キエフ
コンタックスのもう一つの遺産
1945年5月のドイツ第3帝国崩壊に伴い、古都イエナ、ドレスデンはソ連軍の占領下に入った。ライツのあったウェッツラーがのちに西ドイツとなる地域にあって、空襲すらも受けなかった小さな町だったのに対し、大ツァイスの本山たる上記2都市は、ドイツの産業の中心であり、枢要な戦略拠点であったがために(そしてまたたぶんに報復的に)、ほぼ完膚無きまでに打ちのめされていた。
この年の4月に親ソ派のルーズベルトが病死して、合衆国副大統領から昇格したハリー・S・トルーマンは、大のスターリン嫌いで有名であった。彼は、ドイツには決定的な打撃を与えるよりも、赤禍の防御線として利用できる程度に、その国力を弱めておくべきだと考えていた。5月、ドイツという共通の敵を失った米ソの仲は、急速に冷えていった。日本はまだ、沖縄で戦っていた。
イエナの位置するチューリンゲン地方には、当初アメリカ軍が進駐していたが、協定により同地がソ連軍の占領下に入ることが決まったとき、米政府は有名な決断を下す。「われわれはツァイスの頭脳を持っていく」約90人のツァイスの技術者が、シュツットガルトの近郊に移住した。被災を免れたコンテッサ・ネッテルの工場がそこにあった。やがてそこからそう遠くはないオーバーコッヘン村の清冽な水から、西のカール・ツァイスのレンズが誕生する。
イエナとドレスデンのツァイスの運命は、より苛酷であった。「収奪者から収奪せよ」とのマルクスの教えを遵守したわけでもなかろうが、ソ連軍は賠償の肩代わりとして、また単なる戦利品として、一切合切を持ち去ろうとした。とりわけ、世界最高水準を誇るツァイスの光学レンズ技術と各種製品は、クレムリンの指導者たちの眼に魅力的に映った。フェドやゾルキーと同様、コピー商品を西側か、少なくとも東の衛星国家に売りつけるという商売も、素晴らしい思いつきであった。
だが、かの地の労働者には、大ツァイスの傲頑とも云える無闇に複雑な機構を、模倣するだけの技術力がまだなかった。おまけに解体移送時の不手際も加わって、結局ほとんどの設備はドイツに戻された。その無意味な往復過程で失われたものも、少なくなかっただろう。
イエナから、恐らく戦争後に組み立てるつもりで蔵い込んでいた部品のほか、なんらかの理由で新たに製作しなければならなかった部品を集めて、戦前のコンタックスII型と、一部のレンズ群とが、少しだけ世に送り出された。カメラにはカール・ツァイス・イエナのロゴが、ファインダーシューの上部に刻まれている。この、通称イエナ・コンタックスは、ソ連に対する戦後賠償のためでもあったが、また、イエナに集めたソ連技術者の実地教育過程で生み出された可能性が高い。ツァイスの技術を習得する機会に恵まれた彼らは、やがてソ連の主要工業地に散って指導的立場につくであろう。
戦後間もなく、イエナのツァイスは人民公社に改編された。社会主義本家のソ連の製品が、年を追うごとに粗悪になるのに比べて、国営化されたとはいえ、ツァイスはツァイスたりうる製品を作り続け得た。それはドイツ職人の気質のお陰であったろうか?
1949年、東のツァイスは、戦前から研究されてきた、ペンタゴナルダハプリズムを組み込んだ正立像のアイレベルファインダーを持つ、予言的な一眼レフレックスカメラ、コンタックスSを発表した。ロゴこそコンタックスであったが、機構も操作もまったく異質のカメラであった。その暗いファインダー像を見た誰もが、この製品に大きな価値を見いださなかった。多くの西側のツァイス関係者や写真家たちは、この東の落とし子を、正統なるコンタックスの後継者と見なすことを断固として拒絶した。しかし、そのコンセプトはやがてニコンFとなり、世界を日本のカメラが席巻する前触れともなろう。この年、ドイツは決定的に2つの国家に分断された。
それより少し前、ウクライナの大都市からは、Sとは違ってコンタックスの名前は見あたらないものの、コンタックスに非常によく似たカメラが現れた。キリル文字でキエフと正面に刻字されたそのカメラは、仔細に見るまでもなく、紛れもないコンタックスIIであった(より正確には、イエナコンタックスとのハイブリッド風であった)。もうひとつ、露出計を載せたキエフという名前のカメラがあったが、これもコンタックスIIIによく似ているどころか、ロゴ以外にほとんど変わるもののない、オリジナルそのものであった。これらはコンタックスの類別に倣って、キエフII、キエフIIIと呼ばれ、キエフ市のウラジーミル・イリイチ・レーニン兵器工廠(アルセナル)で、1947年から55年まで生産された。
コンタックスの同型との違いは、一瞥して
1)前身頃のロゴがКиев。
2)伝統あるツァイス・イコンロゴのない、無地の裏蓋張皮。
3)艶消しのクロームメッキされた前身頃。
に現れているが、このほかに
4)折り畳み足と巻き戻しボタンのモールドが戦前のコンタックスとは違う
のが判る。これは戦後のイエナ製コンタックスと同形であった。
52年頃から、キエフのロゴが、ラテン文字と装飾されたキリル文字の並記に変わったものが現れた。キエフIIIの感度指数はDINとGOST表示の2種類があった。旧来のキリル文字だけのロゴを持った、GOST表示のキエフIIIも生産された。シリアルナンバーは最初からファインダーシュー上に刻まれ、54年から短期間だけ、アルファベットを前につけるようになった。これは年間生産台数が1万台を超えたためであるが、すぐにシリアル桁数を1つ増やすことでアルファベット表記は消えた。仔細に見れば、ダイカストや部品の形などの違いが見られるものの、オリジナルのコンタックスとて、ロットごとに微妙な変化を見せたではないか?
1955年、アメリカで急速に流行しつつあったフラッシュ撮影に対応すべく、シンクロ接点を持ったキエフII、IIIが出現した。これらは、先行する機種と区別して、キエフIIa、IIIaと呼ばれることがある。同調速度は1/25で、これは最後まで変わらなかった。
よく知られているキエフ・カメラは、軍艦部がコンタックスIIIaに似ているキエフ4である。1957年から80年まで生産されたこのカメラもまた、原則としてコンタックスIIIのコピーであった。ただ、時代の要求と、西側外貨の獲得のため、先行するキエフIIIから若干が変更された。
1)コンタックスIIIaに良く似た非連動セレン露出計。
2)足周りの簡略化(折り畳み足がなくなり、ロックレバーが底板に埋め込まれる)
3)覚えカウンタのついた巻き戻しノブ。
ロゴはこれ以降、「Kiev」と装飾された「Киев」の並記のみとなった。これに加えて、労働者の質の低下と技術力の停滞が影響し始め、年々品質は劣化していった。多くの人々は1960年代前半を、その境目と見ている。
もうひとつ、キエフ4aがあったが、これはキエフ4から露出計を外したものであった。明らかにキエフ4の下位機種として位置づけられ、生産数も4型に比べて多くはない。
1963年、前身頃に名前を持たないキエフ4aが少数だけ、西側に向けて出荷された。通称ノーネーム・キエフと呼ばれるこれらのカメラのほとんどには、カール・ツァイス・イエナ製のレンズが装着されていた。ノーネーム・キエフは、ロゴがないことでキエフ4aと、足周りが簡略されていることでキエフIIと、それぞれ明瞭に区別することができる。なぜ戦後18年も経ってから、このような製品が西側に出荷されたのか? 第一に、ソ連は西側の外貨を必要としていた。第二に、その前年にカリブ海で重大な事件が出来した。なお、かつてノーネーム・コンタックスと呼ばれていた個体の正体がこれだ。
1965年、それまでのキエフ=コンタックス路線とは一風変わったキエフが登場する。キエフ5である。見方を変えればこれはコメータの簡易モデルと云える。露出計はよりボディと一体化されたが、連動はしなかった。自動復元式の順算式カウンター、パララックス補正付きブライトフレームファインダーが装備された。巻き戻しはクランク化され、側面に配置されている。巻き上げはレバー式と兼用となった。シャッターダイアルは滑らかな円盤となり、これはキエフm型に受け継がれている。これらの改良装備はすべて従来のボディワークの上に取り付けられ、サイズはシリーズで最大となった。キエフ5はあまりに複雑だったためか、その後発展をみずに生産も73年頃に打ち切られた。
1974年頃、キエフ4および4aに更なる変更が加えられた。前板の左側に傾斜がつけられ、目立たないよう隅に設置されていたギアを、前板で覆うようになった。セルフタイマーレバーに樹脂片が取り付けられた。もっとも大きな変更点は、最高速が1/1250から1/1000になったことである。これは退化であっただろうか? 否、むしろ現実的な変更であった。恐らく、発売当時のコンタックスIIですら、正確に1/1250を出し得たとは思われない。あれは間違いなく、ライカDIIIを出し抜く宣伝目的だけのものであったと云える。これらのカメラは便宜上「type-2」と付記される。
1980年、巻き戻しクランクを装備した、キエフ4mおよび4amが登場した。底面のロックキーのうち片方がコンタレックスのようにスプロケットフリー機構を有し、巻き戻しボタンが廃止された。ファインダーシューがホットシューに変わった。ファインダー接眼部も円形に変更された。
1987年頃、コンタックスの、もうひとつの系譜であるキエフの歴史は、ほぼ終了したと思われる。
キエフ用のレンズは、大ツァイスのレンズをそのまま模倣したものであった。極東の日本光学工業もまた、ツァイスのレンズを模倣したが、キエフのそれはデッド・コピーであった。
戦前の、それにまた当然ながらも戦後の、コンタックス用レンズは、すべてキエフシリーズに適合した。イエナに残された部品と、出荷されなかったかできなかった完成品が、戦後間もなくのコンタックスIIに載って世の中に出た。そのうちの一部は、63年のノーネーム・キエフに取り付けられて出荷された。これらはすべてカール・ツァイス・イエナの刻印を持っている。それ以外のレンズは、ソ連邦の各地の工場で生産された。その多くは、1980年代の後半まで生産され続けた。
1)ユピテル-3
コンタックスの象徴であり、大ツァイスの自信でもあったゾナー5cm/F1,5のコピーが、主にザゴルスク光学機械工場で生産された。ごく初期、1940年代の終わりには、Z.K.(Sonnar Krasnogorsk)またはZORKIIの名前で、KMZから生産・出荷された。光学上の工作精度の関係から、1960年代の終わりまでには、その生産は打ち切られたものと思われる。
2)ユピテル-8
戦後の固定鏡胴を持ったゾナー5cm/F2は、ユピテル8の名前でコピーされた。その多くはクラスノゴルスク工廠で生産された。これもごく初期には、Z.K.またはZORKIIの名前で、戦前と同じ沈胴型としてKMZから生産・出荷された。キエフシリーズのレンズとしては一番早く、1947年には出現している。50年代の途中から、ユピテル-8Mと名前を変えたものが出回った。このユピテル-8Mには53mm/F1,8という性能のものもある。また、キエフ5用にユピテル-8NBが作られた。
3)ユピテル-9
ポートレイトゾナー、あるいは舞台用ゾナーと俗称される、ゾナー8,5cm/F2のコピーである。ただし、戦中末期の構成変更後のゾナーをもとにしており、戦前のものとは異なる。これも最初はZ.K.の名前でKMZにおいて、のちにはキエフ市のレーニン兵器工廠において、主に生産された。70年代からは、ルトカリノ光学レンズ工場で生産されている。
4)ユピテル-11
もっとも流通した望遠レンズである、戦前のゾナー13,5cm/F4のコピーであり、KMZ(40年代。Z.K.とZORKII)、レーニン兵器工廠(5、60年代)、そしてカザンの工場で生産された。
5)ユピテル-12
ベルテレの高性能広角レンズも、ソ連と敗戦の前には特許もなにもなかった。旧型ビオゴン3,5cm/F2,8のデッドコピーであり、B.K.(Biogon Krasnogorsk)あるいはZORKIIの名前で、KMZから出荷された。もっとも知られた名称になったのは50年代に入ってからで、キエフの工場において、そしてご多分に漏れず70年代からは、ルトカリノ光学レンズ工場にて生産・出荷された。彼らは西のカール・ツァイスが出した新設計ビオゴンには、興味を示さなかったのだろうか?
6)オリオン-15
テッサー2,8cm/F8に代わる広角レンズとして、トポゴン25mm/F4と似たような対称形ダブル・ガウス・タイプの構成図をもって設計された。その性能は2,8cm/F6だったが、広角テッサーあるいはトポゴンと同様、非連動であった。これはザゴルスクの工場で生産されていた。
7)ヘリオス-103
恐らくユピテル-8Mに変わるキエフ4Mシリーズの標準レンズとして、1980年代にキエフ市の工場にて生産された。その性能は53mm/F1,8であった。50mm/F1,8のヘリオス103も存在したが、いずれも表記上のものであり、実際の焦点距離は52mm前後だと思われる。もっとも、この程度の数字の丸め方は戦前のツァイスにも見られる普通のことだ。構成は4群6枚のダブルガウスタイプ。
8)ヘリオス-94
これも恐らくはユピテル-8Mの後継であり、50mm/F1,8の光学性能を持っていた。キエフ5の外爪バヨネット標準レンズ。同じくガウスタイプで、ヘリオス103の原型と思われる。
9)ルサール-MR2
ビオゴン21mm/F4,5とトポゴン25mm/F4との双方の魅力を出すために、初めレニングラード用として設計されたレンズであったが、キエフ用としては告知されただけで、結局生産までには到らなかったと思われる。ライカネジマウントでのみ使用可能なルサール-MR2は、20mm/F5,6であった。
10)スプートニク-4
ビオゴン21mm/F4,5のコピーとおぼしきスペックで発表されたようだが、生産には至っていないものと思われる。
| キエフ | Kiev | Киев |
| ユピテル | JUPITER | ЮПИТЕР |
| オリオン | ORION | ОРИОН |
| ヘリオス | HELIOS | ГЕЛИОС |
| ルサール | RUSSAR | РУССАР |
| スプートニク | SPUTNIK | СПУТНИК |
| ゾナー・クラスノゴルスク | Z.K. | З.К. |
| ビオゴン・クラスノゴルスク | B.K. | Б.К. |
| ゾルキー | ZORKII | ЗОРКИЙ |
| ゴスト | GOST | ГОСТ |
| V.I.レーニン兵器工廠 | Arsenal V.I.Lenine |  |
| クラスノゴルスク工廠 | Krasnogorskii Mekhanicheskii Zavod |  |
| ザゴルスク光学機械工場 | Zagorskii Opticheskoe Mekhanicheskii Fabrika |  |
| ルトカリノ光学レンズ工場 | Lytkarinogo Zavod Opticheskoe Stekla |  |
| カザン光学機器工場 | Kazanogo Opticheskoe Mekhanicheskii Zavod |  |
※以下の一覧表は推定であり、これに当てはまらない個体の存在は否定できない。これはすべてキエフ・コンタックスマウントのみを対象としている。
| KMZ:クラスノゴルスク |
| 1947-49年頃 | B.K.2,8/3,5cm、Z.K.1,5/5cm、Z.K.2/5cm、Z.K.2/8,5cm、Z.K.4/13,5cm |
| 1949-50年頃 | ZORKII1,5/5cm、ZORKII2/5cm、ZORKII2/8,5cm、ZORKII4/13,5cm |
| 1950年代 | JUPITER-3、JUPITER-8、JUPITER-9、JUPITER-11、JUPITER-12 |
| '60年代前半 | ORION-15、RUSSAR-MR2 |
| Arsenal:アルセナル(レーニン兵器工廠) |
| '50年代後半 | JUPITER-8、JUPITER-9、JUPITER-11、JUPITER-12 |
| '60年代以降 | JUPITER-8M、HELIOS-94、HELIOS-103 |
| LZOS:ルトカリノ |
| '60年代以降 | JUPITER-9、JUPITER-12 |
| ZOMZ:ザゴルスク |
| '50年代後半以降 | JUPITER-3 |
| '60年代後半以降 | ORION-15 |
| KOMZ:カザン |
| '60年代以降 | JUPITER-11 |
BACK
acknowledgement :
Princelle, J. L., Russian and Soviet Cameras
Kuc, H.J., Auf den spuren der Contax
Hummel, R. and Coo, R.C., Spiegelreflexkameras Auf Dresden
Small, M.J., Non-Leitz LEICA Thread-Mount Lenses
Sasaki, M., Contax to Kiev, A Report on the Mutation
Text by Yoshitane Takanashi