インド(カルカッタの思いで)

1973年3月4日〜16日

2007年3月28日久しぶりに、昔(34年前)インドへ行った仲間と、再会して、インドへ行ったときの話題に花が咲いた。昨日食べた、夕食のメニューは思い出せなくても、34年前の旅行の事は、昔の仲間が集まると、昨日のように、思い出される。

3月4日の夜、カルカッタの郊外にある空港に着いた。空港を出ると、すぐに、何か仕事にありつこうと、我々の周りに人が集まり、私の荷物を運ぶとの事である。たかが、バス停まで、10m程度しかないのに、荷物を運び、何ルピーかの賃金を、貰おうと思っているだ。

ホテルに着くまでの、僅かな時間を、バスの窓から、外を見ていると、はじめは、あまり外灯も無く、暗くて見えなかったが、良く、目を凝らして見ると、ナナ、、、ナント路上に、ボロの布に小さくくるまって、親子が寝ている。はじめ、何の物体かと思ったが、、、、。時々動くので、人間だと判断出来た。町はオイルショクの影響か、、、、。明かりがついている所は僅かである。殆ど、ローソクの明かりで、外で商売している。インド人は、色が黒く、目が大きいので、暗闇の中では薄気味悪い言葉が当てはまる。

翌日、ホテルのフロントに行くと、明かりは、ローソク 一本で、受付業務をしていた。オイルショクのためか、一流ホテルでもたえず停電する。1人で、カルカッタ市内を見学しようと外に出た途端ガンガン照り太陽と湿気の混じった暑さで、頭がくらくらしてきた。私のそばに、すぐ裸足の少年が近づいてきて、私の靴を磨かせて欲しいとのことである。

靴はどうでもいいから、私を一日案内してくれたら、靴を磨かせてやっても良いとの条件で、二人を、私のボディーガード兼ガイドとして市内観光へとくりだした。その二人以外、周りには、3人の裸足の少年がいて、私も、私も、ガイドしたいとの事で、その内の二人のみ契約する。あとの連中を断ったのにもかかわらず、ぞろぞろ、私の後についてくる。

ついて来ても、私の靴は、一足しかなく、二人で一個ずつしか磨くことが出来ないので、二人に言って追っ払って貰う。市内案内の途中、彼らに、色々聞いて見ると、、、、、。靴磨代や、その他の品物の値段は決まっておらず、交渉次第で、いくらでも値段が変動するとのこと。一応聞いた話によると、靴磨代は50パイサ(1ルピー:48円、1パイサは1ルピーの100分の1)、コーラ70パイサ、アメ玉10パイサ、ガム3枚60パイサ、ほおずきに似たくだもの6粒10パイサ、チャパティ1枚20パイサ、映画は、上、中、下あって、2ルピー、1.5ルピー1ルピーである。

三輪タクシーは、3km3ルピー、ホテルの専属運転手1日10ルピー、動物園の入場料1.5ルピー、ビクトリア記念館の入場料2ルピー、市電1.6ルピー、ガンジス川の渡船代60パイサ、コブラの見物1ルピー、コブラとマングースの戦い2ルピーなどなどである。カジュラホに行った時、村の理髪店に入り、散髪をしてもらったが、2ルピーである。ひげ剃りは、シャンプーもつけず、ただの水を口の周りに濡らしただけで剃り始め驚く。剃りあとがひりひりした。しかし、日本に比べて、物価が驚くほど安い。

その靴磨きの少年゛ダルガ・ダース゛君は、14才で、兄弟は8人で、うえから三番目で、下に妹と弟がいて、学校へは行っていないとの事。写真を撮ってあげて、住所のスペルを聞いて送ったが、届いたかは不明である。一日の稼ぎを聞いてみたら、多いときで8ルピー、少ない時で0ルピー、平均して2ルピーとのことである。朝は何を食べたの、、、、と聞いて見ると、チャパティ3枚食べたとのこと。あまり栄養の有る物を食べていないためか、足や腕は栄養失調のためかガリガリであった。足元を見ると裸足で、足裏は硬く草履の様になっていた。草履(ビーチサンダル)は5ルピーもして高くて買えない。

市内には、色々変わった物が売られていた。壊れた懐中電灯(電球の入っていない枠だけ)、10cm程の細い木(歯ブラシ)、10才ほどの、ボロを身にまとった少女が、古新聞の上に、腐りかけた小分けしたバナナ30本ばかり置いて、ジーと客の来るのを待っていた。まだ、売る品物が有ればいいが、何も売る品物がない人は、、ただ道端でボケート道行く人を眺めているだけである。

市内を歩いていると、必ずといって、いいほどライ病にかかった人なのか、顔全体、白い包帯を巻き付け、目だけ出している人や、顔中斑点だらけの人をよく見かけた。ダラガ・ダース君と市内を歩いていて、ほおずきみたいな果物を6粒買って、誤って2粒落としてしまった。私は、思わず、それを拾い上げようとしたのであるが、少年はそれを拾うのは止めろと言う。

何故かと思ったら、どこから降って湧いたのか、、、他のカーストが、やって来て、それを拾い上げて食べ出した。物を落としたら、他のカーストの分担で、我々は拾う様な真似はするな、、、、、、と少年は言った。又、マイダン公園で、カルカッタの大学生がやって来て、写真を撮ってくれと言うので、ダラガ・ダース少年も一緒に撮ろうと言うと、少年と一緒に撮る事を拒否された。これほど、カーストが明確に分担されていないと、この世界で二番目に人口の多いインドを維持出来ないのかとその時は思った。

しかし、最近、インドのIT産業の発展はめざましく、多分2007年の今年、現地へ行ったならば、相当変わっていると思うが、、、。

一応、市内観光が終わり、ビクトリア記念館の大きな広場で、ようやく、私の汚い靴を磨く段取りになり、少年二人が、一足ずつ、丁寧に磨き始めた。一応、彼らは、靴磨きが商売なので、それなりの道具を持っていた。使い古した木の箱の中に、こじんまりと小道具が収まっていた。靴を磨き終わり、値段の交渉に入る。一足10ルピーで、二足で20ルピーの請求がきた。

私は、驚いて、二足で10ルピーだ、、、、と声を荒げ、、、、値段を譲らなかった。しかし、明日も私のガイドをしてくれたならばチップははずむと言って分かれる。ホテルに帰ると、飛行機でネパールへ行く予定が、石油ショクのためキャンセルになり、列車でアグラまで行くことになる。始発駅のカルカッタのハウラー駅は、立派な西洋の門構えの駅である。しかし、そこは駅と言うより、生活の場であった。

東京の山谷、大阪の愛隣地区みたいな感じで、ひどい体臭と便所の臭いが入り交じった何とも言えない、異様な臭いが、駅中臭っている。改札の手前には、人がゴロゴロ、マグロみたいに転がっていた。14〜15才程度の少女が、赤ん坊にお乳を与えていた。その少女(母親)は、ボロ布一枚と、汚い、薄汚れたサリーを巻き付けただけで、ひび割れた足を投げ出していた。

我々は、間もなく列車が出発するので、車内で待っていると、、、一緒に参加している仲間に、今日会った少年の事を話していた、、、。その時、窓の外に、少年二人が、誰かを捜している様子だよ、、、と仲間が言うので、顔を出してみると、何と、靴磨きの少年二人が、市内から、大きな橋を渡り、2〜3km程ある道程を、裸足で歩いて、私を見送りに来てくれたのである。

何と、けなげな、、、、この時ばかりは、さすが胸にジーンと来て、涙が出てきた。たった一度の出合で、もう二度と会うことは無いと思う。列車が走り出すと、、彼らも走ってきて、手を振り続けている。私も負けず、涙を滲ませながら手を振り続けた。まさしく、映画のワンシーンを見ている感じである。旅仲間に、からかわれながら、、、列車はカルカッタを離れ夜のベナレスへと走り出して行った。

2000年11月幻冬舎より、発行された。ガンジス河でバタフライの著者である。たかのてるこさんの文章に、私がカルカッタに行った時の状況とあまり変わらない様子で描かれている。

食後の散歩がてらに街を歩いていると、小さな男の子がすり寄ってきた。見ると、口元にガーゼをはっていて、ケガをしているようだ。しかも、彼が着ている服は、いたるところ破れて、ボロボロではないか。
「バックシーシ、プりーズ」
そう言って手を出してくる。いたいけな少年。どうやら「バックシーシ」と言うのは施しを乞うときの言葉であるらしい。
「ノー、ソーリー」
丁重にに断ってみるが、彼は悲しそうな顔をして「バックシーシ」の連呼をやめようとしなかった。少年は私にそっと手を触れ、その手をうやうやしく自分の額に当てる仕草を何度も繰り返した。私を敬っているということなんだろうか。いたたまれない気分になってくるが。私もまだ仕送りしてもらって分際で、お金を施す立場の人間ではないのだ。

「ノォー、ノーマネー。プリィーズ」
何をどう言っても、彼はいっこうに、諦めようとしなかった。少年は口元のガーゼを剥がし、今度は傷口を見せてアピールしてきた。それがまた
「見て見てここ、痛そうでしょう、ねっ? 」という感じで、やけにオーバーなアクションなのだ。フツー、そこまでやるか、、、、?。

ハァー、もうしょうがない。私は1ルピーの半分50パイサを少年の手に握らせた。だが、彼は、こんな額では不満だったらしく、「もっともっと」と盛んに金をせびりだしたのだ。「ノォー、オールフィニッシュー」あげたのに、なんで足りないなんていわれなきゃならないわけ?。乞食にお金を恵んだのも初めてなら、図に載られたのも初めてのことだ。「モアモア〜。マダーム、オンリー1ルピー。プリィーズ」

少年は顔を歪め、いかにも困っているのだと言う表情で私に迫ってくる。だだをこねる様な甘えた感じで、しまいには、私のTシャツまで、ギューギューと引っ張りだした。そのしぐさに、児童劇団風の演技が入っているように思えた私は、だんだんむかついてきた。
「ノーノー、ナッシング」

そんなやりとりをくり返しているうちに、同い年くらいの乞食の少年、少女たちが、私の周りにジャンジャン集まってきた。もう、寄ってたって「バックシーシ、バックシーシ」の大合唱なのだ。これではまるでカツアゲではないか。
「ノオオオオオオーッ」
私が大声で叫ぶと、子供達は諦めてチリチリになった。彼らはすぐに、ターゲットを変え、他の人にも同じことをやり始めている。ようやく、彼らから解放された私は、正直ホットした。

だが、そうはいっても、あいては、まだ幼い子供だったのだ。貧しいのは彼らのせいではないし、食いブチを稼ぐため必死になるのは当然のことだ。私は、自分が弱い立場に置かれている人に対して、あんなにも冷たい態度を取れる人間なのだということを、彼らの姿を通して見せつけられたような気がした。

私がインドへ行った、27年後の2000年のカルカッタの様子を見ると、相変わらずの街の様子にビックリした。私が会った少年は、現在も健在であれば、50才近い中年の男性であるが、、、、。どの様な生活をしているのか心配である。










カンジス川の日の出



























カンジス川
ベナレスの沐浴











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