利根川の治水対策を考える


芳賀 武



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1.江戸時代の治水体系から学ぶこと

(1)利根川の東遷

 江戸時代以前の利根川は、自然の理に最もあった流路を通り、流れを東京湾に注いでいた。しかし、1654年(承応3年)、利根川と常陸側(千葉・茨城の県境を流れていた河川)を結ぶ赤堀川が掘られて両川が連絡されたことによって、利根川の流れが銚子方面に通ずるようになった。
 いかなる目的でこの事業が行われたかが問題となる。一般的には、治水目的(江戸の水害防止)または軍事的な目的(江戸の水害防止)とかいわれてきた。が、これらの説は、利根川の現代の姿から昔の状況を推定するもので、利根川、東遷の当初の目的を正しくとらえたものではないようである。
 当初の利根川東遷は、主として船運の便を図る目的でなされたようである。江戸時代においては、交通手段として船運は重要であり、大きな役割を果たしていた。当時の赤堀川の川幅は約13メートル程度で、勾配もゆるやかであり、大きな洪水を流す水路とは考えられず、むしろ、渇水時に流量が少なくなり、船運が困難となる常陸川に連絡し、船運の便を開いた意義の方が大きいのである。しかし、その後、とくに、浅間山噴火後の上利根川地域の水害激化に対応して赤堀川が拡幅されたが、このことが、逆に下利根川の河床上昇や沿岸地域の水害を増大させた。


(2)洪水の性質を理解した対策

 さて、江戸時代の治水対策は、その当時の生産力の程度、とくに土地利用状況によって基本的には決定されていた。
 その特徴は、洪水の性質(洪水は常時起こるものではなく、年に一度、10年に一度、100年に一度となるごとに大きさが増大する)をよく理解し、それらに適した土地利用策を講じたことで、けっして堤防第一主義をとらなかったことである。(もっとも、治水に十分に効果のある長大な堤防の築造は困難であったし、大きな治水ダムなど建設できなかった)
 また、利根川中流から下流にかけての沿岸村落には数多くの輪中〈注〉が存在し、一般の民家でも水屋や水塚を備えていた。川が氾濫しても、大きな被害が生じないようになっていたのである。
 そして、浸水区域には水に強い作物(桑、果樹など)を栽培していた。それぞれの村落が洪水防御体制をもち、それらに応じた土地利用と水への巧みな対応をおこなっていたので、中小の洪水が氾濫しても輪中などのために、実質的な被害を受けずにすんだのである。
〈注〉輪中: 1個あるいは数個の集落が水害を防ぐために円く堤防で囲み、その中で生活すること。



(3)広大な遊水地

 一方、利根川全体をみると、中流部の酒巻・瀬戸井の狭窄(きょうさく)部、上流に存在した広大な中条遊水池の洪水削減効果が非常に大きかった。中条堤から下流の河道に大洪水が流れない役割をはたしていたのである。
 この中条遊水地は、面積49平方キロメートル、容量1億1200立方メートル、調節流量毎秒5000立方メートルといわれている。大洪水対策に大きな効果を発揮し、この中条堤が江戸時代の治水対策の要(かなめ)となっていた。
 中条堤付近は利根川の勾配が急に変化しゆるやかになる地点であり、下流には大きな沖積平野が開けていた。これらの地域の特性をよくつかみ、酒巻・瀬戸井では、狭窄部といって川幅をとくにせまくしておき、洪水が流れにくくしていた。その上流に中条堤を築き、善ヶ島堤などからあふれでた洪水をこの地域内で一時的に溜め込み、本川の水位が下がってから排出するという遊水池の機能をもたせていたのである。
 また、この地域内に溜池なども多くあり、堤防などもつくられていたので、小さな洪水には十分対応できる土地利用がされていた。
 そして、中小洪水に対しては、輪中などによる水防対策で、大洪水には遊水効果の大きな中条堤(遊水地)で対抗し、超大な洪水により中条堤が破堤(江戸時代通じて2回のみ)して氾濫流が埼玉平野に流れでても、自然堤防を中核とする多くの控堤あるいは輪中堤などによって、あちらこちらで遊水貯留した。このために、洪水が一気に江戸まで流れ下ることはなかったと考えられている。


(4)人間と洪水が共存

 結論的にいうと、江戸時代の治水対策の基本は、大きな堤防をつくる力もなく、土地利用も高度ではないという状況に応じ、洪水を氾濫させ、浸水しても被害が最小となるような土地利用政策であった、ということができる。洪水と人間の生活を分離して広大な土地を河川に提供するのではなく、洪水時には自分たちの土地を洪水に利用させ、洪水と共存するような形で生活していたのである。これらのことから学ぶことは重要であると思われる。
 しかしながら、1793年(天明3年)の浅間山噴火以後は複雑な状況となり、河川に噴火物が堆積し、江戸幕府も有効な策をみいだせず、特に利根川下流では、常習的な水害地となったことをつけくわえておきたい。


2.近代の治水対策

(1)大治水事業の開始

 明治時代になり、統一的な近代国家によって、国策として食糧自給自足や増産が推進された。
 当時の米の生産にとって排水の改良や水害の防止は最大の課題であった。が、それまでの治水工事は部分的な集落を守る程度のものが多く、規模の大きな洪水がくれば農作業などに大きな被害が発生し、土地の高度利用も大きく制限された。
 そこで、外国からも近代的技術力を取り入れた大治水事業が進められ、現在の利根川が形成された。とくに明治44に開始され昭和5年に完成した改修工事は、近代的な機械力を使い、扱い土量が2億2000万立方メートル(掘削浚渫1億4000万立方メートル、堤防盛土8000万立方メートル)という、当時の大土木工事であったパナマ運河の扱い土量1億8000万立方メートルを超えるほどの大工事であった。
 この改修工事は、当初は、対象高水流量が毎秒3750立方メートルという比較的少ない計画洪水量で、明治33年に始められたものであるが、その後、流量7000立方メートルという明治43年の大洪水によって、計画高水流量5500立方メートルにして新たにすすめられ、いちおう昭和5年に完成したものである。


(2)大規模工事の効果

 ここで、この改修工事の意味を考えてみたい。まず第一に考えられることは、財政的制約もあったが、対象洪水が100年に一度などという大洪水ではなく、10年に数回ないし1回の頻度で発生する中洪水を防ぐ工事であったことである。しかし、この工事の完成により沿岸地域は中小洪水から開放され、土地の利用度は高まり、生産力は大きく向上した。
 第二の点は、工事の主たる内容が浚渫工事であり、江戸時代の浅間山噴火以降に堆積した河床の上昇の問題を主として解決したことである。


(3)治水対策の根本的変革

 第三は、重要なことだが、江戸時代に治水の要となっていた酒巻、瀬戸井の狭窄部及び中条堤を廃止し、江戸時代初期以来の利根川治水体系を根本的に変革したことである。
 洪水はけっして毎年起こるものではない。10年に一度、あるいは100年に一度の洪水が問題なのであり、その間に土地をいかに有効に利用するかが重要なのである。これらの原理を経験的に知った昔の人々は、氾濫原をある一定の区域に限定するとともに、洪水がない期間には土地を利用する方法として遊水地を生み出し利用してきたのである。
 しかし、明治以降、土地利用がたかまったことや堤防築造技術が進歩したことによって、中条堤などの遊水地の内部の人々にとっては、下流の平野を救うために遊水池内の土地利用者が犠牲になることは耐えられないこととなった。こうして、中条堤をめぐって上流・下流の人々が対立し、狭窄部と中条堤が廃止され、長大な連続堤防が完成したのである。
 第四に、下流部の手賀沼・印旛沼などに対し逆流防止扉を付け、逆流を防止し、沼の遊水機能をなくしたことも注目される。
 第五に、自然の理に最も適した流れである江戸川への洪水流入を(足尾鉱毒物質の流下を恐れたか?)極力制限し、利根川東遷事業を完成させた。しかし、その結果、昭和10、13、16年と利根下流部は大水害を受けることになった。
 第六に、以上みてきたように、改修工事により従来の氾濫遊水地地域が減少し、それにともない河川の流量が増大した。そのために、長大な堤防と広大な河川敷が必要となった。
 しかし、他方では、足尾鉱毒物質の最終的沈殿池を主要目的として、明治38年に谷中村を強制買収し、面積35平方キロメートルの一大遊水地(渡良瀬遊水地)を設置した。この遊水池計画に対し、田中正造を始めとする多くの人々が強い反対運動をおこなった。この遊水地は、現在の田中、菅生などの遊水池のように日常的な土地利用(主に農耕地)を可能とせず、まったくの荒野となっていた。土地利用上大きな大きな問題を抱えていたといえる。


(4)治水工事が洪水量増大の原因に

 さて、結論的に述べると、この時期の治水対策の特徴は、遊水池を設けて部分的に氾濫させる江戸時代からの方式を基本的に変更し、連続する長大な堤防で直線化し、また大きく拡幅された可動で洪水を一気に河口まで流し出す方式といえよう。
 たしかに、この方式は中小洪水に対しては大きな効果をあげた。しかし、同じ豪雨であっても洪水流量が以前の方式よりはるかに大きくなり、治水工事そのものが洪水増大の大きな原因ともなってきた。とくに何十年に一度生じる大洪水に対する河川改修は十分に行われていなかったために、昭和10、13、16年に利根川下流地域を中心に大被害が発生した。そこで、改修計画は大きく見直しを要求されるようになり、新たな増補計画を昭和14年に確立したのである。
 ここで、とくに昭和10年代の手賀・印旛沼流域の洪水被害についてのべると、改修工事によって利根川の主流は東遷され、高い堤防内を流れ下った。
 その結果、洪水時は利根川の水位(外水位という)が内水位(下流沿岸地域の水位)と比べてはるかに高くなった。5〜10メートルも高くなり、低くなるまでまったく排水が不可能となったのである。手賀・印旛沼流域の遊水地も廃止されており、また内水を排除するポンプも設置されてなかったために、湛水期間は1カ月以上にもなり、大きな被害をうけた。


(5)新方式の遊水地が登場

 最後に、この時期の治水対策で重要なことは、従来の方法では増大する洪水量の処理は困難であるということが、すでにこの時期の増補計画においても認められていたこと、そして、ダムや遊水地で洪水を調整する方法がより経済的で効率的であると考えられてきたことである。
 何十年に一度の洪水を堤防内にとじこめようとすると、長大な堤防や広大な河川敷が必要となり、経済的にも土地利用上からも不可能となった。そのために何らかの新しい方法が必要となり、新しい形式の遊水地が登場してきた。
 この方式は、洪水が生じない期間は農地などの土地利用を排除しない。そして、10年に一度とか20年に一度とかの大洪水時だけ、越流堤を通じ洪水を静かに地区内に導入し、洪水を堤防に囲まれた一定の地域に貯留するというものである。
 これはまた、大洪水時以外の普通期には、高度の生産力をもつ農地として利用できる方法なのである。江戸時代の遊水地のように、2、3年に一度浸水するというものではなく、常習的な水害は河川内で処理し、大洪水時のみ遊水池で防ぐ方式であり、古くて新しい方式といえよう。


3.治水対策の現状と課題

(1)戦後の治水対策の変遷

 前述のように、戦前の利根川改修工事は明治33年から実施されており、数次にわたって計画が改定された。が、戦後の昭和22年9月のカスリン台風時には、洪水量が栗橋地点で毎秒1万7000立方メートルにも達し(当時は、毎秒1万立方メートルの計画高水流量で改修中)、栗橋右岸が大きく破堤した。そして、埼玉平野の東部から東京都の東部低地にわたる広大な地域に洪水が氾濫し、大きな被害をもたらした。
 そのために、昭和24年に計画高水量を毎秒1万7000立方メートルとする改修改定計画が作成され、この計画にもとづいて工事が実施されてきた。この改定計画は、上流のダムによる毎秒3000立方メートルの調節や、田中調節池などによる毎秒2000立方メートルの洪水カット、そして利根川放水路によって毎秒3000立方メートルを東京湾に流すことなどを含んでおり、利根川の治水対策を大きく前進させるものであったといえよう。
 しかし、その後の利根川流域の都市化の進展や、近年の出水状況などによって、200年に一度の洪水にも耐えられるとも言われる、安全確立がより高いとされる計画が昭和55年に決定され、新たな工事が続けられている。
 これらの結果、現在は、常習的な水害は完全に克服され、毎秒1万立方メートル程度の洪水にも十分な安全度を有しているといわれている。しかし実際には、50年に一度とか100年に一度の大洪水にたいしては必ずしも安全とはいえず、流域の開発の進行や河道中心の洪水対策の推進によって、ますます多くの問題が生じている。次に、これらの点について述べてみたい。


(2)手つかずの利根川放水路

 利根川放水路計画は、戦前の増補計画にもあり、印旛・手賀沼などの排水にも貢献すると予想されているものであり、計画高水流量を毎秒3000立方メートルとする大河川(戦前の江戸川程度)で、我孫子市から人口密集地帯を横切って東京湾に放流することになっている。
 だが、実際には、この計画はまったく手がつけられず放置されている。開発の進行で用地の取得が困難になり実現は不可能と思われるので、利根川下流地域は洪水に対して大きな問題をかかえていることになる。しかし、この放水路は必要と思われるので、代替を考えることが大切である。
 たとえば、印旛・手賀沼では、印旛放水路の拡幅など独自の洪水対策を考えるべきであると思われる。また、利根川本川においても、江戸川高水流量の引き上げや、新たな遊水地の設置などを計画することが必要と思われる。とにかく、この利根川放水路は千葉県内を通ることになっているので、十分な研究と対策が求められる。








(3)開発は洪水量を増大させた

 それから、利根川の下流地域の排水問題がある。これらの地域では洪水時に利根川の水位が上昇し自然排水が不可能となるので、内水排除をポンプで行っている。この方式は、洪水時に利根川の外水位が高くなるまでに一定の時間がかかることを見込み、その間に地区内の洪水量をなるべく多く排水し、外水位が高くなったらポンプで排水を行うというものである。だが、近年、利根川本川では洪水の到達時間が短くなってきており、既存のポンプでは対応できなくなっている。

 一方、これらの下流地域では、開発が進行した結果、洪水量がますます増大している。たとえば、手賀沼では、排水量が毎秒40立方メートルのポンプ場が昭和31年に末端の排水口に設置されたが、新たに毎秒80立方メートルの排水機場が昭和60年に設置された。この期間に洪水量が約3倍にも増大した計算になるのである。
 さらに、ポンプ場の新築だけでなく、沼の改修や沼流域の各河川のすべての拡幅(現在の3〜10倍)が必要になっている。このため、たとえば北千葉導水路事業〈注〉にともなって、手賀沼流域だけでも約100ヘクタールの農地が事業用地となり、廃止されたといわれている。このことは、開発がいかに大きな代価を要求するかをしめしている。

 こうしたことから、開発などで増大する出水をなるべく遊水地や浸透などの方法で処理するとともに、沼周辺の水田などが現に果たしている遊水機能を正しく評価して補償を行い、農地を積極的に保護することが行政側に求められている。
 いま大切なことは、このように流出量を増大させない工夫をすることである。また、河川改修やポンプの増設などには限界があることをしることである。
 なぜなら、河川改修などで増大した洪水量を利根川に排水するに十分なる容量を末端のポンプは必ずしも持っていないし、利根川本川も水位が限界以上に高くなると排水を受け入れることができなくなるからである。

〈注〉北千葉導水路事業: 目的は次の3つ。(1)手賀沼から利根川へ毎秒最大80立方メートル、江戸川支線の坂川から江戸川へ毎秒最大100立方メートルのそれぞれの内水排除。(2)利根川下流部の余剰水を手賀沼などへ毎秒最大10立方メートル注入して、沼の水質浄化を図る。(3)利根川から毎秒最大30立方メートル導水し、江戸川の都市用水への供給に使う。


(4)田中調節地などの意義と問題点

 利根川には、渡良瀬、菅生、田中、稲戸井の調節池が存在し、洪水防止に大きな働きをしている。とくに、柏市と我孫子市にまたがる田中調節池(1100ヘクタール)は、対岸の菅生調節池(550ヘクタール)、稲戸井調節池とともに、洪水量毎秒5000立方メートルをカット(調整)するとともに、優良農地として農産物の一大生産地を形成している。
 しかし現在、田中調節池などでは大きな問題が生じている。これらの調節池では、通常の常習的な洪水は河道で処理し、大洪水時に越流堤(堤防の一部分をやや低くしてあるところ)から洪水を静かに溢れさせるように工夫しているのであるが、この越流堤が地盤沈下しているのである。たとえば、田中越流堤では現在、最大で約何十センチかの沈下が生じているともいわれている。そのため、農民は必用以上の浸水被害を受けており、当初計画の高さに復旧することを強く要望している。
 また、以上の問題に関連して、洪水時における実害補償が不完全であることも問題である。水稲被害に対しては不完全ながらも補償制度があるが、畑作物に対しては救済制度がないのである。そのため、農民は完全な補償を要求している。これらの問題を農民の立場、全社会的な立場にたって解決することは、大きな困難をかかえている利根川の治水策に大きな展望を与えることになると思われる。


(5)大洪水に対しては大遊水地を

 利根川下流の治水の現状をみると、我孫子市の布佐地点の川幅が狭くなっており、洪水流量がながれにくくなっている。また、下流に連続する長大な堤防は、比較的に軟弱な地盤の上に築かれている部分が多いために、洪水時には漏水が生じやすくなっている。この漏水に対しては、地元の水防団員の活動によって防護しているのが現状である。
 中小の洪水に対しては、現在おこなわれている河道の改修やポンプによる内水排除が一定の効果をあげている。しかし、50年又は100年に一度とかの大洪水に対しては十分でなく不完全である。したがって、利根川沿いに氾濫区域を定め、越流させることも必要となってきていることも考えられる。
 この場合、これらの土地にたいしては、通常の土地利用を可能にするとともに、50年や100年に一度の洪水時には浸水被害が最小限度となるように、地形や堤防を利用して小分割しておき、一度に湛水させないなどの工夫をすることが必用である。
 最新の技術と土地利用策を十分に活用すべきであり、また、被害に対しては、これを全部補償することはいうまでもない。家屋に対しては、浸水が生ずる危険地帯には禁止する、土盛する、高床敷にする。こんな簡単なことを行うだけでも被害はずいぶん防げる。

◇           ◇

 以上、利根川の治水策について、日頃感じていることを述べてみた。間違っている点も多々あると思うが、利根川地域の治水策の参考になれば幸いである。

(2003年11月)



参考文献
  • 大熊 孝『利根川治水の変遷と水害』(東京大学出版会)
  • 宮村 忠『水害』(中公新書)











普段は優良農地となっている田中調節池。写真後方が利根川。








田中調節池の越流堤(手前)。堤防の中でここだけが3mほど低くなっており、大洪水のときに利根川から水が流れ込むようになっている。









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