ヨセミテ ハイキング

1997年8月10日(日)
サンフランシスコ空港で、レンタカーを借りて、ようやく、ベイブリッジを抜けて、サンフランシスコの郊外に出ることが出来た。左右の山並みを見ると、何百、何千の風車で、これは風力発電の風車である。それほどこの地域は風が強いのか、、、、。そうこうしている内に、車線が少なくなり、渋滞が始まりだした。I-580から、I-208へと入っていった。道はあくまで真っ直ぐで、すれ違う車も、I-208に入ってから、極端に少なくなったが、至る所で、タイヤが、完全に破損した部材が散らばっていた。我々も気をつけないと、同じ羽目になる可能性があるので気をつけなければならない。

小腹がへったので、フリーウェーからおりて、昼食をとることにする。日本であれば、高速道路の中に、SAがあり、食事も出来るのであるが、ここは、アメリカ、いったんフリーウェーから外に出ないと、食事にありつけないのである。と言っても、ハンバーガーショップぐらいしかなく、そこでガマンする。

標準(M)のハンバーガーと、コーラ、ポテトチップを注文したのであるが、日本のサイズよりワンサイズ大きく、食べきれない大きさである。隣で、食べている人を、見ると多分Lサイズであろう、コーラのコップのサイズは、ゆうに1リットルはあり、ハンバーガー、ポテトチップも2倍以上ありそうである。料金も、日本円で、350円程度で安かった。

再びフリーウェーに、戻り一路、ヨセミテ公園の入口の町、オークハースト向かった。そこは、その町には、似合わない大規模なスーパーが二件もあり、モーテルも、何件もあり、立派なガソリンスタンドもあり、今まで走ってきた中では、珍しく大きな町であった。ここがヨセミテ公園に入る最後の町だからかもしれない。我々も、今日から、三日間ここのコムフォー トHOTELにお世話になるのである。

正式には、モーテルで、舘と舘の間に、プールや、ジャグジーなどあり、なかなか立派なモーテルである。受付で手続きをするため、車のキーを閉めたのであるが、室内灯が消えずについていた。フロントに行って、受付の人を呼んできて、見てもらった。彼いわく、少し待っていろと言うのである。何故だろうと待っていると、その内、室内灯が消えた。最近の車は、ロックしてもすぐには、消灯しないのである。やっと理解して受付を済ました。
1997年8月11日(月)
今日も、素晴らしい天気。良いドライブ日よりになりそうである。CA-41号線を24Kmの所に、ヨセミテ国立公園の入口があり、そこで入場券を一回買うと、何回でも、出入り自由なのである。

ここから、左に行けばヨセミテバレー、右に行けばマリポサ・グローブである。我々は左におれた。ここから近いと思ったのが間違いで、まだヨセミテバレーまで40〜50Kmもあるとは思わなかった。

丁度横浜から御殿場へ行く感じである。ただ違うのは、カーブのきつい、山岳道路であるが、カーブに傾斜をつけてあるので、スピードを出して運転しても、恐怖心はなかった。渓谷に入ると、キャンプ場の側に、何カ所か駐車場があり、まだ9:00前だというのに、ほぼ満杯だった。ナンバープレートを見ると、アメリカ全土から来ていて、アリゾナ、シカゴ、ミネソタなどのナンバープレートに書いてあり、さすが人気のある国立公園だと分かる。

我々は、まず始めに、公園内を一周している、シャトルバスに乗り込む。約30〜40分程度で、一周しているのである。ヨセミテ滝を始め、公園内の名所を、回ってくれるので、後で行くのに大変役立のである。けっこう乗っている人が多いのに驚いた。その後、ビジターセンターに行き、日本語の案内書をもらう。今日は、マウンテンバイクを借り、公園内を回る。日本のマウンテバイクとちがって、ブレーキがないのである。ペダルを止めることにより、ブレーキが掛かるようになっているのである。

慣れないと、危なく、君江が転倒しかけた。叉、自転車専用道路があり、なかなか、規則もきびしそうである。ビジターセンターで、昼食を食べていると、大型バスにて、乗りつけてきた。日本人団体客が、20〜30人降りてきて、素早く食事を済まして、またバスに乗って行ってしまった。もうちょっと余裕のある工程を組むことが出来ないものであろうか。たしか、サンフランシスコより、ヨセミテ日帰りツアーがあった。多分そのようなお客であろう。往復するだけでも、8 時間もかかるのであるので。

のんびりと、ハーフドーム、エルキャピタンなどの、付近を見て回り、夕方も7:00頃になっても、この地域は、まだ明るい。しかし、ホテルまで、約80km近い道のりなので、そうそうに、帰ることにする。右方向の空全体に、ピンク色に染まった、なんとも言えない幻想的な夕日を見ながら、ホテルへと急いだ。

1997年8月12日(火)
今日は、グレーシャーポイントから、約8時間のトレッキングコースを歩くまず、公園内のホテルから出るバスに乗り、グレーシャーポイントまでいった。その手前で、なにやら、車内が騒がしいので、外を見て見ると、ブラックベアーが出たらしく、騒いでいるのである。この辺は、一般のトレッキングコースまで、熊が出没するみたいで、これから行くルートに出なくては良いと思う。

バスから、どっと観光客が吐き出されグレーシャーポイントの展望台へと向かった。ちっちゃな岩山に、ログハウス風のかわいい休憩所があり、そこで、思い思い記念写真を撮りあっていた。氷河が谷を削り、深いU字谷を形成していて、ハーフドームが、より一層高く、立派に見えた。
我々は、ここからパノラマ・トレイルを歩くのである。左手遠方方向に、ネバダ滝、ヴァーナル滝をみて、イリローテクリークに向かった。道幅も、広く明るい林道で、基本的に下り坂なので楽である。所々に、雷に打たれて、真っ黒になった木々が見受けられた。
良く見ると、木の真中が空洞になっていて、黒く炭化してあったが、木は、すごい物で、生きていた。現地の若者達が、グループで、同じコースを、歩いていたが、コンパスの違いだろうか、みるみる離されていき、見えなくなった。イリローテクリークは、滑床の広い河原で、皆思い思いの所で、休憩をとっていた。滑床の先からは、高さ100Mを越える滝が落ちており、なかなか高度感があり、迫力があった。

だんだんと、左手方向に、ハーフドームが、近づいてきて、ずいぶん、見る角度によって、かたちが、変わってきた。谷を見ると、ヨセミテバレーが、高度差1000M以上の落差があり、谷底に吸い込まれそうで、迫力満点だった。ネバダ滝の上まで来ると、ハーフドームの間近なので、かえって迫力は、半減したが、ネバダ滝の水量の多さに驚く。

ここで昼食のラーメンを作ろうと思ったのであるが、コンロにつける、ライターを持ってこなかったため、結局ラーメンを食べることが出来なく、クッキーと、果物でガマンする。他のハイカーは、ヨセミテバレーから、登ってくるらしく、大変な登りである。我々は、下りのみだったので、優雅に滝の雄姿を見ながら歩いていくことが出来た。

ネバダ滝と、ヴァーナル滝の間に、流れが止まった様な、大きなプールみたいなところがあり、泳ぎの自信のある人は、泳いでいた。私も泳ぎたかったが、まだ先があったので、ひかえる。ヴァーナル滝は、だいぶん下流にあるので、より水量が豊富で、滝の側の道は、合羽でも着ていないと、全身びしょびしょになる。太陽の光線が、滝の霧に反射して、絶えず虹が出ていた。

しかし、みんな下から、びしょびしょになりながら元気良く登ってくる。日の沈むのが遅いので、18:00ちかくなっても登っていく人が大勢いた。バレーのバス停に、ようやく8時間近くかけて降りてきた。シャトルバスに乗り、駐車場まで行き、長い暗い山間道路をぶっ飛ばしてホテルに帰り着いた。

1997年8月13日(水)
今日は、マリポサ・グローブ経由、ヨセミテバレーをへてサンフランシスコへ向かう。ヨセミテ公園に入り、バレーは、左折するのであるが、マリポサは、反対に右折する。約30〜40分程度走ったドン詰まりに、車20台程度置ける駐車場があった。うっそうと茂った、高さ30Mぐらいはあるマリポサの森の中に、ぽっかりと穴が空いたような駐車場であった。

その奥に、ログハウス風の、こじんまりした、お土産屋が一軒あった。まだ、朝の早い時間だったので、駐車している車は、数台しかなく、静まりかえったマリポサの森は、神秘的であった。登山道の入口に、巨大お化けの松ぽっくり(30cm以上)が展示してあり、掲示板には、熊に対する注意書等が書かれてあった。若干注意しながら、良く整備された登山道を行く。

途中、木の根っこから倒れた、マリポサ・グローブが横たわっていて、根の直径が、7〜8mもあり、樹齢3000年以上経っている木であった。昔、屋久島に行ったとき、屋久杉の大きさに、驚いたのであるが、それ以上すごいマリポサの森である。登山道の突当りに、樹齢2700年、高さ64m、直径11mの大木があり、その側に、木の根元が開いていて、昔は、車が通過したみたいである。

サンフランシスコへ、行くにはヨセミテバレー経由で行ったのであるが、エルキャピタン(高度差1000mの一枚岩)の上部を見ると、なにやら動いている。よく見ると、ロッククライマーが、岩壁を登っているのである。それも、地上からゆうに、600m以上の、オーバーハングの岩壁の下に、空中ロープにぶら下がっているのが、双眼鏡で確認することが出来た。それを、ビデオカメラに収めたのであるが、後で再生してみても、余りにも、遠くて人の確認に苦労した。

ヨセミテバレーの公園から、ようやく、出る所にさしかかったとき、対向車が、迫ってきたので、右にハンドルを切って、路肩を少し走ったとき、急にハンドルをとられたので、少し幅広の道路に、車を止めて、タイヤを確認したところ、後の右タイヤが、パンクしていた。ここに来る前、日本でシビックが、パンクして、タイヤ交換してきたばかりだったので、そんなに心配する事はなかったので、すぐタイヤ交換して、近くのガソリンスタンドに向かったが、ここはアメリカの山中、そんな近くにガソリンスタンドが有るわけではなく、約一時間程度走ったとき、小さな町に入ったので、ガソリンスタンドを捜したが、ここは、無人スタンドが殆どで、つたない英語で、事情を話すと、ここから30マイル程度行ったところに、修理工場を教えてもらい、なんとか行き当てたが、この車はスポーツタイプの車でタイヤも特殊なので置いていないとのことであった。

しかたなしで、補助輪のまま、約300kmもあるサンフランシスコまで、走ったのである。途中大型トレーラにあおられながら走る。金門橋の鉄塔が見えてきて、少しは、ホットしたのであるが、左車線に入るところ、右車線に入り込み、だんだんと、ダウンタンから、車が遠ざかっていった。途中、フリーウェーをいったん降り、叉乗り換えしてようやく、サンフランシスコ市内に入ることが出来た。

今日のホテルは、全日空ホテルであるが、そこまで、車で行くのに苦労した。なにせ、市内は、一方通行なのである。目的のホテルが見えていてもなかなか行き着くことが出来なかった。ようやくチェックインして、部屋にて、コンロでラーメンを作り、遅い昼食を摂った。車を、今度は、返却しに行かなくてはならない。市内は、一方通行なので、叉苦労したが、以外と近いところにあり、すぐ見つかったのであるが、タイヤのパンクの件、余り詳しい事を話さず、早々に引き上げてきた。

1997年8月14日(木)
今日一日、サンフランシスコ市内観光である。サンフランシスコ名物の、ケーブルカーに乗りに行くが、さすがここの名物だけ有って、行列を作って、乗る順番を待っていた。丁度この場所が終点なので、車両を反転さすのに、ターンテーブルに、車両を載せ、人力で反転させていたのには驚いた。歩いても、港までたいした距離ではないので、歩いていくことにする。

途中、有名なチャイナタウンを通り、教会を通り、桟橋まで行く。ちょうど良い時間に、サンフランシスコ湾内の、観光船に乗り、金門橋の下まで行って、セントヘレナ島を回り込んで、ベイブリッジまで行って元に帰ってくるコースに、乗船した。天気もいまいちだったので、お客は、余りいなく、のんびりとした船旅を楽しむことが出来た。桟橋に、第二次世界大戦で活躍した、潜水艦が、保存されていて、有料で艦内に入ることが出来たが、なにせ、説明が英語だったのでいまいち理解に苦しんだ。

午後になって、天気も回復してきて、桟橋付近では、思い思いのパホーマンスが、繰り広げられていた。近くには、海底水族館があり、そこに入ることにした。何処でも水族館は、同じ様な物であるが、ここは、海底に有る水族館が売りみたいである。桟橋の向こうには、数百頭の野生のアザラシが優雅に寝そべっていて、驚いた。この付近は、横浜の山下公園みたいなところであった。

まだ、夕食には、時間があったので、ファイヤーホースタワーに、行ってみることにする。行く途中閑静な住宅街を抜けていったのであるが、横浜の港の見える丘公園から、山手みたいな雰囲気の所であった。タワーから見える風景は、左遠方に金門橋、真ん中にセントヘレナ島、右遠方にベイブリッジが見え、真下方向には倉庫群が見えまさしく、横浜港とそっくりである。

夕食は、桟橋内にある、しゃれたレストランにて、セントヘレナ島に沈む夕焼けを見ながら食事をした。ツアーだと、なかなか、難しいみたいである。個人旅行の良さであるが、若干値段が高めである。

1997年8月15日(金)早朝、スーパーに、朝食の買い出しに行く。少し中心地より、外れると、少し異様な雰囲気があり、ちょっと女性1人では歩きづらい。放浪者がけっこういることに驚いた。みんな、スーパーの手押し車に、所帯道具一式積んで、移動しているのには驚いた。
ホテル前より、シャトルバスに乗り込んで、空港に向かった。受付カウンターが分からないので、うろうろしていると、日本語大丈夫と書いたカウンターにて、NWの受付を聞き、その場を離れようとしたとき、恵まれない子供達に、カンパをと言う看板を目にした。

そして、その外人女性からカンパを要求されたのである。ここに来る前、シャトルバスは、無料と思っていたのであるが、有料だったのに気づき、有り金全部支払ってきたのである。それで、外貨の所持金は無しだったので、訳を話したが、イヤな顔をされて、不愉快になった。受付カウンターで窓側の席を要求したところ、機体の真ん中の、スチューワデスの前の席で、英語を理解できて、緊急の時、スチューワデスの援助を出来る人と言っていたが、大丈夫と言って、その席に座って帰ってきた。

1997年8月16日(土)
夕刻、成田空港に無事帰国した。


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