原民喜「心願の国」

作品番号:11 2001/2/1登録, 01/1/3加筆
原民喜 「心願の国」 (短編集『夏の花・心願の国』に収録)
作品情報 テキスト : 原民喜『夏の花・心願の国』新潮文庫(H.9.10.15 第37刷)
参考文献: ロングセラーの周辺、「夏の花・心願の国」、読売新聞夕刊 2000.11.11
        ヒロシマ・ナガサキ原爆文学展〜原民喜から林京子まで、神奈川近代文学館パンフレット(2000)


この作品について

何かを見て、感じて、考えて、「美しい」と思ったことはないだろうか。それは美術品であったり、人の姿や物事に対する姿勢だったりする。そしてその美しさを鋭く切り取り作品の中に展開するのが小説家である、とも言える。私たちの周りには美しいものがたくさんあふれているのかもしれず、日々それに気が付かずに過ごしているのかもしれない。しかし、人間が積極的に死に向かって動き始めるとき、その人間の認識は変わる。その目には美しいものがひときわ強く映るのだろう。 「夏の花」は原爆直後の広島を描いた作品である。感情的に高ぶることなく、淡々と筆を進める作者の頭の中にはいったいどのような感情が沸き上がっていたのであろうか、この作品を読みながらそんな疑問を抱いた。「心願の国」は自殺直前の民喜の心情をそのまま素直に叙述したもので、ここには人間が感じる「美しいもの」のひとつの形が現れていると感じた。この「美しいもの」は亡き妻を想う天上を憧憬する気持ちと渾然一体となり、これから死んでいくのが当然であるかのような気持ちにさせられる。この世のものとは思えない美しい話は強い必然性を持って、自殺という形で幕を閉じる。

作品の構成と特徴

この短編は、僕が寝床の中で小鳥の鳴き声を聞くところから話は始まる。始まりからこの世とあの世の境目をふらつく「僕」の心境について、語り手は鋭く記述を続けていき、母や姉の思い出、そして亡き妻への想い、Uへの憧憬が続き、最後は佐々木基一への遺書とUへの悲歌の形で幕を閉じている。この短編は全体を通して一つの遺書になっており、「僕」の「死」の必然性を強く訴えかける作品となっている。  この作品を読み解くポイントは2つある。ひとつは「死」へのpoint of no return(引き返せない点)を特定すること、それから「美しいもの」が「僕(=原民喜)」にどう捉えられていたかである。前者については、全体がひとつの遺書になっているのだから、物語が始まる前から自殺は必然であったと考えるのが自然なのかもしれない。しかし私はここで敢えて人間の生に対する執着心にこだわってみたかった。(これは『草の花』の読解で培われた態度かもしれないが)そのような目で見るとこの作品にpoint of no returnを設定することは可能で、それを組み込んだ読みを構築することができると思われた。 「美しいもの」の解釈であるが、この作品ではそれは広島の地獄絵と常に対比する形で現れている点に注意しなければならない。「美しいもの」とは具体的には母、姉の面影、亡き妻への想い、Uへの憧憬であり、日常の風景(小鳥、春、町etc)であるのだが、「僕」はそれらが原爆で破壊され尽くした姿をも見ているのである。従って「美しいもの」とは日常的な物事であり、それを見る観察者の意識レベルが大きく異なっているためにこれだけ美しく映っているのである。意識レベルが変わっているのは「僕」が「生」から遠ざかりつつあるためであると考えられる。


 
作品構造分析図Inspiration Ver 5.0 にて作成

作品の解釈

1)point of no returnの特定
作品がいきなり「死への予感=自分が小鳥になること」で始まり、死への不可逆的な進行が開始していると捉えられる。pp.246-に「僕は地球を想像する」とある。地球=母なる大地、生命の源と考えられるが、「僕」の心の中に浮かんでくる地球は何億年後かの地球であり、「僕」は自分の命を地球につなぎ止めることはできない(「僕」→地球へのアクセス不能)。「僕」にとって「地球」は遠い世界である。さらに次に続く2つの記述、すなわち踏切と遮断機、それから日没前の街道散歩は「僕」に自殺手段の連想と地上の景色見納めとして捉えられている。(この記述より後は全て「僕」の意識内の変化が記述されている) つまり、ここの部分が自殺を決定づけるpointとなり、「僕」の中で変化が生じた点であると思われる。従って私はここの箇所をpoint of no returnと考えた。  ここで気になったのはUの存在で、Uには「僕」の死を引き留める力は全くない。Uが語られるのは「僕」が生への別離を感じた時である(pp.250)。Uとは別の短編「永遠のみどり」に登場する22歳のお嬢さんのことであり、「僕」は彼女から暖かいやさしいものを受け取っていたとされている。が、彼女の存在は「僕」の「死の物語」に介入することはできなかった。もしUが早い段階で「僕」の物語に介入できればpoint of no returnは超えなかったのかもしれない。

2)「美しいもの」の捉え方
1)で考察したように、地球を想像してから後の「僕」は意識レベルが変化していると考えられる。とすると自殺決意後、つまり「部屋で凍り付いてしまうので出かけた」後に「僕」が認知しているものを中心に考察した。図に示すように、ここでは地獄の風景と母、姉、Uの追憶が平行して登場する。これは「僕」の「美しいもの」の認知が地獄の風景をベースにして認識されていることを表していると思われる。「僕」にとっての美しいものは、既にこの世から失われた人であり、生活である。「既にこの世から失われた」というのが重要であり、「僕」はそこへ(=失われたものがある世界=死へ)一直線に進む。以前に交流があり、心を温めてくれたUの存在は「懐かしむ」感覚であり、そこから生へのエネルギーを汲み出すには「僕」はあまりにも傷つきすぎているのである。ここで「僕」の目に映っているのは自分自身の消滅を前提とした美しさであり、その状態では既にこの世から失われたものと現存しているものが渾然一体となって認識されているように感じられる。寂しいけれど綺麗な世界である。

3)自殺についての考察
福永武彦『草の花』主人公の汐見茂思の行動と比較してみたい。それは、「心願の国」全体でひとつの遺書であると見なせるからで、『草の花』で汐見が書いた2つの手帳も遺書として見なせるという考え方が成り立つからで、両者を比較することで自殺に到る心的過程を忖度できて面白いと考えられる。そこで以下に示すような一覧表を作成して考察してみた。面白いことに、比較の一覧表を作るときに福永武彦「冥府」が参考になった。「冥府」は死後の世界を描いた作品で、そこでは無意識による裁判が行われる。そこで被告に向かって発せられる質問事項は2つの作品において自殺に到る心的過程を考察するに有用である。死後、「冥府」の世界では人は誰でも2つの名前を持つと言われる。原民喜や汐見茂思は冥府ではどのような名前を持つのか、考えてみると面白い。

比較一覧表を作成してみて改めて気がつくのが、死に到る前の幻想である。「心願の国」の「僕」は自分が小鳥となり自分が親しかった者たち(=被爆して命を落とした人たち)と出会う、また『草の花』の汐見は夢の中で僕の愛したすべての人間が僕と手をつないでいる感覚を味わう。これは現世から既に失われたもの、いくら求めても手に入らなかったものが死後の世界では手には入るとする希望の現れと考えられ、主人公の気持ちが現実から別離している証である。2つの作品は死への強い吸引力が感じられ、死への物語へ他者が介入することは許されていない。「心願の国」ではUというお嬢さん、『草の花』では千恵子の存在は2人の自殺を止めることはできなかったが、これはそれぞれの主人公の物語に他者が介入できなかったという敗北の結果でもある。

「心願の国」では主人公が自殺してしまうのを必然とする強い主張が感じられる。実は、この作品は他の作品(「夏の花」三部作や鎮魂歌、永遠のみどり)とのつながりで考察しないといけないのだが、人が自殺するのを必然として認めるというのは如何なものだろうか、と私は思った。しかし、自殺を必然とみなす強い主張に反駁できるだけの論はまだ私には構築できないでいる。どなたか御意見はありませんか。。

「心願の国」と『草の花』の主人公についての比較一覧表
青字部分は福永武彦「冥府」に出てくる裁判を参考にして考察した。
項目 原民喜「心願の国」 僕=原民喜 福永武彦『草の花』 汐見茂思
主人公の年齢 原民喜は享年46歳(昭和26年に自殺) 享年30歳(昭和23年)
失ったもの 母、姉、妻 藤木忍、千恵子
遺書 明確な遺書あり 明確な遺書なし(第一、二の手帳が遺書に相当?)
死の前の夢(幻想) 自分が小鳥になり親しかった者たちと出会う
爆発して粉々になる
地球へ呼びかける
昔知りあった人たち(僕を愛してくれた人たち)と同時に手をつなぐ
(肺摘手術前夜の夢)
被告の身分は?
(HP作者が適当に考えてみました)
絶望者/地球を愛した者/地獄を見た者 愛を得られなかった者/孤独な者/英雄の孤独を愛した者
死の状況は? 鉄道自殺 術中死(無謀な手術の継続を希望)
作品全体がひとつの遺書と考えられる サナトリウムで一回自殺未遂あり
「冬」の部分から慢性自殺と解釈
死のための準備は?(どのような生き方を選んだか?) 原爆投下前は普通の市民。
被爆後、その世界を淡々と観察。
魂の苦しむ叫びに耳を澄ませる→人間の苦しみ、絶望を全身で真正面から受け止める。

できるかぎり愛した。しかし、僕の愛した人は僕を愛してくれなかった。
藤木忍、千恵子への想いが遂げられず、孤独を意識(英雄の孤独)。
戦争から復帰後も千恵子を捜すことはせず、自分から身を引く。
生に対してどういう意義を見いだしたか?
生はあなたにとって何だったか?
生は地獄とこの上なく美しい世界が共存する場所。
被爆による絶望により意識レベルが変化し、本当に美しいものを見た。が、それは死との引き替えとなった。
生とは、愛を実践する場であると思っていた。
精一杯愛したが相手から愛されないことを知った。英雄の孤独を実践したがそれが果たして正しかったのかは最後までわからなかった。

作品の解釈を終えて

この作品も、『草の花』も自殺する必然性が物語のプロットを支えており、自殺者へ他者が介入することを許していない。という点で読み手は作者の強い意志に曝されることとなり、自殺を悪とする、自殺以外の方向性を見いだそうとする読みは許されていない。死んでいく者へ他者が介入できなかったという点では『ノルウェイの森』の直子とワタナベの物語もまだ同じである。こう考えると他者が介入に成功した話ってあるのだろうか。。


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