室生犀星「性に眼覚める頃」

作品番号:16 2007/6/30 version 1.0
作品情報 テキスト : 室生犀星『性に眼覚める頃』、新潮文庫、昭和49年(25刷)
参考文献  


この作品について

室生犀星は私の好きな作家の一人であり、今までにいくつかの作品を読んだ。この作家は少女、夭逝を描くのが上手く、逆に心の駆け引きを描くのは今ひとつであると思っている。「性に眼覚める頃」は、読み解き発表済みの「或る少女の死まで」と同列の作品であり、室生犀星の得意とする「少女の夭逝」が上手く作品に組み込まれている。登場人物は17歳前後であり、タイトルからもわかるように子供から大人になる過程を扱った作品であり、性に密接しているため、「或る少女の死まで」に登場するふじ子やS酒場の少女のような、幼年者の純潔性という要素はない。



作品の構成と特徴

私はこの作品を「或る少女の死まで」に引き続いて読んだため、「或る少女の死まで」(以下、「或る少女」と略す)と比較して解釈するのがわかりやすい。ウェブマスターの読みの結論を先に言ってしまうと、作者が意図して込めた物語の主題は「或る少女」も「性に眼覚める頃」(以下、「眼覚める頃」と略す)同じである。従って、ウェブマスターの感動の源泉も同じ所にある。

作品の解釈


「眼覚める頃」は、主人公「私」が詩を雑誌に投稿して当選したところから物語が立ち上がる。「私」は学校を辞め、寺に籠もって毎日うだつの上がらない生活を続けていた。社会的な立場の確立が思うようになされないまま悶々とした日々を送っていたように思われる。17歳という年齢から、生物学的にも異性への関心は強まっていたことだろう。

自分の作った詩が雑誌に投稿されたことで、「私」は自分が世の中から存在意義を認められたかのように感じる。そしてこれをきっかけに「私」の世界は自己から他者へと大きく拡大していくことになる。もちろん、「私」にとっての「他者」とは、友人の表のことである。

K.K.氏が表のことを「天才」と賞しているように、表が作る詩は非常に優秀であった。もし表の作る詩の出来映えが全く悪かったら、「私」はここまで表に影響を受けることはなかっただろう。「私」が自己を確立できたのは雑誌に詩が掲載されたからであり、そして自分と同等以上に優秀な詩を作る表だったからこそ、この2人の親交は続いたのである。ここはプロットを支える骨組みとしてしっかりと押さえておきたい。作品中のデータからは「私」と表の詩作の力は高低判断つきかねるが、おそらく同等程度に将来有望と考えておいてよいだろう。

しかし、異性に対する経験は「私」と表では天と地ほどの差がある。この作品の構造を調べてみると、「私」の詩作が雑誌に掲載されるという出来事を中心に、2つのプロットが存在することがわかる(作品構造図参照)。ひとつのプロットは表との交友(お玉さんとのやりとりを含む)、もうひとつは「私」独力の女性に対するアプローチである。


<性に眼覚める頃の作品構造図。Inspiration ver 6.0で作成した>

「私」独力の女性に対するアプローチを見てみると、表とは雲泥の差がある。「私」は賽銭泥棒の娘に(肉体的に)惹かれ、彼女の自宅まで付いていって雪駄を盗むが、犯罪行為というよりもなんとか娘と個人的に知り合いになりたいとする願望の表れだと捉えられる。「私」だけが賽銭泥棒をしていることを知っている→自分が娘の弱みを握っている→「私」の立場は有利であるという流れが「私」の頭の中にでき、空想の中でそれを弄ぶのは問題ない。しかし実際の行動は賽銭箱にこっそりと手紙を入れたり、片方の雪駄を盗んだりと、およそ女性に対するアプローチとはかけ離れたことをやってしまっている。これは単に女性に対する態度を知らないというテクニック上の問題であって、「私」が特に異常というわけではなく、常識的にやってよい/悪いの判断は充分についていると考えられる。いわゆる「私」はウブなのである(^_=)

これは、表が「私」にどのように映っているかの記述を見てもわかる。「私」が表を表現している言葉は「優しい不良少年」である。表の評判が悪く、町の娘に嫌われているのは何故か、高等刑事が表の素性を調べているのは何故かについては記述はないが、だいたい想像はつくだろう。次々に女性に声をかけて深い関係になるのを全然悪いことだとは思っていない、といったとこであろう。この当時の社会的規範から考えれば表の行動は顰蹙を買うのであろうが、表のことを深く愛する女性が存在すること−表は可憐な娘に深く愛される質を持っていること−も確固とした事実なのである。「私」はこの事実を目のあたりにしても、そこから自分自身の行動につなげていくことはできない。これは「私」と表のレベルが違いすぎるので、全く話にならないのである。

表が使った女に取り入る術とはどのようなものだろうか。「私」と表が芝居を見に行ったときのやりとりからその一端が窺える。現代の眼から見ると全く何の問題もなさそうに見えるが、この当時はやたらと女性に声をかけることは無礼だとされていたとすると、彼の行動が周りからよく思われなかったのは理解できる。このような御法度を許して表のことを愛せる女性というのは世間一般から見ると少数派であろうから、表と深い交際をしていたお玉さんに友達がいないというのも理解できる。表はお玉さんと交際するようになってから他の女性にはあまり目をかけないようになっていたと書かれているので、二人の交際は真剣だったと解釈できる。「私」はこの二人のやりとりから、女性に対する接し方を学んでいくのである。表とお玉さんのプロットは賽銭泥棒や廓の女のプロットと完全に独立している。

そして、表は肺の病に倒れて夭逝する。表とお玉さんの態度は、「私」が二人に抱いた詩のように美しい心を裏切らず、私にとって美しく幕を閉じる。表が逝ってしまってからしばらくしてお玉さんもまた同じ病気にかかっていることを知るが、「私」はもうお玉さんと会うことはない。そしてお玉さんも近いうちに逝き、表とお玉さんの美しい関係は永遠に私の心の中に固定される。この結論部分の構造は「或る少女」と全く同じである。


解釈のまとめ


「或る少女」も「眼覚める頃」も、大切な人の夭逝で「私」の中に永遠の記憶が刻まれるという結論になっている。「私」は影響を受けつつも「死」からはとりあえず隔離され、安全地帯にいる。もし夭逝が悲劇だとしたら、何が悲劇だと感じられるのだろう。これから先がある若い命が失われてしまうこと、可能性が未知のまま、あるいは大きな期待をかけられたまま突然つみ取られてしまうような痛みを差すのだろうか。理屈としては理解できるが、室生犀星の2つの作品からは可能性の突然の消失といった要素はあまり感じられない。犀星が悲劇だと捉えているのは、若さそのものが世の中から消滅していく、まさにその事実そのものであるように思われる。そして、その悲劇を一手に引き受けるのは、この世に残された作中人物の「私」であり、読み手なのである。

室生犀星「或る少女の死まで」『かげろうの日記遺文』の作品解釈もご覧下さい。

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