★環境問題
ゴルフ場乱開発との闘い

〜「共有地分割請求訴訟」を終わるにあたって〜


大曽根 稔(夷隅町在住)



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 あしかけ10年におよんだ訴訟も、この1月25日に一切決着をみました。この間、「ゴルフ場問題千葉県連絡会」をはじめ、他県からも応援に馳せ参じてくださり、勇気づけられました。この絶大な力があったればこそ、最後の最後で和解案を拒否することができました。
 応援してくださった皆様方に心から感謝の気持ちをこめて、経過を報告いたします。









●ゴルフ場開発反対にたちあがる

 1985(昭和60)年、私は工業高校を定年退職し、私立高校への再就職も断って、晴耕雨読の理想的な生活に入れるものと考えていた。しかし、現実はまったく理想とは逆の現実だった。
 私が住んできた夷隅町は、房総半島の中南部に位置し、気候温暖で、山林も数十メートルと低く、岩盤も柔らかいため、ゴルフ場造成工事が容易である。しかも、地価は安価であり、地権者は山林を金に換えたいと希望していた。  このような土地にゴルフ場造成企業が群がるのは当然である。一時は既設ゴルフ場1カ所と新設5カ所、その他の林地開発地面積の合計は町の総面積(44.23平方キロメートル)の約2割、森林面積の6割が失われるという乱開発であった。
 これについて、行政も一般町民も町の活性化につながるとみなしていた。が、私の見方はまったく逆で、このような開発は我々の先代が苦労して得、営々として管理してきた宝の山を手放すことであり、金銭と交換してしまえば、一時の安楽はできるかもしれないが、決して賢明な行為ではないと考えていた。
 この時期は退職後3年目の1987年の頃であり、この年にリゾート法が成立し、国をあげてゴルフ場造成に狂奔しだした時期である。わが千葉県も、数において全国3位、密度においては1位を誇るような状況であった。
 このような状況を見過ごすことのできない者同志が集まり、「夷隅町の自然を守る会」を組織し、ゴルフ場開発反対運動をはじめた。さらに、私は開発行政に圧力を加えようとの魂胆で町議になり、1期4年間、開発阻止宣言・行動を貫いた。このような行動がゴルフ場開発を阻止したのだとは、くちはばったいことだが、そうとう阻止効果はあったものと考えている。
 1986年から町に開発申請されたゴルフ場は、「荒木根」「夷隅」「吟の舞」「夷隅川」「小倉山」の5カ所である。このうち、前3者はすべて撤退した。「夷隅川」は、ごく一部を工事しているだけで、最近は「レジャーランド」を建設するなどとも言っている。が、この建設も危ぶまれている。ただ「小倉山C・C」1カ所だけが本格的な造成工事をおこなったが、完成にはいたっておらず、中断状態のまま放置されてしまっている。
 このように私たち反対者の意志を無視して、町・夷隅支庁・県の行政を経て工事許可を得た時期はバブル経済の終わりを迎えた頃であり、会員権の売り上げで工事代金を支払い、なお残金が50〜100億も残ったという時期はとうに過ぎ去っていたのである。
 開発ゲームに狂奔した80年代が何であったのか、企業はもちろんのこと、一般の人たちも冷静に考える必要があると思う。












●暴力による脅しと訴訟

 前述の「夷隅川カントリークラブ」(以下、「夷隅川」という)と私との関わりは、直接であり、訴訟問題にまで展開した。
 「夷隅川」のオーナー企業は千葉市に本拠をもつ「起商建設K・K」である。ゴルフ場建設のため、夷隅町に「夷隅観光開発K・K」を設立し、当初は故山村新二郎氏の実弟にあたる山村武氏をすえ、活動を開始した。また、地上げ屋も屈強の数人があたり、順調に事が運ばれていた。
 この時期(1986年)、私は行政連絡員をしていたので、開発企業からの情報は町より早く入った。地上げ屋はもとより、同意の必要な個人や団体の歓心を買うために接待・寄付・贈答は日常茶飯事となってしまった。このような傾向を逆に利用し、事務所に個人・団体の区別なくタカリに行くという悪習に地域全体が慣れっこになってしまった。だが、こうした傾向に抗し、私の住む集落はゴルフ場建設には反対意見をもつ者がいて、共有地を一括して売るような雰囲気ではなかった。
 この大勢に流れない姿勢に私も感動し、反ゴルフ場勢力の先頭に立とうと決意した。ゴルフ場側も、県へ事前協議の申請手続きをとるための条件を整える都合上、86年にはそろそろあせりだし、その年末に集会をもった。集会で、地上げ屋の一人がテーブルの中央に正座し、「今晩は決めてもらおうじゃないか」と、暴力団がよく使う口上と態度で脅しをかけた。
 その晩は結論が出ないまま分かれてしまった。しかし、一同が解散して外に出てしまっても、私一人が引き止められ、屈強の4人の男たちにとりまかれて土地売却への同意を強要された。だが、外にいた2、3人が異様を感じ、私を解放してくれた。その事件と前後して、夜遅く、明らかに暴力団員とみられる2人の男の訪問を受けたこともあり、おだやかでない日々が続いた。
 かくしているうちに、反対していた人たちもつぎつぎに落とされ、86年の12月末に他地区の倍額で共有地を譲渡することの契約書に捺印してしまった。このことは、4人の男たちにとりまかれたり、暴力団の訪問を受けた時よりも大きなショックを受けた。
 そして、87年8月、千葉地裁一宮支部から「被告大曽根稔、原告代表者伊大知衛(従弟)」の訴状を受理した。開発側にしてみれば、私の管理地を手に入れない限りは、当初の予定どおり造成工事ができないわけだから、当然、法的に対処してくるなとは予想してはいたが、実際に訴状を受理したときは、ショックだった。
 2カ月に1回くらいの割合で行われた一宮での公判には決まって応援してくださった方々、そして、原告側の証人でありながら、涙ながらに私に有利な証言をしてくれた子供時代の遊び仲間、いずれも私の人生をあやなしたものと感謝・感激して、何らかの形で後生に残したい気持ちでいっぱいである。


●確保した所有地は次代へ確実に引き継ぐ

 私は、一審の判決に不服だったので、東京高裁に控訴した。その終盤で、相手方(造成工事をする予定の熊谷組)から和解案が出された。内容は、ゴルフ場造成にはなくてはならない土地が私の管理地にあるため、この管理を放棄すれば、代替地を割り増しして交換するというものである。この和解に応じなかったら、感情を露わにした裁判官の口から「あなたはエゴだ。自分の都合しか考えていないエゴイストだ」とくり返し言われた。これには驚いた。これが公平な判断を下す義務をもつ裁判官が口にする言葉だろうかと。私の弁護士から、「あなたの子供か弟の年齢にあたる裁判官が言うべき言葉だろうか。今後、和解のときには出席しないほうがよい」と言われたので、出席しなかった。  結局、東京高裁での判決は、共有地を元の管理地どおりの位置と面積に分割し、萱野は12分割してその1区画(172平方メートル)を私が所有するということになった。その結果、さる1月25日に登記手続きが完了し、権利書を手にした。

◇            ◇


 裁判の結果、私は、4カ所に分散した私有地を確保しました。将来、情勢が好転して造成工事が復活するようなことがあっても、私が確保した土地を手に入れない限り、ゴルフ場の造成はできないものと確信しています。この土地は次代にも確実に引き継ぎます。
 皆様方のご支援にあらためて感謝しつつ、擱筆いたします。

(2001年2月)






この山が「夷隅川カントリークラブ」の建設予定地




裁判によって確保した土地。この土地はゴルフ場計画地の中にある。




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