作品番号:14 2004/8/22登録
湯本香樹実

 『夏の庭』 The Friends

テキスト:湯本香樹美 『夏の庭』 、新潮文庫(平成6年発行、平成10年第10刷)
※平成4年5月に福武書店より刊行
なお、本作品は10カ国以上で刊行されており、映画化もされた。
日本児童文学者協会新人賞、児童文芸新人賞、米国バチェルダー賞を受賞

この作品について

 先に、湯本香樹実の『ポプラの秋』の作品解釈を掲載している。『ポプラの秋』で興味を持ったので、湯本香樹実の本をもっと読んでみたいと思ったのだ。読了は97年とだいぶ過去で(『ポプラの秋』の直ぐ後なのであたりまえなのだが)、このHPでも作品解釈を実施する予定だとずっと掲げていながらついつい先延ばしになって5年近く・・今ここにやっとアップロードすることができたm(__)m 解釈を作成するにあたり、物語を再読した。7年も前に読んだ本ではあったが、肝心の箇所(というかエッセンス)はほぼそのまま頭の中に残っており、解釈自体も昔とほぼ変わらぬものが出来上がったと考えている。湯本の作品は熱心なファンが多いと聞くが、そのような方にこの解釈を楽しんでいただければ幸いである。

作品の構成と特徴

 語り手である木山と、河辺、山下の3人がこの物語の主人公で、この3人は常にセットで行動をしている。この3人がふとしたきっかけで町に住んでいる老人を「観察」し、死に様を観ようとたくらむところから物語が始まっている。湯本香樹実の視線は常にこの3人の立場から物事を観、考察していく(これが湯本香樹実作品の一番の特徴)。そして観察される老人と3人の間には奇妙な友情が芽生え、「観察」は次第に「交流」へと変わっていく。この変わっていく過程が物語の展開部となっており、3人の生活(子供達および親との交流)を描いたパートとおじいさんとの交流を描いたパートの2本建てで展開される。そして、おじいさんの「死」によって3人の”冒険”は終わりを告げ、3人は別々の道を歩んでいくことになり、ここで物語は終わる。 ところで、おじいさんの観察と平行して3人の家庭環境が語られていく。それぞれの家庭には問題がなくはないが、さしあたって崩壊するほどの危機は到来していない。しかしそれぞれの家庭が抱えている事情は3人の心に暗い影を落とし、これが子供の視点から素直に語られている。このように、子供の視点から複数のプロットを含んでいる点が湯本香樹実作品の特徴と言って良いであろう。
 全体を通して作者が作品に込めた想いやメッセージは明確で、受け手は理解しやすい。文庫本のあとがきや解説(玖保キリコ氏)も良い文章である。

作品の解釈

 この小説は全部で15の章から成る長編小説で、3人とおじいさんの関係を軸として様々な人物が登場する。ストーリーを構築するプロットを分析するための第一段階として、各章のサマリーと解釈のポイントを以下の表にまとめた。なおこの作業を通して、3人とおじいさんの心の交流が相(Phase,)を経て丁寧に描かれていることがわかった。おじいさんとの交流は2つの相から成り、その2つの相はそれぞれ4つと2つのステップを含んでいると分析した。本作品は時間軸に沿ってこのPhase-stepを分析することで読み解く必要がある。 さらに、物語が進行するにつれて3人の心境に変化が生じ、「観察」から「交流」、そして「愛情」へと形を変えていく。この心情の変化を追跡する必要がある。

『夏の庭』:章内容の整理
章番号 内容サマリー 解釈のポイント
時期:6月。教室の風景。
山下の祖母が亡くなる話を2人が聞く。葬式の風景描写。
おじいさんの死を観察する話がまとまる。
山下の祖母の死→「死」への好奇心
おじいさんの自宅観察について相談。
夢の中で「死」の世界の住民に出逢う。
おじいさんの観察開始。おじいさんはTVばかり観ている。
おじいさんの生活サイクルの描写。
おじいさんの日常描写
3人の家庭環境の描写
医院でおじいさんと遭遇。医者に怒鳴られている。
おじいさんの観察継続。おじいさんに刺身を差し入れ(匿名で)。
おじいさんに対して能動的なアプローチ開始
時期:夏休み開始(7月下旬)
おじいさんの家からゴミ出しをしているところを見つかる。「おまえら、なにしてる」
小さい頃飼っていたチロの思い出:臨終の描写→死のイメージ
おじいさんはこのごろよく食べるようになり、活発になった。
おじいさんのVサイン→「オレたち、完全に遊ばれちゃっているみたい」
おじいさんとコンタクト。「おまえら、なにしてる」→「おまえら、よくうろうろしているな」
3人の存在がおじいさんの「生」を活性化
Ph1-step 1:おじいさんのVサイン
★ストーリーのクライマックス
おじいさんは張り切って庭を片づける。
おじいさんの洗濯物を干す。ゴミも出す。
Ph1-step 2:洗濯、ゴミ出しの手伝い
おじいさんの行動、さらに活発に(よく選択をする)。
3人で草むしり、ゴミ捨てを実行。
おじいさんとスイカを食べる。
Ph1-step 3:草むしり、ゴミ捨て、スイカを食べる。花の名前を列挙
コスモスの種を買いに行き、庭に植える。種店のおばあさんと会話。
おじいさんの家の手入れをする。実働は3人、おじいさんはペンキの塗り方等を3人に教える)
おじいさんは、かって結婚したことがあったが、別れた。
3人が知りあった老人:2人目
Ph1-step 4:種植え、家の手入れ(より高度な共同作業へ)
おじいさんの生活がすっかり変わる:ゴミは自分で出すし、料理、買い物、洗濯、掃除も自分できちんとやる。
3人の見張りは終了。おじいさんとの関係は次のphaseへ。
山下がプールで溺れる。
台風が来た夜、3人がおじいさんの家に集まる。おじいさんから戦争体験を聞く。
Ph2-step1:戦争で妊婦を殺したことを3人に話す。河辺からコメント:「いいんじゃないの、話して」
3人で古香弥生(おじいさんの元妻)を探す。トウジュエン(老人ホーム)で面談。おばあさんはぼけてしまっている可能性あり。
3人が知り合った老人:3人目。
10 おじいさんから歴史や漢字の勉強を教えてもらう。
いつのまにか座布団が4枚用意されるようになる。
池田種店のおばあさんに古香弥生さんになってほしいと嘆願する。
古香弥生さんとの面会の件をおじいさんに白状する。
おじいさんと池田種店のおばあさんの会話→そんなにたくさんの思い出がこのふたりの中にしまってあるなんて、驚きだった。
Ph2-step 2:3人の存在が日常になる。古香弥生の件で3人がおじいさんの中心部分に入り込む。
★ストーリーのクライマックス
11 おじいさんと夜の外出→川縁で花火を観る。
川縁で知り合ったスポーツシャツと一緒にお好み焼き屋へ入る
スポーツシャツのプロポーズ
「おう」おじいさんも、ビールを一口飲んだ。「ひきうけた」今夜のおじいさんは、すごく頼もしい。
12 時期:8月最後の週
サッカー合宿。
13 コーチのおばあさんと再開→細部がよく見える。昔の怖い話を喜んで聞く。
杉田との大喧嘩
コーチのおばあさんとの触れあい
14 帰宅、そしておじいさんの死に遭遇。「眠っているんじゃない」
初めて見る死んだ人だけれど、ぼくは少しもおそろしいとは感じていなかった。
おじいさんの肉体との別れ
「これはおじいさんじゃない」と思う。
3人の涙
陶器の骨壺のふたが閉められると、ぼくたちの夏休みが終わった。
★ストーリーのクライマックス
15 時期:おじいさんが死んでから1ヶ月後(9月の終わり?)
おじいさんの自宅の取り壊し。
<秋→春の変化>
木山のおかあさんが入院→おとうさんと2人で乗り切る。中学合格。
山下は受験に失敗
河辺はおかあさんが再婚、チェコスロバキアに引っ越し。
おじいさんは「思い出の中に生きている」のとはちょっと違い、もっと確かな手応えを感じる。

(1)おじいさんと3人の交流プロセスを分析する
 
上記の、章内容を整理した表を見ると、3人とおじいさんの交流は複数の段階を経て深まっていることが窺える。ストーリーの展開を考察し、大きくPhase 1, 2に分け、それぞれのPhaseの中を複数のstepに分解して解釈した。


3人とおじいさんの交流プロセスを時間軸に沿って分析した図を示す。


 3人が「死」に対して興味を持ったのは、山下のおばあさんの葬式の話がきっかけであった。この段階での興味は「生物が死ぬ」ということに対する純粋な興味(と恐れ)であったのだろう。山下と山下の祖母はほとんど交流がなかったことから、山下から葬式の話を聞いても後の2人はイメージが湧かないのは当然である。3人は単なる好奇心から、「今にも死にそうなおじいさん」を選んで観察を開始する。
 3人に観察されていることに気が付いたおじいさんは、当然のことながら良い顔はしない。おじいさんにうさんくさい目で見られながら、それでも3人は(意地で?)観察を続ける。こうなると、もう「死」に対する好奇心というよりは、おじいさんに対する意地だけで行動していると言ってもよい。ここで面白いのは、今まで独りで暮らしてきたおじいさんの生活に変化が出てきたことである。3人の動機はどうであれ、外部からの刺激がもたらされたのである。おじいさんは明らかに3人に見られていることを意識するようになり、生活に張りが出てきた。そして、クライマックスの1回目である「Vサイン」の場面へとつながる。
 おじいさんの「Vサイン」はこの物語のクライマックスのひとつであり、ターニングポイントである。ここのポイントで初めて3人とおじいさんの間に交流が生まれ、後の展開につながっていくと思われるからである。私はここをPhase1-step1とマークした。「Vサイン」以前では、3人とおじいさんの間にはある種の不穏な空気が漂っており、読者は「どうなるんだろう」という気持ちを抱くだろう。Ph1-step1を過ぎると読者は一気に肩の力が抜け、3人とおじいさんの関係はポジィティブな方向に向かっていくことを知る。この、Vサインを出すというおじいさんのいたずらっ気は、以後の3人との関係を支える基盤となる。
 Ph1-step1の後で3人とおじいさんの関係はスムーズに進む。step2−4まで順を追って3人とおじいさんの交流が描かれているが、ゴミ出しの手伝い(step2)、草むしり、すいかを食べる(step3)、種植え、家の手入れ(step4)と段階を追って中身が高度になっていく点に注意しよう。中身が高度になると共に、3人が単独で動くのではなくて、おじいさんも参加して共同作業の形態を取るようになってくる。これは3人とおじいさんの心の交流が進んでいることを示している。ここまでが展開部1となり、ひとつの区切りとなる。

 展開部1を経て、3人の関係は新たな段階に進む。第8章から第11章までが該当し、この部分を展開部2と命名した。ここでの3人との交流はPhase2とし、2つのstepに分けて考えた。ここで扱われているのは、おじいさんの過去の体験である。内容は、戦争体験の告白と離婚した元妻に関することで、どちらもおじいさんの心の中で大きな比重を占める内容である。戦争体験で妊婦を殺した悔いというのは、客観的に見ると戦時中だったので仕方がなかったと片づけることもできるだろう。ただ、この経験が元でおじいさんが妻と別れてしまったことが問題なのである。そのような意味でこの2つの体験はおじいさんの中では切り離すことができないが、3人がおじいさんの過去をどのように受け止めたか、それを元にしてどのような行動を取ったかという視点から見ると、切り離して考察するのが妥当である。 戦争体験を聞き、河辺が「いいんじゃないの、話して」とコメントする。おじいさんは少々びっくりしたような様子であった、とあるが、この段階に来て3人とおじいさんは対等な関係にあると考えてよい(ここで言いたいのは、おじいさんの体験を3人が単に聞くだけではなく、相互のやりとりがあるという意味である)。この段階を経て、おじいさんは元妻の古香弥生の話をする。おそらく、おじいさんにとっては妊婦を殺した悔いよりも古香弥生の方が気がかり(心に閉める割合は大きい)であったに違いない。この話を3人にした時点で、おじいさんと3人の間の絆は完成したと考えられる。
 古香弥生の話を聞いた3人は、早速行動を起こす。結果として、1)電話帳で調べて老人ホームに会いに行く 2)池田種店のおばあさんをひっぱりだしてきておじいさんに会わせる の2つの行動がなされるわけだが、この時点で3人がおじいさんの心の中にしっかりと組み込まれてしまっているのがわかる。この部分が第二のクライマックスで、おじいさんの「生」が輝いている様が子供の視点から描かれる。

 終結部では、おじいさんの死が描かれる。これは、展開部2で見てきた絆が「死」によって突然かつ一方的に分断されてしまう様が細かい描写によって示されている。「死」をどのように描くかは作家の腕の見せ所であるが、本作品と『ポプラの秋』に共通することとして、常に子供の視点から優しく描かれているように思われる。(※もし興味があれば、福永武彦『草の花』と比較をしてみてください。描写が全然違います。) 「眠っているんじゃない」という一言が、全てを表しており、親しい友人であるおじいさんの「死」は、自分たちが好奇心で観察しようとしていたものとは全然違う、ということを3人は身を持って知るのである。


(2)3人の心境変化を分析する
 (1)の交流プロセスの時間軸展開を踏まえ、次は視点を変えて3人の心境変化について分析を行なう。ここでの主題は、3人の「涙」である。初めは純粋な好奇心で始めた老人の「死」の観察が、最後には「涙」となったのか、その変化を分析することは作品解釈にとって必須であろう。




3人の心情変化を分析した図を作成した。


 (1)では主におじいさんとの交流が段階を追って深まっていく様子を分析した。ここでは3人を中心として、おじいさんを含めた周辺という視点から見てみたい。図に描かれてるように、3人との交流の中心はおじいさんであるが、その他にも様々な人が脇役として登場する。この中には池田種店のおばあさん、コーチのおばあちゃん等の老人もいれば、スポーツシャツのような大人もいる。おじいさんとの交流を軸として、これら多数の人とつながりをもって物語が展開しているというのは重要である。すなわち、この物語にはおじいさんとの交流という主プロットの他、周辺の人々との交流という副プロットが存在している。さらに図には書き入れていないが、3人の家族の問題という副プロットも存在する。これらのプロットは全て木山の視点から語られて統一されており、3人の「卒業」はこれら複数のプロットによって支えられる。
3人がサッカー合宿から戻ってみるとおじいさんは死んでいた。おじいさんの死は3人に真っ先に発見される。机の上に載った4房の葡萄は、おじいさんが昨晩までは3人の帰りを楽しみにしていたことを物語っている。ある意味で、ものすごく残酷な状況設定であるが、湯本香樹実は3人を容赦なく「死」に直面させる。ここに湯本香樹実の「死」に対するある種の厳しさを感じ取ることができる。今のおじいさんはもう目を覚ますことはなく、この一夏おじいさんと過ごした時間は記憶の中に永遠に固定される。ここで3人は「泣く」のである。今まで3人はケンカをして泣くことはあっても、大切な人との別れで泣くという経験は無かった。身近な人が死ねば誰でも泣くわけではなく、「泣く」という行為が出てくるためにはそれなりの基盤が整っている必要がある。この夏の経験が3人にそのような基盤を与えてくれたのは言うまでもないが、それはおじいさんとの交流”だけ”ではなく、おじいさんとの交流も含めた全てが作用した、と解釈するべきであろう。
おじいさんの死は物語のクライマックスであることには間違いないが、私はその中でも特に「おじいさんの死んでいるところを発見した」という状況を描いているのがこの物語の大きな特徴であると思う。『ポプラの秋』では既に死んでしまったおばあさんのお葬式に私がかけつける、という設定になっているが、本作品では子供が直に「死」に対面する。この違いはものすごく大きい。

まとめ

 おじいさんの「死」に直面した3人が、「涙」を流すようになるまでの変化を丁寧に描いた小説で、「死」に対する厳しさと優しさの両面がバランス良く描かれた作品だなあというのが印象であった。7年の歳月を経てもう一度読み直してみても、新鮮さは全然失われていなかった。『ポプラの秋』に比べ、こちらの方が「死」に対する厳しさがむき出しになっているような印象を持ったが、子供はそれを乗り越えられるとする湯本香樹実の姿勢を同時に感じることができた。


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