■書籍・書評


 高木仁三郎著

 『市民科学者として生きる』


中山敏則



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・著 者:高木仁三郎
・書 名:市民科学者として生きる
・発行所:岩波新書
・価 格:780円


 よく知られているように、著者の高木仁三郎さんは、民間団体「原子力資料情報室」の代表を務め、脱原発運動に大きな影響を与えた人物として世界的に有名な方である。しかし、残念ながらガンにおかされ、2000年10月8日に亡くなられた。
 この本は、そんな高木さんが、ガンとたたかいながら自分史を振り返りつつ、「市民の科学」や「市民科学者」のあり方を提示したものである。


●「原発推進の旗振り役」や「論文生産者」に疑問を抱く

 高木さんは1957年、東京大学理学部化学科に入学し、4年生のときに当時最先端だった核化学(放射化学)を専攻した。その背景には「時代が原子力の時代へ向かおうとしているという一般的な認識を私も共有し、バラ色の未来をその方向に見ようとしていたということもあった」と書いている。
 1961年4月、原子炉を建設中の日本原子力事業に就職する。22歳のときである。原子力開発の第一線で仕事をつづけているうちに、疑問を感じるようになる。高木さんが興味をもってやった仕事は放射性物質の放出や汚染に関するものが多く、しかもその結果は、「放射性物質の挙動は複雑で分かっていないことが多い。もっともっと基礎の研究を固めなくては」というものだった。しかし、会社が高木さんに期待していたのは、「放射能は安全に閉じこめられる」とか「こうすれば放射能はうまく利用できる」ということを外に向かって保障するというものだった。つまり、高木さんが期待されていたのは、「原発推進の旗振り役」だったのである。
 それで、事あるごとに会社で居心地の悪さを経験することになり、1965年、東大原子核研究所の助手に転職する。この研究所では、ミュー中間子の核化学といった基礎研究に専念した。しかし、そこでは、「とにかく論文を書いて業績を上げること」が求められた。高木さんはこう書いている。
 「これは典型的な研究(者)の論理で、何が重要かよりも、何をやったら論文が書けるか、という方向にどんどん流されていく。研究者はすなわち論文生産者となる。私もいったん、完全にこの研究の論理にはまりこんだ」
 こんな“論文中毒症状”に悩むなかで都立大学理学部化学科の声がかかり、同大学に助教授として赴任する。


●生きる道を方向づけた2つの出会い
   〜三里塚と宮沢賢治〜

 その後、高木さんは2つのことをきっかけとして、自分のとるべき立場をはっきりさせる。ひとつは、三里塚で成田空港に反対する農民たちとの出会いである。「実際に空港に反対する農民と話してみて、彼らの志の高さともいうべきことに感動した」そうである。
 もうひとつは、宮沢賢治との出会いである。あらためて賢治を読むようになり、次の言葉に出会って衝撃を受けたそうだ。「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をものにできるか」。
 高木さんは、賢治についてこう記している。「彼はとにかく農民の中に入り、その眼の高さから、芸術を、科学を実践しようとした」と。
 賢治に強い影響をうけた高木さんは、ついに大学を出ることを決意する。
 「実験科学者である私は、私もまた象牙の実験室の中ではなく、自らの社会的生活そのものを実験室とし、放射能の前にオロオロする漁民や、ブルドーザーの前にナミダヲナガす農民の不安を共有するところから出発するしかないだろう。大学を出よう、そう心に決めた」
 こうして1973年、都立大学を退職した。


●原子力資料研究室で市民科学者として活動

 浪人になった高木さんは、1975年に原子力資料情報室をスタートさせ、そこの無給専従になる。以後、私財を投入しながら、情報室の活動を旺盛におし進めた。情報の収集や提供、調査研究、政策提言、モニタリング、国際的なネットワーキングなどである。内外の代表的な研究者を招いて国際会議を開いたり、国際的な調査・研究プロジェクトを成功させたりもした。これらは専門知識に裏打ちされており、原子力開発を推進する側からも一目おかれるようになった。
 高木さんは、これらの活動を市民科学者としての立場から進めた。高木さんはこう書いている。
 「自分の営みが、基本的には市民の目の高さからの科学、すなわち『市民の科学』を目指すことであり、資料室は、市民の科学の機関であると位置づけることが、ごく自然のように思えてきた」
 1997年には、ストックホルムに本部のあるライト・ライブリフッド財団から「ライト・ライブリフッド賞」を贈られた。この賞は、環境、平和、人権の分野では「もう一つのノーベル賞」と呼ばれており、たいへん重みのある世界的な賞である。授賞の理由は、「プルトニウムの危険性を世界の人々に知らしめ、また情報公開を政府に迫って一定の成果を上げるなど、市民の立場に立った科学者としての功績」である。この受賞について高木さんは、別の著書(『市民の科学をめざして』(朝日新聞社)で、「私のめざす『市民の科学』が評価されたことが明白なので、大いに励まされた」と書いている。


●市民科学者として生きる

 ところで、「市民の科学」について高木さんは、自著『市民の科学をめざして』(前出)でこう定義づけている。
 「たとえば『原発の取水口から重油が入りこんだらどうなるか』といった問題について、自らが市民としてその疑問を抱き、あるいは一般市民からの質問を受けて立ち、科学者としての専門性を保持しつつ問題に答えていけるような科学者ないしその営みのことを『市民の科学』と言えるだろう」
 高木さんは、学習や実践(脱原発運動)をつうじて、「市民科学者」のための修行をつづけた。
 たとえば、原発差し止めを訴える住民訴訟で原告側証人として何回か証言をおこなったが、大学や公的研究機関に属しておらず、肩書きがなかったために、証人として欠格であるかのような扱いを受けたそうである。高木さんはこう書いている。
 「これにも、それなりに傷つけられた。しかし、少し冷静に考えると、地域の住民たちは基本的に常にそのように、虫ケラ同然に扱われて来たわけで、私もそれと同じ扱いを受けただけである。『市民科学者』を標榜しようとするなら、当然、私もそこから出発しなければならなかった。(中略)このこともまた、よい学習材料となった」
 高木さんは、住民からも多くを学んだ。住民の前で講演や説明をする際、はじめの頃は、(1)話がむずかしい、(2)まわりくどく理屈を説明したがり、大学教授のようだ、(3)面白みがない、(4)人の心に訴えるものがない──などの批判を受けたという。しかし、こうした各地の人々からの批判に学び、「その頃よりは現在はだいぶましになった」と書いている。この点については、こうも書いている。
 「1つものを言うために、私は性分から10いや100くらいのデータとか事実とかを用意する。しかし、それがきちんと整理されていないと、1をいうべきところをどうしても10を言ってしまい、話が分かりにくくなる、この10をいかにして1にするか、全国各地への旅行の日々が、そのまま、私にとっては『市民科学者』のための修行の日々だったと言えよう」


●市民科学者の大量輩出を望む

 高木さんが成し遂げた業績はまことに偉大である。私はとくに、一貫して市民科学者として行動し、科学と学問のあり方に重要な提起をされたことに深く感銘している。
 高木さんは本著の終章でこう記している。
 「『市民の科学』がやるべきことは、未来への希望に基づいて科学を方向づけていくことである。未来が見えなくなった地球の将来に対して、未来への道筋をつけて、人々に希望を与えることである」
 環境問題などにかかわっていると、今ほど市民科学者の大量輩出が強く求められているときはないと思っている。この本が多くの方に読まれ、たくさんの研究者や専門家が市民の立場にたって諸問題にぶつかられることを切に願っている。

(2002年4月)  






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