作品番号:8 1999/9/4 version1  2006/12/2 revision
村上春樹 『ノルウェイの森』
作品情報 テキスト : 村上春樹『ノルウェイの森(上)(下)』、講談社(1987)


この作品について

純愛小説として12年前に大ヒットした作品であるが、現在でも講談社から文庫本として出ているので読まれている方も多いと思う。。ちょうどこの時Yumingのアルバム「Delight Slight Light Kiss」が大流行し、両者がセットになって流行していたように思う。僕はこのアルバムの中に収められている「リフレインが叫んでいる」がこの小説のテーマ曲として頭の中に焼き付いているのである。自分は小説と音楽を結びつけることはあまりしないのだが、この小説は何故か例外である。

この作品は以前に紹介した短編小説「螢」(作品番号6、作品解釈はこちらをほぼ完全な形で含み、その主題が発展的に取り扱われている。「螢」の中では解釈ができなかったいくつかの謎が『ノルウェイの森』の中では明らかにされており、「螢」と対比させた形での作品解釈をすると興味深い。

作品の構成と特徴

1.作品全体について
物語は語り手「僕」がハンブルグ空港に着陸する直前の飛行機の中でビートルズの「ノルウェイの森」を耳にするところから始まる。その曲が「僕」を一気に18年前の回想へトリップさせる。その当時は理解することのできなかった直子の姿を頭の中に描き出し、もう取り返しのつかない18年前の出来事について読者を導いていく。つまりこの物語は失われた恋人「直子」を現在の「僕」が回想の中に探しに出かける形を取っている。このような構造を可能としているのは、語り手「僕」が現在の視点から回想を眺めているからである。これは回想への旅が”過ぎ去ってしまった出来事”に対する悔恨という意味合いを強く帯びているからに他ならない。この作品は短編「螢」の内容をほぼ完全な形で含んでおり、「螢」の中では解釈できなかったいくつかの謎が『ノルウェイの森』では解釈可能となっている。しかし『ノルウェイの森』では物語の構造が異なっているため「螢」に該当する部分の解釈が異なってくるので注意を要する(この点については作品解釈のところで言及する)。

2.登場人物
「螢」では僕と彼女、それから彼女の恋人の3人で物語が展開したが、『ノルウェイの森』では「螢」に比べてかなりたくさんの人物が登場する(永沢さん、ハツミさん、緑、レイコさん)。これら登場人物は過去の回想部分を展開する上でそれぞれ重要な役割を果たしているが、実は直子と「僕」の関係に本質的に関わってくるのは緑だけである。緑は不幸な身の上を持った女性であるにも関わらず生へのエネルギーが非常に大きく、直子と対照的であり、この生へのエネルギーが結局は「僕」を救うのである。緑の登場が「螢」とは大きく異なる点であり、物語の展開に非常に大きな働きをしていると考えられる。また、ハツミさんの存在とその死については「死」の取り扱いを考える上で重要である。

直子のルームメートであるレイコさんは「僕」と直子をつなぐ存在として位置づけられ、特に直子の状態を的確に把握する上で不可欠の重要なキャラクターである。物語を読むとレイコさんは直子が持つ「死」の要素の影響は受けていないように見えるが、これは何故なのだろうか。直子と「僕」をつなぐ役割だけを担っていると解釈することもできるが、レイコさんは直子と同じ世界に住んでいるためであると考えることもできる。

3.登場人物間の人間関係
作品中の登場人物間は「僕」を中心にして展開しており、登場人物間のやりとりは少ない(登場人物間の関係図参照)。特に重要な位置を占めていると思われる直子と緑の間に直接的な交渉はなく、あくまで「僕」を通しての対比である。また後日自殺してしまうハツミさんと直子の間にも直接的な交渉はなく、直子はハツミさんの優しさに触れることもできなかった。つまり人間関係はあくまで「僕」を中心としたもので、登場人物間をつなぐ糸は存在しない。登場人物間をつなぐ糸が存在しないということは回想があくまで「僕」の中で閉じていることを意味する。登場人物の中でキズキ、ハツミさんは死に、突撃隊は突然退寮し、永沢さんはドイツへ去る。それらは淡々として語られ、人の出会いや別れに伴うvividな感情の動きはない(ただしハツミさんについては別の回想の中で記述がある。下巻P.116)。これは回想の中で「僕」(=18歳の時の自分)が人間的な生き生きとした感情を喪失していたためであるとも解釈できるが、感情を喪失していたのは「僕」だけではない。登場人物の誰もが多かれ少なかれ感情を喪失していたのであり、この物語が醸し出す人間関係のドライさはここから来るものと考えられる。

4.「死」と「性」をめぐって
「螢」の時と同様、この作品には「死」が身近に存在している。直子の「死」の意識は「螢」に描かれているものとほぼ同様であるが『ノルウェイの森』では直子が自殺するところまで描かれる。 ところで、直子の他にハツミさんの存在と死についても注目すべきである。永沢さんの態度がどうであれ、ハツミさんは永沢さんのことを好きだと明言する(下巻、P.124)。彼女は永沢さんが本気で変わると思っていたのであろうか。それは物語の中では語られず、彼女は「人生のある段階が来ると、ふと思いついたみたいに自らの生命を絶った」のである。ここでハツミさんの心境について考察する必要は必ずしもないが、「僕」がハツミさんを特別な女性と(その当時は直感的に)認めていたにも関わらず救済できなかったこと、「そしてそれは僕の多くの知り合いがそうしたように」とあるように、「僕」が自分の周りに死が徘徊していると(恐らく無意識に)考えた点に注意を払う必要がある。ここから「僕」もまた「死」に取り囲まれている存在であり、その考えや行動が「死」に侵食される危険性が覗いている。キズキの死、ハツミさんの死は直子の死と共にこの物語全体のバックボーンを構成していると考えられるが、『ノルウェイの森』では緑の存在が「僕」を「死」の危険性から救い出すべく拮抗していると考えられる。
それからこの物語では性の描写が露骨である。登場人物すべてが性交渉について罪悪感のようなものは持ち合わせていないかのように思える。しかし性的な接触が満足を与えているかというとそれは全く逆で、かえって喪失感のような寂しい雰囲気が漂う。だからこの物語では生の喜びとしての愛や性的な交渉という解釈は成立しない。その理由はこの物語の基調が「死」をバックボーンとしているからであると考える。性の描写が露骨なのは作者のテクニックなのかもしれないが、この作品を性描写が露骨な道徳倫理に反するイヤラシイ話としてしまうと物語の主題を捕えることができないので注意が必要である。

作品の解釈




<登場人物人間関係> 

作品主題分析図
        <主題分析の分析>


ハンブルグ空港に着陸直前の「僕」がビートルズの「ノルウェイの森」を聴いたことで直子の思い出がよみがえり、18年前へと記憶が遡る。この物語は過去の回想という形を取っており、それは死んでしまった直子を探しに出る旅であると解釈される(注)。この物語の面白いところは回想の中の直子と現在の「僕」が理解している直子の2つの人物が描かれていることで、この2つの像が統合されて初めて直子という人物を立体的に理解することができるようになっている点である。「直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけば行くほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う」とあるように(上巻、P.18)、現在の「僕」は18年前の直子も、そのときに理解できなかった直子の隠された一面(第一章で語られている回想部分に含まれる)も見渡すことができるが、18年前の「僕」は直子の一面しか理解することができなかったことになっている。これがこの物語全体を支えている構造であり、ここに直子を含む様々な人物の「死」がバックボーンとして組み込まれることで作品の各プロットを支えている。

(注) 村上春樹の小説はほとんどが、実は死んだり消えたりしたかっての恋人を探しに旅出る物語であるとの指摘は既に田中実氏によりなされている。
田中実『読みのアナーキーを超えて』、右文書院(1997)

物語が回想の形で語られる性質上、18年前の登場人物のその後の様子が所々挿入の形で描かれている。それはハツミさんの死について最も効果的に使われていると思われる。「僕の多くの知り合いがそうしたように」ハツミさんは「人生のある段階が来るとふと思いついたみたいに自らの命を絶った」のである。僕の多くの知り合いとは、もちろんキズキと直子も含まれるであろう。自殺の理由はそれこそもっともらしい説明をたくさん付けることは可能であろうが、作者は理屈でそれを説明することは敢えて避けているようなふしが認められる。登場人物が死ぬ、そしてそれが「僕」に少なからぬ影響を与える(親しい間柄の人間が死んだのだから当たり前だが)というモチーフを用いることで読者は「死」を「生」の対局として置くのではなくて「生」の一部として捕えるように強要される(これは「螢」で表されているモチーフと同一)。直子の側から見た場合、自分の中に存在する「死」の要素に身を滅ぼされていく物語であるが、「僕」の側から見ると、「僕」が死に捕らわれ、そしてその捕らわれから救済される物語なのである。

「螢」ではよくわからなかった死の理由をこの作品から説明することが可能である。キズキの死については「螢」では全く説明不可能であったが、この作品では少なくとも直子との恋愛関係で悩んでいたのがその原因の一部である可能性がある(直子との性交渉がうまくいかなかった旨の記述があるため)。ただし性交渉がうまく行かなかった原因は直子の側にあるが、その理由は明確には語られていない。ここで直子において肉体的な愛と精神的な愛が乖離してしまっていると単純には片づけられない。なぜなら「僕」との性交渉は(1回だけだが)成功しているが、それにより直子が幸福になることはなかったからである。私は直子の中に死に向かって一直線に走る「何か」が存在し、それが直子の意識を捕えていたのだと解釈したい。つまり、その「何か」がキズキを失望させ、僕との恋愛関係を失敗させ、直子自身を混乱させて死へ追いやったのである。ここでその「何か」は精神病の素質なのであろうが、この一言で片づけてしまうのをこの作品は許していない。なるほど直子は施設に入り治療を受けている。しかしそこに至るまでの過程と治療中について作者は多くのページを割き、直子の気持ちの混乱を詳細に描いている点に注意を払うべきである。僕レイコさんとのやりとりをしながら、浮き沈みをしながら直子がゆっくりと不可逆的に自殺に向かって進んで行くところがこの物語の中心であり、かつ直子を救いのないものにしている。そして救いのない点は僕の側でも同じであった。それは上で述べたように18年前の「僕」は直子の重要な一面にアクセスできなかったばかりでなく、現在の「僕」はそれを見ることができると共に直子が自分のことを愛していなかったと悟るのである。ここで「現在の僕」は哀しさと同時に深い悔恨を覚えたに違いない。

「螢」では僕の友人の死が彼女に精神的な打撃を与えたと解釈した。しかしキズキの自殺の原因の一端が直子にあったとすれば『ノルウェイの森』では解釈が変わってくる。キズキの死の一端が直子の態度にあったとすると直子は深い罪の意識に悩んでいたに違いない。それは直子を捕えていた「何か」の働きを強化し、結局は彼女をクライシスに追いやっていった。「螢」では「死」を意識させたのは僕の友人の自殺であり、「彼女」はいわばその犠牲者的な意味合いであった。しかし『ノルウェイの森』では直子の存在そのものが「死」と直結しており、直子に救いはない。

ところで、直子が「死」に直結した存在であるのと対照的に、緑は生のエネルギーをまき散らす存在である。緑の家庭は決して幸福ではない(母死亡、父も入院中で後日死亡)がその生活は生に満ちている。ブラジャーを買うお金を貯めて料理器具を買ったり、火事場を見学しながらビールを飲んだりとおよそ直子とはまるで違うキャラクターである。「僕」は緑から付き合ってくれと言われるが直子のことがあり態度を保留しているが、緑と直子の間に直接な交渉はない。この作品構造に私は初めは不満であったが(緑と直子の間に直接の交渉があったほうが作品全体に膨らみが出て面白くなると考えた)、直子ー僕ー緑の関係はそれぞれの女の子から僕自身がどのようなアプローチを受けたがが重要なのだと解釈した(実はこれは僕とハツミさんの関係についても言える)。ここから考えられるのは、僕が緑と関係を持つことで直子の持つ「死」の要素に巻き込まれなかったと解釈できるのではなかろうか。つまり僕が直子と接触を保ちながら生き延びるためには緑という存在が必要不可欠であったのだと考えられるのである。直子が自殺した後で「僕」は緑に電話をかけ「どこでもない場所の真ん中から緑を呼び続けていた」のである。これは直子が自殺したことで僕を襲ったクライシスから逃れるために緑に連絡を取っているのであるが、ここで物語は終わっている。「僕」は緑に救われたのである。

まとめ、そして新たなコメント(2006/12/2)

短編 「螢」をほぼ完全な形で含んでいる長編小説であるが、「螢」から発展した形で物語が進むため、「螢」で提示した解釈もいくつか変更を受けた。もっとも大きな変更が直子の精神病に関する点で、「螢」では友人の死が打撃になり引き金になったと考察したが『ノルウェイの森』では初めに直子の要素がキズキに死の少なくとも一因であると考察し、直子自身が有する「死」の要素(=遅かれ早かれいずれ出てくる、不可逆的に自分自身を破滅させる要素のこと)を中心に物語が展開すると考えた。この「死」の要素が直子自身を消滅させ、キズキを失望させて自殺させたのである。そして直子と対局にある女の子「緑」により「僕」は直子を捕えていた「死」から逃れられたと解釈した。直子がもはや回復の望みがない入院をしたことは「螢」でも暗示されているが、その原因をどこに求めるのかが「螢」と『ノルウェイの森』ではこのように食い違いが出てきたのは面白い。『ノルウェイの森』では直子のプロットがより鮮明に描かれており、ある意味では解釈は容易であった。
 この物語の18年前の回想部分の中心は直子が自殺するまでの不可逆的な混乱を描き、直子は結局外部からの何人の手によっても救済されなかったことである。そしてハンブルグ空港に到着する直前の「僕」の回想部分の中心は、18年前の直子と現在の直子(=「僕」の記憶の中で薄れていくが故によりいっそう深く理解できるようになった直子)を比較することで彼女が僕を愛してすらいなかったこと、そしてそれはもう取り返しのつかないことに気が付くことであろう。「螢」と比べ、「僕」の哀しさはより一層大きい。

田中実氏が指摘しているように、村上文学の多くは死んだり消えたりしたかっての恋人や女を探しに出かける旅であると考えるのは面白い。この視点に沿って村上小説のいくつかを解釈してみるとなかなか面白いと思う。『ノルウェイの森』の初めの部分に、直子が井戸について言及する場面がある。その井戸は『ねじまき鳥クロニクル』に登場するし、河合隼雄と村上春樹の対談集(紹介文はこちら)にも登場し、何らかの共通したイメージを示していると思われる。今後は作品をまたいで共通しているアイテムに着目した解釈を試みるのも面白いかもしれない。

 『ノルウェイの森』の2年前に書かれた長編小説、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、語り手は現実世界パートの「私」と世界の終わりパートの「僕」に分裂して描かれる。そして、「私」は図書館の女の子、博士の孫娘と別れて”意識の核”へと旅立ち、「僕」は”街”の中で図書館の女の子と一緒に留まることを選択する。”意識の核”への旅立ちは外的な圧力(=博士が施した措置と、組織と工場の間の闘争)による必然であり、後者は「僕」自身の意志によるものである。この、「僕」の意志が発動されるくだりは「僕」の再生をイメージし、『ノルウェイの森』におけるラスト・シーンと同様、クライシスからの脱出だと解釈できる。

お知らせ
『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の作品解釈完成のご案内


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