大いなる音楽の効用
マツケンサンバ2の誕生
1994年9月、大阪新歌舞伎座公演「松平健・唄う絵草紙」の作曲依頼。
(宝塚関係者からの紹介ではなく、演出家H先生からのご紹介)
早速有楽町でショーの音楽打ち合わせ。 オープニングはオリジナル曲、歌詞をいただく。
そこから群舞、連舞、長唄、俗曲などおりまぜて、約一時間のショーを構成する。
ショーの中盤は、健さんのオリジナル歌謡曲コーナー。
ここは既成のカラオケを編集して使うの何のと、一通り録音の段取りまで見渡して打ち合わせも終わろうかというその時、
プロデューサーN氏から折り入ってのお願い。
「実はショーのラストにもう一曲、宮川さんに作っていただきたい曲がありまして・・・」
とN氏。
「はいはい(えっ?まだあんの・・・)。」
と私。
「松平のショーの最後に必ず歌う曲がございまして、
ここ数年同じ曲を使ってましたんで、ここらでリニューアルしようかと・・・。
題してマツケンサンバ・パート2!」
「はあ(さんば?サンバ?三羽?)・・・」
日舞のショーの打ち合わせの最後に「サンバ」はいきなりであったが 、
とにかく派手に、豪華にということで、この日打ち合わせた予算はもう一度見積もりし直す事になってしまった。
作曲はもちろん、できれば作詞も・・・という依頼だけは固く辞退してその日は引き上げた。
それにしても着物で、悪代官から切られ役のお兄ちゃんまでが総出でサンバを歌い踊る、というアイデアが強烈だ。
あまりに強烈でショー音楽を専門にしていた当時の私にも、うまくイメージできなかった。
十日ほどしてファックスで歌詞が送られてきた。
A4の紙にびっしりと書かれたその歌詞は一見して「長い!」という感じがした。
日ごろミュージカルなどの曲作りを多く手がけていた私は、いかに日本語が音符に乗りにくく、
たくさんの言葉が英語に比べると入りにくいかを感じていたのでそう思ったのであった。
シンプル・イズ・ベスト。こりゃ参ったなぁと歌詞を読み始める。
「叩けボンゴ響けサンバ、踊れ南のカルナバル・・・」
いやはや内容は至ってシンプル、これならなんとかなるかな〜と想いを馳せ、イメージを膨らませる、
そんな助走や予備段階は一秒もなく、瞬間的反射的にメロディーが浮かぶ。
歌詞を読み終えた時にはもう曲が出来ていた! (といったら言いすぎだが、そのぐらいこの曲は速かった)
結局紙いっぱいの歌詞を、一語も削ることなくメロディーは完結した。
第二回目の打ち合わせ。この日は舞台監督のT氏も同伴。
「なかなかいいでしょう、マツ健サンバ・2。」
と私。歌ってお聞かせする。
「う〜ん、あとはオーレー・オーレーの後のブレイクやね。」
とT氏。
「???」
「だから、そこでジャンジャン!て止まらんと次のマツケンサーンーバーが生きてこんでしょう。」
「ははあジャンジャン!でブレイクして、マツケン〜・・・な〜るほど!!!」
でもなんで舞監のあんたがダメ出しすんねん、と0.5秒思ったが、あまりにももっともなアイデアなので楽譜に二拍付け足した。
10月10日、録音の日がやってきた。
私は当時遅書きで知られていたが、この日の譜面はめずらしくすいすいと書き上がり、
スタジオでミュージシャンたちを待ち構えた。予定通りに録音は進んだ。
マツケンサンバ・パート2の番が来た。
この曲に限りトランペットやラテンパーカッション等が加わって、スタジオ内は30名のミュージシャンで溢れた。
ショーの録音はたいていこの30名が「せーの!」で演奏する、いわゆる同時一発録音。
「1,2,3,!」の掛け声でスタジオ中にニュー・マツケン・サウンドが響き渡った。
指揮をした私は特にあのジャンジャン!のブレークのところがたいそう気に入った。
正確には「ジャンジャン」ではなく「ジャカジャカジャン!」に変更したが。
ああ楽しかった!いい湯加減でした! と興奮覚めやらぬまま調整室へ。
にっこりと出迎えてくれた舞台監督のT氏に感謝の握手。
とにかく「マツケンサンバ・パート2」はここに誕生した。
歌入れの日に初めて将軍様にお会いした。
将軍様はマツケンサンバ・パート2がたいそうお気に召したようで、「よくこんな曲が作れますねえ。」と最上級の賛辞を下さった。
さて何はなくてもマツケンサンバの生命線はあの振り付けである。
舞台稽古で私は正直ぶっとんだ。そこに居合わせる、誰もが思わず頬ゆるませる、
キュートでセクシー、ハッピーで大胆で大真面目なマツケンサンバをそこに観た。
これぞショービジネスの王道。さらに紛れもない「アキラ・サウンド」がそこにはあり、私はなんとも幸せな時を過ごしたのだった。
10年後巻き起こるプチ社会現象などこのとき知る由もなかった。
つづく
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