SCRIPT SHEET 1999



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スターウォーズ ファントムメナス    
ハムナプトラ    
ディープブルー    
こんな夢を見た    
 


スターウォーズ ファントム・メナス 

 充分に面白い映画ではないでしょうか、私はポッドレースのあたりで 「うむ!これを見られただけで元は取った」と思いました。

 これだけ面白い映画をして、つまらないの物足りないのという人は何かこうスターウォーズをむちゃくちゃ特別視し、ひいきしたあげくに引き倒しているのだと思います、これも映画ならあれも映画なのです(あれって何?)

 なんか冷たい言い方、と思った方がいたとすればそれはそのはず、実のところ私はスターウォーズシリーズにあまりいい印象を持っていないのです、面白かったのは1作目だけ。

 そもそもこれは「辺境の惑星に住む一青年がひょんな事から宇宙を舞台にした大戦争に巻き込まれ、お姫様を助けてヒーローになる」というアメリカンドリームの王道をいく作品でした、このいかにも足が地に着いていない(というのはホメ言葉ですが)かろやかに飛翔するおとぎ話にエドモンド・ハミルトンのファンであった私はスペースオペラが映像化されたと思って感激したわけです。

 ところがこれがあまりにヒットしたのがいけなかったのか、商売っ気をだしたジョージ・ルーカスがこれはもともと9部作である話の4番目であるなどと言いだした、でもこれは絶対後知恵です、みんな忘れているかもしれないけど公開当時は9部作なんて誰も言っていなかったし、エピソード4とかNEW HOPEってサブタイトルも付いていなかった。

   正義がまさに滅びんとしている世界が舞台であればその前段について若干の考察はあったろうけれども、9部の構想なんてあるはずない、今でこそルーカスは大監督だけど当時は one of them であり、一つしくじれば次は無い無情の荒野に身を置いていたわけです、脳天気に9部作の構想なんか練っていたはずはありません。

   多少なりとも構想があったのなら、1作目であっさり殺したオビワンを2、3作目で幻(?霊魂?) にして再登場させたり、1作目で恋仲風に作ったルークとレイアを3作目で兄妹にしたり、1作目になんの伏線もないまま2作目でダースベイダーをルークの父親にしたり、1作目でルークは「フォース養成ボール」なんて即物的なもので修行していたのにヨーダの修行はめちゃくちゃ東洋趣味(それが修行とも知らず仙人の飯炊きをやらされて腐っている若者の図)だったり(でも新作では生まれてすぐ修行を始めなければジェダイにはなれないことになっていたり)・・・という迷走は無いと思うのです。

 ところがこれが大ヒット、本人のアイデアか映画会社に知恵ものがいたのかわからないけど「続編であと2作、親の世代で3作、子の世代で3作」と具体的な数字を出したおかげで話題性は充分、期待も高まるという効果を生み出したわけです。

   そのかわりどんなに惜しくても9作しか作れない、ということはあるけれども、「ヤマト」のように「さらば」と言ったあと「永遠に」「新たな」「完結」と屋上屋を重ねる醜態をさらさずに済みます。

 (ところでたった今思いついたのだけれど西崎もヤマトを9部作とかいって売ればよかったのに、沖田艦長が青年の頃で3作、古代と森雪の子供で3作)。

 さてそのアイデアがなかなか天才的であったために「帝国の逆襲」はきわめて特異な物になりました、それは「あらかじめヒットが約束され」「続編の製作が既定の事実である」という映画史上初の作品です。

   昔むかし1910~50年頃にアメリカで連続活劇と呼ばれる週代わりの映画が存在したのですがこれは1本1本が短く、TV無き時代に今のTVの様に鑑賞されていたもので(そしてTVの普及とともに消えてしまった)今とは状況が違います、映画製作がハイリスク・ハイリターンの大バクチになってから以後、このように恵まれた環境で作られた作品はないでしょう。

 ただし「恵まれた」のは制作会社だけであり、映画そのものには不幸な出来事であったとしか言いようはありません、というのも「約束されたヒット」のおかげで映画に緊張感がなくなってしまったからです。

 もともとルーカスという人はうまい監督ではないのですがそれを埋め合わせてあまりあった1作の「ひたむきさ」が欠落しているのです、そして「全ては続編をお楽しみに」とばかり解決をつけずカタルシスもなく終わらせてしまうやり方は観客をバカにしてるとしか思えません。  タダで見られて1週間待てば次が見られるTVと違うのです、その映画にお金を払ってくれた客をその映画で満足させて返すという映画製作者の最低限の良心さえ放棄しています。

 私はこれを見た時ははっきり言って怒りました、皆何で怒らないんだ? 

 続く「ジェダイ」はまあシリーズ最終作だけにそれなりに力は入っていましたが、今度は子供を取り込もうと欲を出したのか熊のぬいぐるみが活躍する話にしてしまいました、ドイツ軍を思わせる無個性、近代装備の軍隊にかわいいぬいぐるみが罠で対抗する、というのはディズニーのコメディでもなければ許されないお話です、もちろんスターウォーズの大人のおとぎ話というテイストを大きく損なってしまいました。

 前シリーズの話が長くなりましたが、そういうわけで私はスターウォーズ1作目(エピソード4なんて呼んでやらない)以外は評価していないのです。  

 だから今度の新作も西崎のヤマトを見にいった時と同じ気分で、つまり1ミリも期待してはいなかったのです、お祭りなので惰性で顔を出す、と言うような感覚でしょうか、そしてそれ故にか「なかなか面白かった」のです。

 ポッドレースあたりが最高であとはどんどん盛り下がっていくし、ジャージャーはうっとうしいし、デススターのトレンチのシークエンスと同じことやってるよと思うし、竹槍と銃の戦いもまたあるよと思うし、なんだかな~、とは思うけれど、じゃあこれ以上面白い映画ってそうは無いぜ、とも思うわけです。

 「ジェダイ」と違って始めた話をとりあえず全部まとめてから終わらせているあたりも好感がもてます、これを期待はずれというならそれは期待のしすぎでしょう、最大公約数である映画が個人の期待、希望を上回ることなんてめったにないのです、期待、希望が過大であればそれは不可能なことを要求していたのだと言わざるを得ません、虚心坦懐に見てみればこれは豪華で贅沢な娯楽大作です。

 ところで実のところ私はルーカスが残りのシリーズに手を着けるとは思っていませんでした、実際うしろの3つはやらないとか言っているようですが(皇帝と帝国とダースベイダー無き後、世界観を継承しつつ、新たなお話を作るのはとてつもなく難しそうなのでさもありなんとは思います)  このあとの2つにしてもこれは難しいでしょう、最終的にはジェダイナイツが壊滅し、世界は帝国の天下になり、アナキンはデブの禿親父になる(までいくかどうかどうかは不明ですが)のは決まっているですから、シリーズ全体の幕引きとなる次次回作は大団円になりようがないのです。

 あらかじめ約束された成功と違ってこれから先にはイバラの道が待っています、自分で吹いた大ボラをルーカスがどこまでまとめあげるかお手並み拝見です、私はここへ来て始めてスターウォーズの続きが楽しみになりました。

 なんて意地悪な見方でしょうか、思い出しました、同じ様な「お手並み拝見」という意地悪な待ち方をした映画が以前にもありました、庵野秀明氏の劇場版「エヴァンゲリオン」です「あんだけ広げた風呂敷たためるわけね~」とか言いながら待っていたのでした、 しかしあの作品はまたカーブで逃げるんじゃないかと思っていたところに渾身の力でど真ん中のストレートを投げ込んできたのでびっくりしました、TVシリーズが終わった時点で最悪だった印象が好転したのはこの映画のおかげです。

 ルーカスにあの才能があるでしょうか?
   意地悪く、そして期待して待ちましょう、悪い予感がくつがえされる日を。

 (そういえば「エヴァンゲリオン DETH & REBIRTH 」編は「あらかじめ続編が約束された作品」でありましたな、関係ないけど)



 

ハムナプトラ


 娯楽大作です、スターウォーズよりよほど娯楽として完成してる作品と言えるでしょう。

 しかしこれを素直に楽しんでもいられない、という作品でもありました、とにかく過去の作品の剽窃とオマージュにみちみちているからです。

 (この場合『客にはわかんないだろうから盗っちゃえ』が剽窃『敬意を表して似せました』をオマージュと考えます)

 監督みずからがインディジョーンズを意識したと言っている(らしい)のでこれがインディジョーンズの第4作であってもおかしくない構成であるのはオマージュとして不問に付しましょう、しかし他にも色々と透けて見えるのです。

 まず
『信頼厚かったはずの僧が王の寵妃に手を出し、女は殺され当人は生きたままミイラにされて現代によみがえり、かつて愛した女の生まれ変わりをさがす』
 というイントロダクションは、
『信頼厚かった秦の始皇帝の将軍が徐福の集めた女の一人に手を出し、女は死刑、当人は生きたまま俑(兵馬俑の「俑」、陶器ですね)に塗り込められる、それが現代によみがえって女の生まれ変わりをさがす』「テラコッタ・ウォーリア」と同じです。

 ミイラ兵士と主人公の剣を使った立ち回りは、骸骨戦士の立ち回りが見せ場の「アルゴ探検隊の冒険」そっくりです、始め不気味な戦闘ポーズで構えていた一団がいっせいに斬りかかってくるタイミングは「良くみて研究しました」と言う感じですし、頭を切り飛ばされた骸骨がキリキリ舞いをする芝居も抜かりなく取り入れています。

 気の進まない主人公と金に目のくらんだ(呉越同舟の)一団が砂漠を『馬で』黄金郷を目指すのが「マッケンナの黄金」『ラクダで』目指すのが「ハムナプトラ」

 決められた日時だけに起こるよくわからない自然現象で一瞬だけ失われた都の姿が見えるのは「ハムナプトラ」、決められた日時だけに起こるよくわからない自然現象で一瞬だけ尖塔状の岩の影が秘境の入り口を指し示すのが「マッケンナの黄金」

 砂動力(?)による装置が落とし天井等の仕掛けを作動させ墓盗人を閉じこめる、というのはインディジョーンズ1作目にもありましたが、遺跡冒険アクション(なんてジャンル分けあるのか?)ではもはや定番といえるサスペンスでしょう。

 (「王家の谷」とか言う映画-正確な名前が出てこないので説得力にかけますが-ではスロープ状になった岩の通路を岩が滑りおちていき、いきがけの駄賃に通路の上の陶器のでっぱりを次々と叩き壊していきます、この陶器は上部の砂タンクの栓になっていたらしく、砂が流れ出ることによっていろいろな仕掛けが次々と・・・という段取りをしっかりと見せてくれました、これは30年以上も前の映画ですがすでに基本形が存在していたわけです。
 それがあまりにも定石になったせいか「またこれかよ」になるのを怖れて正面切って取り入れる映画がなくなり、なくなって久しいのを逆手にとったスピルバーグがインディジョーンズで臆面もなくやって見せ、結果古き良き時代の冒険談という雰囲気を出すのに成功したわけです。
 しかしこれはアイデア賞、間をおかずしてさらにパクれば「ああこういうのって昔いっぱい見たよな~」に戻るのは必至です (すくなくともインディジョーンズを思い出す人多数であるのはあきらかです) 直接的な映像表現で似た絵を見せるのは、映画の最中に他の映画を想起させるという意味で最悪だと思うのですがいかがでしょう?

 (頭の良くない映画製作者はSF映画というとすぐ頭上を圧して進む巨大宇宙船の絵を見せたがるのですが、それって誰もが見るたびに「あ、スターデストロイヤー」と思うわけで「自分の映画を見せている最中に他の映画を思い出させてどうすんじゃ」と私は頭が痛くなるわけです、つまりはそういうこと)

 金の亡者が金の取り合いをしていると秘境は崩壊を始めます、落ちる石、倒れる尖塔をかいくぐって(金に興味を示さなかった)主人公だけが無事脱出に成功し、外にいた馬の一頭にまたがって彼は帰りの途につきます、彼は気が付いていないのですが馬にくくりつけられたバッグには(金の亡者の一人が詰め込んだ)金がいっぱい入っている、と言うのが「マッケンナの黄金」のラストシーン、『馬』を『ラクダ』に変えたのが「ハムナプトラ」です。
 やや送り目(去っていく主人公をななめ後ろからカメラが捉えている)のカメラアングルからバッグに寄っていくカメラワークまでそっくりです。

 パクりパクられは映画の常ですが雰囲気や設定を似せるならともかく、具体的なイメージをここまでパクっていいのか?という気がします、また総体的にみてもこれは独立したオリジナルな作品と言うよりパッチワークのようです、たしかに面白くはあるのですが(これで面白くなかったら問題)手放しでは誉められません、これでOKならこういうタイプの映画はいくらでも作れるからです、ここで私がひとりで許さん!とか言ってもなんの意味もないでしょうが、でもまあ言いましょう「私の中の名作シリーズをことごとくパクリまくったハムナプトラは許さん」と。

 

ディープ・ブルー


 サメの映画といえばこれはもうスピルバーグの天才が遺憾なく発揮された「JAWS」が金字塔のごとくにそびえたっており、あとはいかに目先を変え「同じ土俵で勝負しないか」(!)が勝負になるというある意味負け戦のジャンルです。

 そこに、いまさらのように大作を投入してきたからにはなにかしらの勝算があるのか?(単なるドン・キホーテか?)という意地悪な興味でこれを見て来ました。
 制作者の勝算は4点あったようです、1・分子生物学(遺伝子操作) 2・コンピューター・グラフィックス 3・進んだアニマトロニクス 4・深海パニックの要素を入れる の4つです。

 「JAWS」を研究しつくした作戦といって良いでしょう、「遺伝子操作によって頭が良くなった」という設定により、サメがなぜあれほどに悪賢いのかという疑問に答えを与え、知恵を絞って脱出を計る人間達の計画をことごとくつぶしていくというある意味ご都合主義なストーリー展開を「頭がいいんじゃ仕方ねえ」(?)という1点でフォローしようという作戦です。

 次の2点はまさしく「JAWS」の弱点を正面から突いています、CGもアニマトロニクスも無かった当時スピルバーグはサメをほとんど画面に登場させることが出来ず、最後に満を持して登場したJAWS御大はなさけないハリボテだった、というのがあの映画の瑕瑾です。

 それに対してこの映画では引きの絵ではCG鮫が、人間とのからみではアニマトロニクス鮫が自由に芝居をこなします(「アニマトロニクス」とはアニマルとエレクトロニクスの合成語で動物の動きを模す作り物の総称です、1993年製作の「フリーウイリー」ですでにコードの束を引いていなければ本物にしか見えない泳ぐイルカが画面に登場していました、泳ぐアニマトロニクスはハリウッドではきわめて進んでいるのです)

 最後に言う「深海パニック」というのは私が勝手に名付けたジャンルですが閉鎖空間に閉じこめられた人間が「モンスター」と「水圧」によって脅かされる映画の総称です、この「ディープブルー」の場合舞台は深海といえるほど深くはありませんが、脅威がサメだけではなく浸水でもあるという設定は深海パニックの資格充分です。
 
 これは、相手がサメでは人間に脅威をあたえるシチュエーションがそう多くはない、という根元的問題の解決に導入されたアイデアでしょう、普通に考えれば水中にいる所を襲われる以外サメはさほど怖い動物ではありません、陸にいたら問題外、船に乗っていてもまずOKです。
 (その船をガリガリ囓ってしまうほどの化け物だ、というのはスピルバーグがやってしまったとなればやることがありません)

 そこで海中施設に頭のいいサメ(水圧とか防水とか、そもそも人間は空気がないと生きられないとかいう知識を有し理解する)を配し、直接の脅威の他に水の脅威を導入したわけです(いままではサメを「本能のままに行動する殺戮マシーン」として描くのが常道だったので新機軸といっていいのですがここまでくると逆にサメでなくてもいいんじゃないの?、という気がしてきます)

 さてそのように慎重に計画され、狙いを絞ってきたこの映画が製作者の狙いどおり面白くなっていたか、というとこれが ??? とせざるを得ません。

 良くいって「つまんなくはないよ」とか「退屈はしないかな」という程度です、それなりに考えて作られたこの映画がなぜにいまふたつなのかといえば、それは脚本が練られていないことに尽きるでしょう。

 私はなにしろ「深海パニック」を含め「モンスターパニック」が大好きなので、こういう映画を観るとついモンスターパニック映画のための採点表(仮称)というチェックにかけてしまうのですが、この作品は駄目なモンスター映画が特徴的にそなえるいくつかの欠点をことごとく備えているのです。

 それは1・位置関係がわからない 2・勝利条件がわからない 3・神出鬼没 4・異常な勇気 などです。

 まず「1」、観客は登場人物と同化してサメや浸水から逃れようとしているわけですから登場人物が何をしようとしてるのか理解する必要があります、そのためには自分たちが海中基地のどこにいるのか、どこに行きたいのかが明らかである必要があります。
 普通はその伏線として事件が始まる前に説明的なシーンを作って舞台説明をするのですがこの映画の場合はそうなっていません、そもそも基地の規模さえ良くわかりません。

 「2」の「勝利条件」とはそれに重なり合う概念ですが、一体どうなれば助かるのか(人間側の勝利)どうなったら助からないのか(サメ側の勝利)という条件が提示されないと観客は映画にのめり込めません。

 ここではたとえば「脱出潜水艇までたどりつければ人間の勝利」「それまでに喰い殺せば(近くに寄れれば)サメの勝利」とシンプルな目標を掲げるべきなのです、そして今いる場所がここ、目的地はここ、その障害となるのが水没している区画でここを無事通過出来るかどうかが映画の見せ場、と観客に明確に示されるべきなのです。
 「時間がたつと浸水が天井に達して終わり」というような時間制限も付け加えるとより緊迫感がますでしょう。

 (「ポセイドン・アドヴェンチャー」が面白いのはとにかく上へ、という強烈な動機付けがなされていることにあります、位置関係がそれほどうまく説明されているわけではありませんが、転覆した船の船底に達するのが目的、立ち止まれば死、という目標だけは観客に強烈に示されています)

 この映画ではどうだったでしょう、すべてダメです、どこだかわからないところからどこだかわからないところへ逃げているだけです、「どうしたいのか?」も不明瞭です。

 最初「脱出艇で逃げよう」ということになって格納庫へくるとこれが破壊されている、するともう一つ脱出ルートがあるという話になり、それがダメだとなるとこういう方法もあるという話になります、こまぎれに提示される目的地めぐりに観客は明確な目標をもてずじまいです。

 またうろうろするべき基地内部も水没している区画があり、浸水しているのにそれ以上の水の流入が止まっている区画があり(何故?)防水隔壁が破壊されそうなほど水圧がかかっている場所があり(どうして?)わけわかりません、これは制作者達が全体感を抜きにしてその場しのぎのサスペンスを羅列しているせいです。
 これでは「手に汗にぎりようがありません」

 つぎの神出鬼没、とはたとえばジェイソン君に追われた登場人物が山荘を逃げているとします、やっとの思いで自室に逃げ込み分厚いドアをバタンと閉めホッとするや、ドアの陰に隠れていたジェイソン君が襲いかかる、というような事を指します。

 こういうシーンを頭の悪い制作者はよく作るのですが正気とは思えません、論理的にも物理的にもありえないことです、観客はとりあえずキャアとかいいますがそれは驚愕しているので恐怖しているのではありません、映画がビックリ箱と同レベルでは悲しいでしょう。

本当を言えば「あそこまで逃げれば助かるんだ頑張れ!」とか「ああ、あそこは行き止まりなのに」とかいう一体感こそが大切なはずなのです、こういう「神出鬼没」をすると肝心の「逃げる」という行為が形骸化してしまいます。

 この映画においてもサメは神出鬼没です、とりあえず水のあるところならいつでもどこでも出現可能で「ここはひとつサメが人間を襲うシーンとしよう」と制作者が判断した時に最適のタイミングで出現します、どこからやってきたんだかわかりません、こういう神出鬼没と胸先三寸はサスペンスをスポイルします。

 (「エイリアン」はモンスター映画の傑作ですがいくつか見過ごせない欠点がありその一つが船長の襲われるシーンです、危険な怪物が船内をうろついていることが明らかになったあと、その怪物を狩り出すために船長は単身出かけていきます、武装し神経を張りつめて進んでいく船長、観客も感情移入し息がつまるほどです、ところが船長は突然現れたエイリアンにあっけなく襲われてしまうのです、そんなわけあるか!、と私は当時劇場で思いました、怪物を追って全ての感覚をとぎすましている人間が当の怪物にやすやすと忍びよられる筈はないのです)
 
 胸先三寸と言えば「襲って来たとみるや一口に呑み込むか、しばらく威嚇するか、呑み込まずにくわえるか(怪我ですむか)」も胸先三寸です。

 ここは「水のなかにいたら必ず襲われる」とすべきだったでしょう、襲われるまでの時間をどうかせぐか、いかに水の中にいる時間を短縮出来るか、というあたりにサスペンスの主眼をおくのです、襲われればもちろん「ひと呑み」でなければいけません。

(「トレマーズ」では「土の上にいたら必ず喰われて死ぬ」という意識を徹底し、サスペンスを盛り上げていました、「怪物は振動をたよりに襲ってくる」「目は無い」「大きな岩の上は安全」など納得できる条件をわかりやすく示し、神出鬼没でもなければ胸先三寸でもありません、限られた選択肢のなかでサスペンスを盛り上げるのがシナリオライターの腕でしょう、人間にとって不利な条件を逆手にとった退治のしかたも納得のいくもので文句のつけどころのない傑作でした、私のなかではモンスターパニックの最高傑作となっています)

 最後の「異常な勇気」はこれはもう踏み絵みたいなもので、これが出たら私は物も言わず「駄作」の烙印を押すほどです、これは外にバケモノがいるとわかっていながら「ネコちゃんや~」とか言いながら安全な場所を出ていく輩のことです。
 (「ネコちゃんや~」とは「エイリアン」の機関士の台詞ですが、これを最初に見たとき私はもうダメだと思いました、船長のくだりといい駄作の要素満載な「エイリアン」をかろうじて救ったのはギーガーの功績でしょう)

 登場人物が納得できない行動をとれば観客は引いてしまいます、殺人鬼が山荘の周囲を徘徊しているなら全員一ケ所に集まって死角をなくし、共同戦線を張るのが当たり前です、個室に戻ってシャワーを浴びたりする人びとを観客はどう考えればいいのかわかりません。

 (昔その場所で「死霊の研究」が行われ「恐ろしい事件が起こった」とされるロッジに泊まり、外を「超自然的な何か」がうろついているとわかったあと、怪しのうめき声を聞いて「誰かいるの?」とかいって外へ出ていくあんたは何もんだ、とか思います。「死霊のはらわた」を傑作という人の気持ちがわかりません)

 この映画でも終わり頃、とりあえず安全な場所にたどりつきながら「研究データーを取ってこなくちゃ」といって水没した部屋に入っていく博士を見て、こりゃダメだと私は思いました、ひとつダメな所がある映画って結局いろいろダメなんだなあ、とも。

 水に入ったらまず死ぬ、と決めておけばこういうゆるんだシーンは作りようがありません、サメが出るも出ないも胸先三寸というあいまいさがこのバカげた行動を生むわけです。

 見終わって思うことは、これってモンスターパニック映画のチェックリストにことごとくひっかかった映画だなあ、ということでした、良くできたCG、良くできたアニマトロニクスのおかげでとりあえず退屈はしない、というほどの映画には仕上がっていますが、評価は出来ません、もちろん未見の方にはとうていお勧めすることは出来ません。


 日本映画の黄金時代、とある監督が映画の要素の重要な順について「1スジ、2ヌケ、3ドウサ」と言ったそうです、スジとはストーリーのこと、ヌケとは奇麗な映像、ドウサとは芝居のことです、結局スジことシナリオが良くないと、ヌケ(デジタル技術)やドウサ(アニマトロニクス)がいくら良くってもだめなんだなあということですね。



こんな夢をみた


「最近のCGは良くできているねー」というのはまだまだという意味であるのは言うまでもありません「××くんも大人になったね~」と小学生に言うのと同じことです。

 十数年前「ジュラシックパーク」を見たとき、そのあまりにもリアルなティラノザウルスを見て私はびっくり仰天しました、その質感、生物感はもとより実物大アニマトロニクスに挟まっても違和感のないリアリティが驚異的だったのです、これは「CGなりにつじつまが合っている」だけでない証拠でもありました。

 これならCGアクターが人間に混じって演技を始めるのも遠い先のことではないな、とそのときは思ったのですが・・・ダメです、進むどころかなんだか後退しているのではないかと思われるほどです、「タイタニック」でCGアクターやCGスタントマンが活躍していると聞いて楽しみにしていたのですがこれはまるでバーチャファイタ-のようでした。
 いったいにCGは無生物の表現は得意といってよいでしょう、時に本物と見間違う絵を作り出します、しかし生物はダメです、画面に登場したとたん「なんか変」と思われてしまいます、どことなくなんとなく、でもたしかにこいつは本物じゃないという感じでしょうか(ではジュラシックパークは何だったんだ、と言うことになりますが、あれは何かの間違いだったのでしょう)これが人間だった日には1フレームも持ちません。

 「良くできてるね~」と言うのは「頑張っているね~」と同義で、「頑張っている」のが見えるあいだはとうてい本物と見間違えることは出来ません、これは何故なのでしょうか?

 結局のところいいところまで来たように見えるだけで、あと一歩を踏み越えるためには実はケタのちがう質的飛躍が必要なのかもしれません。

 そもそも人間が視覚からどれだけの情報を得ているのか、つまり人を見たときどこをどう見ているのか、何をしてそれが人形でなく、CGでもないと判断するのかがわからないと本物と見間違うCGは作れないのかもしれません。

 とはいえそこまでいくとこれは認知生理学、認知心理学の領域で、そんなことは現場ではやってられないというのが実状でしょう、であればあとは数学的厳密さと力業の両面作戦で押し切るかです。
 つまり髪の毛全てに物理シミュレーションをかけるとか、表情を作るのに皮膚の下の骨格筋肉を意識するとかいう数学的手法と、人をモデリングする際に左右対象ではなくするとかシミ・そばかす・傷をつけるとか、不随意な筋肉運動を付けるとかいうノイズの付加です、試行錯誤を繰り返せばあるいは「いい案配」なところが見つかるかもしれません。

 もっとも、今そこまでつきつめたフォトリアリスティックなCGを誰が必要としているのか?(だったら俳優にやらせりゃいいじゃん)ということがあってだれもチャレンジをしていないようなのですが、私としては一度「本当に」人と見間違うようなCGアクターを見てみたいと思っています、リアル指向を突き詰めてからでなければノンリアルな表現もまた中途半端なものにとどまるのではないかと思うからです。





 などというようなことを漠然と思っていた今日この頃ですが、話は変わって12月17日、東宝撮影所で仕事をしていたところ所内で樋口真嗣氏の新作の完成披露試写があると聞いてもぐりこんで観せてもらいました。

 タイトルは「こんな夢をみた」原作は黒澤明、1990年制作のオムニバス映画「夢」の1エピソードとして考えられておきながら「ILMでも映像化できない」(!)とお蔵になっていたものを樋口氏が今回フルデジタルで映像化したものです。

 お話は
 「高層ビル街の遥か高みで学生の「私」が綱渡りをしている、風に飛ばされた帽子を取ろうとしてバランスを崩した私は落下を始める、地面に激突するその瞬間私は天使によって助けられる、私は天使に手を取られ空高く飛んでいく、崖のそばを飛んで行くと、崖に映った影が「俺を置いていくな、夏休みはもう終わりだぞ」と呼びかけてくる、しかし私は影をおいてさらに空高く飛んでいく、宇宙を飛んでいる私が振り返ると地球が小さくなっていく、寂しくなった私は天使に「楽しかったけど僕は地球に帰りたい」と言う、天使は手を離し私は再び落ちていく、花の咲き乱れる地面に落ちるが痛くはない、影がやってきて自分を置いていくなんてひどいじゃないかと文句を言う、私はこれは夢だからしょうがない、でもこれは良い夢だったと言う、影はそっちには良い夢かもしれないがこっちには悪い夢だと言って怒っている、私は影にあやまる、仲直りした私と影は手をつないで谷を降りていく」
 というものです。

 ストーリーらしいストーリーはなく、華麗なイメージが乱舞する10分ほどの短編映像です、最新デジタル技術を駆使してる(んだろう)にもかかわらず鑑賞後の印象は「ある街角の物語」とか「展覧会の絵」とかの古い実験的アニメ映像に酷似していました、これは何故だろうと思ってみると、いくつかの共通点が浮かび上がります、これはあるいはこの作品を解釈する重要なポイントであるかもしれません。

 さてその共通点ですが大きく分けて2つあります、1つは映画の落としどころの問題、1つは表現方法です。

 1の落としどころ、というのはこれがどういう経緯で作られ誰にどうやって観せるつもりなのかという製作者の意識のことです。

 商業映画は当然ながらビジネスであるために、いくらの予算をかけこういう映像を作り、こういう観客にアピールするという意識をもって作られています、皮算用で配収まで決まっていたりします、能力不足、運不運で思いどうりにならないことも多々あるのですが、それが決まっていない映画はありません。

 たとえば「ハリウッドもかくやと思わせる先進の技術をもって既存の特撮映画に飽き足らないマニアな観客をうならせると同時に隙のない脚本で映画通にもアピールする」とかいう夢のような構想はあるわけで宣伝もそれにのっとって行われます。(※このセリフはフィクションであり実在の人物、団体等と関係はありません)

 ところが観客がまず自分であり身内である映画、資金の回収をあまり(あるいは全然)考えない映画-実験映画や自主映画-の制作者は、こういった意識が希薄であったりします、それは彼らがまず創作意欲ありきで始まるからです、出来たからには人に見せたいと思うでしょうが、製作過程においては自分の思うところのものが表現出来るかどうかが最大の関心事であることは間違いありません、誰にどう観せるかは二の次なのです。

 そういう映画から共通して感じ取れるのは「制作者がそれをどう観てもらいたがっているのかわからない」というつかみどころのなさです。
 先の「落としどころ」という表現に即して言えば、映画がどこに着地したいのかつかめない不安定さを感じるということです、この「こんな夢をみた」からはそんな感じが伝わってくるのです、フルCGで10分ほどの小品であるこれはひょっとして、きっちりとした発表の場が決まっていなかったのではないでしょうか。

 映画はうまく着地すればそこには多くの観客がいて多くの期待に答えることができます、商業映画であればそれが唯一成功のあかしです。

 想定された観客がなく、よって想定された期待もない映画はどうあれば成功したといえるかわかりません、制作者が好きに作ってこれでいいと言えばそれで決まりともいえるわけですがそれは制作者にとっても映画にとっても不幸なことです。

 そもそも監督に「好きに作らせる」のは良い作品を作る道ではありません、この問題になると私は押井守と「うる星やつら」を思い出します。
 今にして思えば押井氏のテイストはスラップスティックなコメディの「うる星」とは相入れないものであったとしか思えません、原作者の個性が強烈な作品に押井氏は自分のカラーを盛り込もうと悪戦苦闘したに違いなくその個性のぶつかりあいがたとえば傑作「ビューティフルドリーマー」を生んだと思うのです。

 ところが成功して宮崎駿氏いわくの「監督の発言力」が強くなるとだんだん「好きに作れる」ようになり、しまいには「ケルベロスの犬」とか「攻殻機動隊」のようなプライヴェートフィルムになってしまうわけです。

 (宮崎の例で言えば「発言力」が強くないころの原作付きの「コナン」とか「カリオストロの城」の方がバランスが良く、好きにやった「紅の豚」などは余人には理解不能な美学にあふれています)

 監督というものはきつい「縛り」をかけもがいてもらった方がどうも良い作品を作れるのではないかと思うのです。

 なにが言いたいのかというと、落としどころがない映画、なにをクリアすれば成功と言えるのか不明な映画を監督の内部規範のみをたよりに「監督ひとつよろしく」といって作らせてはいけないということです、とくに樋口氏は「火を吹いてグルグル回りながら空を飛ぶ巨大なカメの怪獣をカッコ良く、リアルに描いてね」という無理難題(※実在の映画と関係があります)をなんなくクリアした達人なのですから、さらにきつい縛りの映画を撮ってもらうべきでしょう。
 どうあろうとOKといえばOKなどと言う映画(私に言わせれば「そんなの映画じゃないや」ということになりますが)で楽をさせてはもったいない(!)のです。


 次は「表現方法」です。
 この作品はフルデジタルでありながらフォトリアルを避け、より抽象化した表現になっています。

 樋口氏はメイキングビデオ(続けて上映されたのです)のなかで主人公の少年から人間臭さを取り除きたかった、と言っていますがそのとおりに主人公は顔がなく、そもそも輪郭しかありません、きっちりとポリゴンでモデリングされているのでしょうが画面ではその輪郭しか描写されず、彩色はラフスケッチに色鉛筆をさっと走らせたような仕上げになっているのです(さらにその色はスケッチ画風フルアニメのように不安定に揺れ動き輪郭からはみ出したりしています)

 結果としてはよくできた「みんなの歌」みたいなのですがでは何故こういう表現方法になったのでしょう?

 それは多分樋口氏がCGの限界を良く知っているためでしょう、CGは「良くなっている」けれど実際にはフォトリアルにはほど遠い描写能力しかありません、そこで不得意な土俵の上での勝負を避け抽象化の道を選んだのです。

 もちろん不得意な部分を避け、得意なところで勝負するのは当然の戦略で「トイストーリー」や「バグズライフ」も同じ作戦をとっています、同じベクトルの上ではこの「こんな夢~」は圧倒的な完成度をほこるCG作品であるのですが、私は不満です。

 それこそせっかく「商業映画」でなく、1時間何分という大作でもないのですからもっとチャレンジして欲しかったと思うのです、チャレンジというのはたとえばフォトリアルです。
 「成功すれば気が付かないし失敗すれば笑われる」というのはスタンリー・キューブリックが特撮について述べたことですが、この場合もそういうことこそが真のチャレンジだと思うのです。

 たとえばいまの映像では誰も成功不成功について言えません、監督がこれが目指すものであったと言えばそれで終わりです、映画全体の印象に続き、映像表現もまた批評の埒外にあるわけです。

 メイキングビデオで樋口氏はCGの場合どこで完成と思えばいいのかわからないところが難しい、と繰り返し語っているのですが、逆に言えば抽象化された表現であればどこでやめてもOKです、これが現在の樋口氏のあたうかぎりの理想型なのかもしれませんが、評価のよりどころはなく、出て来たものにたいしてはただ好き嫌いのみが言えるだけです。

 これに対してフォトリアルの場合話は簡単で「本物と見間違えれば成功」と言えます、人工知能の研究でモニターを通して会話した相手が人間かコンピュータープログラムか判断出来ないときそのプログラムは知能を持っていると見なすという「チューリングテスト」がありますが、この場合スクリーンを通した映像がCGか本物か区別出来ないとき、そのCGは真のフォトリアルを獲得したということになるでしょう。

 樋口氏が次にもしフルデジタル、フルCGの作品を作る機会があるのならそのときは今回のようなチェンジアップではなくフォトリアルというど真ん中の豪速球で勝負して欲しいと期待するわけです。

 今のところ演出家はデジタルに通じておらず、といってCG技術者は演出家でも表現者でもなく、両者のあいだには深くて暗い河があるわけです、出来ることと出来ないこと、やりたいことと出来ることを高いレベルで融合させうる人間はめったにいません。

 商業映画という無情の荒野で、かならず結果を出さねばならないというプレッシャーのなかでなおCGを使いこなせるのは今のところ樋口真嗣しか思い浮かびません、手堅くまとめるのではない、あらたな地平の一本を一ファンとして私は期待したいと思うのです。






 ついでに一言。

 これはまあ無い物ねだりなのかもしれないけれど「天使」を「薄物をまとった美女がハレーションと露出オーバーでディティールがわからないほどに白く輝いている(カメラ用語で言えば「とんでいる」)」風に作るというのはあまりにもステレオタイプではなかろうか? と私は言いたい。

 最近自分のやった物の中では「タオの月」の「デプンの女神」、偶然「ブレインストーム」を観たばかりなのだがこの中の天使、CMでも天使はしょっちゅう見るような気がするのだが皆表現が同じだ、あれしかなかったのか? うっかり思考停止してしまったのではないのか? 妙にレトロなアニメティストを感じるこの作品のなかでも特にこれは気になった、全ての「お約束」を疑ってかかるのが樋口演出の真骨頂だと思っていたのだがどうなのだろう?

 更に補遺

 私が見たフォトリアル指向のCGで今のところ最高のものは「ファイナルファンタジ-7」のエンドクレジットです。

 レンダリングのクオリティはもとよりCGアクターの芝居も含めて、スクエアはマジでフォトリアルなCGムービーを作ろうとしています、こんな無謀なマネをするのは(できるのは)スクエアくらいしかないかもしれません。

 そして驚くべきはこれにかなり成功しているということです、ホームビデオという設定による解像度の低さ、手ぶれ、アンフォーカス、露出不足等「ノイズ」の大量投入による援護射撃はあるのですが、ともかく逃げも隠れもせずに本物のような絵を作ろうとしています、ゲームはヘロヘロですがこの姿勢は評価に値すると私は思います。
(それにつけてもホノルルのCGスタジオはどうなった?)

補遺の2

 物言うコンピューター/電子頭脳/人工頭脳/無能/はSFにいくらでも登場しているのだけれどモニターの中で人の映像を作り出し、実在の人物と思いこませるという状況を最初に描いたのはロバート・A・ハインラインの「月は無慈悲な夜の女王」だと思う。

 これは月植民地の全てをコントロールするスーパーコンピュターが自意識を持ち、修理技術者の主人公と一緒に月の(地球からの)独立運動に参加するというストーりーである。

 グループのリーダーをつとめることになった人工知能「マイク」は市民に語りかけるためモニター上に自分の姿を作り出すことになる。
 これが書かれたのは30年以上前でコンピューターはまだ石器時代、パンチカードが現役で、アップルコンピュータが世に出る10年も前であると思えばハインラインの発想の先見性には驚かざるを得ない。
 
 しかも相棒のコンピューター技術者に「声は簡単だが、映像はケタ違いの処理をしなくちゃならないので無理だ、お前はそんなに速くない」と言わせているあたりが実に見事で、だてにSFの父と言われているわけではないと思わせます。