伝 説 の  弥 五 郎  ど ん
 

 
丘の上の弥五郎銅像 鹿児島県大隅半島の北西部, 宮崎県と境を接する曽於(ソオ)地区の中心地,曽於市大隅町は,巨人伝説の「弥五郎どん」で知られる。
 町の中心地の小高い丘には,身の丈15メートル,腰の大刀9メートルという,巨人像が東を向いて建っている。
 
 弥五郎どんとは,いったい何者なのか。
 
 その昔,日本国においても今のアフガンのように各地をそれぞれの部族が治めていたが,南九州一体には,熊襲(クマソ)族・隼人族がいた。 熊襲は古代大和朝廷に服することなく,たびたび争乱を起こした部族であり,隼人は大和朝廷に服属した熊襲の後身であるとされるが,定かではない。
 日本書紀には,「球磨曽於(クマソオ)」の地名が記されており,日向国風土記には「日向国曽於郡」という地名が出てきて現在の「曽於郡」 につながるが,かつて大隅は日向国(宮崎県)に属していた。
 
 さて,弥五郎どんは,何者か?? いくつかの説があり,古くは熊襲の時代に遡る。

その1 大隅隼人の酋長説
 最後まで大和朝廷に服従しなかった大隅隼人酋長の大人弥五郎のことである。

その2 熊襲タケル説
日本武尊の熊襲征討を迎え撃った熊襲タケルのことである。
弥五郎どんの浜下り
その3 武内宿弥説
武内宿弥という人は,天皇六代に仕えた長寿者で,現在,弥五郎どんを祭ってある大隅町岩川八幡神社の祭神の一人で海幸彦・山幸彦 兄弟の親戚筋に当たる人らしいが,景行天皇から仁徳天皇まで六代というと300歳になるなど実像ははっきりしない。 
 地元では,この説が最も一般的に信じられているらしい。

その4 鎮西八郎為朝に討たれた熊襲の末裔説
 明治の初めに発行された「鹿児島神社誌」に鎮西八郎為朝が熊襲の大人弥五郎を追討にきて,その戦いぶりが記載されているという。

その5 720年の隼人反乱の首領説
 中央政府の圧迫に隼人族はたびたび反乱を起こしているが,特に700年,720年,740年の反乱は大規模だった。このうち,720年の反乱は, 中央から派遣された大隅初代国司の締め付けに耐えかねて,これを殺害したことに端を発し,政府軍は圧倒的な兵力を持って臨んだが,頑強な隼人は屈せず,約1年間の激戦の後, ようやく平定された。この戦乱で田畑は荒廃し悲惨な状況にあったので,3年間ほど課役免除の措置がとられたという。今で言う税金の“納付猶予”というやつか。
 で,このときの隼人の首領が大人弥五郎ではないかという。
 
どこからでも目に付く弥五郎像 弥五郎どんには,このようにいろいろな説があり,伝説と史実が折り混 ざって,こんな巨人が本当にいたのだろうか? 実物はどのくらい大きかったのだろう……など想像力をかき立てられる。

 町内には1.2反の弥五郎どんの足跡が残っており,近辺の人々はここを「弥五郎畑」と呼んでいる。曽於地区には,あちこちに「弥五郎どん窪地」 などと呼ばれる足跡伝説が残っており,まるでガリバーの旅行記の世界である。

 しかし,巨人弥五郎どんの伝説はここ大隅だけではなく,県境を隔てた宮崎県山之口町にも残っており,実在の人物だったのか,いつの時代に どんな意図で誰が作り出したのか,興味は尽きない。数年前には,スペインのバルセロナで世界巨人大会があり,わが弥五郎ドンも初の海外渡航となった。
 
 毎年,秋の収穫の終わった11月3日は「弥五郎どんまつり」として,午前1時から巨人弥五郎どんが徹夜で組み立てられ,神官を先頭に八幡神社 を出発,大隅の町中を練り歩く「弥五郎どん浜下り」が催され,大隅一帯や宮崎県からの見物客でにぎわう。
[旧大隅町誌等を参考にしました]

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