作品番号7 (990724登録)
福永武彦「未来都市」(短編集『廃市・飛ぶ男』より)

テキスト : 福永武彦『廃市・飛ぶ男』、新潮文庫(S46)、『福永武彦全集 第4巻』新潮社

これは福永武彦研究会第38回月例研究会(990718)にて発表した口述原稿をほぼ完全な形で掲載したものです。
本文中に引用されているページ数は新潮文庫『廃市・飛ぶ男』のページ数を示します。

※文章中のWindows 1,2,3はそれぞれW.1,W.2,W.3に相当します。

それでは始めさせていただきます。今回は未来都市ということで、短編小説を取り扱います。今回で4回目の作品解釈の発表を皆様に聞いていただくわけですが、今回はなるべく文章による説明を避け、イメージ図を使用する方向でまとめました。と言いますのは作品に触れたときの感動の源泉を捉えるときに作品全体をイメージで捉えることが必要なのではないかと考えはじめまして、そうすると言葉だけで説明していったのではどうも取りこぼしが多いのではないかと思われるのです。それからこの会では自分が読み解いたものを皆さんに提示して、皆さんの読みと比較することで新しい発見をするのも目的であるわけですから、提示された資料により発表者が作品をどう捉えているかが一目瞭然の形で示されないとまずいわけです。とすると文字だけで説明をするにはどうしても無理があり、イメージ図を使用するのが望ましいと考えました。イメージ図は前回の発表『風のかたみ』の時にも使用しましたが、今回は言葉によるアウトラインの説明なしで、イメージ図だけで説明を試みたいと思います。イメージ図を用いる利点としましては、作品の構造や主題の構造が一目瞭然のイメージとして把握でき、聞いていただいている方が持たれているイメージと容易に比較できること、主題を思い切った形で抽出できるために発表者が意図した方向に議論を進めやすいことが考えられます。欠点としては作品のディティールに拘る(特に言葉の使い方など)のが難しい、ストーリー性が薄い(あるいは感動の源泉をストーリーの中には見いだし得ない)場合には適応が難しいといった問題がありますが、今回取り上げた未来都市ではこれらのことは特に問題にはならないと考えます。

お配りした2枚のB4用紙のうち、ワープロ打ちしてある文章とWindow1と書いてあるイメージ図が載っているものが最初で、Window2,3が載っているものが2枚目です。ワープロ打ちされているものにはあらすじや作品解釈のポイントなど、最小限のことが言葉でまとめてあります。Window1が物語の構造分析にあたるイメージ図で、2,3が作品の主題分析に相当するイメージ図です。テキストは新潮文庫から出ている『廃市・飛ぶ男』を用い、時々引用するページ数は文庫の方のページ数を指します。

まず、作品のあらすじをまとめておきました。

未来都市は「僕」の回想から始まる。画家として旅をした昔(それがいつのことだか明確に語られていないが)、旅の途中で立ち寄った「自殺酒場」から物語は始まる。「僕」は2人の女性を失い、取り返しのつかない絶望感に打ちひしがれてその酒場のドアをくぐった。酒場にいた客の中で最も勇気がある者、つまりもっとも絶望している者として「僕」はバーテンが調合した毒杯を煽って自殺を試みる。それを力強く止める一人の男がいた。しかし「僕」は毒杯を急いで口に運び、世界が回転し始め、意識を失っていった。気が付くと「僕」は汽車の中にいた。そこには「僕」に毒杯を勧めたバーテンと、それを飲むのを止めようとした男が座っていた。男の話によれば2人を未来都市なるものに案内してくれるという。そしてそこは過去の歴史と関係なく、完全に未来を向いているのだという。未来都市は高度な医療技術が発達して病気で死ぬ者はいない。自殺者もいない。そして芸術教育が発達しており、芸術はすべて合作である。未来都市の、芸術は市民に奉仕すべく存在するという思想に「僕」はどうしても馴染めない。未来都市で違和感を持ちつつ生活を続ける「僕」は、この都市では神性放射と呼ばれる人工宇宙線が絶えず放射されて住民の脳に働きかけ、異常ノイロンを破壊して悪を抹殺していること、自分が異常ノイロンの実験材料のためにこの都市に連れてこられたことを知る。そして神性放射を発見した最高の英知「哲学者」と対決し、「哲学者」の妻、ローザと共に未来都市を脱出する。彼らが脱出した後で哲学者の住む「神殿」は炎を上げて崩れ落ち、未来都市は壊滅する。そして「僕」とローザを乗せた船は暗い闇の中を進んでいく。

この小説の構造をイメージしたものがWindow1です。物語全体が語り手「僕」により、過去の回想として話が始まっています。過去の現実世界の「僕」は画家として多くの都市を旅し、絶望して無国籍者のように放浪していたと語られています。この絶望の裏にあるのが2人の女性との別れ、アンナの死とローザとの別れであったことは後の展開の中で明らかになっていきます。そんな「僕」の前に現れた「自殺酒場」、実はここが未来都市への入り口になっているわけなのですが、ここに吸い寄せられるように「僕」は入っていきます。これは「僕」の状況が死に近いことを現していると考えられます。それは「自殺酒場」の中で繰り広げられる3人の客と、バーテンの態度からも支持されます。ごく普通に考えると店の名前が「自殺酒場」だからといって中身まで「死」に関連した内容である必要はないのですが、これは58頁の後ろから3行目で「僕」も言っていますが、3人の客の間に繰り広げられる話題は「自殺酒場」という看板にふさわしい内容です。「僕」はその会話に加わることはないのですが、会話に刺激されて「口に含んだ酒が苦くなった」(60頁)とありますので、中身としては彼らにコミットしていたと見なすことができます。バーテンが「死にたければ、特別のカクテルを作りますよ」(61頁)と言ったとき、3人の客と僕は一斉に首を起こしています。ここで3人と僕の行動のベクトルが「死」へ揃ったと考えられます。なにせ、実際に死ぬための道具が用意されたわけですから。バーテンは毒杯を1つだけ用意し、そして「ここに一筆書いて、それから飲んでください」(63頁)と言っています。その眼は「僕」を睨んでいるようだったとありますし、それから「自殺酒場」に「僕」が入ってきたときから「僕」に注目していたことから、バーテンは4人の中で「僕」が一番死に近いことを最初から見抜いていたのでしょう。まさに毒杯を仰ぐ直前に、未来都市からの案内者がそれを止め、結局僕は毒杯を仰いだのかどうかわからないまま場面が切り替わります。毒杯を仰いだかどうかについて明確な記述はありませんが、案内者が僕とバーテンを未来都市へ連れていくという設定になっていますから、毒杯は飲まれることはなかったと解釈するのが妥当でしょう。ただし案内者がどうやって僕が毒杯を仰ぐのを阻止したか、どのような手段でバーテンを捕らえたか、後の3名はどうなったのかというのは作品中では語られません。これが未来都市への入り口に位置づけられる「自殺酒場」での出来事ですが、非現実的な描写がうまく取り入れられています。ここから案内者に未来都市に連れて行かれるわけですが、汽車と自動車を使っているにもかかわらず正確な地理上の情報は作品の中にありませんし、「僕」が未来都市を脱出してから後からそれについて調べてみるという行動を起こしたという記述もありません。従ってここでは未来都市は現実世界と何らかのつながりを持った地理的に特定できる都市というよりも、「死」の世界と同じ距離にある仮想の異邦世界であると考えることもできると思われます。しかしわたしの読みでは未来都市がこの地球上の特定の位置にある場所かどうかについてはあまり重要ではありません。

現実世界から未来都市への移動は物語の中では恐らく意図的に不鮮明に描かれているわけですが、「僕」がいったん未来都市の中へ入ってしまうと詳細な記述で物語が展開します。わたしはこの話を読んでいて、合作芸術、合成音楽という言葉がとてもひっかかりました。そして「僕」は画家ですし、未来都市の中では芸術教育が盛ん、しかも芸術局という公式の組織が存在して芸術が市民のために奉仕することになっています。ここでは「僕」の芸術に対する考え方と未来都市でのそれと鮮やかな対比を見せていますが、詳細は後で考察することとして、この対立の本質は芸術の根元を個人の中に認めるのか、あるいは多数の合作として認めるのかといった内容だと思われます。これは老人との芸術議論および哲学者との対決の中に示されております。未来都市の詳細も後ほど考察することにいたしますが、ここでは「僕」と一緒に連れてこられたバーテンが路面電車の車掌として善良な市民に変わっており、「僕」がこの姿を観察することでこのバーテンが一種のリファレンス(対照)として機能していること、未来都市で「僕」が出会う女性が現実世界で「僕」が失った女性の名前と一致すること、いや、一致するのみならず現実世界での状況にも類似点が認められることは押さえておきたいと思います。

そして「哲学者」との対決の後で、「哲学者」自らが未来都市を壊滅させます。「僕」とアンナは脱出に成功するわけですが、それから後の生活について物語は何も語っていません。ここに、現在の語り手「僕」が接続する構造になっていますが、物語の冒頭で述べられているように「そこばかりが太陽のように光り輝いている」(56頁)とありますから、まあ「僕」が生きているのはたしかなわけです。未来都市を脱出した後で「僕」の人生が大きく変わったかどうかについては記述はないのですが、「自殺酒場」をくぐったときの「僕」の状態に比べると直ぐにでも自殺しそうだという雰囲気は感じられません。従って未来都市での経験により「僕」は狂気と絶望に満ちた世界で生きていく気持ちになったと解釈することができると思います。

それでは、小説に含まれる主題について見ていくことにします。わたしはこの小説の中に2つの主題、つまりはプロットを支える基盤を見いだしました。それをWindows2,3の主題分析イメージ図で説明します。まずはWindows2を見てください。これは未来都市の構造を作品の記述から抜き出したものです。「哲学者」が発見した神性放射は悪い遺伝子を絶滅させ、異常ノイロンを破壊するとされています。この、「異常」という言葉に注意してください。これは「正常」に対して使われる言葉で、神性放射の性質を考える上で極めて重要な概念になってきます。そのような神性放射にさらされた人間はいったいどのような世界を作るのでしょうか(いや、どのような世界になると福永が考えたのか、と言うのが正しい言い方でしょう)。手元に7/9の新聞がありまして、これはちょうど21世紀の中央省庁の再編成についての記事が出ていたのでちょうど良いと思って切り抜いたのですが、これと比較することで未来都市の特色が明らかになります。現実の世界には「防衛庁」や「国家公安委員会」、「経済産業省」のような、防衛や経済の監督を担う機関がありますが、未来都市にはそれに相当する機関はありません。未来都市には自治委員会というものがありますが、それは犯罪者の取り締まりを目的とはしていないと思われます(102頁に「警察というものがまるで必要がなく」、とありますから、犯罪はないと考えられます)。また、未来都市には「法務省」のような法律に関係する機関も存在しません。「防衛・国家安全・法律」という規制がなくとも未来都市が成立していることは、神性放射によりこれらを必要とする人間の側面が抑制されていることを現していると思われます。それから逆に未来都市に存在して現実世界にはないものは「芸術局」です。未来都市では芸術が独立した地位を占めていると描かれているのです。現実世界にも芸術は存在しますが、未来都市における芸術局はどのような意味を持っているのでしょうか。それは語り手「僕」が描いた未来都市における芸術のあり方に現れています。未来都市での芸術の特色は次の3点です 1)未来都市では芸術は全て合作によること 2)芸術は人類に奉仕すべきという姿勢。芸術教育が進んでいること、市民の教養レベルが高いこと。これは未来新聞の論説が1頁全部を埋めた哲学論文で、「理性の進歩」という題名の恐ろしく高い水準のものであること(81頁)。そして芸術教育が進んでいることの裏付けとして市民の誰もがこれを読めるらしいこと。 3)未来都市で「未来的」とされる芸術は市民の魂を清める、美しくする、幸福にする点に目的を持ち、しかもそれは健康で、明るく、翳のないものでなければならなかった(89頁) とあります。1)〜3)までの目的を達成すべく、「芸術局」は存在し機能していると思われます。そして未来都市では予防医学が発達していること、治療法も進歩しており人々は病気や怪我で命を落とす恐怖から解放されています。しかも自殺や狂気も存在しません(77頁)。「未来都市では夢を見ない」ということは狂気が存在しないということと関連していると思われますが、神性放射による異常ノイロンの抑制には直接的か間接的かはともかく、科学技術を進歩させる力があるようです。わたしには、未来都市は少し昔に描かれた「ユートピア」の世界とほぼ一致するような気がします。ただし合作芸術という概念は除いて、ですが。

この、未来都市を収めるための最高会議、そのメンバーの一人として「哲学者」がいます。「哲学者」が未来都市を造ったと言っても良いでしょう。なにせ神性放射の発見者なのですから。「僕」との対決で、「哲学者」は過去に忌まわしい人体実験を繰り返していることが伺われるわけですが(117頁)、ここでの「僕」との対話は、人間が理想世界をつくるために同じ人間を材料にしてまで実験を試みる必要があるのかどうか、それが人間に許されのかという議論が出てきます。これはこの作品の主題を構成する大きな要素なのですが、ここでは哲学者個人に着目すると同時に、人間が神性放射を利用する/しない以前の問題としてそのようなものが存在することにも着目したいと思います。原子力や遺伝子工学などの技術を考えていただきたいですが、科学技術はその使い方により善にも悪にも働き得ます。原子力は原子力発電への利用と共に原子爆弾の製造に利用できますし、遺伝子工学は医学や農学への利用の他、細菌兵器の開発やクローン人間の製造といった影の可能性を有します。現実の世界では自然現象はそれ自体として存在し、その利用における善悪の判断は全て人間側に任されているわけでして、ここには人類の理性、倫理と呼ぶべき判断基準が存在しています。いわば鍵はわたしたち人間が持っているわけです。しかしながら未来都市に出てくる神性放射はこのような自然現象とは性質を異にしています。では何が異なるのか。それは善悪といった、人間の意志の中にしか存在し得ないと考えられる理性や倫理を自然科学的な現象として、人間の手を離れた操作可能な絶対的なものに帰属させうるとした点です。つまり、神性放射の存在を物語に導入することによって、善悪というのは特定の脳細胞の働きのパターンにより自動的に出てくるものであり、少なくとも悪の因子を取り除くことが原理的に可能だということになります。悪がこのように取り扱いうるのでしたら、それと対局の位置にある「善」もまた同様に特定の脳細胞の働きのパターンであると見なしうることになるわけです。「哲学者」は神性放射の性質を、異常ノイロンの破壊、あらゆる生物の脳細胞を善の方向に向かわせる因子、悪の遺伝子の絶滅と、と語っており、その作用により悪のない人間、罪のない人間ができあがると言っています(114-115頁)。つまり未来都市を含むこの作品世界全体は善悪といった判断基準そのものが神性放射により操作可能であるとされていることになり、人間の手が届かないような絶対的な善悪の基準が人間外の要素により規定されていると考えられるわけです。脳の中に存在する異常ノイロンを選択的に破壊することができるのならば、人間が過去から作り上げてきた理性や倫理といったものは一瞬にして意味を失い、完全に機械的に操作可能な対象として理性や倫理を定義することが可能になります。神性放射の存在意味をこのように考察すると、この作品の構造は「哲学者」が人工的に悪を抹殺した、「哲学者」が独裁者で市民を奴隷的精神状態に追いやったとする読み解きではなくて、もう一段深いレベルでの考察が必要となってくると思われます。つまり神性放射が存在する世界とは神(善悪の判断おいて人間を超越した存在と同義)を仮定する必要があり、未来都市の中で行った「僕」の行為は神に対する挑戦であると考えられるわけです。未来都市の構造を支えているのは哲学者で、その哲学者が神性放射を発見したのですが、そのようなものにより善悪の切り分けができてしまうように人間を作り上げたのは「神の仕業」としか言いようがないと思われるのです。そして「神の仕業」と言えるような神性放射の存在とその性質が、「哲学者」のさらに下層で未来都市の構造を支えていると思われます。

それでは、このような未来都市の中で「僕」はどのように行動したのか、それを見ていきます。そして「僕」は「哲学者」と対決し、未来都市は崩壊してしまいますが、それは何を意味しているのでしょうか。それを読み解くために用意したのがWindow3、「僕」を中心とした人間関係図です。ここで強調したいことは「僕」は不完全ながらも過去を思い出すことができる、という設定になっていることです。そして思い出した過去の中身は2つ、アンナとローザの想い出と、彼女たちにつながった画家としての「僕」の存在です。神性放射および合成音楽の影響により、未来都市では夢を見ることはありません。大脳が絶えず刺激されそのように仕向けられているのです。しかし「僕」は合成音楽を聴いていなかったこともあり、部分的に夢を見たり過去を思い出したりすることができます。そして2人の女性につながった画家としての「僕」が過去と現在(未来都市の中)で、「僕」の心の中で相互に参照されながら物語が進行しています。過去の現実と未来都市の中で知り合った2人の女性がどちらも同じ名前であるのは相互参照の効果をよりいっそう引き立てており、「僕」は未来都市に居ながら過去ともつながりを持っているという奇妙なポジションにいることを強調しています。ちなみに悪党であったバーテンは未来都市の中では完全に過去を消去されて再出発しており、この様を「僕」が見ることで自分の置かれている世界について疑問を持ち続けることになるわけです。未来都市の内部での芸術観は過去の僕のそれと正反対の位置にあり、合作芸術という考え方自体に「僕」は拒否反応を示します。そして僕個人の「暗い情熱」に基づいた絵を描き続けるわけです。それは「僕」の内部から湧き出した、「僕」以外の何物でもない世界から出てきたもので、はっきりと明言していないものの「僕」がそれを一番大切に思っているのは明らかだと感じました。「僕」の世界はあくまで「僕個人」の、狂気や矛盾に満ちた、絶望と隣り合わせになった世界であると言えるでしょう。それが過去への部分的なアクセスを通して、僕が未来都市の中で描く絵の中に表現されていると考えることができます。靴屋の老人や新聞記者、衛生委員、行政局の秘書課にいる男(これは案内者ですが)、「哲学者」がいかに未来都市のすばらしさ、合作芸術の良さを説いても「僕」が納得できなかったのは、過去から引きずっていた「僕」自身の「暗い情熱」〜これは合作という考え方に真っ向から相反する「僕」の世界観のことですが、これが未来都市の持つ世界観と相容れないものであったためです。つまり未来都市では「未来的」というキーワードの下に「芸術は市民に奉仕すべきもの」との強制力が働いていると「僕」は考えているわけですが、一方「僕」は、「僕」一人のため、あるいは「僕」にとっての大切な人のために芸術活動を行うという立場です。そしてそれはそのまま「僕」の恋愛観につながっていると思われます(91-92頁)。僕の絵を「面白い絵ですこと」と言ってくれる女性が現れます。「哲学者」の妻、ローザです。「僕」はそこに自分の気持ちを理解し得る人物、そして過去に別れた女性との奇妙な一致を見出します。過去の世界ではローザには夫があり、子供があって僕と一緒に行くことは出来ないと言いました。未来都市のローザは「哲学者」が私の夫であると言います。ここで過去と現在(未来都市)が相互に参照されて「僕」の取る行動が決定されていきます。「僕」は過去の苦い経験を教訓として生かすべく、ローザを奪うために「哲学者」と対決します。そして「哲学者」に残された少しばかりの悪が彼を刺激して未来都市を崩壊に導きます。この、「僕」を中心とした人間関係を見てみるとそこには過去と現在が相互に参照される構造が現れており、しかも名前の一致した2人の女性が存在し、その女性との関係は常に画家としての「僕」につながっています。忘却が日増しに強まっていく中で「この絵筆を握る手だけが、僕の過去にそのままつがなっているようだった」(89頁)という科白がズバリそのものを示しているように、画家としての「僕」というアイデンティティが過去と未来都市の中で共有されていることが「僕」の置かれているポジションを表しています。このような位置に置かれた「僕」について考えてみると、もちろんこれは作家が意図的に行ったのでしょうが、芸術というものを人間の活動として高く評価していることが伺われます。このような芸術観を主軸にした展開は作品のバックボーンとして全てのプロットを支えており、また福永の主張する芸術観とつながっているのではないかと思われます。つまりは芸術活動は本来個人的なものであり、合作芸術による明るさ、未来、善意、明快、友愛といった個性はエセ芸術であるという主張が隠れているかのように思われました。これは「僕」がローザと会話を交わす場面にも現れており、91-92頁あたりのその思想が見え隠れしているように思われます。

それではWindow2,3を合わせて解釈すると何が見えてくるのか。「神性放射」により未来へ開いた芸術しか認められない未来都市の中で、過去の暗い情熱に突き動かされて「未来的ではない」絵を描く「僕」、そしてその暗い情熱を持っている故に「個性」を大切にできる存在である。その「僕」が自分を生かすためにはどうしても「哲学者」と対決してローザを奪うしかなかった(そしてローザはその求めに応じられるほどの心を持ち合わせていた)。この、「僕」が自分を生かすために「哲学者」と対決するという姿勢は注目すべきで、「自殺酒場」ではいつ自殺してもおかしくなかった存在であった「僕」の大きな変わり様に注目すべきだと思います。そしてその原動力は「神性放射」の影響というよりは「僕」の過去の芸術観につながった要素であると思われます。「神性放射」を発見してその発生装置を未来都市に設置したのは「哲学者」です。しかも「哲学者」は強力放射を受けていないことから過去の記憶を持ち合わせており、未来都市の一員とは言えやはり特別な位置にあるわけです。そしてその過去には人体実験に関する忌まわしい記憶があり、その記憶イコール「残された少しばかりの悪」が未来都市を壊滅させたわけであります。「哲学者」が未来都市を自らの手で壊滅させた理由は「僕」との対決にあることは明らかで、「人間が理想世界をつくるために、同じ人間を材料にしてまで実験を試みる必要があるのなら、そうしなければ進歩が生まれないのなら、僕は永遠に愚昧な、悪徳と狂気に満ちた存在のままでいた方がいい」(117-118)、それからローザが「わたしはこの人を愛しています。私を一緒に行かせてください」(119)の2つの部分が引き金になっていると考えられます。前者に関しては、神性放射を「利用」して人間に操作を加えた、その実験の過程で同じ人間を材料に使ったことに対する倫理的な罪悪感でしょうし、後者に関しては自分が構築した理想郷で自分が裏切られたという喪失感であったと思われます。ここの部分は未来都市は「哲学者」により人工的につくられ、管理されている都市で、その運命も「哲学者」の指ひとつでどうにでもなると解釈できますが、前述したように「神性放射」の性質を考えると単なる「哲学者」の独裁に対する対決だとは思えませんでした。「神性放射」により善悪のノイロンが識別され、悪ノイロンは抑えられるという点から、「僕」が対決したのは「哲学者」を通して「人間を超越したもの」であると拡張して解釈することを提案します。この、「人間を超えるもの」とは「神」と言ってよいと思いますが、結局「哲学者」は死に、未来都市は壊滅し、「僕」とローザは最後には生き残ります。これはどう解釈したら良いのか。ここでの対決は「神」に対する人間の意志の主張であると考えることができ、人間は己の理性や倫理を超えるものに規定されながら(これは物質の集合体としての人間が自然科学の法則に必ず従う点から明らかです)、その規定に対して自らの意志を主張すると力強く示していると思われるのです。何と何が“対決”しているのかをこのように考察していくと、なかなか深刻なテーマを含んだ作品であると思われますが、如何でしょうか。

そして、この作品は現在の語り手「僕」が過去の出来事を回想のように語っています。物語の冒頭で「僕の奇妙な体験が、そこばかりが太陽のように光り輝いている記憶のせい」(56)とありますので、未来都市から脱出した「僕」の生活がその後大きく変化したかどうかは不明ですが、ローザと幸せになった気配は感じられません(もっともここまで考えるのは考えすぎかもしれませんが)。冒頭部分の語りから感じられることは、未来都市における「僕」の神への主張というのもは結局「僕」一人の中で完結しているのではないかということです。「神性放射」が世界のどこかで再発見されたとの記述はありませんし、「僕」が絶望や恐怖から逃れられたとする明確な記述はありません。「神への主張」というとても大きなことを成し遂げたはずの「僕」ですが、恐らく語り手「僕」が今住んでいる場所は過去の「僕」と同様、狂気と絶望に満ちた世界であり、悪ノイロンが存在する世界です。しかし確実に言えることは「僕」は生きているということです。「僕」は自分の意志で狂気と絶望に満ちた世界を選び取ったことが示されており、ここには「神」の意志が介在しない、自分の意志で狂気や絶望と向き合っていく様が描かれていると解釈することができるのではないかと思いました。そしてそれは恐らく語り手「僕」に対して救いとなっているのではないかと思われました。

以上


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