作品番号:5 1999/6/19登録
川端康成

『川のある下町の話』

作品情報 テキスト : 川端康成『川のある下町の話』、新潮文庫(昭和56年、改版36刷)


この作品について

購入したのが今から18年前。初読のときは貧乏でも清く正しく美しく生きる人たちの姿が「わぁ、いいなぁ」という程度の意識しか持たなかったが、HPへupするために再読してみると全然違った印象を受けた。全然違った印象を受けたにも関わらずやはり強く惹きつけられたことは変わらず、自分自身にとってこの作品が大切なものであることを改めて認識した。読みのテクニックを越えて語りかけてくる作品がある、というのは本当である。

舞台は終戦まもない東京の下町のN、まだ日本中に生きることが難しい貧乏が当たり前のように存在した時代の物語である。どぶ川に一人の幼い子供が流されるところから物語は始まる。主人公である栗田義三はその幼子を助け、その姉である薄幸の美少女、ふさ子に惹かれる。ふさ子と義三をめぐって義三の友達、民子や義三のいとこの桃子の人生も揺れる。登場人物はもちろんのこと、それを取り巻く人たちは誰しも心が美しい善意の人たちである。しかしふさ子と義三はお互いに想い想われながらも結局2人の恋は実を結ばず、ふさ子は気を違えて精神病院に入院してしまう・・・生きるために必死だった、死が今よりもずっと身近な問題だった頃の話。人の心がとても美しく、脆く描けている逸品である。


作品の構成と特徴(文庫本で312ページ、全部で52章ある長編小説である)

この小説の主な登場人物は以下の通りであり、義三をめぐって3人の女たちが登場する。主に女たちの(ふさ子、民子、桃子)心の動きが緻密に描写されているのがこの物語の大きな特色であるが、語り手が小説の内部深くに食い込んで女たちの心の動きを細かく捕捉しているのも見逃せない。したがってこの作品では読みの方向性が決まってしまっており、登場人物の心の動きについて読者が自由に思いを馳せる余地はほとんどない。ここで語られている女たちの心の動きはすなわち川端が描きたかった女性像であると思われ、読者は川端が作り上げた女性たちの世界へ読者を導いていく。


<表1 主要登場人物のプロフィールと人物説明>

登場人物 プロフィール 人物説明
栗田義三 S大学医学部学生インターン
23歳
貧乏(桃子の父から援助を受けて勉学中)
美男子(清潔な美貌)
他人に気遣いを惜しまないで、自分を抑える男
吉本ふさ子 中学を出てパチンコ屋で働く
身より無し(父不明、母、弟死亡)
不幸な育ち故他人の善意に遠慮しがち。行動は受け身的で痛々しい。
目の美しい美少女。
千葉桃子 義三のいとこ
高校3年生
両親揃った幸せな家庭に育つ。
「善意の娘」。初恋の相手は義三。
少女らしい雰囲気が強いが物語の後半部分では義三をふさ子に渡す決心をする。
井上民子 S大学医学部学生インターン
義三と同級生
理知的な面が強調される善意の医師のイメージ
義三に心惹かれ感情を露出させる。
達吉 キャバレー「チェリイ」のボーイ
小さいときから深い孤独に落ちる
義三に似た美貌
破傷風で死亡
女に対して何をするかわからない危険な男であるが、ふさ子に対しては指一本触れない。
初恋の相手はふさ子である。
自分と同様のさびしさと悲しさを有する「同胞」としてふさ子を捉える。

<図1 主要作品人物の相関関係図>

 
登場人物間の関係図を、義三を中心に捉えた図を示す
Inspiration Ver 5.0 を使用して分析しました。


この作品には2つの主題があると思われる。一つは<ふさ子/達吉>に代表される貧困の世界と <桃子/民子>に代表される裕福な世界の間の断絶。もう一つは作者が女性美で、女の美しさはこうあるべきだという強い主張のようなものを感じる。



作品の解釈

1.貧困の世界と裕福の世界の断絶について
この物語の主人公をふさ子と義三だとしてみると、ヒロインのふさ子が最終的に幸せをつかんでいないことをまず押さえる必要がある。ふさ子と同じ世界に生きると思われる達吉も最後は命を落とし、その生涯は読み手から見て幸福だとは思えないのである。2人に襲いかかる不幸は桃子/民子の側の世界から手をさしのべることにより救うことができない。ここに読者は2つの世界の断絶を見る。これは終戦直後の日本の厳しい現実をそのまま描いたものであり、同情的な助けを挿入しないかわりに登場人物が美形であることを強調し、よりいっそうの哀しさを誘っていると思われる。桃子/民子側の世界に属する義三の叔父伯母(桃子の父母)は美形だとは強調されていないが、ふさ子の立ち退きでトラブルを起こさずに立ち退き料を払っていること、桃子がふさ子を捜してシナ料理屋で会話する場面、どれを取っても善意の塊のような美しいやりとりである。経済的な強者が弱者を救うといった押しつけがましさを感じさせずに2つの世界の交差が実に見事に描き切れていると言える。

それでは義三はこの世界にどのように関わっているのであろうか。義三の家庭は貧しく叔父の援助を受けており、しかもインフルエンザで生死の境を彷徨う。ここは明らかにふさ子が属する貧困世界の一面を覗かせている。しかし一方で歳三は桃子という<善意の娘>に愛され、知性の優れた女医である民子にもまた愛されており、桃子/民子が属する世界にも関わっていることが示されている。断絶する2つの世界の交点にいるという、特殊な位置づけにあるのがヒーローである義三なのである。このような設定でないと2つの断絶した世界をまたがる恋愛を描くのは不可能であると思われ、義三の特殊な位置づけがこの物語のプロットを支える仕組みとして機能していると考える。

それではその義三はどのように描かれているであろうか。桃子に愛され、民子に愛されている義三であるがふさ子との出会いを運命の出会いと思って恋に落ちているが、その行動は緩やかであり思い切りが悪い。もちろん義三はまだ学生であり、叔父の援助を受けている身分であるがふさ子への行動を思いとどまらせている面はある。しかし民子の言う「あんなに傷つく前に、栗田さんはどうして、あの子をつかまえなかったの?」(P.311)という科白のように、義三の行動には情熱的なアクションに欠けているように思われるのである。この「思い切りの悪さ」の中身は何だろう。国家試験前の、まだ職業を持ち得ない不安定な身分なのだろうか。そう考えても説明は可能だが、ここは作者が義三の行動を敢えて抑える(ただし義三の気持ちはふさ子に向けて固定されている)ことでストーリーを意図的に操作しているのだと考えたい。その目的はつまりふさ子に幸福を与えないことで、2つの世界が物語の最後まで断絶したままの構造を取りたかったのではなかろうか。この小説のひとつの主題は愛の成就とかはかなさにあるのではなく、人間の心の美しさをもってしても超えることの出来ない世界の断絶の提示にあると思われるのである。

2.作者が描く女性美について
この作品中に出てくる美形人物はふさ子、義三、それから達吉である。ふさ子は「目の美しい」少女とされており、義三は歯磨き美男子、清潔な美貌とされている。達吉は義三に似ているとされているが中身は全然異なる。そして桃子は「美人ではないけど、気持ちは可愛い子。善意の娘」と描かれており高校生という年齢にもマッチしている。ふさ子の年齢は物語の中では明らかにされていないが中学を出て働いているところを見ると桃子とほぼ同年齢であると考えられる。民子は義三と同年齢であり、知性と善意を感じさせるキャラクターとして登場するが容姿についての記載はない。

この作品の中で作者の強い主張を感じさせ、女性としてもっとも豊潤に描かれているのは民子である。民子はどちらかというと中性的な女性として登場するが、クリスマスに義三がインフルエンザで倒れて生死を彷徨う時に必死で看病するが、その気持ちの動きが語り手により詳細に語られる。ここには民子が一人の「女」として義三を想う姿が描かれており、ふさ子や桃子とは異なった成熟した女性の愛を見ることができる。ふさ子が義三のアパートを訪問したとき、民子のことを見て「気持ちがしぼんだ」のは少女の反応であるが、「桃子を義三の愛人と勘違い」(P.103)する民子は明らかに「女」の反応である。ちなみにP.81(待っていた)-112(ゆくえ知れぬ)には作者の女性に対する「かくあるべき」という姿勢が民子を通して明確に現れており、興味深い。好きな男のためにまめまめしく尽くしたり、ライバルと張り合ったり嫉妬したりするのが女であるということになるであろうか←ここの部分はとても面白いので是非原作を読んでいただきたい。

それでは年齢が同じくらいの桃子とふさ子の義三に対する気持ちはどうであろうか。この2人は「清純さ」を共有している点で少女として描かれており、民子のアプローチとは明らかに異なる。ふさ子は目の美しい美少女であることが強調されているため実際の人物像に対して少々バイアスがかかるが、義三のアパートで民子のハイヒールを見て「気持ちがふとしぼん」だりするあたりに清純さが象徴されていると考える。桃子は義三のためにふさ子を捜しに東京へ出て、ふさ子とシナ料理屋で会話を交わすのは清純ゆえの行為そのものである(ただし桃子の方は長野の実家で義三を困らせてみたいと思ったり、歯磨き美男子コンクールに黙って義三の写真を出したりしてお茶目なところを見せる。桃子はふさ子に比べて豊潤に描かれており読者によりリアルに迫ってくるものを感じる)。住む世界が異なる2人がシナ料理屋で会話を交わし、「桃子と話したことは、おそらく異常な感動として、心に深く刻まれている」(P.295)のはこの2人が清純さを共有しているから可能だったのだと思われるのである(桃子→ふさ子への一方的な流れではないはずである。それだったら桃子は義三のことをきれいに諦めたりはしない)。

以上のようなことを踏まえ、それが義三の態度との関わりで作品空間の中でどのように展開されているかを考えてみる。義三の気持ちは作品の初期から決まっており、愛する相手はふさ子一人である。他の2人に対する態度では、民子を不愉快にさせ、桃子を悲しませているがその悲しみはかなり緩和されて描かれており、ガラスのような鋭い痛みは感じさせない。作品のプロットが義三とふさ子を一緒にさせないこと、2人の恋愛は成就せず、プロットは違ったところに終着するので2人の失恋(この言葉が適切かどうか自信がないが)は主題からは外れてくる。

それでは女性美といった観点からの主題はあるのだろうか。私はそれを作者が描く女らしさ、民子、ふさ子、桃子が示した気持ち全てなのではないかと考える。義三がふさ子一人を愛しているのが物語のかなり最初からわかっているにもかかわらず、その行動や結果が不鮮明に描かれているため、最後まで女たちの示す輝きが失われないのではなかろうか。ここに主題と対応するプロットの構造を見ることが出来ると考える。

作品解釈を終えて

川端が描く女性像に特徴があるのかがまず知りたい。それがわかってくるとこの作品における登場人物の描写の特性が更に明確になると思われる。この作品には「死」が2つ(ふさ子の弟の和男、達吉)描かれており、また義三も生死の間を彷徨ったとしたら死は3つになる。川端が描く「死」についての見方についての知見を補強すればこの作品の解釈もまた違った側面から光を当てることができて更に隠れた主題を発見できるかもしれない。


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