賞であり「やったもん勝ち」であるこの映画は300円くらいの価値なら充分あるかも)




ウルトラマンティガ-THE FINAL ODYSSEY-

2月14日 月曜日 くもりときどきはれ

 今日は「ウルトラマンティガ-ファイナルオデッセイ-」の完成ひろう試写が五反田のイマジカであったのでいってみてきました。

 試写室のまちあいロビイにいくとすごく人がいっぱいいて僕はおどろきました、こんなに人がいっぱいの試写ははじめてです、きっとこの映画に期待をよせている人がいっぱいいるんだなと思いました。

 イマジカの試写室はけっこう広いのですがここでも立ち見が出ていました、亀甲船の上田くんのように関係者じゃないのに見にきている人がいるのがいけないと思います。

 映画は一班へんせいで撮って僕は本編も特撮もやっていて、だからだいたいのところははあくしていたつもりだったのですが、はじめて見る映画のように目あたらしかったです、それはCGや合成のポストプロダクションがいっぱい入っていたからです、いちど撮った映画を作り代えるいきおいであと処理がされています、この短期間によくこれだけの作業ができたものだと僕は感心しました。

 CGはぜんぱんに出来が良く、とくにゾイガーの大群が良く、ちょっとギャオスみたいでしたが飛びかたがよく、洞窟、くもり空、晴天といろいろな所を飛びますがマッチングも良いと思いました。
 撮っているときは地味な映画になるのでは? と思ってしんぱいしていたのですがCGと合成のおかげでずいぶんともりかえしていると思います。

 音楽もはなばなしい勇ましいブラスのきいた音楽が多くて、しんみりしてもいいかなと思うところでも勇ましかったりしました。

 試写がおわると大きな拍手がわき起こりました、まあぜんいん関係者なのであたりまえなのですが、おわってもし~~~んとしていていきなりプロデューサがぜんご策をねり始める作品もあったりするので、あたりまえなのは良いことです。

 その後地下のルミエールというレストランに移動して打ち上げが始まりました、後からはいったので中はまんいんで入り口ちかくのテーブルにしか近寄れませんでしたが、かえってえらい人の目がとどかなくてよかったです。

 始めのスピーチがまだおわってなくていつもの「それではみなさまごかんだんください」という「食べてよし」の合図もでていなかったのですが僕と美術のTさん(とくに名をひす)はお寿司をぱくぱく食べてしまいました、僕はおなかがすいていたからですが、Tさんは「ギャラが安かったからここで元をとらにゃ」とか言っていました。

 スピーチをきくともなしにきいていると前売りがびっくりするくらい売れているそうです、ドラえもんより売れているというのにはおどろきました、どうせなら多くの人に見てもらいたいのでこれは良いことです。
 
 そういえばむかしこういう席で広告だいり店の人が「みなさまにはよい商材をご提供いただきありがとうございます」といったのでムッとしたことがあります「僕はあんたの商売の材料を作ったおぼえはないや」などといいたくなるのは僕がおとなでない証拠でしょうか?

 食べ物はお寿司、鳥のからあげ、サンドイッチ、おでん、ソーセージ盛り合わせ、焼きそば、シチュー、スモークサーモンのサラダ、フライドポテトなどでした。

 「食べてよし」になったので大手をふって食べていたら僕の名前がきゅうによばれてびっくりしましたなんだと思ったらメインスタッフが順にまえにでてスピーチをしていたのです、心がまえが出来ていなかったので「このスタッフの中では僕はしたっぱで大岡さんの言うとおりにやればよくて楽でした」という話しをして切りぬけました、テーブルにもどったらTさんに「ホームページに書いたことの二度うりしちゃいかんな」と言われてしまいました。

 やがて数字のかいた紙がくばられました、景品のあたるくじの始まりです、115人中100人に景品が当たるそうです、僕は98番でした、円谷社長が箱のなかから最初のあたり番号をとりだします、「98番」! なんということでしょう、僕がいちばんにあたったのです僕はよろこんで前にでて景品を受け取りました、それは「ウルトラマンダイナ」のDVDソフト1巻~5巻でした、来月PS2がでたらかってTVでみようと思いました。

 さてみんなはいちばんの僕がDVDソフトというまあまあの景品だったのでこれは最後はすごいものが当たるのだろうと思ったようですがこのくじはそういうことはなくだんだん盛りさがっていくのでした。

 それでも操演部はぜんいんそれなりのものがあたったのですが、そばにいた照明のI氏(めいよのためとくに名をひす)はぜんぜん当たらず、始めは「115人中100人当たるくじで残りの15人に入ったらこれはこれですごいことだよね」とか言って笑っていたのですが、はずれ続けるとだんだんムッとし始め最後のほうでは「もうこれで当たらなかったら俺は・」などと本気で怒りはじめ、まわりもひやひやしていたのですが最後の最後でやっと当たって喜びいさんで景品を取りにいったのですがこれが「うるとらまんじゅう」という小さなクッションほどもある巨大などらやきで、まあ食べるつもりで買った人はともかく、そのつもりのない人にはイジワルとしか思えない代物で、やっぱり怒りくるっていました。

 お酒が飲めない僕は食べ物がなくなって、くじが終わるともう用はないのでさっさとかえってきました、終わり。

 


ロフトプラスワン


 新宿の「ロフトプラスワン」というトーク専門のライブハウスから『ウルトラマンティガ』公開記念トークイベントへの出演以来というものが来て、ほんの少し(ほんとに少しですが)お客さんの前でお話をして来ました。

 まずは始めにこのロフトプラスワンというライブハウスについて説明の必要があるかと思います、ここは自称「日本で唯一のトーク専門のライブハウス」で自身の説明によれば「ある日は映画についての話、次の日はゲームについて、別の日には猫の話、その他にも、漫画、アニメ、音楽、ホームレス問題、右翼左翼、などなど、可能な限り制約を外し、有名無名に関わらず、興味があるものは何でもやってしまおう」という趣旨のお店です、実際ホームページから3月のスケジュールを見ると。

3/1 吉本興業プレゼンツ 井上マーの「ごきげんよう」をやりたい
    お笑いファン必見!!今年最も要注意の井上マーが何と緊急登場
  2 サンスポ・プレゼンツ「おはようナイト」
    わいわいY歌の集い 国家遺産「エロソング」をみんなで歌いましょう
  3 映画『ウルトラマンティガ』公開記念イベント
    「それいけ!ウルトラマンティガ」
  4 だめ連トーク&交流会16
    「SEX 、暴力、革命、そして交流」
  5 東京のラーメン屋さんプレゼン
    「ラーメンマニア大集会3! 爆裂!テレチャン裏話、超秘話!」
  6 「プラスワンナイト」
     プラスワンで最もアナーキーなイベントとの噂!?
     最近のイベント総集編と大交流会! 初心者歓迎。怖くないので是非来て
  7 「睦月影郎の変態ナイト7」
    まんがのヌキかた ~僕はこんなマンガで抜いてきた
  8 特撮辛口トーク
    「怪獣魂」~甘口の批評に飽きた貴兄に
  9 ワークショップ・ミュープレゼント
    「子供の教育問題徹底議論~環境と教育最前線!

 などなど種々雑多です、ホビージャパンなどを読んでいる方はご存じかと思いますがここでは最近特撮関係のイベントが多く開かれており、とくにウルトラはスーツアクター人気と相まって評判がいいらしいのですね、で今回は映画ティガのトークライブだというわけ、で出演予定者が

切通理作(司会)
開田裕治(司会)
開田あや(司会)
村石宏實
長谷川圭一
八木毅
石川整
影丸茂樹
田中彩佳
権藤俊輔(出演予定)
中村浩二(出演予定)
長谷川恵司(出演予定)
椰野素子(出演予定)
杉本末男
川上登
高橋勲
宮川秀男(出演予定)
八巻亜由子
大岡新一(出演予定)
高野敏幸
増尾隆幸




 というそうそうたるメンバーだ、実のところ3月3日は「ホワイトアウト」のクランクアップ翌日で特撮班の打ち上げ日、無理じゃん?と思っていたのだけれどこっちのデザイナーである高橋氏が出るというならそれを理由に行けないとも言えない。
 高橋氏に聞いたところ(氏はゴジラ関連で一度出ている)こっちの打ち上げが終わってから行けばいいんじゃない、というのでOKしたのであった。


 当日は朝から東宝スタジオで機材のバラシ(スタジオからの機材の撤収と整備)をして、17時から最後のラッシュを見てワープを体験し(いずれ別項目をたてて解説)19時より成城学園南口のやきにく工房で打ち上げ、くじ引きでは監督賞のプレステ2を取り逃がして亀甲船賞の「ウルトラマンティガ親子鑑賞券」を引き当て(!)21時に高橋氏の車で新宿へ向かった。

 ロフトプラスワンは歌舞伎町のいいところにあって男二人が歩いていると呼び込み、ポン引きがうるさいくらいに寄ってくる、こぎたない雑居ビルのこぎたないエレベーターで地下2Fに降りるとこれがいかにもなライブハウス、渋谷のジャンジャンで長谷川きよしや高橋竹山を聞いたりしてたころから10数年こういう所には足を踏み入れてないなあ。
 中に入ると鈴木プロデューサーの声が聞こえる、予定に入っていなかったのでは? 
 控え室で今回の話を持ってきたロフトのさいとう女史と挨拶、お若いのにこのイベントを仕切っているらしい、でもそれなら「私はライブハウスの一女店員で」というあなたの立場はなに? と聞こうと思って忘れていたのに今気がついたぞ。
 
 開田夫人は半チチどころか8分チチ出した女王様ルックで目のやり場の困る(正直に言えば全然困らない)コスプレイヤーの本領発揮したコスチュームである、旦那はこういうのをどう思っているのか(嬉しいのか?)女性コスプレーヤーは合法的に人前で肌をさらす機会をうかがっている人種である、という意見を聞いたことがあるのだがそれは本当なのだろうか。
 この女王様ルックは今回ダーラムの甲冑を作ったジャップ工房(「本当の女王様」の衣装や聖飢魔IIの衣装を作っている)の作品なのだそうな。

 さいとう女史、開田夫人に私は終電で帰ると伝えるとそれなら少しまきましょうと司会の開田、切通両氏に伝言が伝わるが鈴木プロデューサが語ってちっとも終わらないのであった。

 10時半ころ鈴木氏、大岡氏、村石氏(後の二人は途中でよばれた)が引き上げ、権藤君、中村君等が壇上にあがる、歓声、実に人気がある、こういう客層で果たしてスタッフの裏話などに需要があるのだろうか、などと思う間もなく声がかかり壇上に出ていく、ここで始めて客席を見たのだがさして広くない店内に客がぎっしり入っている、100人以上は
いるだろうか。

 開田氏から中村君の吊りにひっかけて吊りベルトの話を振られる、回転縛帯の話をさせたいらしいがそもそも縛帯のなんたるかを知っていると思えない観客に回転縛帯の特殊性を説明するのは難しい、言っといてくれれば持って来たのに。

 ついで高橋氏が呼ばれ特撮の造形物について話す、実在のものでない物は本物と比べられないので楽な分存在感を出すのが難しいという話。
 ついでウルトラマンの石像の話に移る、映画には過去に滅んで石像化したウルトラマンのいろいろなタイプの石像が出てくるのだが、その作りものの中で特に目立ったのが「ヒゲウルトラマン」であった(「ターンA」のようなヒゲが生えているのだ)

 これは、こんなのもあるね、とかこれは変じゃない? とかいう各種ウルトラマンの中で特に「これはないだろう」という造形だった、準備班があれこれ作っているうちにネタ切れになり「え~~いヒゲでも生やしたれ!」ということになったと想像される恥ずかしいウルトラマンだったのだが、これが映画では重要な深刻なシーンでアップで登場するのだ。
 あれはあんまりだよねえ、撮った方も撮った方だけどさ、と話を振ると高橋氏弁明に大わらわとなり観客は盛り上がった、なるほどこういう感じで話せばいいのだろうな、と思った時には私は終電が迫り時間切れとなってしまった、開米プロの杉本氏、ジャップ工房の3氏が壇上にあがり造形の話しを始めたのを潮に私は壇を降りた、結局舞台には1時間近く上がっていたのだが話しをしていたのは正味数分であったろう。

 怖い怖い午前0時の歌舞伎町を歩きながら、とおりいっぺんな質疑応答をするのでなく、腰をすえて朝までだらだらとうちわ話を繰り広げたらさぞかし面白かったろうなと思ったのだが、明日からお休みの高橋デザイナーと違ってどうにも朝までつきあうわけにはいかなかった私は終電に飛び乗り家に帰ったのであった。



 ロフトプラスワンのギャラはその日の売り上げの10~20%を出演者数で割った金額ということでこの日のように人数が多いときはほとんどなし、好きなだけ飲み食いしていただくことが全て、というものなのである。

(「ホワイトアウト」特撮の打ち上げで喉元まで焼き肉が詰まっていてコーラを2杯飲む以外何も口に入れられなかった私は損したとも言える)

 高橋氏が以前ゴジライベントで出たときは千円ちょっとであったので受け取りにも行かなかったという(氏は車で来て駐車場に止めているのでそれを受け取っても赤字であったろう)結局こういうことで金が稼げるとは思っていない連中がファンサービスで(サービスというと「与えるもの」という語感があるのでもっと言えばファンと一緒に楽しもうと)出演しているわけなのだ。

 以前樋口真嗣がロフトに出たとき腹が減ったといって飯を食いながらトークをしたらしい、これについて「ギャラをもらっている出演者が金を払って聞きに来ている客に向かってすることでない」という怒りの書き込みがniftyにあったのを目撃したことがあるが、しかしこれはあまり責められないだろう、樋口真嗣は今回の我々よりあるいはギャラが多いかもしれないが(今回ほど出演者が大人数ではなかったので)それでもしれた金額であることは間違いなく(一人で出たわけではないので)なにより店が「ギャラは少ないけどせめて飲み食いはご自由に」と言ったに違いなく、「客と一緒に楽しんでいただけるのが一番」と言ったに違いないのだ(私がそうだったから)
 たぶん樋口真嗣としてはお客様の前などという意識はなく、マニアなお友達(というのは普段の身の回りのお友達のことだが)と飯を食いながらダベっているつもりだったと思うのだ。

ノイ


「空白の2分間。宇宙から帰還した夫。双子を妊娠した妻。ラジオから聴こえてくる、恐怖のノイズ?
v
 というのがこの映画のキャッチコピーである、このコピーから類推されるのは、宇宙飛行士がエイリアンに乗っ取られて帰還し、妻にエイリアンの子供を妊娠させる、というストーリーである、しかし宇宙から帰還した飛行士がエイリアンに乗っ取られているというのは「スピーシーズ2」まんまなのだが果たしてそうか?

 妻は夫の異常に気づくと同時に自分が身ごもっているのは人間ではないのではないか?と疑い、悩むが周囲はマタニティブルーであると思って取り合わない、そして最大の味方であるはずの夫がこの場合最大の敵になる、というのは「ローズマりーの赤ちゃん」という金字塔があるのだが、まさか果たしてそうか?

 そのまんまだったら実際驚いちゃうぜ、と思って見に行ったわけですが、実にそのまんまなので驚いてしまいました。

 上記の2本を見ていないならこれはOKか、というとそういうわけでもありません、こういうことになるんじゃないだろうな~と思っているとまさしくそうなる曲のなさで、映画の見方を少しでも知っている人間ならおよそ迷うことなくストーりーの先読みができます。

 脚本も演技もカメラワークもオーソドックスながら破綻せず、きちんとホラーの文法を守っているクオリティの高い映画なのですが、いかんせん何の工夫もない、槌で地を打つがごとき間違いのない展開にはあきれるものがあります、おすすめ出来ません。

 ラジオから聞こえてくるノイズというのは、エイリアンが仲間と通信でもしているのか、と思うわけですが、当然のようにその通りです、なお「ノイズ」というのは日本の配給会社が付けた邦題で原題は「THE ASTRONAUT'S WIFE 」宇宙飛行士の妻、というものです中身に曲がないやつはタイトルまで曲がないぜ。


小説 「秘密」 -東野圭吾-

 泣かせる・感動させる、のが目的の小説があっても悪いとは言いません、ただそういう小説てのは志が低いと私には思えるし趣味でないだけです。
 ただし、その仕掛けが見え透いているお話ほど不快なものはないとは言えるでしょう。

 交通事故で妻の心が娘の中に入ってしまい精神的には夫婦ながら、外形は父娘として暮らしていかねばならなくなった2人の悲劇の物語であるこの小説は、読者を騙しにかかっている作者の仕掛けが見え透いていて読後感最悪の一編となりました、たいていの小説はそれなりに楽しむべきポイントを見つけて楽しむ私にしては(けなしてばかりいても普通多少は楽しんでいるのですが)楽しむべきポイントを見つけることができず、よって近来まれに見る駄作と評価せざるを得ません。

 いかなる人にもお勧めしないのでここでネタバレしつつ話を進めるわけですがそう聞いてもまだ読んでみたいと思われる方はこの項は飛ばしていただきたいと思います。

 さてこの小説は「娘の体に宿った妻が自分を捨て第二の人生を歩むつもりなのではないかと思い悩む夫と、そのつもりがないにもかかわらず夫の不安を払拭する方法を見いだせない妻の気持ちがすれ違い、一生夫が悩み続けるならばむしろ自分はいない方が幸せだろうと覚悟を決めた妻が娘の魂が戻ってきたフリをして夫と別れる」という風にまとめることが出来ます。

 話の出来不出来は何故、どのように夫が悩むかということであり、妻がそれにどうに対処したかにかかってくるわけですが、私に言わせればこの小説の構成はアンフェアです。

 具体的に言えば、娘の体に宿った妻は外形はどうあれ自分は妻であり、夫婦としてこれからも暮らしていこうと言います。
 
 一方妻は対外的には娘として生きていくことを決心する一方自分が昔勉強をまじめにやっていなかったことを悔やんでいて、降ってわいた第二のチャンスに今度こそはまじめに勉強して医者を目指そうと意欲をわかせています。
 
 これ自体は多くの大人にとって共感できることではありますが、妻はエスカレーター式の私立女子中学校をやめ共学の高校を受験します、さらに自分は出来る限り妻としての役割を果たす、としていながら高校でテニス部に入部します、何故?

 男子が居た方が学校のレベルが高く、部活をしていない生徒よりもクラブ活動をしている生徒のほうが勉強時間のなさからくる危機感によって勉強は出来るようになる、と言うのですが説得力がありません、一般論としてはそうかもしれませんが「勉強していなかったおかげで自力で幸福をつかみとる人生を選べず、全てが夫次第であるような生活は惨めだった」とまで言って過去を悔いている、そして第2のチャンスを得てこんどこそはと勉学に燃えている特殊な立場の人間にとってそれが意味を持つとは思えないのです。

 主婦しての役割をこれまで通り行うつもりであるならば高校生活が時間的にきつい2足のわらじになるのは目に見えています、それに加えて時間的にさらにきついクラブ活動をするというのは理解出来ません。

 この夫婦の危機はひとえにこのクラブ活動によって引き起こされるわけですが、理解できない(というか言葉の額面通りには受け取れない)行動をもとに悲劇を演出されてもとうてい共感できないわけです。

 さてそのあと妻はクラブの男友達に惚れられあれこれとアプローチをかけられるわけですがこれの対応も納得できないものです。

 夫が知らない男からの電話を気にしているのに「仕方ない」「あなたには関係ない」という態度をとり続け、果ては夫が電話を取ることのないよう時間を示し合わせたうえ、会話を聞かれないように2階で長電話するということまでもするのです。

 先ほど納得できないと言いましたがこれは「つまりは、妻は第2の人生を自分ひとりでやりなおす決心を固めた」とみれば賦におちるわけで夫も読者もそう思わざるを得ないのです。

 妻はさらにクリスマスイブの当日夫を騙してまで当の男友達に会いにいきます、これについては「一方的に約束させられたので断りにいった」もので「言えばあなたが心配するから」という言い訳をするのですが、これは夫の「バレなきゃ浮気してもいいってのと同じだ」というセリフに分があります。
 そもそも夫婦であれば、精神が入れ替わっているかどうか以前の問題として、不倫・浮気を疑わせるような行動は慎むのが当然です。

 逆に言って夫のところに自分の知らない若い女から電話が頻繁にかかってくれば妻として不安であり不快であるのは当然で、それは誰? と聞く権利はあると思えます、そもそも夫はそういう電話がかかってこないよう努力する義務があると思います。

 このように常識をもってすれば疑念をいだかれるに充分な行動を多々とっておきながら、夫に「若い男に言い寄られて楽しんでいるんだろう」と追求されると「楽しんでいるわよ、いけない?」と逆上(逆ギレってやつか?)するような人間に夫婦生活を継続する資格は無いでしょう(夫以外の男とつきあうことが楽しみであり息抜きであるような夫婦生活ならもはや解消すべきでしょう)
 
 結婚相手に対して「あなたとの結婚生活は惨めだった」と言う無神経さといい、この妻が夫を深く愛しており、人情の機微にも通じていると言われても納得出来ません、心変わりはいっさいなく純愛を貫くつもりであったと言われても信じられません。

 これだけ心変わりしたと見えざるを得ない描写をさんざんしておいて、あとになってそうではありませんでしたという風にもって行き、悲劇でしたと言われてもそれはアンフェアと言うしかないのです。

 娘のフリをして夫の思いを断ち切る、というのもおかしな話でそもそもこの2人は法律的にも外形的にも夫婦でなく、妻としては本当に関係を清算したい場合でも、夫を愛しているが故に離れる場合でも、私は一人でやり直したい、この関係は無理があるので継続できない、と言えばそれでいいのです。

 夫はそれなりにダメージを受けるでしょうが、これは誰が悪いというわけのものでもなく、離婚話はいつでも誰にでも起こりうることでもあり、完全にダメになればこそあらためて始まる第2の人生もあると思えばなにも別人を装うという大バクチをうつ必然性はないのです。

 この小説はこの夫婦が精一杯理性的に行動し、相手を思いやっていたにもかかわらず世間からは親子としてしか見られないために結局夫婦としての暮らしを継続していくことが出来なかった、という構成にすべきだったでしょう

 あたえられるお話を時間軸にそって受け止めるだけで、立ち止まったり前に戻って考え直したりすることが出来ない映画ではこういうインチキっぽい展開はよくありますが、小説ではそうはいきません、「さっき何て言ってた?」とか思えばすぐに読み返せるわけです、この小説が出た当初はかなり評判になったのですが信じられません、書評家の皆様は読んだ本を読み返さないのでしょうか?


 余談ですが、この小説はあるいはこの構成のままで「夫を愛していることは疑いないものの、若い体を得た妻は新たな人生を選ぶ誘惑に揺れる」という夫婦の危機(と新たな旅立ち?)の物語にするという手もあるでしょう(私の趣味からは180度方向が違ってしまいますが、そんなお涙頂戴ものでも読む人はいるでしょう)

 ちなみに、妻に娘の心が宿るのが北村薫の「スキップ」です、この小説の場合精神がスキップするだけ(?)で魂は同じ人間のものですが妻が娘を内包しているのに対し、娘には妻としての記憶も経験もないのですから別人物に近いといってよいでしょう。
 名手北村薫の手によるだけあって心理描写も納得のいくもので間然することがありませんが最後は目も当てられない予定調和です、このネタって激しく難しいのでは?

 世代を越えた精神入れ替わり物の元祖はあるいは梅図かずおの「アゲイン」かもしれません、これは傑作です。


小説 「亡国のイージス」 -福井晴敏-



 リアリティのある「海洋冒険アクション&スパイ小説」が日本人によって日本を舞台に書かれることがあるとは思いもよりませんでした。
 リアリティといっても生活感あふれる(ぬかみそ臭い?)などという意味ではなく、ホラ話でありながら、ウソくさくなく作り物くさくなく、充分にだまされてあげられる出来であるということです。

 海外作家でいえばトム・クランシーとかマイケル・クライトンとかいった感じでしょうか、政治、経済、先端科学、あるいは軍事的緊張などの現代の社会情勢を作品中に間違いなく取り入れた上に壮大なホラ話をぶち上げるというやりかたです。

 充分なリアリティと「足が地に着いていないフィクション」これこそ私の待ち望んでいた小説です、すべての小説読みにお勧めします。

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 処女作にして前作である「Twelve Y.O.」はスパイ小説です、充分に面白くはありますが「亡国のイージス」から海洋アクションの部分を取り去ったといえるだけに小物という印象はぬぐえません、また作者の意欲が空回りしていてやや生煮えな感触があります(空回りしている部分に勢いを感じるということはありますが)

 実はこれ「亡国のイージス」の前夜という位置づけで、世界観に関連があるのですが、これを読んでいなくては「イージス」がわからないとか、読んでいるとより面白いとかいうことはありません、「イージス」を読んで気が向いたらこっちもいってみる、ということでいいのではないでしょうか。

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 2打席連続ヒットを飛ばしている福井晴敏の次の作品は何だ! と心待ちにしていたのですが(近年これほど次回作が待ち遠しかった作者もいません)ついに出た新作が「∀(ターンA) ガンダム」 が、が、がんだむ~ \(??)/ という感じです。

 たしかに作者は32才、ガンダムショックの直撃を喰った世代ではありますがそれにしても何故ガンダムなのでしょうか?

 作者は「イージス」、「Twelve Y.O.」で日米安全保障条約、沖縄基地問題や日本人の国防意識などを小説で取り上げており、タカ派であるとか自衛隊マニア(!)ではないかと言われてきたわけです、それに対して別にそういうことはなく自分の好きなタイプの小説(スパイ小説や海洋冒険アクションのことだと思いますが)を今書こうとすると舞台を自衛隊などに求めるしかなかったのだ、と弁明していたのですが、これはそれへの回答なのかもしれません。

 ガンダムのみならず多くのアニメが凡百の三流ライターによってノベライズされているわけですが、それらは原作にどっぷりと漬かったマニアむけのものでしかなく(字で見るアニメだったり、共同幻想の補強材でしかなかったり)一個の独立した小説として成立しているものではなかったと言えます。

 そもそもアニメならずともノベライズ(違うストーリーでの書き下ろしも含む)で面白い小説を読んだことがありません、これは基本的にノベライズを受けるような作家が一流でないせいなのか、あるいは「ノベライズで一本」と書き始めた途端に小説からなにか重要なものが抜け落ちてしまうのか、どちらだ?と私は疑っていたのです。
 
 福井晴敏ならあるいはやってくれるのではないでしょうか、ガンダムから生まれガンダムにとらわれない一個の小説を。
 
 なんていってないで早く読め? それはそのとおりなのですがまだこれ「上巻」だけで「下巻」が出ていません、途中で空きがはいるのはいやなので読み始められないのです。

 感想はいずれ。


小説 「バトル・ロワイアル」 -高見広春-



 義理や人情といったウエットな情念と切り離された、想像力が軽やかに飛翔するフィクションが読みたい(映画なら観たい)と私は常々思っています、私はこれを勝手に「足が地についていないフィクション」と呼んでいるのですが反語的誉め言葉のつもりです。

 話は最初からズレまくりですが、日本映画で最高に「足が地に着いていないフィクション」は東映の「新幹線大爆破」だと思っています、「スピード」にパクられた「速度が一定の値以下になると点火する爆弾」を仕掛けられた新幹線を中心に、犯人がこうくれば警察はこうする、警察側がこうすれば犯人はこうくる、と充分に練られたアイデアが全編に充満し観るものを飽きさせません、登場人物たちが双方とも「頭がいい」というのも重要なポイントです。
 情念に拠らず、ハデな映像にたよらず、ストーリー展開だけで観る者をぐいぐい引っ張っていくシナリオは超一流で、ハリウッド映画なら珍しくもない事ですが日本映画には珍しいといって良いでしょう。

 実際アイデアだけで一本の映画を「見せきる」のはとても難しく、義理人情といったエモーションに走るのは安易な道といって良いのですがどうも日本ではその辺に誤解があるようです。

 小説において私が新本格推理をよく読むのはそれらが私の理想に(比較的)近いからです、始めにアイデアありきというアプローチはともあれ「始めに主義主張ありき」という私のもっとも厭うタイプの小説の対局にあります、人間が将棋のコマのようであるのは困ったものですが、斬新なアイデアこそが価値あるものであると思う一方、犯罪に至る人間の苦悩や社会の歪みに対する告発などは読みたくもないのです。

 閑話は休題して、さて本作ですが。

「全体主義国家、大東亜共和国では毎年全国の中学3年生を対象に任意の50クラスを選び、戦闘シミュレーションと称する殺人ゲーム ”プログラム” を行っていた。 ゲームはクラスごとに実施、生徒たちは与えられた武器で互いに殺し合い、最後に残った一人だけは家に帰ることができる」(裏表紙より抜粋)

 といういわばフィクション中のフィクションがこの小説です、瀬戸内海の小島に集められた42人の中学3年生が互いに殺し合う、というと殺伐としたスプラッターを想像するかもしれませんが「全然違います」

 42人がどういう生い立ちで、性格で、何を考えどのように行動していくかを充分検討した純粋なアイデアだけで読ませていく小説なのです、彼らはいずれ次々と死んでいくわけですがとくに刺激的な表現はなされていません、志の低い見せ物的な描写を求めてこれを読むとあてがはずれるでしょう。

 そして特筆すべきがこれが良質の「青春小説」でもあることです、生徒たちは様々な行動原理によって過酷な現実に立ち向うのですが、その重要なもののひとつが恋愛感情です、そしてこれがいかにも「中坊」らしく「どうせ死ぬなら好きな人に一言好きだと言ってから死にたい」というような、言ってみれば極めて青臭い、しかし大人が忘れてしまったピュアな感性がここち良いのです。

 一部の生徒の超人的活躍を見るとこれが中学生てのは無理ないか? と思わないでもありませんが、これを高校生としてしまうと上記の恋愛感情がもっと生々しいものになり、それこそウエットな世界を構築してしまう怖れがあります、理想を先行させ、信ずるもののために殉じて悔いない生徒たちの行動は無理がなく中学生という設定の妙と言わざるを得ません。

 目を見張るような山場があるわけでなく、登場人物の苦悩を情感たっぷりに表現するわけでなく、ある意味淡々と生徒一人一人の行動を追っていくのみで1300枚の長編を読ませきるこの小説はストーリーテリングとはこのことかとあらためて気づかせてくれる傑作です。


 余談です、
 ここまでを書き終わり「バトル・ロワイアル」を本棚に戻そうとして近くにあった「照柿」(高村薫)の背表紙が目に入りました「書き下ろし 1400枚!」、この軽やかでサッと読みきれた小説とあのひたすら重くて長くてウエットな小説とがほぼ同じ長さだったとは。


小説 「ホワイトアウト」 -真保裕一-
小説  「月の裏側」  -恩田陸-
小説 「屍鬼」   -小野不由美-



テロリストに占拠されたビルの中で人質になるのを免れた警官が、たった一人で抵抗を続け遂にはテロリストを壊滅させる、テロリストは革命の兵士を装っていたが実は金めあてのギャングであった。

 というのは言わずとしれた「ダイ・ハード」、この「ビル」を「ダム」に 「警官」を「ダム運転員」に変えたのが「ホワイトアウト」です。

 真保裕一が「ダイ・ハード」を見たことも聞いたこともないとは思えないのですが、何故にここまで似た話を書くのでしょうか? 

 斬新なアイデアにこそ意味があるとする私の価値観で言うと、翻案とかあるいは「どっかで見たようなお話」は総じて評価が低いのです。

 あとはどれだけ新味があるかですが「ダイ・ハード」より舞台に広がりがあり、アクションのネタが多く、警察側の動きも面白いという点では見るべき点はあります。
 しかし山で遭難した友人を助けられなかったことがトラウマになり、友人の婚約者に負い目を感じている山男という設定は私の好みではありません、超人的な行動力の動機付けなのかもしれませんが、こういうウエットな行動原理はかえって男のドラマを損ね、結果爽快な読後感を損ねていると感じるのです。
 (負い目と引き替えでなきゃあんたは戦えないのか? ということですね、自嘲気味のボヤキを入れながらぼろぼろになっても抵抗をやめないマクリーン刑事の方がよほどかっこいいと言えるでしょう)

 ついでに言えば「山で遭難した友人を助けられなかったことがトラウマになり、その恋人に負い目を感じている山男」が「テロリストをついには壊滅させる」というスタローン主演の「クリフハンガー」という映画(1993年製作)があるのですが、これがまた「ダイ・ハード2」のレニー・ハーリン監督作品です。

 洋の東西を問わず似たようなアイデアを手を変え品を変えして見せていくのはエンターティメントの常道ですが、ここまで似ている映画が過去に2本まであるという点で「ホワイトアウト」の減点は大きいと言えるでしょう。

 真保裕一がアイデア流用をしなければならなような作家とは思えないのですが、なぜにこのような作品をものしたのか疑問であります。


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 水郷の街、水辺に住む人がある日突然失踪して数日たつと何事もなかったかのように戻ってくる、見た目はもちろん記憶も経験も一緒、しかしその中身は人にあらざるものにすり替えられていた・・というのが「月の裏側」です。
 
 あっさりとネタばらしをしているようですが、これは本の腰巻きにすべて書かれていることなのであしからず、さて腰巻きには「人間もどきに盗まれた水郷の街」とあるのですが、以上のことがらを鑑みると誰もが(読んだ人はですが)ジャック・フィニイの「盗まれた街」を思い起こさずにはいられません。

(「盗まれた街」ハヤカワSFシリーズ刊、1956年、1978年にそれぞれ「盗まれた街」「SF/ボディスナッチャー」として映画化)

 さて、本を読み始めると作者はじっくりと人間失踪の謎を説き起こしていくのですが、この辺ちょっとバランスを欠いている気がしなくもありません、というのは読者は腰巻きによってその街が人間もどきに「盗まれる」ことを知っているからです。

 じっくりとした展開が効果的なのは何も知らないでこの小説を読み始めた人相手の時だけなのですが、そんな人がどれだけいるでしょう(面白いからこれ読め、とカバー付きの本を手渡された新刊情報にうとい人?)

 こう言うとネタバレしている腰巻きがいけないということになりそうですが(腰巻きは編集者が書くそうなので、編集者が悪いということになりますが)、実際一切の予備知識無しで本を読み始める人はそうはいないわけで(でないと数ある書籍の中からその本を選びだせない)最低限の情報さえ読者が知らないものとして扱うのはいかがなものでしょうか。

 ・・・と思っているとしかし急転直下、3分の1ほどのところで作中人物がこれはジャック・フィニイの「盗まれた街」みたいだ、と言い出すのでびっくりです、彼らは失踪した人が人間もどきになって戻ってくることを「盗まれる」とまで表現します。

 へえ、元ネタさえも隠すつもりはないわけね? と思うわけですが、「ならば」と思ったわけです「恩田陸」には新たなアイデアがあると。

 ところがとこらが、というのがこの小説です、何も足さない何も引かない(というのはウイスキーの宣伝文句ですが)淡々とストーリーは進行します、ひょっとして危機的状況に陥った人間の心理のアヤを描写するのが目的か、と思ったのですが(「盗まれる街」は危機的状況を作りだすためのきっかけすぎず、実は「どうでもいいこと」である場合ですね、ヒッチコックはそういった「どうでもいいもの」のことを「マクガフィン」と呼んでいます) しかしそういうことでもないようです、結局なにをどう読んだらいいのかつかみきれないうちに話は終盤を迎えてしまいます。

 「童子のような顔をもち、無垢でこわいものしらず、それでいて歴史の真実を生まれつきもっている」など、ただ者でない描写がなされている主人公、塚崎多聞がこの話のどこにおさまるのか? と思っていると「どこにもおさまりません」

 全てのものから自由で囚われることも、拘泥することもない究極の自由人が「盗まれる」(統一意志のもとに取り込まれる)事件と対峙するならこの男がトリックスターだと思うのは当然だと思うのですが「そうではありません」

 他の登場人物に「世界の中心はこの男にあるのかもしれない」とか「この男がここに居合わせたことが事件の中心なのかもしれない」と言わせてそれはないでしょう。

 どうも恩田陸の小説は最後が腰砕けというか、ジグソーパズルがうまくはまらないというか、そんなものが多いようです、周辺からピースが埋まっていき大きな絵が見え始めるあたりの緊迫感はただ者でなく、これで最後のピースがピタッとはまったらどんな凄いことになるのだろうと思っていると、どうも残ったピースがうまくはまらず、え~、そういうことなの~? となってしまうのです。

(「六番目の小夜子」がその典型で、最後の謎解きはとても序盤の疑問の説明になっていません、そもそも序盤と終盤では主役達の性格が違っています)

 結局、なんということもなく話は終わってしまいます、ジャック・フィニイ版「盗まれた街」から夾雑物をそぎ落としたサブセットという感じです、「盗まれた街」では主人公達は雄々しく戦ってえんどう豆のさやを地球外に追い出すのですが、この小説ではそういったハデばでしいアクションはなく静かに幕を閉じてしまいます、まあ恩田陸がそんなアクションを書きたがるとは思えないので当然ですが、ではこの視点の変換といった(ある意味衝撃の)エンディングが狙いだったのでしょうか、SF者として言わせてもらえばこれはまたよくある一典型にすぎません、とりあえずはリチャード・マシスンの「地球最後の男」(早川書房刊、1971年「地球最後の男/オメガマン」として映画化)みたいだと言っておきましょう、もちろん新味はありません。

 恩田陸ともあろうものが何故にこのような小説を書くのでしょうか。

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 発表された当時「スティーブン・キング」に迫る、とか越えた、とか様々に喧伝されたのが小野不由美の「屍鬼」です。

 たしかに力作ではあり、上記二作とはケタ違いに面白くはあるのですが、キングを基準にしてどうする、というものではあります。

 そもそもキング自身が「古き革袋に新しき酒を盛る」というタイプの作家で、面白いことに疑いはありませんがオリジナリティはありません(というかもう全然ないというか、何とかしてくれ、というか)

 キングの書くものは吸血鬼とか幽霊屋敷とかゾンビとか、ともかく古き良きホラーの登場人物が今だに主役を張っているのです、では何が新しかったのかというとその舞台を徹底的に書き込むことにより過去のスターを現代によみがえらせていくという手法に尽きます。

 具体的には舞台となる街の景観と歴史を、そこに住む人々の家の間取りやカーテンの柄を、家族の構成と趣味と性格と、その日の夕食の献立を、ことこまかに書き込むことによってそこが自分のふるさとであるように、彼らが自分の古い友人であるかのように共感させ、そこに異質なものが忍び寄る恐怖を描くというのが「手」なのです。

(よって実はキングの小説はアメリカの地方都市に住む典型的なヤンキーこそ真に楽しめるものなのだと思います)
                
 実際オリジナリティのなさは徹底していて、たとえば異次元空間と接触した街に異界の怪物が侵入してくるという中編ホラー「霧」は怪物が登場するまでの緊張感はこの上ありません(私はキングの熱烈なファンでキングの小説はバックマン名義も含めて皆読んでいるのですがこの中編が一番好きです)しかしその怪物がいざ登場するとこれがみな「蜘蛛」だの「烏賊」だのという毎度おなじみの面子なのでちょっとあきれます。

 大長編オカルト&ホラーの「IT」ではさんざん気をもたせたあげくに出てきた親玉が「大蜘蛛」なのには怒りさえ感じました、恐怖は書き込みによって醸しだし、敵はありきたりなものにという確固たるポリシーがあるのでしょうか?

 そしてこの「屍鬼」なのですが、まったくキングの手法をローカライゼーション(風土にあわせる、という意味ですね)した作品です、日本のどこにでもありそうな山あいの村の生活を、大所高所からでなく住民一人一人に焦点を合わせ、事細かに描写していくことによってありありと、まるで自分の故郷のように、日本人なら誰でもそう思いこめるように表現していく腕は見事の一言に尽きます、実のところ小野不由美という作家がここまで筆の立つ人だとは思いませんでした。

 先のない過疎の村で家族を養い暮らしをたてねばならない男、街に住む男と年老いた母の住む村の間で揺れる女、親の都合で都会を離れざるを得なかった少年、ひそかに彼にあこがれる少女、日本人なら誰でもいくつでも、これは自分で、あいつで、彼女のことだと思えるような日常生活、そして暑い暑い夏と、夜闇に紛れてひそかに忍びよる恐怖、これはまさしくキングの手口です。

 小野不由美も別段これを隠すつもりもなくタイトルのページに「屍鬼- To 'Salem's Lot-」と献辞しています(「'Salem's Lot」とはキングの長編第2作、邦題「呪われた町」のことです)
 「呪われた町」の舞台はメイン州の田舎町ですが、主人公の作家、引っ越してきた謎の男、襲われた少年、その少年の死とともに始まる異変、いたるところで発生する行方不明者、増える死者、死体を見張る医者の前で蘇る吸血鬼、崩壊する町、町を焼き尽くす火事、などの要素のほとんどを「屍鬼」は踏襲しています(「メイン州」を「日本のどこか」に、「謎の男」を「謎の一家」に、「襲われた少年」を「少女」にすればOKです、神父のかわりに僧侶がいたりもします)

 しかし、この「屍鬼」は単なるパクリではありません、ベースド・オンでありそれから踏み出すことの少なかった前記2作と違って、吸血鬼は狩られるものでもあるという視点、生命としての成り立ちが根本的に変容しているのに意識が変容していない者の悲劇、未来永劫救われない「神に見放された」者たちの悲しみを、手に取って見られるように、それが自分の物であるかのように描写して見せています、つまり小野不由美はキングの手法を押し進めることによって吸血鬼の側にまでシンパシーを広げることに成功しているのです。
 
 キングがそのネタと同様に旧態な善悪の二項対立から踏み出していないのと較べると、これはパラダイムの転換といってよい快挙といってよいでしょう、しかしここまで行く気があったのならキングを意識するのは「書き込みによる共感」という手法にとどめておくべきだったのではないでしょうか、何故話の骨子までも下敷きにするというマネをするのでしょうか?

 ここまで書ける実力の持ち主なら全てオリジナルで勝負して欲しかったと思わざるをえません、そうすれば私はこれをまごうことなき傑作と評価したでしょう、何度も言うようですが私は翻案や「どっかで見たような小説」は評価できないのです、「屍鬼」はその上に積み重ねたものがあまりに多く、その出来があまりにも良いがゆえに、既製品の上に乗せられていることが残念でなりません。



「スクリーム1・2・3」


 これはホラー映画ファンの監督がホラー映画ファンのために作った、犠牲者も犯人もホラー映画ファンだという映画です。


 第一作、家で一人留守番している女の子のところへ謎の人物から電話がかかってくる、いたずら電話だと思っていると相手は彼女の行動を次々指摘してくる、監視されていると知った彼女はボーイフレンドがもうじき来るんだから、と相手を牽制する「庭を見ろ」という電話の主、見ると当のボーイフレンドは庭で椅子に縛りつけられている、相手は言う「クイズに正解したら彼は助けてやる、間違えれば死ぬ、1作目の13日の金曜日、犯人は誰だ?」「ジェイソンよ」と答える彼女、「間違いだ彼は殺す」と言い放つ相手、「何でよ、ジェイソンよ、ジェイソンよ」と叫ぶ彼女、「一作目の犯人はジェイソンの母親だ!」 ボーイフレンドは朱に染まって倒れる・・・というオープニングを見て、これはやってくれそうだ! と思ったものでしたが、期待は裏切られませんでした。

 ホラー映画の「お約束」を知り尽くし、すれっからしのファンを喜ばせて手玉にとる一方、映画好きであるなら当然不満に思ういくつかの悪しき風習を排除したこの3作は「犯人さがし」というミステリー映画としての側面も持っている傑作(いや佳作・・かな ←弱気な私)です。

 ここで言う「お約束」とか「悪しき風習」というのは以前「ディープブルー」の感想で言った「モンスターパニック映画採点表」の話と同様のもので、同じジャンルの映画が数多く製作されるうちに習慣化して、思考停止状態で使われるいくつかのステレオタイプ、という物です、あの「採点表」ではその一つとして「神出鬼没」を挙げました、似たようなことを書いても仕方ないのでそっくり引用します。


***** 以下引用 ******

 神出鬼没、とはたとえばジェイソン君に追われた登場人物が山荘を逃げているとします、やっとの思いで自室に逃げ込み分厚いドアをバタンと閉めホッとするや、ドアの陰に隠れていたジェイソン君が襲いかかる、というような事を指します。

 こういうシーンを頭の悪い制作者はよく作るのですが正気とは思えません、論理的にも物理的にもありえないことです、観客はとりあえずキャアとかいいますがそれは驚愕しているので恐怖しているのではありません、映画がビックリ箱と同レベルでは悲しいでしょう。

本当を言えば「あそこまで逃げれば助かるんだ頑張れ!」とか「ああ、あそこは行き止まりなのに」とかいう一体感こそが大切なはずなのです、こういう「神出鬼没」をすると肝心の「逃げる」という行為が形骸化してしまいます

***** 引用終わり ******

 話が膨らんだあげくにズレていくのは承知していますが、もう少し書きますとこれは昔むかし押井守が宮崎駿の「未来少年コナン」について批判したことに通じます、押井守はコナン第6話で主人公コナンがヒロイン「ラナ」を抱きかかえ、高い塔の上から飛び降りて助かるというシーンをドラマを破壊するとして批判しました。

 確かにコナンはそれ以前にも超人的活躍をしており常人の物差しでは測りきれぬスーパー野生児であるという描写はされているのですが、ここは「力が強い」とか「足の指が器用だ」(!)とかではありません、ただ単に落ちる(飛び降りる)だけです。

 見た目数十メートルの高さから女の子を抱きかかえ(おそらく鉄かコンクリート製の)床の上に飛び降りても平気ならばそれはもはや人間ではないか「不死身」というのと同じです、いかなるピンチもコナンには無効という宣言に等しいのです、実際それ以降はどんな緊迫した画面でも手に汗を握る、というわけには行かなくなりました、最後の見せ場である「ギガント」(巨大飛行機)の翼の上の大立ち回りも「コナンならOKだろう」という印象でしかありません、ドラマが破壊されてしまったわけです。

 実のところ「ドラマを破壊する」なんて押井守の言えた義理か、と言う気分は山のようにあるのですが言っていることに間違いはありません、ピンチをピンチとして成立させるためにはコナンといえども高い所から落ちれば死ぬというラインを踏み越えてはいけないのです。

 筆が(キーボードが)滑るのを止めず、更に話を押し進めますとかつてのカンフー映画ブームが何故一部のファン以上には浸透しなかったのか、何故ブルース・リーの死とともに下火になったのかということの説明にもこれはなります。

 当時多くのカンフー映画は殴りあい蹴り合いを5分10分と延々写していました、不死身の格闘家たちは殴られても蹴られても(血をペッとか吐いて)三たび四たび立ち上がりちゃんちゃんバラバラを続けていたのです、カンフー映画だから観客はアクションシーンが観たいんだろうという無邪気なサービス精神だったと思うのですが「間違っています」。
 当たれば肉をそぎ骨を砕く必殺の拳が何度当たっても相手が立ち上がったのでは一発一発の思い入れがどんどん減じていきます、サービスしたあげくに売りであるアクションを無効化しているわけです。

 (これに気づいたのが天才ブルース・リーでしょう、じりじりとしたにらみ合い、一瞬で片が付く切れのいいアクション、という今までにない間合いを導入したわけです、この動と静の対比というのは時代劇や、西部劇の決闘シーンでおなじみのもので、ゆえにブルース・リーのみがメジャーになり得たのでしょう、余談ですが日本とアメリカで野球がうけるのは投手と打者の間合いがそれら決闘シーンに近いからだと私は思います)

 キーボードが滑りまくりましたが、要するに「高い所」が危地であるのは「落ちたら死ぬ」からであり、「殴られたら死ぬ」からこそ殴り合いが緊迫するわけです、同様に「逃げる」ことを大事にしないホラー映画は面白くなりません、逃げ切れば勝ち、捕まれば死、というのは実は死守すべき防衛ラインなのですが、鈍感な監督が多すぎるのです、しかしウエス・クレイヴンはわかっています。
 
 私はホラーが好きであるが故にそういった思考停止的ステレオタイプが大嫌いで(観客をバカにしているのだと思う)チェックがきびしいのですがそういうバカをやる監督ではないようです。

 ついで採点表の4番目「異常な勇気」ですが、これについてはやはり以下のように書いています。

***** 以下引用 ******

 最後の「異常な勇気」はこれはもう踏み絵みたいなもので、これが出たら私は物も言わず「駄作」の烙印を押すほどです、これは外にバケモノがいるとわかっていながら「ネコちゃんや~」とか言いながら安全な場所を出ていく輩のことです。

(中略)

 登場人物が納得できない行動をとれば観客は引いてしまいます、殺人鬼が山荘の周囲を徘徊しているなら全員一ケ所に集まって死角をなくし、共同戦線を張るのが当たり前です、個室に戻ってシャワーを浴びたりする人びとを観客はどう考えればいいのかわかりません。

 (昔その場所で「死霊の研究」が行われ「恐ろしい事件が起こった」とされるロッジに泊まり、外を「超自然的な何か」がうろついているとわかったあと、怪しのうめき声を聞いて「誰かいるの?」とかいって外へ出ていくあんたは何もんだ、とか思います。「死霊のはらわた」を傑作という人の気持ちがわかりません)

***** 引用終わり ******

 先ほどの「逃げる」と同様「正しく怯える」のもホラー映画では重要だということです。

 3作目は過去の事件を元にした映画「STAB」(刺殺)がハリウッドで作られているという設定になっており、その撮影所が舞台です。

 登場人物達は自分の役を演じる役者と行動を共にしたりします(メタ映画です)そこでは役者の一人が「ねえ、ボーイフレンドが殺されているのにシャワー浴びるってバカじゃないの、こんな役やりたくない」などと言ったりしています、俺はわかっているぜ、という監督の強いメッセージを私は感じました。
 (でもまあこの役者は「生意気言う奴は死ぬ」という不文律に添って殺されちゃうのですが)

 1作目ではパーティ会場から酒をとりに出ていく奴が、ホラー映画をビデオで観ている友人たちに「こんなとき一番言っちゃいけない言葉を知っているか? それは ”すぐ戻る”だ」とか言っています、監督のステレオタイプな映画を作るつもりはないぜ、という強い意志を私は感じました。

 結局これはすれっからしのファンによるすれっからしのファンのための映画なのですね、それ故あまり「深くない」人がこれを観るとシャレが通じなくて面白くないかもしれません、傑作と言いきれないのはここにあります、これはホラー好きで、でも登場人物の納得のできない行動に辟易していたという人にお勧めしたい映画なのです。
 
 (「13日の金曜日」で「全然OK!」というあなた、あなたに観るなとは言いませんがこの映画の真の面白さはわからないと思います、「13日~」の新作-またやるらしい-を待つことをお勧めします)


 ・・・と話がまとまりかけた後でなんですが、もうひとつ言わねばならないことがありました、冒頭にチラと書いたとおりこの映画が「犯人探し」というミステリーの側面を持っているということです、この点で「13日~」とか「エルム街の悪夢」と決定的に違っているといえるでしょう。

 「13日~」(の2作以降)や「エルム街~」は結局スーパーナチュラルな話で犯人が誰かということに意味はありません、しかしこれはスプラッシュする血しぶきだけでなく「仲間のうちの誰かが犯人だがそれが誰かわからない」という緊張感でも観客の興味を引くミステリー&スプラッターなのです。

 実は正確に言うと「犯人が誰かわからない」ではなく「めちゃくちゃ怪しいあいつは本当に犯人なのか?」というサスペンスなのですがこの作品は観客をミスリードするのがきわめて巧みで特に第一作などは

「いくらなんでも一番怪しいこいつが犯人じゃ当たり前すぎるから違うだろう」
「いや、もうこうなったらいくらなんでもこいつが犯人以外ありえない」
「おおお!、違うってか? じゃどういうこと??」

 という具合に観ている側はいいようにあしらわれてしまいます(その浮き沈みが快感なのですが)そのあげくの結末が納得出来ないものだったら怒り心頭ですが、意外な結末であり「そんなんインチキだ~」と言いたい気分と「これは一本取られたかな」という気分が半々という絶妙のさじ加減なのも見事です。

 残念ながら第2作は「そんなんインチキだ~」色がきわめて濃く、第3作は「あんまり意外じゃないね」という仕上がりですが、とにもかくにも犯人が特定出来たときが事件のクライマックスという構成はうまいと思います。


 さて、この感想を読んで「じゃあ観てみようかな」と思われた方に忠告です、必ず1作目から順に見ること、どのみち「3」はロードショウ公開が終わっていますが2番館にかかっていても1,2を観ていないならビデオレンタルで観てからにすること。

 なぜならこのシリーズは完全に連続しているからです、登場人物は少しずつ入れ替わっていくものの(なぜならどんどん死んでいくから)死ななかった人物は通しで出ていて、最初は高校生、次は大学生 最後は社会人という具合に成長していきます、そして事件は全て一つの根によって引き起こされているのです、後の作品では登場人物の紹介なども特になく前を見ていないとわかりません。

 (脚本のケヴィン・ウイリアムスンがこれは「スター・ウオーズ」3部作のように最初から3作で完結するように考えていた、とか言っていますがこれは「スター・ウオーズ」がそうであるように眉唾ものだと思います、これはウイリアムスンの処女作です、処女作を登場人物が実時間と共に年をとり5年かかって完結する3部構成で考えるとは太い奴です、そもそも3作目は自分で書いていない(!)し「3部構成という手を考えないでもなかった」というほどなのではないでしょうか?)

 「スター・ウオーズ」と言えばあれは「帝国の逆襲」がトゥ・ビー・コンティニュードになっていて一つの作品として完結していないインチキだと私は思っていますが「スクリーム」ではそういうことはありません、1は1なりに、2は2なりにその時点で充分に完結しています(私が3部作なんてホントに考えてたの? と思う所以でもあります)

 「これっきり」という気合いで完結させ、なお続編を作らねばならなくなったとき、前作の設定を受け継いで前作を越える上位互換な作品(?)を作るのが腕というべきでしょう。
(「これっきり」だからと言って「宇宙戦艦ヤマト」や「狼の挽歌」のように話を盛り上げるために主要登場人物を殺してしまい、あとになって「なかったことにする」のは頭悪すぎですが)

 2作目で大学の授業風景があり映画についてのディスカッションで「続編が面白かったためしはない」という話になるのはご愛敬です、うけ狙いもさることながらちょっと弱気の虫が出たと私には見えたのですが、それはともかく 2が1を、3が1と2を統合して新たな謎と事件が発生する(そしてその時点できちんとオチがつく)という構成は見事です、「スターウオーズ」をわざわざ引き合いに出す必要なんかないんじゃないかな。

 というわけで、この3部作はスプラッターが苦手でなければ多くの人にお勧めしたい傑作(いや、佳作?)です、自分がホラー好きであるという自覚があるなら必見でしょう。

ps

 3作目の舞台である映画撮影所、撮影所の資料室の管理人にキャリー・フィッシャーそっくりのおばさんが出てきて、主人公達が「あ、あなたは!」というシーンがあります、おばさんは「あれに出ていたのは私にそっくりの別人」と言いい主人公達も「そうよねえ」とか言うのですが、気になったのでタイトルロールを注意深く観ていたらまさしくキャリー・フィッシャー!、よく出るな! と思いました。

 別人と言われりゃそうかと思うおばさん顔で、私なんかは「そうか、そっくりさんか」とか思ってしまった(ビデオなら巻き戻して見るのですが)くらいです、お見逃しなく。

 

WHITE OUT


 5月25日 晴れ

 今日は「WHITEOUT」の初号試写会の日です、僕はいつもどおり開始5分くらい前に会場である五反田のイマジカへつきました。

 さすがの大作とあって人は多く、主役の織田祐二氏も来ていました、原作者の真保裕一氏もいたとあとで聞きましたが、顔を知らないのでわかりませんでした。

 そのように大人数な試写でしたが我らが特撮班はさびしいものでわずか数人しか来ていませんでした。

 試写が始まりました。

 試写が終わりました。

 第一の感想は「僕たちって何やったんだっけ?」というものでした、一観客としてみてしまうと自分たちが何をどこでやったんだかわからなくなるくらい本編とマッチしています、この映画における特撮は「このスペシャルなエフェクトをみよ!」というものでなく、あくまで本編のサポートとして予算的に時間的に本編班ができなかったことをやる、というスタンスであるのでこれは正しいことです。

 じっさい撮影の多くの時間は合成用雪素材の撮影に費やされたのですが、そして多くのカットに雪が足されているのですが、合成班の手際によってぜんぜんわかりません。
 「特撮は不幸な技術だ、成功すればだれも気がつかないし、失敗すれば笑われる」(by スタンリー・キューブリック)
 ということです、毎日毎日パンツの中まで粉だらけになった甲斐があったというべきでしょう。

 特撮班がふたたび集合し、皆が最初に言った言葉は「いや~タイトル抹殺かと思いましたよ」というものでした、すでに0号をみている神谷特撮監督は「どきどきしたでしょ」などと言っていました。

 というのは最後のタイトルロールで特撮班の出がなみはずれて遅かったからです、タイトルロールはふつうキャスト、メインスタッフ(撮、照、美、録、演)、その助手、その他スタッフとその助手、協力会社、関連企業、などといった順にでるものです、特撮班がある場合それをどこに入れるかは各社まちまちですが、それでも本編スタッフと会社関係のあいだなど常識的にこの辺だろうという位置はあるわけで、それが今回は「おいおいその他大勢(!)な会社が出始めたよ、これでおしまい?」と思わせておいて最後にやっと出てきたわけです。

 意表をついたというか、なるべく目につかないところに置きたかったというか、そのころには観客は立つだろうという読みというか、うまくすると幕が下りてるだろうというか、TV放送ならカットされるだろうというか、全部なのか・・・べつに僕は特撮班にスタッフジャンパーをくれなかったからひがんでいっているわけじゃないのですが。



 「じゃあ特撮班はパアっといきますか」と神谷監督が音頭をとって、押井組の試写で昨日もいったという餃子専門店にいきました、が6人しかおらず、僕と操演助手の青木君とスクリプターのミポりんは酒を飲まず、合成大魔王はまだ仕事があるとかで、ぜんぜんパアっとはしなかったのですが、気のあった仲間と、映画をさかなに餃子をたべるのはそれはそれで楽しかったです、餃子だけでなく大魔王おすすめのエビのマヨネーズがけもいけました。
 
 
「ミッション・トゥ・マーズ」


 デ・パルマの事であるからしてまともなSFは出してくるまい、と思っていたのがあまりにもど真ん中の直球なのでびっくりです。

 はっきり言ってネタは「2001年宇宙の旅」、ラストは「未知との遭遇」でSF者である私には今さらこれか?という気もする新味のなさですがまあつまらなくはない。

 実のところSFのメインストリートが今時スクリーンで観られるという事、及びそれが「つまらなくない」という事は奇跡のような出来事であって、とりあえず観て損はない、というかもうすこし踏み込んで、充分楽しめますよというか、もし「2001年」も「未知との遭遇」も観ていないなら、観ましょう! とまで言ってしまいます。

 でも観るつもりがあるなら絶対映画館に行くこと、こいつら制作者達はビデオ鑑賞の事なんて微塵も考慮していません、ビデオでこれを観て面白くないと思ってしまうのは観ないより損(?)な出来事です。

 ストーリーがわかればまずはOKという作品と違い暗闇の中で大スクリーンと向かい合うこと(その場に立ち会うこと)が、その価値のほとんど全てである映画も存在するのです。

 (前記2作がまさにその典型、映像の美しさテーマの掘り下げなど「ミッション~」より遙かに上です、「勧めといてそれかよ」てな感じですが、しかしたとえば「2001年」はこれをシネラマ <スクリーン比率1×2.88>で観る機会はおそらくもう無く、70ミリ <1×2.2> でスクリーンにかかるチャンスさえあるのかどうかと思えばこの映画はすでに我々の手から失われていると言ってもいいのです、「ミッション・トゥ・マーズ」を観るくらいなら「2001年」を観よ、と言っていたのでは始まりません)

 ついでに言えば、なんでもそうなんですが、出来るだけ前知識を仕入れないでおくことですね。
 たいしたことは書いていないけどパンフレットも後で見るのが吉。


小説 「∀ ガンダム」 -福井晴敏-



 ノベライズには何か足りない、小説として肝心なものが入っていない、と私は長いこと思っていた、それは翻訳ものであろうと字で書いたアニメのような「ファンタジー小説」であろうと例外ではない。

 私はそれを「魂が抜け落ちている」と称しているのだが、いったいにそれが作者の力量によるものか、本質的な何か(テーマとあらすじ、人物設定などをあらかじめ決められ「さあ書きなさい」と言われて書き始めたものには小説の神が降臨しない、とか?)によるのかは謎だった(後者であればアンケートとマーケティングで作られる「○○○ロマンス」シリーズも同じなはずだ)

 そもそもが一流の作家はノベライズなんか書かないからだ、しかしそれが今回ついに実現した「Twelve Y.O.」で江戸川乱歩賞、「亡国のイージス」で大藪春彦賞、「イージス」は昨年の「このミステリーが凄い」でも文春の「傑作ミステリーベストテン」でも3位にランクされ、私のランキング(?)でも99年堂々一位の作品だ。

 「イージス」で現代のハイテク戦争をありありと描きだし、日米安保や基地問題にみる現代日本の歪みを告発し、にもかかわらず「ヒーローが活躍する海洋アクション巨編」という王道から踏み外さないという離れ技を演じた作者であれば。あるいはやってくれるのではないか?、と期待していたのですが・・

 残念ながら、例外は無かったと報告せざるを得ないのは大変に残念です。

 やはりなにか違う、ほんのちょっとした、でも本質的な何かが欠けているという気がするわけですがこれについては本当に感覚的なものでうまく表現出来ません、ですが具体的に指摘出来る部分もあります。

 その一つが作者の表現力とその内容の乖離です、作者は上記のごとき複雑な内容を過不足無く描ききる手練れなのですが、この小説で語られている内容はたとえば、

「無垢で気弱で戦いの嫌いな少年がひょんなことでモビルスーツを操縦し、思いがけず示したパイロットとしての才能によっていやおうなしに戦いに巻き込まれていく」

 というおなじみの展開といい(こうして書いてみると主人公ロラン君は正統的なアムロの子孫であり、碇シンジ君もその傍流であることがわかりますな)

 タイプの違うお金持ちの美人姉妹、ロランがあこがれる金髪でロングのお高い姉と、彼女にしか目がいってないロランに腹をたてている茶髪でショートで行動的な妹、とか姿形も声もその姉そっくりで衣装をとり替えたら誰にも見分けがつかない(!)月の女王とか、赤いサングラスで表情が読めないクールな親衛隊長とか、なんだかキャラクター設定表が目に浮かぶような、いかにもツボを突きましたというような人物設定がいかにもアンバランスです。

 つまるところ「語ることに力をそそぐ前にまずそのステレオタイプな人物設定をなんとかしろ」いう気になるわけです。

 まあこれはアニメとしての設定がまずあるわけで、作者にはいかんともしがたいのか、と一瞬は思ったのですがそんなことはない、そもそもアニメと設定がやや違っているようだし、第一まずくいったのは原作のせいと言うのはインチキですね。

アニメが
 小説が
ゲームが
 映画が
     原作の 
          アニメ
          ゲーム
          映画
          小説

 というような組み合わせが今やいくらでもあるわけで、うまくいった作品もそうでない作品もある中、うまくいったのは自分の手柄でまずくいったら原作のせい、というのでは虫がよすぎるわけです、つまんなかったらそれは作者の責任でしょう。

 現代戦にあれだけのリアリティを持たせた作者にしては、あちこちに「トラックで通り抜けられるほどの科学的欠陥」<(C)ジェリー・パーネル> があるのも解せません、ある意味超科学はよしとしましょう、しかし飛んでいくビーム兵器の光軸を目で追う(!)ことが出来たり、その前に回り込んだり(!!)するのはよして、と言う感じです、福井晴敏あんたもアニメを字で書くクチか?




 私はガンダム世代ではありません、オンエア時にリアルタイムで見てはいたのですが「ほほう、最近のロボットプロレスは設定に工夫があるねえ」ぐらいの感じでした、しかし直撃を喰った世代ののめり込み方は尋常ではなく、今だに(というか今やまさに)ガンダムと名が付いた物は皆買ってしまう(20年たってついに小遣いが自由に使える)とか、つまんないとしりつつもゲームは皆やってしまうとかいう状態だったりします。

 福井晴敏はといえばオンエア当時小学5年生、まさしく直撃世代というべきでしょう、「俺があのガンダムを」というだけで正常な判断が出来てないのかもしれません・・とでも思わなければ納得のいかない部分が多すぎるのです。

 結果私にとっては今みっつな出来のこの小説ですが、旧ガンダム世代が、あるいは現役のガンダムファン(いるのか?)が読めばこれはまた違った感想を抱く可能性はあります。
 しかし一個の作品として読んだ場合これがとうてい小説読みの鑑賞に堪えうるものでないと断言できるでしょう。



CPU換装-クロックアップ新事情-


 CPUはマザーボードが供給する信号-クロック-に同期して動作しています、このクロック(FSB-フロントサイドバス-とも呼ばれる)はCPUの種類によって決まっており基本的には66MHz、100MHz、133MHz のうちのどれかを選ぶことになります。

 クロックアップというのはCPUを規定のクロックより上のスピードで動かし本来の能力を上回るパフォーマンスを得ようとする一種の裏技です。

 CPUの価格は動作スピードによって決まっているので、安い(遅い)CPUを速く動かせればそれだけお得ということになります。

 このクロックアップを実現する為にはいろいろなテクニックが存在し、ちょっとした工夫で結果が大きく変わったりするため「趣味としてのクロックアップ」というものまで存在します、このような目的と手段を取り違えたスピード狂はエクステンダーと呼ばれ、車好きがレースを楽しむようにスピード競争に明け暮れています。
 サーキットで改造車を走らせているような彼らの活動のほとんどは一般市民には無関係ですがそれでもごく基本的なテクニックと情報で参考になる部分はあります。

 その一つが最近にわかに盛り上がっている「インテルの新セレロンはオーバークロック耐性が高い」という情報です。

 インテルのパソコン用CPUにはペンティアムとセレロンという2種類があるのですが、これらのコア(CPUの心臓部)に最近新しい製造プロセスが導入されたのです、このカッパーマインという名で呼ばれる新しいコアは従来の同クロックの製品より高性能で、かつより高いクロックで動作する(らしい)のです。

 ところでペンテイアムとセレロンの違いですが、ペンティアムは高性能機用、セレロンは普及機用という位置づけになっていて、ペンティアムは高く(速く)セレロンは安く(遅く)という売り方をされているのですが実は「この2つは同じ物」です。

 インテルは多分このカッパーマインコアを1000MHz(1GHz)以上で動作可能なように設計しているのですが、出来た製品をチェックして1Gで動作可能なものを1GHzの商品として販売し、800Mでしか動かないものを800MHzとして売っているのです(CPUの動作速度は「FSBに対して何倍で動作させるか」で決まります、1GHzのCPUはFSB133MHzの7.5倍で動いているということです、インテルはそのCPUの限界にあわせ6倍とか8倍とかの倍率を決定し、パッケージングして販売するわけです)

 その出来の悪い方(!)をパフォーマンスがあまりあがらないFSB66MHz専用とし、さらに性能を低下させるために256Kある内部キャッシュ(一時メモリ)の半分を使えなくして販売しているのがセレロンです。

 なんでわざわざ性能低下させるのかというと普及価格帯のCPUで他社とのダンピング合戦になった場合、値下げ圧力が主力商品であるペンティアムにかからないようわざわざスペック的に差別化しているという説があるようですが実のところよくわかりません。

 ところで新製造プロセス稼働直後は歩留まりが悪く、限界の高いコアがあまり出来なかったものの、改善が進んでくると限界値の高いコアが多く採れる(?)ようになっているのではないだろうかと想像されます。

 インテルとしては限界値の高いコアが多く出来たからといって、全部を速く(高く)売ることは出来ません、普及機用の需要は常にありその供給を減らせば利益も市場占有率も下がってしまうからです、そこで実際には潜在能力の高いコアをあえて低いFSBや低い内部倍率の製品に投入し、市場の要求を満たしているわけです、エクステンダーの狙いはここです。

 エクステンダーは当然のように「FSB66MHz専用で売られているけど本当にセレロンは100MHzじゃ動かないの?」と考えます。

 FSB66MHzで533MHz用として売られているセレロンは内部倍率8倍で動いているということです、この内部倍率は出荷時に決定されていて変更は不可能ですが、FSBはマザーボードの設定で変更出来るためもしFSB100MHzで動作してくれるならその8倍、800MHzで動作するということになります。

 セレロンに800MHzの製品は無いのですがペンティアムで800MHzと言えばなんと50000円(7月上旬現在)533のセレロンは10000円ですから、5分の1の値段で同じクロックのCPUが手に入るわけです、セレロンは1次キャッシュがペンティアムの半分ですから能力は落ちますが、コストパフォーマンスの高さは圧倒的です。

 セレロン566MHzは(かなりの確率で)FSB100MHzでも走り、850HMz動作する、という話を雑誌やエクステンダーの会議室で読み私もついにCPU換装&クロックアップに踏み切ったのでした。


 というところで背景説明編(?)は終わり、以下は用語をいちいち解説しているととても終わりませんので結果のみ書いてあります。


 CPUは秋葉のソフマップ、566MHzのバルクが10800円、12000円は下らないと思っていたのが11000円を切っていたので(もっと先のことと思っていたのに)衝動買いしてしまったわけです。

 製造国はマレーシア、製造週はチェックしていません。

 俺コンで星野工業のハリケーンFANを5000円で購入。
  
 マザーボードはASUSのF2B-FなのでFC-PGA→370変換ゲタもASUSにすることに決めS370-133をギガパレスで購入2400円。

 1年前のマザーボードがカッパーマインに対応しているわけもなくBIOSのアップデートが必須なのは確実、(やったことがないので)「ROM焼き大丈夫」を買おうかどうかしばらく悩むがここで金を使ってはオーバークロックの意味を失うので止めにする。

 家に帰りまずはインターネット専用マシンを立ち上げASUSのホームページで新BIOSをさがす、日本語サイトがあるのでこりゃいいわいと思っていたらダウンロードのページは全部NOT FOUND、仕方ないので台湾の本社サイトへいって英語に悩みつつ新BIOSとアップデートユーティリティをダウンロードする、ダウンロードしつつメインマシンのシステムとデータをフルバックアップ、バックアップファイルは外付けのSCSIディスクに納める。

 電源を切り、コードを引っこ抜き、ケースを開ける、こういうときサイドパネルがはずれるケースは便利だ。

 旧CPU(セレロン433)をはずし、まずは566をノーマル設定のまま差し込む、FANがメモリぎりぎりなので肝を冷やす、ハリケーンはごつい放熱フィンを持っていて上のFANを含めると433のリテールFANの倍くらいの厚みがある、370マザーならなんということもないサイズだが、変換ゲタを使っているのでそれがスロット1からメモリ方向に突き出るわけだ、これがあと5ミリ厚かったら納まらなかったろう。

 バックアップファイルの入ったSCSIディスクを切り離し、電源投入、ピポッ というおなじみの起動音がして無事起動、BIOS画面をみるとペンティアムII566MHzと出る。

 無事Windowsも起動、どうせのことなのでHDBENCHを走らせてみる、浮動小数点51306 整数演算40743。

 電源を落としてまずはBIOSのアップデート、緊張したがなんということもなく終了、再起動すると今度はペンティアムIIIと出る、いいのか?

 いよいよクロックアップ、中途半端な数字は周辺機器に悪いので一気にFSBを100MHzにセットする、コンピュターの神(?)に祈って電源ON、BIOS起動、見れば間違いなく850MHz動作と出ている。

 起動シークエンスが進んでいくがWindowsの起動でストップ、やはりノーマル電圧では無理。

 電源OFFにして喝入れにはいる、まずはコア電圧0.5Vアップの1.55V、再び起動するも結果は同じ、そこで1.6V、今度は無事Windowsが起動する、HDBENCHで浮動小数点68559、整数演算54522、しかし高負荷テストとしてスーパーπを走らせるとハング、電圧を1.65Vに上げる、今度はスーパーπも完走2分58秒。

 FSB100の850MHz動作は一応の目標であったためこれが実用になるかテストする、なにはともあれ高負荷ということででファイナルリアリティやスーパーπの1677万桁、イリュージョンのBKベンチ(ポリゴンの女の子が一杯歩く)などを走らせながら24時間連続稼働させるが問題なし、安定動作と言ってよいだろう。

 こうなると欲が出る、なにしろ5月頃には566を850動作させるには1.75Vまで昇圧する必要があるという話だったのが1.65Vなのだ、出来の良いコアにあたったか、クロックアップ耐性の高いコアが出回り始めているのか。

 ためしにFSBを102MHzに上げてみる、BIOS起動875MHz、Windowsも起動、スーパーπもOK、しかしあれこれ高負荷テストを繰り返していたところハングした、これでは安定動作とは言えない。

 そこでコア電圧を1.7Vにアップ、実のところ1.7Vまでは上げてみるつもりではあった、なにしろ1GHz動作のペンティアムはコア電圧1.7V、途中でステッピングが変わっているもののプロセスルールが変わっているわけでない以上0.18のカッパーマインは1.7V定格ではないかと想像されるからだ。

 533を1.5Vで出し、633で1.65V、1Gを1.7Vという風に速度と電圧を次第にアップしていくやり方は昔むかしNECが98シリーズで12MHz(!)で設計したマシンを当初8MHzで発売し半年ごとに2MHzづつアップして買い換え需要を喚起していたやり方と同じではないのか?。

 1.7Vでの875MHzは安定動作することが判明した、これを常用するとしよう・・・と思いつつも、怖い物見たさということがある、いったいこのコアの限界はどこにあるのか?

 というわけでFSBを112MHzにアップする、これだと112×8.5で952MHzになってしまいちょっと上げすぎという感じがするのだがP2B-Fのクロック設定が103のあと112しかないのでしようがない。

 BIOSは起動、953MHzと出るがWindowsでコケる、ドキドキでコア電圧を1.75Vまで上げる(いかなる基準でもこれは電圧オーバーだろう)が事態に変化なし、やはり変化が多すぎるか。

 これで終わりかと思ったがもうひとつ手があった、それはSoftFSBである、これはマザーボードのクロックジェネレーターを直接制御して設定以外のクロックをWindows上でセット出来るフリーソフトだ。

 SoftFSBを起動しマザーをP2B-Fと指定する、スライダを動かすとFSBが105MHzにセット出来ることがわかった、実行してみるとあっさりと892.5MHzで動作し始めた、スーパーπは2分40秒

 次のきざみは110MHzだがこれは先ほどの112MHzに近すぎるので(935MHz動作になる)多分ダメだろうと思ったがやはりダメだった、もともと1.75Vで常用するつもりはないので電圧を1.7Vにもどす。

 875MHzに戻ったところで念のためSoftFSBで105の設定を試してみるが動く、スーパーπも通った、SoftFSBはリセットすると元に戻ってしまうもので実用には向かない(から高負荷テストなどはしない)が892.5MHzというのはアリなのかもしれない、106MHzという設定があれば900はいけたような感触が得られた。



 というところでクロックアップの冒険(?)は終了です、このセレロン566はカッパーマインコアのシリーズでは下から3番目の製品です。

FSB133 1G 933 866   800   733   667     600     533
   100        850 800 750       650   600   550
    66                 700 667   633   
566   533


 これが1.7Vで900MHz出るということは実はいまやカッパーマインのほとんどが900前後出るコアで出来ていて、ただたんに普及帯向けに電圧を落とし、倍率を下げた製品を売っているだけではないのか?という疑問につきあたります、ならばクロックアップせねば損というものでしょう。


ケチケチ大作戦-自作新事情-


 前出の通りCPUの交換とクロックアップで私のメインマシンは875MHhという浮動小数点演算性能だけ突出したマシンに生まれ変わった、こうなると気になるのがインターネット専用端末であるサブマシンの遅さである、こいつは6年前の9801マシンでCPUは無印ペンタの133MHzなのだ。

 よくインターネットとワープロくらいなら一昔前のマシンでもOKと言われたりする、実際この二昔前のマシンでもインターネットとワープロなら全然OKだ、しかしこのマシンではこのホームページを作っている「ホームページビルダー」(IBM)を走らせている、これがメチャメチャ重いのだ。
 
 これがどれほど重いかと言えば40000バイトくらいのファイル(A4に印刷して20ページ前後の文章だ)の最後の1文字を削除するとそれが画面に反映されるまでに5秒くらいかかる、まるでフロッピーベース時代のワープロのようだ、キーを押し損なったかと思ってもう一度キーを押し2文字削除してしまったりする。

ホームページビルダーは買って帰った4時間後にはこのホームページが立ち上がっていたというくらいに簡単で使い安いソフトなのだがこれではストレスたまりまくりである。
 ベンチマークとしてスーパーπを走らせてみたところメインマシンで2分40秒で終了する104万桁の計算が27分かかった、ちょうど1/10のスピードだ、何か手を打ちたいところだが98アーキテクチャマシンであるため今やパワーアップする手だてがない、早いマシンがほしけりゃ一から新作である、サブマシンにそれほど金もかけられないし・・と思って長いことほうってあったのだが気が付いてみると今やそこそこパーツが揃っているではないか。

 まずはCPU、ちょっと前までメインを張っていた(?)433セレロンが余ったわけだ、ビデオカードはもらいものの VooDoo Banshee がある、メインマシンになぜかDVD-ROMが2台入っているので1台はずしてもいい、サウンドカードも近く光デジタル入出力に替えるつもりだったので回そう、マウスは途中でUSBに変えたのでPS/2マウスが余っている。

 自作マニアには「余ったパーツを寄せ集めたら1台組めてしまった」などと言うことがあるらしいが私はその域には達していない、しかし新マシンを作るにあたって半分くらいのパーツは揃っている。
 あとはマザーボード、ケース、メモリ、HDD、キーボードだ、うまくすればかなり安く組めるのではないか?

 ということでサブマシンの自作を決意した、この際なので徹底的なケチケチ作戦を実行する、テーマは「なるべく安く」だ、PC-DIY誌などでジャンク、中古を駆使した低価格マシンの製作記事が載っていたりするがそれを参考にしよう。 
 私の場合、そういった記事のライターやあるいは1台目のマシンを購入しようとしている人間より有利な立場にいるはずだ、なぜなら全然いそがないからだ。

 中古や出物は秋葉原といえども必ずあるものではない、気長にさがした方がいいに決まっている、しかしライターはたいてい1日でマシンの購入、組立を行う、また始めてのマシンを購入する人間にとっては欲しい時が買い時であって、買うと決めたらのんびりと構える余裕はない、比べて私はとりあえず用の足りているマシンが2台あるのだから今日の今日で焦って買う必要はないのだ、ここは一つ絶対買い得と言えるパーツに出会えるまでどっしりと構えていよう。

 ・・・ということで秋葉を巡回するようになったある日、フリージアの前のワゴンセールに人だかりが出来ている、何かと思って覗いてみると MAXTOR の15G、7200RPM のHDDをなんと8500円で売っている、これは安い!

 これは自作の神様(?)がこれを買えと言っているのではないか?、そうかもしれない、
いやきっとそうだそうに決まっている
これは買うしあるまい、ということで人混みをかき分けて売り子の兄ちゃんに金を差し出せば限定30台の最後から2番目なのであった。

 実際これは良い買い物であった、2ケ月たった今でもこれを上回る安売りはない、というか高速タイプのHDDはこれ以後最低容量が20Gにシフトしてそもそも15Gという商品がない、1プラッタ(HDDの記録円盤1枚)あたりの容量が7.5Gから10Gに上がってしまったということなのかもしれない、結果1GBytesあたりの単価は安くなっっているが1万円以下で7200RPMのHDDを買うことが出来なくなってしまったのだ。

 しかしこの15G/8500円というのはDVD-RAMのメディア(5.2Gで3000円以上)より安い、これを考えるとHDDのバックアップは同じHDD以外考えられないことがわかる、これからのPCはのっけから10Gや20GのHDDを積んでくるのは間違いない、これをバックアップするのに1枚1.3G(MO)だの5.2G(DVD-RAM、そのうち9.4Gが出るらしいが)だのと言っているのではいかにも迂遠である。

 長くコンピューターとつきうとわかることはHDDは消耗品で、Windowsはいずれクラッシュするということだ、だから自分の身は自分で守らなくてはならない。

 環境を保全したいならドライブを丸ごとミラーリングするのが一番だ、だいたい小容量のメディアにHDDの中身を分割してセーブするためには何かしらのユーティリティソフトがいる、今やそのソフトを買うお金でHDDが買えるだろう。

 HDDにバックアップするなら新しいHDDをスレイブにつなぎコマンドプロンプトで xcopy するだけだ。
(CドライブをDにバックアップするなら xcopy c:\ d:\ /c /e /h /r /s  とする、これで隠しファイルもコピー出来て完全ミラーリングだ、ヘタなソフトを使う必要もない)

 私の今の個人的な事情を言えばデーターはミラーリングで守り Windows しか入れていない C: ドライブをファイル化してバックアップしている、Windows システムだけなら1G強のファイルにまとまるのでこれを1ケ月に2度くらいの割でバックアップして3代前まで保存しているのだ、システムがクラッシュしても C: ドライブさえ書き戻せばまず復帰する(先日、Disc Juggler Pro 体験版をインストールしたらいきなり Windows が立ち上がらなくなった、4日前にバックアップしたばかりなのでたちまち復活したがこういったヤバ目なソフトのインストールには必須である)

 問題があるとすれば D:ドライブに入っているアプリケーションは手つかずということだ、アプリが「とぶ」ということはまず考えられず、たとえとんでも手間さえかければアプリは再構築出来るという読みからだが、ほんとうにやるハメになったらえらい手間になるのは目に見えている(ディスク、フォルダ構成を完全に再構築できないとレジストリに矛盾が生じて C:をバックアップしている意味がなくなる)
 
 したがってHDDがここまで安くなってきた今、システム、アプリ、データーを1つのドライブにまとめ完全ミラーリングする方法をとるのが一番面倒がなくていいわけだ。

 ケースを開けてHDDをつないだりDOSコマンドを打ったりする必要があると聞けば腰が引ける人もいるだろうが、市販ソフトを使っていても Windows が立ち上がらないなどの緊急事態にはDOSベースのクリティカルな作業が待っている、めったにやらない(というか始めてというか)作業をDOS画面で行い、何枚もあるメディアをとっかえひっかえするのと比べれば、ジャンパピンを差し替えて(マスターとスレイブをひっくり返し)起動するほうが絶対簡単だ、5分もかからず以前と同じ環境が復活する。

 無事起動したあかつきには、スレイブにつながっている以前のマスターディスクをフォーマットし直し、SCANディスクをかけたうえでまた xcopy すれば再びバックアップの完成である。

 思うに夢のメディアと言われたDVDも欲の皮のつっぱった利害関係者が綱引きをしているうちに出遅れたのではないか? DVD-ROMの配信メディアとしての有益性はともかく、記憶メディアとしてのDVD-RAMはどうなのかと思う(個人間のデータ交換は今のところCD-Rで足りているのではないか?)
 
 すくなくともドライブの値段が現在のCD-R程度にまで下がらなくては買う気になれない、今は5万以上するがその半分以下の金で60GのHDDが買える、21000円で60GのHDDを買ったとしてそれが一杯になる頃(っていつだ?)に更に29000円出したらどんな容量のHDDが買えるだろうか?
 
 記憶装置として使うには転送速度が遅すぎるということもある、いずれ全てがDVDに集約されるというような夢が語られていたが意外と足をすくわれる可能性もあるのではないだろうか?


 話がずれた、HDDが安く買えたという話だった。
 ついでにフリージアの店内に入ってみると通常1950円のパナソニック製FDDが1350円で売られている、中古でも1000円くらいすることを考えればこれも安い、めったに使わないしLANを組むのでFDDは付けないつもりだったのだがこれなら買おう。

 フリージアのバルク品の保証期間は1週間なので家に帰ってHDD、FDDをともにメインマシンに組み込み動作チェックをする、問題はない。

 そして後日、やはり秋葉を巡回していた私はソフマップの5号店(中古ショップ)でASUSのマザーボードP3B-Fを発見した、BXマザーだが定評あるボードだ、新品14500円のところ中古価格8500円である、これは今のメインマシンのマザーP2B-Fの後継機種であり私自身の扱いも慣れているしなにより相性問題が生じる心配がないだろう(CPU、ビデオボード、サウンドカードはP2B-Fで動いていたわけだから)

 これは自作の神様(?)がこれを買えと言っているのではないか?、そうかもしれない-以下略-ということで購入した、残るはケース、メモリ、キーボードである。

 この辺から少し気合いを入れてケースをさがし始める、ソフマップの中古品の保証期間は2週間でマザーボードは簡単に動作テストしてみるというわけにはいかないから2週間以内に組むしかないのだ(メモリ、キーボードはどこにでもあるし値段もそう変わらないのでなんの心配もしていない)

 秋葉の物の値段は原則として駅から遠くなり、裏通りになるに従って安くなる(たとえば秋葉でいちばんデジカメが安いのは地下鉄末広町の先にある東京電気「TOKiS」だ)
 そのつもりでさがしていたところZOA(ここもいい加減、街はずれにある)に「3980円のケースあります」という張り紙を発見した、これはと思って見にいったら電源のバージョン(というのがあるのです)が古くてLXマザー以前のものしか動かないと言う。

 やっぱりケースは1万近くするものか、と思いつつ中央通りに出てみてびっくり、灯台もと暗し中央通りに面したPCアドバンストに2980円で300W電源付きのケースを売っている!
 「裏があるのではないか」(当然思いますわな)と聞いてみると、インテル製CPUならOK、AMDのアスロンが動かないのだという、それなら全然構わない。
 これは自作の神様が-以下略-というわけで購入。

 あとはキーボードである、これは安ければ980円くらいからあるが、タッチも重要なので片端から店に入り片端から叩いてみたあげく九十九電気で1980円のものを購入する。

 あとはメモリなのだがこれはまいった、なにしろ「一年前より高い」のだ、ものみな低落していく自作パーツ業界でメモリだけが乱高下している。
 (インテルの820チップセットのバグ騒ぎのおかげで820とコミで売れるはずだった高性能メモリDRDRAMの先行きが不透明になり、SDRAMも意外と延命するのではないかという観測で値が上がっているのだ、という説もあるがともかく迷惑なことだ)

 本当は128K載せたかったが14000円というのが今回趣旨からするといかにも高いので止め、64Kにする(高機能グラフィックソフトでも動かさなければ問題はないだろう)相場より200円ほど安かったフェイスで8400円で購入、これで揃った。

 家に帰ってケースを箱から出してびっくり、普通ケースを買うときはデザイン、サイドパネルの形式(コの字を上に引き上げる方式か、左右バラバラにはずせるのか)マザーボードへのアクセスは容易か、ドライブベイの数は・・など各種の項目をチェックするのが普通なのだが今回は2980円という値段に目がくらんでロクに見ていなかった(というかこの値段で300Wのケースが買えるなら他は一切不問である)でなにがびっくりしたのかというとこれがえらくかっこよかったのだ。

 フロントパネルは3色から選べて一応グレーのものを選んだのだが、側面、上面とも同色のプラスチックカバーが付いていてなかなか渋い(←並んでいる棚から引っぱり出して見ていなかったことを示す)
 そのプラスチックが鉄板と2重構造になっているためパネルのペナペナ感がなく遮音性も良さそうである、パネルは安ケースにありがちなコの字を上に引き上げるタイプでなく、両サイドが単独にはずれるタイプ、しかもネジレス(ストッパーを指で押すとはずれ、押し込むとロックする)である。

 中を見れば電源の排気ファンの他に前面に8センチ吸気ファンも標準装備されている、スイッチ、ランプ類のコードにはノイズフィルターのフェライトまで付いている。

 これで2980円は安すぎる。

 ※そうか!と思ってPCアドバンストに走ろうと思った方に忠告-もうありません、先日友人のマシンを組むために最後の1台を買って来てしまいました、しかもこれはさらに旧タイプ-サイドパネル「コの字」のタイプでした(他のスペックは同じ)おまけにパネル色は紫(!)

 で、組立です、昔自作マシンの組立スピード競争というのがあったそうで、上位は10分台だったそうな(指先のケガをどれだけ我慢できるかでスピードが決まるとか)別にチャレンジするつもりはないけど、ASUSのマザーは2度目である私には20分足らずで組めてしまった、なんの問題もない。

 あとはOSのインストールなのだがHDDには初期不良テストの際メインマシンのHDDをコピーしてあったので電源を入れた途端にWindowsがあっさりと立ち上がった。
 ( ! これはまがうことなきOSの2重インストール ! 規約違反、いいのかこんなこと公言して! ・・という仕業だが動作テストということで許してください、Meが出たら買うから>Microsoft )

 インターネットでマザーの最新BIOSをダウンロードしてきてアップデート、これで終了である。

 結果
 CPU cerelon 433 お下がり
 マザーボード ASUS P3B-F 中古 8500円
 ビデオカード Voodoo Banshee お下がり
 サウンドカード (YF24チップ)メーカー不詳 お下がり
 HDD Maxtor 15G 8500円
 FDD Panasonic 1350円 
 メモリ ノーブランド 8400円
 DVD-ROM CREATIVE お下がり
 ケース メーカー不詳300W 2980円
 キーボード メーカー不詳 1980円
 マウス Logitech お下がり
 
 ということで計31710円となった、お下がり分を買ったとしても3万弱で済むはずだ、つまり総計6万円ほどのマシンである。
 
 
 これは一年ほど前のスペックではあるが3DMark2000も別段不足なく動いているし、バリバリの3Dゲームでもやらなければまず充分な速度と言って良いだろう、動画でもため込まなければ15GのHDDを埋めるのには長い時間がかかる、普通に使う分には充分なマシンと言える。

 もしもっと上をねらいたければCPU、ビデオカードについては後5000~10000円上乗せすれば、最新、最速のチップから少し型落ちしたもの(このあたりが一番コストパフォーマンスが高い)が買える、たとえば875MHzで走るCeleronは9000円で、GeForceも(ULTRAが出たおかげで)GTSが15000円くらいだ、これなら当分胸を張っていられるスペックになる、DVDもそのくらいでCD-R付きのものに変えられる、今言った物を全部グレードアップしても全部で9万はいかないだろう。

 カタログだけ見ていれば安いメーカー品はあるかもしれない、しかし自作マシンのいいところは不足を感じる部分だけを交換出来ることである。

 <2人の友人が○ーテック、と○ECのマシンを持っている、双方共にゲーマーなのでビデオカードに不満を感じるようになったのだが、これを交換しようと思ってはじめてこれらのマシンにAGPスロットがないことに気が付いた、「メーカー品 = 一般的な構成」ではない一例である。

 購入前の調査が足りない(というか勉強不足というか)なのだが、この場合グラフィック性能にかげりを感じたらもはや全部買い直すしかない、別段不足のないケースも電源もマウスもキーボードも買い直しである、ビデオカード交換だけで済むことが大きなものいりになってしまう、これでは購入時に多少イニシャルコストが安くなっても全然あわないだろう>

 それに自作であれば自分のこだわる部分だけを突出させた(こだわらない部分で予算を浮かせた)マシンを組むことも可能になる。

 たとえば今875MHzのCPUを持つマシンをメーカー品で買ったら私のように「音が出てりゃいい」なんてサウンドカードで済むわけがない(!)いろいろなものも全て「それなりの」高級品でまとめられて結局高い買い物になるだろう。

 それにたとえば同じゲーマーでもフライトシミュレーターマニアのビデオカードはGeForceだろうし、アドヴェンチャーファンならG400でOK(というか画質がいいのでこっちの方が嬉しい)ということがある、早けりゃいいというわけでもないのだ。

 なにより自分のマシンの氏素性を全てつかんでいるということが重要だ、事務をとる道具としてコンピュターを使うならそんなことは一切無用だがコンピュータで遊ぼうと思うなら、これから一生遊んでいくつもりなら、遊び道具は自分で作ろう、いまさら改めて言うまでのことでないと思うが一応明言しておく、「コンピュターの自作はとても楽しい」

 


「スペース カウボーイ」



「その昔、宇宙飛行士をめざして訓練を積んでいながらついにその機会を得られず挫折したテストパイロット4人組が40年後ついに宇宙へ行って活躍する話」
 と聞けばこれはアメリカンドリーム満載の面白そうな話になりそうです。

 しかしどうやら制作者側もこの「面白くなりそう」というところで満足してしまったらしくて、ツメの甘いどうにもいただけない映画になってしまいました。

 もはや宇宙へはとうてい行けない、行っても満足な活動が出来そうもないじいさん連中が宇宙へ行き、にもかかわらず現役の宇宙飛行士にまけない活躍をする必要があるのですからお話は相当に練り混む必要があります。

 この企画のベースとなるアイデアが「アルマゲドン」からいただいてきたのはあきらかですがあの場合荒くれ者ぞろいの油田採掘技術者が場違いな宇宙へいくハメになる過程は説得力あるものでした、比べてこの「スペースカウボーイ」はどうかというとクリント・イーストウッド演ずる主人公の個人的な執念、又は意趣返でしかないものです。

 故障した人工衛星を修理する必要が生じたもののその設計が古いため自分が宇宙へ行く必要があるという主張はかろうじて納得ができるものですが、昔の仲間3人も一緒に行くのでなくては引き受けない、協力もしないというのは横車以外の何ものでもありません。
 計画の責任者(昔の上司)は腹黒い陰謀家という設定になっているのですが、税金でまかなわれるミッションを何だと思っているとか、知識を若い者にあたえてそいつに任せろとか、宇宙にいくなら現役の宇宙飛行士と同じ訓練を受けてもらう、とか言うのはしごくもっともな事を言っているようにしか見えないので、主人公達に共感出来ないのです。

 途中トミー・リー・ジョーンズがガンに冒されており余命いくばくもない、ということが明らかになって「ああ殉職要員ね」とバレてしまうのですが、この殉職の仕方も「アルマゲドン」の「リモコンの爆破装置が壊れたので誰かが残って手動でスイッチを入れるしかない」という明快さと比べようもなく、理屈をこねくりまわしたあげくに観客のフに落ちない状態のままトミー・リーは特攻してしまうので爽快感がありません。

 結局この映画は「もうすこし頭を使えば面白くなったはずだ」という印象を残しつつ不完全燃焼にまま終わってしまった失敗作と言わざるを得ないのです。

 

「インビジブル」



 主人公は軍の秘密研究所の極秘プロジェクトを率いる科学者で「動物を透明化することが出来る」ほどの成果を上げた超天才。
 
 その男が自ら人体実験を行い、透明化には成功したものの元に戻れなくなった、というのはお話としてはいい「つかみ」ですがその超あたまの切れる男がやけになって何をするかと思えばチカン・覗きのセクハラ行為、これって何なんでしょうか?

 世界観が広がってスケールの大きい話になると思いきや、ぐんぐんと閉じた話になっていく過程は意外性に富んでいるとも言えますが、ぐんぐんと引き込まれるというわけではありません、コメディ仕立てならまだしも透明人間の変質行為をマジで語られては男性でも引きます(女性の共感を得られないのは当然ですが)

 この失敗によって研究が中止されるのを怖れた主人公が上司を殺し、口封じ(というか証拠隠滅のためというか)のために同僚の科学者を殺し始めるとこれはただのモンスター映画でしかありません。

 「研究所/宇宙船」等の閉鎖された人工的迷宮で「未知/既知」の化け物に襲われた「科学者/隊員」が機略を用いて戦う、出来れば最後まで戦うのは女性の方が良い。

 という黄金のパターンですね、「遊星からの(よりの)物体X」「リヴァイアサン」「リフト」「エイリアン1・2・3・4」「ザ・グリード」「ディープブルー」etc

 動物が透明化されていくときに表面から消えていく、始めに筋肉が見え、血管が見え、内臓が見え、骨になって消える、戻る時は当然その逆でその間中身丸出しの化け物がもだえ苦しんでいるというグロテスク表現はさすがバーホーベンといえる趣味悪さですが、バーホーベンの魅力はそのグロ趣味が「スターシップ・トゥルーパーズ」では愛と青春の旅立ち風のさわやかさと同居していること、「ロボコップ」では痛快ヒーロー物と両立していることなのです。

 こうした普遍的な世界観をそぎ落としてしまい狭く暗い中で話の進む今作は爽快感に欠けまるでバーホーベンらしくありません、いったいどうしてしまったのか?と思うばかりです。
 結局これは最近よくある「CGでこんなことも出来るようになったからこういう絵を見せるために一本撮ろう」といった始めに絵ありきの技術主導の映画にしか見えないのです。


 


「アイアンジャイアント」


 東京地方では都心を離れたシネマコンプレックスでしか公開されなかったのでビデオでの鑑賞です。

 
※ここの映画評は特にことわらない限り全て電車賃を使って映画館に足を運び、1800円なりを払ってチケットを買い(感謝デーで割引の場合もあるが)休みの半日をつぶして見にいった映画について語っています、タダだったり300円少々で借りたビデオを小さなTVモニターで見た映画評は信用ならないというのが私の意見です。


宇宙から降ってきた「何か」と偶然出くわした少年、少年とそれは友達になるが見てくれに惑わされ常識に縛られた大人たちはそれを排除しようとする、はたして?・・・

 というのは王道で、片側3車線、グリーンベルトを挟んで自転車専用レーンまであるくらいの王道なのですがジュブナイル(少年少女向け)というのはまあそういうものでしょう。

 不滅の金字塔「E・T」があるなかでこの路線はすべて影が薄いのですがいつまでも「E・T」を見ているわけにもいかず、その時代の子供達向けのジュブナイルは必要なわけですからこの作品にそれなりの価値があるのは認めます、ただしすれっからしの映画ファンとしてはあまりにも破綻のないストーリー展開にちょっと見飽きる部分もあるわけで同じような人種にはお勧め出来ません。

 家族みんなで楽しめる「ファミリー向け映画」としてはまず無難な線ではないでしょうか。

 ※と言いつつなんだけど「ファミリー向け映画」って表現はめちゃくちゃ観客をバカにしてないだろうか? 実際によく聞くんだけどそれが「人畜無害」と言う意味で使われているならそんな映画見に行くなよと私は言いたい(念のため言えば、つまり「アイアンジャイアント」はそうではない)映画は暗闇のなかで日常に背を向ける行為であり、毒をも隠しもつものであって欲しいと私は思う、明るく楽しいばかりではまさしく毒にもならぬが薬にもならないのだ、映画は人の心の奥底に届く力を持った娯楽であると私は信ずるがゆえにそう思う)