T 登山の基本的問題

1・登山の心構え
2・山の変還
3・リーダーとメンバー











1.登山の心構え

(1).大自然に謙虚であれ
何年も山に登っていると、「あの時は危なかったな」という思い出を持たない人はまずいない。それ程日本の山は危険に満ちた場所である。そして、その危険があるからこそ我々はそれに強く引きつられていくのである。自然の条件は千変万化であり、その力は強大である。登山者はまずこの事実を良く肝に銘じ、いやしくも無知や無謀による事故を起こさぬ深い覚悟が肝要である。


(2).山の気象は予断を許さない
我々は、ふだん冬山とか春山とか言う言葉を無神経に使っている。しかし、いつから冬山でいつまで春山なのか、山の状態による根拠は全くない。2000m以上の高山では、晩秋から晩春まで気象状況によって全く真冬の山と同じ状態になる場合がしばしばある。特に、日本の山はこれだけ天候の変わり易い国で山のぼりをしていながら、服装に対する配慮が少ない。

上着に気を配るより、下着や靴下に念を入れ、吟味し、金をかけるべきである。薄い上質のものを重ね着ること。山登りでは、どんなに気温が低くても歩いている間は暖かく、ときには暑くなるとことさえある。そして必ず汗をかく。これが、下着をぬらし、休めばたちまち凍るのである。登山者は自分の体温を出来るだけ適度に保つように心がけるべきである。そのためには、上下を問わず、胸の開くものを着ていることがたいせつである。「面倒だからガマンしてしまう」「しんぼうすれば何とかなるだろう」この考え方は危険で遭難につながる。





2.登山の変換

登山史の意義

登山は各時代におけるそれぞれの登山活動の積みあげの上に成り上がっている。個人であれ、登山団体であれ、それぞれの立場を振り返って見ればこのことはすぐ理解できる。つまり登山活動は何らかの意味において過去の実績の上に立っているといえる。そしてその過去の実績をふりかえり、見つめる事によって将来への発展が期待される。登山の発祥から、各時代における登山の流れを知る事は、登山に関するあらゆる知識をきわめて豊富にする。


1.世界登山史概説

(1)山の発見
登山の楽しみを表現した最初の人は、おそらく、イタリアの詩人ペトラルカと言われている。彼は1335年4月プロバンスのモンペントー(1912m)に登り、父にあてた手紙の中で、苦しい登はんの中における楽しみを伝え、頂上では素晴らしい展望をほしいままにした。1521年には、スペインのコルテスが、部下の兵士に命じてメキシコの火山ポポカテペトルに登らせた。この登山は、頂上で火薬を作るのに用いるためいおうのかたまりを採取するためであった。5440mのこの高峰への登山は、ヨーロッパアルプスがまだ全くの未知の世界とされていたころだけに特筆される。

1574年には世界における最初の登山術ともいえる書物が出版された。チューリッヒ大學のジムラー教授の書いたもので、雪のアルプスを越える旅行者のためにザイルや、アイゼンやサングラスの使用法をはじめ、クレパスやなだれについてもその危険について言及した。


(2)近代登山のはじまり
18世紀の中ごろから、僧侶や農夫たちがアルプスの高峰に積極的に目を向け始めた。アルプスの最高峰モンブラン(4810m)に強い関心をいだいたのはジュネーブの自然科学者オーラス・ベネデクト・ド・ソーシュールであった。1760年シャモニーを訪れた彼は、モンブランに登ったものに賞金を提供し、その登山熱をあおり、1786年シャモニーの村医者パッカールと水晶取りのバルマがその頂上をきわめた。1854年9月イギリスのウイルス判事一行によってウェッターホルンが登られた。イギリスの登山者が、アルプスの山々を目指して、いっせいに進出を始めたのは、この登頂以後のことで、イギリス人は、ウイルスのウェッターホルン登頂の日を、近代登山の日とされた。



(3)登山の黄金時代
1857年12月22日、ロンドンでアルパインクラブが発会式をあげた。これは世界における最古の山岳会であり、特に国名をつけて英国山岳会と言わなくても、アルパインクラブといえば英国山岳会を意味する。19世紀の末までにアルプスで成功した約650座の初登頂のうち、その半数がイギリス人の手によるものであった。


アルプスの黄金時代は、マッターホルン(4477m)の登頂を持ってひとまず幕くを閉じた。イギリスの版画家エドワード・ウインパーであった。
彼は、1865年7月、ついにその頂上に立って「世界はわれわれの脚下にあり」と喜びの叫びをあげたが、それは5年間に8回の攻撃のすえようやくに勝ち得たものであった。しかし、その下山途中一行7名を結び合っていたザイルが切断し、ウインパーは仲間の4名が1200m下方のマッターホルン氷河へ墜落して行くのを見守らなくてはいけなかった。



(4)世界の巨峰登頂時代
1880年当時ヒマラヤを除き唯一の7000m峰と信じられていた西半球の最高峰アコンカグア(当時7035m、現在6959m)がイギリスのフィジェラルド隊によって登られたのは1896年1月であった。北米大陸アラスカの巨大な氷河にとりかこまれた最高峰マッキンレー(6194m)の北峰は1910年アメリカのテイラー一行により、最高点である南峰は1913年アメリカのスタック隊によって登られた。アフリカ大陸の最高峰キリマンジャロ(5895m)がドイツのマイヤーらによって登られたのは1889年である。


インドとチベットの国境にそびえる未知の世界に対して18世紀の初期から探検が始められた。ヒマラヤで最初に登られた7000m峰はイギリスのロングスタップ一行のガルワルのトリズル西峰(7120m)で1907年のことである。1936年にはティルマンら米英合同隊がナンダデビー(7817m)に登って戦前における最高峰登頂記録を作った。




(5)ヒマラヤ黄金時代
世界の最高峰がエベレスト(8848m)であると発見されたのは1852年、インド測量局によってである。イギリスの登山者がアルパインクラブ50周年記念の1907年に始めてこの山の頂上を発案し、1921年第一回の偵察が行われた。戦前チベット側から7回登頂を試みたが24年と33年8572mに達しただけに終わった。

@1950年フランス隊がアンナプルナ主峰(8091m)
A1953年イギリス隊が南側からエベレスト(8848m)
B1953年ドイツ隊がナンガバルバット(8126m)
C1954年イタリア隊がK2(8611m)
D1954年オーストリア隊がチョーオュー(8201m)
E1955年フランス隊がマカルー(8463m)
F1955年イギリス隊がカンテェンジュンガ(8586m)
G1956年日本隊がマナスル(8163m)
H1956年スイス隊ローツェ(8516m)
I1956年オーストリア隊が(ガッシャブルム2峰)(8035m)
J1956年オーストリア隊ブロードピーク(8051m)
K1958年アメリカ隊ヒドンピーク(ガッシャブルム1峰)(8068m)
L1960年スイス隊がダウラギリ主峰(8167m)
M1964年中国隊がシシャパンマ(8027m)




(6)ヒマラヤ鉄の時代
アルプスにおける登山の歴史と異なり、ヒマラヤの登山は、黄金時代から銀の時代を飛び越え、いっきに鉄の時代に突入した。新しい登路からする、より困難な登はんが、ヒマラヤの巨峰で次々と試みられてきた。1963年アメリカ隊のエベレスト西山稜登はんであり、1970年日本隊はエベレスト南壁を攻撃し、イギリス隊はアンナプルナ南壁を登はんした。





2.日本登山史概説

(1)登山の始まり
日本の登山の歴史は、ヨーロッパのアルプスのそれよりはるかに古い。山に対する信仰は、水源に対する信仰とともに、農耕生活のはじまった原始時代以前にさかのぼり、その信仰の伝統は歴史時代まで続いて、山中で超人的な修行を行う仏教系統の山岳修験者が出現するようになった。

日本の山岳信仰の中心であり最も古くから開かれた山は大和の吉野、大峰の連山であった。吉野の金峰山に登った最初の人は、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)である。大峰山はいたるところに巨岩や奇岩がそそり立ち、ここで修行を重ねた験者はいかにも偉力がそなわったと思われるような山であった。役行者は葛城の賀茂氏の出身で修験道の開祖とされ、日本の多くの高峰を開山したと言われている。冨士山も役行者がはじめて登ったと言われている。

大峰山ばかりでなく、各地の高山にもおよび、越中の立山、加賀の白山、木曽の御岳、四国の石鎚山、中国の大山、九州の英彦山、奥州の羽黒山、常陸の日光山。これらの霊山がはじめて開かれたのは、西暦で8世紀のはじめと言われている。奈良時代に起こった山岳宗教は平安時代になるとさらに盛んになり、古来の山岳信仰と山岳仏教と、たくみに合体し日本独自修験道はしだいに発達を遂げていった。




(2)近世の登山
近世になると、戦国時代の動乱期は戦略上の必要から山岳の要路がその舞台となり、信州の大門峠、飛騨の安房峠、越中のザラ峠など特に有名になった。ことに、加賀藩の山巡りは1740年から1870年(明治3年)まで北アルプスの主要な尾根筋を殆ど登破したいた。




(3)文人の登山
そのほか、徳川時代には本草学者によって各地の山岳に薬草をさぐるための登山がしきりにおこなわれた。植村正勝、水谷豊文、野呂元丈など日光、冨士、鳥海山、立山、白山、石鎚山などの山々に踏み入っている。またこの時代、間宮林蔵などが18世紀の終わりから19世紀のはじめにかけて行われた。北海道、千島、樺太の探検踏査もアドベンチャーの名にふさわしいのもがあった。1828年には播隆和尚によって槍ヶ岳が開かれた。


(4)近代登山と日本山岳会創立
明治維新を迎えると維新政府のお雇い外人により、各地の山々が登られ、中部山岳地帯の測量のための登山も行われた。明治21年(1888年)来日し、中部山岳地帯を登ったイギリスの宣教師ウオルター・ウェストンは「日本アルプスの登山と探検」を書き、登山の気風を興作した。明治35年横浜の銀行員小島烏水は槍ヶ岳に登り、下山後ウェストンと知り合い、日本に山岳団体の設立を勧められ明治38年10月、日本山岳会が誕生した。




(5)日本隊の海外登山
明治43年加賀正郎はユングラウを横断、大正3年辻村伊助はメンヒ、ウングラウを登山。大正10年日高信六郎はモンブランを登り、さらに大正10年秋に槙有恒のアイガー東山稜登はんは登山界の注目を浴びた。槙の帰国によって本格的なアルプスの登山技術が伝えられ、大正中期から各大学に設立された山岳団体に広まってきた。日本初の海外登山は大正14年槙を隊長とするカナダディアンロッキーのアルバータ遠征で、慶応と学習院のメンバーにより成功した。

昭和11年立大の堀田弥一らは、ついにヒマラヤのナンダコット(6861m)に初登頂した。戦争のため登山界はひとまずその活動を停止したが、戦後すぐ立ち直り、昭和28年南米大陸のアコンカグアを早稲田大隊が登りヒマラヤのマナスルにも第一次隊が送られた。昭和31年日本隊として初の8000m峰マナスルの登頂に成功し、これをきっかけに登山ブームが起こった。







3.リーダーとメンバー

(1).登山の特徴
登山は、常に人間の生命を危険にさらしているスーポーツである。その危険をいかに回避して目的とする頂上に安全に登るか、そこに登山の面白さと困難さ、そしてリーダーの責任の重さ、メンバーシップの重要さがある。このような立場から、登山者が果たすべき三つの責任は以下のとうりである。

(イ)自分自身に対する責任
これは、メンバーの場合もリーダーの場合もあてはまるが、自分かってな行動をして仲間に迷惑をかけたり、非協力であるメンバーの場合、あるいは、仲間を危険の中に放置して自分だけ逃げ出してしまったり、適切な指示や指導を怠ったために仲間を危地に陥れるようなことをしたリーダーの場合など問題になる。


(ロ)自然、あるいは山に対する責任
登山の本当の師は、リーダーや指導者ではなく、山そのものである。自分は特に許されて、山に入り、自然に接しているのだと考えれば、自然の師であり、修業の場でもある山を汚したり、俗化させたりする権利はない。


(ハ)スポーツの精神、すなわち、フェアプレーの精神に対する責任。
誰も観客のいない、審判もいない、自然の中で自分でプレーし、自然でさばく「自然に裁かれる」登山では、他のどのスポーツよりもこの責任は大きい。

これらの三つの責任を完全に果たせるように、初心者を教育することがリーダーの最大の責務である。



(2).リーダーの資格
@責任感旺盛であること。
A冷静な判断力と決断力の持ち主。
B統率力、指導力があり、人間的に魅力ある人物であること。
C登山経験の豊富なこと
D体力、技術にすぐれ、強靭な精神の持ち主であること。
E他人の意見をよく聞き、包容力の大きな人物であること。
F自然の危険性に対し敏感な感受性を持っていること。



(3).メンバーシップ
メンバーは何も責任がなくて、リーダーの指示どうり気楽にやればよいということでは、リーダーの責任の重さに対して不公平であると言わざるをえない。それでは、チームのメンバーとして努力しなければいけないことは、
、自分自身に対する責任
、自然、山に対する責任
、スポーツの精神に対する責任メンバーの心得として、仲間に迷惑をかけないこと。協調を保つ事。むやみに自我を張らないことである。最後にたよるのは自分自身であること。自分の生命は自分で守る。



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