作品番号:9 1999/11/28登録
林芙美子 「晩菊」 (短編集『晩菊・水仙・白鷺』に収録) 女流文学賞受賞作品
作品情報 テキスト : 林芙美子『晩菊・水仙・白鷺』、講談社文芸文庫(1992)

この作品について

福永武彦研究会の人がこの作品についての論考を書いたのがきっかけで読むことになった。読んでみると語り手の冷徹な描写が目を引き、女が女を描くのはこうも厳しいものなのかと息を呑んでしまった。「晩菊」は岡本かの子「老妓抄」とよく比較されるとのことである。この読み解き(991128 ver 1.0)では「老妓抄」との比較はしないが今後取り上げていくつもりである。
 なお、円地文子が「晩菊」と「老妓抄」について比較した文章が中村真一郎編『恋愛について』、岩波文庫(1989)に掲載されており示唆に富む文章で、お薦めである。

作品の構成と特徴

作品は文庫本にして25ページと短く、登場人物も主人公のきん、元愛人の田部、そして女中の3名と少ない。この小説の最大の特徴は語り手の冷徹までの心理描写であり、特に主人公きんに対する語り手の緻密かつ冷静な記述はとても面白い。昔の男の突然の訪問(実は金の工面に来た)、しかしきんはそれを感傷から「昔の恋の焼け跡を吟味しに来た」と勘違いし、body consciousnessを発揮して「舞台姿」に抜かりがないかどうか入念に点検する・・・2人の思惑のすれ違いがコケティッシュなまでにおかしく、しかし記述は冷徹と、全体的にピンと張りがある作品だと思った。

作品の解釈


 
作品の構造図を以下に示す(図をクリックすると拡大用の図が出ます)
 (この図はInspiration Ver5.0で作成しています)



この作品の中で現在(56歳)のきんには2つの側面が現れている。ひとつは現実生活を行っているきんで、手堅い女という側面、もう一つの側面は「男に対する女」という側面である。この側面が田部との再開を自分に都合良く解釈させ、またきんの生き方そのものを表していると言ってよい。一方田部はきんに女の魅力を感じることなく、金の工面に来ただけであり、きんのbody cosciousnessに対して反応することはない。ここに2人の意識のどうしようもない食い違いが現れており、この作品のプロットを支える構造となっている。


1.赤坂の芸者、万竜ときんの比較〜娘時代、万竜に似ていると云われた。

きんはここで「女が何時までもその美しさを保つと云うことは金がなくてはどうにもならないこと」だと悟った。ここにきんの思考の歪みが露出していると思われた。つまり万竜は人妻となり、きんは(少なくとも物語の中では)孤独に生きている。自分の目標とも言える万竜の生き様を真似するならば自分もカタギになるはずである(少なくともそういう選択オプションが視野に入るはずである)。しかしそうはなっていないのは、きんの生まれ育ちと生活感覚が影響していると思われる。きんは下層階級の人間で、それが終戦後には中流まで上がってきている、しかし全体的なレベルアップが図られたわけではなくて欠落した要素があるわけである。きんがそれを犠牲にして中流まで上がったというよりも、もともと関心が薄かったと考えるべきで、それはきんの視野の狭さから来ている。万竜の美しさは必ずしも年齢や化粧だけではなくて、人妻となった生活から来る美しさも含まれているはずだと思うが、きんはそうは考えなかった。これは語り手がきんの人生に対する理解の浅さを提示しているように思われた。

2.「芸者」という意識
きんの芸者時代の武器は「色」であった。そしてその「色」とは年を重ねると共に基本的には機械的に失われていく性質のものであり、この点が本来の「芸」と決定的に異なっている。若いときのきんは苦労せずにその美貌を「芸」として駆使できたのだろうが、齢を重ねるとそれを駆使するためには物語中で克明に述べられているように意識的な自分自身への操作が必要になる。だからbody consciousnessといったことが全面に出てくるのではないかと思われる。物語の初めの部分(P.9-14あたり)で作者はこのあたりの事情を実に見事に示しているように感じた(男だったらこの描写はできないと思う)。作品を読むとここでは家庭を持って落ち着くことを放棄したきんの、いわば滑稽な様相が描かれていて、冷徹な作者の目を感じる。きんの自己表現は偏った生き方(=人妻であることを放棄するのはそれはそれで良いが、若さ、それも男から見える外見の若さだけが武器とする人生観)に立脚したものであると思われれ、それは私にとってコケティッシュであるように映った。

3.田部との関係〜今昔
田部にとっては昔の女に会う、そしてその肉体には今では何の未練もない。しかしきんにとっては田部に年老いたと見られることは死ぬよりも辛いわけである。もちろんこの気持ちは田部への愛情から来るものではなく、あくまで自意識を満たすこと、舞台で自己をうまく演じるのが目的で、要するに「自分のための舞台」である。このあたりの事情を「語り手」が詳細かつ冷徹の記述している点は面白い。そしてきんは、今の田部に昔の「貴公子」を見ることはない。田部は薄汚くなって金をたかりに来た男として認識されるのである。このあたりのすれ違いもとても滑稽で、お互いの思惑が完全に食い違っているわけであるが、何故食い違ったかというとそれぞれに自分のことしか頭にないからである。以前にあった二人の情交は何の影響も及ぼさなかった、という記述の中にきんの気持ちが鋭く反射しているように思え、恐らく他の男との関係も似たようなものだったと推測する。ここできんが流した涙は自分の情交の履歴を一瞬にして振り返り、殺伐とした気持ちになったから〜それは万竜に見た美しさを自分は達成できなかった〜つまり自分の人生の偏りを田部を介して鋭く突きつけられたからだと考えられる。そうするときんにとって田部との再開は基本的には「他者」(=自分とつながりのない人間ということ)として対峙することを意味し、一方自分勝手に相手に抱いていた幻想が破れるという点では両者は同質という解釈になる。田部をきんに「他者」として対峙させる部分は作者の強要する読みの方向が強く現れており、否応なしに現実を突きつける、いわばきんのbody consciounessを破壊するに等しい行為であると思われた。田部は「触媒作用として」働くことが重要で、きんにきんの現実を突きつける役目を担っているのではなかろうか。そしてお互いの思惑が外れ、田部はそれが殺意に変わるのは金策のために焦っていたためだと思われるが、ここに寂しい人間の性が出ているように感じられた。

4.結末〜幻想からの解放?
結局のところ語り手はきんに人生の偏りを背負わせたまま現実を突きつけたわけである。そして最後に田部の写真を焼くのと田部が女中の肩に手をかける場面がある。ここにはお互いに自分相手に抱いていた幻想から解き放たれるという一種の開放感を感じた。物語のプロットはきんにとってこの先幸せな生活が待っていることを約束するとは思えないのだが、この結末の部分から私は救われたような気分になるのである。それはきんの行為に語り手が冷徹に突きつけた現実をはねとばすだけのパワーを感じたからだと思う。

この作品を解釈する上で押さえておかなければならないポイントは2つ。1つはきんの意識構造と田部のそれとの食い違いであり、これが作品のプロットを支える構造として機能している。もうひとつはきんに対する語り手の冷徹なまでの視線であり、それは年齢に依存したきんの老いときんの意識のずれをイヤと云うほど読者に突きつける。そしてここに田部との関係や唖の女中がからみ、不可逆的に進行する肉体の老いがさらに修飾された形で読み手に提示される。不可逆的に進行する肉体の老い、そしてそれを語り手がきんにつきつけているが最後にきんはそれをはねとばす。このパワーが読み手である私が感じた感動の源泉であった。

作品解釈を終えて

 岡本かの子「老妓抄」との比較は是非やってみたい。実は、「老妓抄」は持っているし一回読んでもいる。読み比べて円地文子のコメントと比較し、そこから自分の感動の源泉を考察する予定。
 それからきんの描き方についての考察をさらに深める必要がある。自分は一貫して「語り手」に描かれるきん、そして結末でその「語り手」から解放されたきんを見たが、果たしてこのような読みはどの程度受け入れられるものなのか興味があるのである。


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