村上春樹 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

作品番号:15 2006/12/2 version 1
作品情報 テキスト : 村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)、(下)』、新潮文庫(昭和63年)
1988年に新潮社から単行本として刊行されている。Wikipediaの情報によると、村上作品の中でも最高傑作とされているようで、現在でもファンが多いとのこと。
参考文献 加藤典洋編『イエローページ村上春樹』、荒地出版社(1996) ※この本の紹介はこちら


この作品について

「世界の終り」というイメージは、実は馴染みがある。それは福永武彦の作品の中に「世界の終り」という短編があるし、同作家の「冥府」や「廢市」も同様に”死んだ町”のイメージを持っている。また、「未来都市」も幻想世界を描いた作品で、後でこの作品との比較を試みる。この他にも、ローデンバック『死都ブルージュ』の世界も、やはり死んだ町というイメージがあるが、最後に福永作品「未来都市」と比較してコメントしてみたい。

この作品を読んだのが2年前(2004年)の夏で、実はそれ以前に買って本棚の肥やしになっていたのだが、読み始めると面白く一気通巻で読んでしまった。高い壁に囲まれた閉鎖された世界、というイメージはそれ以来私の中に取り込まれ、この本は私の心の中でずっと一定の位置を占め続けていた。このたび改めて再読し、作品解釈としてHPで公開させていただく運びとなった。

作品の構成と特徴

この物語は文庫本の上下巻に分かれている長編小説で、「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という2つのプロットが同時進行で語られる。それぞれの物語は独立して読め、話のプロットが混乱することのないよううまく設計されている。計算士である「私」の頭の中に存在する無意識の世界が、最後は「私」の意識世界を乗っ取ってしまうという筋書きである。「私」が無意識の世界に乗っ取られるまでを描いたのが「ハードボイルド・ワンダーランド」、その、無意識の核とも言うべき世界を描いたのが「世界の終り」であり、2つのプロットの間を橋渡しする仕掛けを組み入れることで一つのストーリーとして組み上がっている。

私の職業である「計算士」というのは何だろう? コンピューターは別に存在するが(作品に描かれた時代は現代あるいは近未来か)、どうやらコンピューターで扱う情報を保護する〜イメージとしては暗号化に近い〜ための高度な専門職といったところであろう。作業としては、パソコンの暗号化ソフトをもっと高度化したものであるようだ。(「計算士」という職業に関しては、『イエローページ村上春樹』をはじめ、本作品を論じているweb site上にもいくつか解説がある) この、「計算士」という職業は自分の無意識を活用して情報の暗号化(保護)を実現するため、「無意識の核」といったものにどうしても向き合わざるを得ない。通常、「無意識の核」は当人に意識されることはないが、「私」の場合は特別で、シャフリング作用を行うため特別に訓練されているものである。そして、その「無意識の核」があまりにもリアリスティックに出来ていたことが、この物語を立ち上げる原動力となっている。(無意識の世界を開くために、わざわざ作者はこのような職業を考え出したとも言える。)まずこれが作品解釈を行う上で留意すべき最初の仕掛けである。

次に、計算士である「私」のプロフィールに注目しよう。計算士はもともと個人単位で仕事を行うプロフェッショナルであり、自由業に近い職業である。そして「私」には家族も、親しい友人・恋人もいない。計算士としてある程度金がたまったら引退し、のんびりとギリシャ語とチェロを習いたいと思っているという、いわば世間との交渉事から外れてしまっている。言葉を変えれば、もし仮に「私」が突然消滅してしまっても世間は誰も困らないのである。このような「私」のプロファイルは、博士が発明したシャフリング技術にとって最適であった。シャフリング技術を実行するためには、「意識の核」に対する天然の免疫作用が必要だ。書き手は、プロファイルとセットで「私」に対し「意識の核」の免疫作用を付与し、物語を先に進めている。この「私」のプロファイルが第二の仕掛けである。 さらに、「世界の終り」という世界が、外部から強制的に与えられた人工的なものでない点に注意を払おう。博士は「私」の無意識を編集し、それを第二のジャンクションとして「私」の脳へ植え付けた。しかしその世界はもともと「私」のものであり、「私」の無意識の産物である。(ここが福永作品の「未来都市」「冥府」「廢市」と決定的に異なる。これら福永作品では町の力というのは「僕」以外の外部からやってくる一種の暴力として位置付けられる) 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んで、さほど悲劇的な印象が強くなかったのは、おそらくもともと「私」が持っていた無意識の世界に入っていくという設定になっているからであり、外部からの暴力があまり感じられなかったからでである。「私」は、個人主義で、厭世的で、世俗のことにあまり関心がない。このような「私」が作り上げた無意識の世界はそのプロフィールを見事に反映し、<心>というものを壁の監視システムにより排除させ、一角獣による<心>の吸い取り機構を組み合わせることにより完全に排除し、穏やかな世界を構成している。

作品の解釈

<作品構造と主題>
上述したように、「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」が同時並行で(厳密に言うと互い違いに)進行し、この2本のプロットが作品を構成する。この、2本のプロットの間を橋渡しすべく、書き手はいくつかの仕掛けを用意している。それは、<一角獣>、<世界の終り>、<手風琴>、<ダニーボーイ>といったキーワードである。「私」は第三のジャンクションを埋め込まれる措置を施され、じきに埋め込まれた第三の回路に意識を乗っ取られてしまう。それが「私」に対して明らかにされるのが、「私」がやみくろと記号士の手を逃れて博士と再会した時である。作品を素直に読むと、「私」が第三の回路に意識を乗っ取られた直後に「街」に到着すると思われるのだが、ここは敢えて2つのプロットを同時並行で流すことで書き手は立体的な物語展開を狙っているように思われる。実は、それ以前からこの第三の回路による世界−「街」についての記述は同時進行で進んでいるのだが、ここを境に質が変化し、「街」の決まりごとに対して「私」が逆らう動きが出現してくる。「私」は、現実世界では<心>を大切にしてこなかったし、できなかった。しかし「街」に入るときに「影」を切り離され、夢読みとして仕事を続ける中で「図書館の女の子」に惹かれ、ついには彼女の閉ざされた<心>を発見する。これは、「僕」が自分自身の<心>を見出し、そしてそれを他者との連体の中に意味づけていく作業そのものである。 「僕」は結局「影」の説得にもかかわらず「街」に踏みとどまることを選択する。つまり、「心」を残したまま「街」に留まって森へ追放される覚悟を決める。「僕」は、決して現実世界では行い得なかった大切な決断をするのである。 「僕」と「図書館の女の子」は森に追放される。壁の監視システムを逃れる妙案は作品中には提示されていないし、「街」そのものを作りかえるという方向での救いは示されていない。しかし、いったん<心>の意義を認識した「僕」は、音楽により閉ざされた<心>を開放された「図書館の女の子」とうまくやっていくと思わせるような余韻を残して物語は終わる。これは悪くない終わり方であり、読了後に「私」が再生するというイメージを連想させる。

 
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の作品構造図 /Inspiration Version 6で作成

第三の回路に関して 2つのプロットを結ぶキーワード 解釈
「私」が知る前
(1−24章)
一角獣
世界の終り(シャフリング用キーワード)
一角獣は「ハードボイルド・ワンダーランド」および「世界の終り」のプロットに関して要のキーワード
特に、「ハードボイルド」側のプロットは、一角獣の頭骨を巡り展開する。(私は一角獣の意味は知らない)
「私」が知った後
(25章以降)
楽器(手風琴)
歌(ダニーボーイ)
楽器、歌は現実世界ではごく普通にあたりまえに存在するものだが、「街」には存在しない。
1)存在しない→はるか昔に忘れ去られてしまっている、という設定がポイント。「街」では壁の監視システムにより過去の記憶に関するアイテムにアクセスすることは許されない。
2)楽器や歌により、図書館の女の子が保持していた、わずかな<心>が動き始める。同時に僕の「影」が壁の監視システムをすり抜ける案を考え出し、実行に移すため僕を説得する。
左記の2つのキーワードが出た後では、「街」の決まりに対して逆らう動きが出現する。

<「街」の構造とその意味>
この作品の最も魅力的な点は、壁に囲まれた「街」の構造と決まり事であろう。ここでのキーポイントは、<穏やかな世界>、<心>であろう。まず、この世界が人工的にできているという点では異存はない。そもそも壁で囲まれており、街に入るとき門番が「影」を切り離すというのも人工的である。物理的に限定された広さを持つ「街」はそれ自体が閉鎖的であり、閉じられた世界である。



  「街」の構造図/IInspiration Version 6で作成

ここが「世界の終り」と命名されているのはどのような理由からだろう。博士は「私」の無意識の核をヴィジュアライズ化して取り出すことに成功した。「世界の終り」と命名したのは博士であり、ヴィジュアライズ化された「私」の世界は、きっと客観的に見ても「世界の終り」であるに違いない。web masterは、「世界の終り」というよりも「最果ての地」、「黄泉の国」といったイメージであるのだが、ともかくあまり広くない閉鎖された空間で、時間の流れが存在しない(同じサイクルの永遠の繰り返し)のが特徴である。おそらく、人間の<心>が動くことが許されていない、単純な毎日(=ここには物質的な欲望というものが存在しない)の繰り返しの中に安らぎがある、という世界は、感情の喪失という点で<悪>なのであり、人間を不自然な形で規制するといった意味で世界が終わっているという解釈が最も妥当であろう。

文庫本の上巻に地図が付いてるが、これを見る限りは「街」と呼べるほど大きいかどうか・・・いったい人口は何人くらいで、ここの住民はどのように生活しているのかというのは実はよくわからない。一角獣というのはこの街に特異的な生き物であり、壁の監視システムの一環を担っている。面白いのが、影を切り離しても<心>は失わず、「街」で日々生活することにより生じる<心>を一角獣により適宜回収する必要があるという点である。最後は夢読みにより大気中に開放される。ということは、「影」が指摘したようにこの世界をまわすためにはかなり不自然なことをしていると解釈される。しかしこれだけの監視システムを持ってしてもまだ<心>を捨てきれない人たちがおり、その連中は森へと追放される。ここまでやってようやく「街」の秩序を保つだけの監視体制が出来上がっている。しかし、これだけ完璧に近いシステムを持ってしても「図書館の女の子」に封印されていた<心>を検知することはできなかった。これは人間というものは<心>を持つことが普通なのであり、それを無くすというのはかなり無理をしても難しいし、そもそも無くそうと試みること自体に無理があるという解釈が成り立つ。「街」に住む人間は、ある意味完璧なほど平穏な生活を送っている。しかし、その平穏さとは壁を中心とした監視システムにより構成された、とてつもなく無理のかかったシステムなのである。

目を転じて、一角獣に注目しよう。一角獣は人間に対して害を及ぼすことはなく、「獣」というイメージを抱きにくい生き物である。「僕」の「影」によれば、一角獣は人間の自我を身体の中に貯め込み、その自我に押しつぶされて死ぬ。一角獣の命は、影を失った人間からわずかに発生する自我を「街」の外に汲み出すことの代償である。「影」はこのことを「弱い無力なものに何もかも押しつけて保たれるような完全さ」と批判しているが、春になると一角獣は死んだ数だけ生まれてくるの「影」の言うことは正しくない。一角獣は壁と協働で「街」の中の人間を監視し管理するシステムの一環として存在しており、完結したシステムなのである。

加藤らはその著書『イエローページ村上春樹』の中で、「影」の訴えを退け、心のない「街」に留まる理由について考察している。なるほど「影」が「街」について批判することは完璧に正しいし、いったんは「僕」もそのことに納得する。書き手は「僕」に、「僕には僕の責任があるんだ」と言わせるが、これは「街」は「僕」の心が作ったものなのだから、「僕」はその責任を取るべきだ(=踏みとどまる)という発想である。しかし、確かに「街」は僕の心の産物ではあるが、それは博士によって編成され植え付けられた人工的な世界であり、「僕」がその責任を取る必要は全くない(※博士は「私」のシャフリング・パスワードを<世界の終り>と設定した。また「私」の意識の核はそれ自体非常に完成され、それ自体映画としても成立しうるほどの整合性を有していると述べている。このことから、おそらく博士の行った編集作業はあまり大きなものではないと窺われる)。「僕」は自分のやったことの責任を取る必要は全くないし、また責任を取ろうと思ってもそれは不可能だ(ジャンクションBはそもそも博士が設置した人工的である)。「街」を作ったのが「僕」だからといって、「僕」は「街」のシステムを自由にいじれるわけではない。そのことは「僕」にもよくわかっていたはずである。今や「僕」は「街」のしくみのことを完全に理解したし、「影」を逃がして自分だけが留まる〜「影」と別れる〜ことの意味も充分にわかっている。その上で敢えて留まるという決断をしたというのは、筆者は「僕」が「街」の中にある種の希望を見出したからだと解釈した。 

では、このような閉ざされた「街」の中に一体どのような希望があるのだろう。これを解く鍵は、<世界の終り>のプロットの後半で明らかになるが、壁の監視システムは必ずしも完璧ではないところにあると考える。壁−門番ー一角獣−夢読みにより構成される監視システムを以てしても、「街」の住民から完全に心を取り去ることはできない。「街」は心を捨てられなかった人々を森へ追放することにより、なんとかその完全性を保っているが、逆に言えば森の中は壁の監視システムが及ばない場所であるとも言える。この森の住民の生活について、物語から読み取れることはごく僅かであるので想像に頼るしかないが、
「僕」が「街」の中で本当の自分らしさを作り出すためには、森に追放されるのが必然であるように思われるのである。

福永作品との比較による考察

町の住民に対して監視システムを持っているという点で、この作品を福永武彦の「未来都市」と比較してみたい。「未来都市」では<神性放射>なるものが神殿から放射され、人間の中の<悪>を消滅させ、<善>を増幅させるという操作が絶えず行われる。ルーティンの操作で不完全な人に対しては、病院で強力な放射をかけることも行われる。善と悪を機械的に振り分け、後者を人工的に除去してしまおうという試みも、かって行われた人体実験に立脚するという暗い経歴を持っており、本作品の「街」と同様に無理がある仕組みである。未来都市に紛れ込んだ芸術家の「僕」は「哲学者」と対峙することで未来都市のシステムそのものを破壊してしまい、ここで「僕」は開放されるが、一方『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の主人公は「街」の中に留まることで壁の監視システムから逃れる道を選択する。どちらの作品の主人公も、外的世界との関わり合いを自分自身で選択し、実行に移した事に変わりはない。違っているのは、「未来都市」の主人公は恋人を連れて(「哲学者」から妻を奪って)町から出、『世界の終り〜』の主人公は心を失った彼女の心を取り戻させ、森の中へと自分から進んで追放される。一見、前者の方が話としては派手だし(俗的に言えば)格好が良い。しかしながら、後者も相当の覚悟が要るし、「僕」が作り出した世界の中で「僕」が追放されるという矛盾を含んだ中での決断であり、その覚悟は非常に重いものであっただろう。「未来都市」はある意味後味の良い、爽やかな結末とも言えるが、『世界の終わり〜』はそうではなく、理不尽に「街」に連れてこられ、理不尽なシステムを押しつけられた「僕」が積極的に活路を見出していくという、ある意味泥沼の闘いの記録なのである。

 ※理不尽なルールを町の住人に押しつける、という点では「冥府」の幻想世界と比較することも意味があるかもしれない。以後適宜追加考察を行う予定。


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