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作品番号:7 1999/7/24登録、2006/11/19追記、2009/6/13追記
福永武彦

「未来都市」 (短編集『廃市・飛ぶ男』に収録)

作品情報 テキスト : 福永武彦『廃市・飛ぶ男』、新潮文庫(S46)、『福永武彦全集 第4巻』新潮社
この解釈は福永武彦研究会第38回月例研究会にて発表した内容をWEB用にまとめなおしたものです。
関連情報

スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える』
ハックスリー『素晴らしい新世界』
オーウェル『1984年』
伊藤計劃『ハーモニー』

作品について

私が知っている範囲では、福永作品の中で唯一SF的な要素を有する作品である。話によると福永にはあと1作品、SF的な要素を有する小説を書いているらしい(福永という名前ではなくて、ペンネームらしい)。SF的な要素を持っているというだけで福永研究会の発表演題として選び、それ以上はあまり深く考えなかったのだが発表を振り返ってみてこの作品を選んだのは正解だったようだ。

物語は語り手「僕」が過去の体験を語る形で進行する。絶望した画家としてヨーロッパの都市をさまよい歩いていた「僕」。そしてその「僕」の前に現れた「自殺酒場」。その自殺酒場で毒杯を仰ごうとした瞬間、世界が回りだし、「僕」は未来都市へと案内されていった。未来都市では神性放射という宇宙線の緩慢な照射により人間の脳の悪ノイロンが消滅させられ、「未来的」な生活が営まれている。しかしどうしてもその世界に違和感を感じ馴染めない「僕」。そして「僕」の前に現れた2人の女性はいずれも過去に僕が別れた女性と同じ名前であった。過去の悔恨を2度と繰り返さないためにも「僕」はローザをめぐり未来都市の最高の英知、「哲学者」と対決する決心をするが・・
先日、スティーブン・ピンカーの著書『人間の本性を考える』を読了した。この本自体がとても面白いのだが(読感コメントはこちら)、この中に”反ユートピア”に関する記述があり、小説がいくつか紹介されている。その中でジョージ・オーウェル『1984年』およびハックスリー『すばらしい新世界』が取り上げられており、最近私もこの2冊を読了した。ハックスリー『すばらしい新世界』については、福永武彦研究会の渡邊氏がその論考(会誌6号に掲載)の中で「未来都市」と比較されているので、興味のある方は福永武彦研究会のホームページにアクセスしていただきたい。会に所属している間ハックスリーの小説を読了していれば、渡邊氏と意見交換できたのに残念である。

作品の構成と特徴


この作品の最大の特徴は、神性放射の存在にあると考える。神性放射という物理的現象により、人間の善/悪が機械的に振り分けられるという思想を導入することで「僕」と「哲学者」の対決や愛、芸術の解釈がかなり大きく変わりうると考える。「未来都市」の存在意義やこの世界のモデルをどう解釈するか、研究会の席でもいろいろな意見が出されて活発(激論?)なdiscussionが行われたが、私は「未来都市」および神性放射の存在を前提とする、すなわちそういう世界がどこかに存在したことを絶対条件として読み解きを行っている。それがこの作品を解釈する上で一番素直であると思われたからである。

作品の解釈


作品構造図を以下に挙げる
この図はInspiration Ver5.0とCanvas Ver6.0を併用して作成した

未来都市作品構造図
図1:作品構造図

 

 未来都市構造図
図2:未来都市の構造

 

 僕を中心とした人間関係図 
図3:「僕」を中心とした人間関係

福永研究会で使用した口述原稿を掲載しましたのでご覧ください。こちらをクリック


【作品解釈のポイント】
1. {現実世界→未来都市→現実世界}が語り手「僕」の回想により語られる。
2. 現実世界の2人の女性と未来都市の2人の女性の名前の一致。
3.神性放射と哲学者の関係(神性放射の発見とその利用)→作品のプロットを支える基盤
  神性放射の存在を前提としたとき、人間の理性、倫理観の体系はどのように考えたらよいのか。
4.回想の中の「僕」の心の動き。未来都市の中から過去へのアクセス
  過去(現実世界)へのアクセス(部分的に可能;画家としての「僕」と2人の女性の記憶)
  過去と未来都市の中の画家としての「僕」が作品中で相互参照されながら物語が進行する
  →作品のプロットを支える基盤

【解釈の結論】
(1) 神性放射を発見して未来都市に持ち込んだのは哲学者であり、悪の機械的抹殺による「善」の世界という点で未来都市は「作られた」人工的な都市である。しかし神性放射の存在は神の仕業(人間の理解範囲を超えた自然現象)であり、これはすなわち善悪の判断が自然科学(操作)的に取り扱い得ることを暗示している。このような神性放射の存在を前提とした場合、「僕」の行為は人間の意志の主張であるとともに神に対する「挑戦」であると解釈できる。
(2) 未来都市の中で“画家としての「僕」”は過去の記憶に不完全ながらアクセスでき、その記憶は未来都市が強要する芸術世界と参照される。「悪」を取り除いた世界の芸術=合作芸術=未来的という思想に対して「暗い情熱」、個人のための芸術という思想が提示され、最後は個人のための芸術が勝利を収める。
(3) 物語全体が回想で語られている点から考えて「神への挑戦」は「僕」一人の中で完結しているが、語り手「僕」は生きている。これは狂気と絶望に満ちた世界で生きていくという意志の現れであると解釈できる。

考察


福永研究会では未来都市の存在意義についていくつかの解釈が提出された。「未来都市」の書かれた時代がちょうど旧ソ連国の共産主義について議論が盛んだったことから、未来都市は共産主義をモデルにしているとする解釈(スターリンが「人民のための芸術」という言葉を使ったそうだ)。合作芸術という考え方がこれで理解されるとの提案であった。また未来都市での出来事全体を「おはなし」として解釈する説、これは物語全体を夢や幻想として解釈するという提案である。SF的な要素があることから未来都市をパラレル・ワールドとして解釈するのも読みとして成立するであろう。本HPでも星野氏が未来都市をインナースペースへの旅として解釈する論文を紹介している(出典はこちら)。そのどれもが一応納得できる要素を含んでおり、未来都市には複数の解釈を許す柔軟性(?)があると思われた。また「今は昔のことだが・・・」と語る手法が「廃市」と類似していること、別世界を描いているという視点から「冥府」の世界との比較という切り口も提案された。いずれも福永作品同士の比較(作品構造および主題の)として面白いテーマで、今後の解釈の可能性を示唆していると思われた。

福永研究会で交わされた議論内容および発表者の追加コメントのまとめ(青字は発表者追コメント)
内容分類 議論内容 ポイント/考察
未来都市の意味するもの 未来都市は共産主義社会をモデル にしているか スターリン「人民のための芸術」という言葉あり。
作品成立の年代とマッチ。
最後に未来都市が崩壊している点に着目(一種のパロディとしても解釈可能?)。
→この場合、作者が作品を通して伝えようとしているメッセージは何かについて考察する必要があり、それが作品から読みとれかどうかがポイント。
未来都市での体験そのものを幻想として解釈可能 初めから終わりまで、「僕」が魔法にかかったとしても作品は解釈可能。
毒杯により見た幻想と見なすこともできるのではないか。
作品構造の類似性 語り方法として「廃市」に類似 現在から過去を見ていく視点として、「廃市」と類似している。
「今は昔」と語る点から現在からは切り離された世界へのトリップを示唆している。昔話的な要素が含まれている。
「僕」が去った後の世界が崩壊している点も類似→モチーフも共通?
「冥府」の世界との類似点 「冥府」はあの世(主人公は明確に死んでしまっている)、「未来都市」では主人公の死は曖昧である(死んだと解釈するのも不可能ではない?)
非現実的な要素を含む世界で主人公の考えや行動が展開していく点は類似。

反ユートピア小説との比較:
ハックスリー『すばらしい新世界』、オーウェル『1984年』


いずれも、反ユートピアというか、高度に管理された社会体制下での抑圧された生活と、そこから脱出しようとする人間の様を描いている。いずれも「未来都市」に描かれた反ユートピア社会の崩壊という結末は無く、反体制勢力は速やかに見つけ出され、抹殺されて物語は終わる。ある意味救いようがなく、web masterが「未来都市」を読んだときに感じた一種の開放感も感じられなかった。

『すばらしい新世界』では、人間は生まれながらにして細かく階級が決められ(アルファ〜イプシロン)、その階級に応じた生活、仕事が与えられる。また出産は完全に人工的であり、完璧にコントロールされている。ぞっとしたのが階級が低い人間を育てるときには酸素を減らして脳にダメージを与え、その能力が低くなるようにあらかじめ仕組まれているということ。しかし面白いのは、徹底した管理体制だけではまだ不足で、民をコントロールするには「ソーマ」と呼ばれる薬物を強制的に摂取させていることである。ソーマを摂取することで、人は恐怖から自由になれる(と同時に思考力も奪われる)が、管理体制を2重3重に張り巡らせないと完璧には行かないのである。 「未来都市」で民を管理するのに用いられる神性放射とはずいぶんと異なる印象を受けるが、ある特定の目的のために民衆をコントロールしようという意図は同じである。この文明社会に紛れ込んだ未開拓国から来た青年”野蛮人”は、最後には文明に押しつぶされてしまい、どうしようもない閉塞感が漂う。

『1984年』では、四六時中監視モニターに見張られながら生活する、これもまた管理社会の話である。こちらは”思想の管理”に重点が置かれているように思われた。指導者<偉大な兄弟>が言うことが絶対かつ唯一真理、たとえそれが180度ひっくり返ろうとも、という世界はとても異様で、普通の神経を持っている人間ならばとうてい受け容れられるものではない。 事実、この話の中には公の場で<偉大な兄弟>の言うことが180度ひっくり返り、周りが慌ててそれに合わせる様が不気味なほど生真面目に描かれている−とても不気味で笑いが凍ってしまった(^^; こちらも『すばらしい新世界』同様に救いが無い小説で、主人公は女との逢い引きが最後にはばれ(というか、ずっと監視モニターで監視されていた)、拷問にかけられて最後には破滅してしまう。

これら2作品を読了して思うのは、福永の「未来都市」は人間の意志を尊重した作品だなあということ。「未来都市」では『すばらしい新世界』や『1984年』と同様に、人間の意志や行動が管理されているが、そこには個人間の格差というものは存在しない。哲学者は一段高い人間のように思われるかもしれないが、最高会議のメンバーの一人に過ぎないと自ら述べており、彼の行動もそれに沿ったものではある。が、神性放射を実用化する過程で非人道的な人体実験が行われたことが暴露され、その記憶が哲学者を破滅に追いやってしまう。哲学者の内部に非人道的な行為に対する後ろめたさがあったわけだが、哲学者をこのように描くのは、福永が人間の意志を尊重しているからに他ならない。(『すばらしい新世界』のムスタファ・モンド総統は、自分のやっていることを全て理解していながら、後ろめたは微塵も感じさせない)

伊藤計劃『ハーモニー』に描かれた世界との比較

『ハーモニー』は医療技術の進歩した近未来を描いたSF小説で、ユートピアの実現を主題にしたものである。本ウェブサイトの読書ノートにこの小説の感想文を掲載しているので参考にしていただきたい。「未来都市」では「僕」がローザを連れて未来都市から脱出し、未来都市は哲学者と共に滅びるところで話は終わるが、『ハーモニー』ではWatchMeプログラムが動作して人類の意識が消失し、ユートピアが構築されるところで話が終わり、正反対の終わり方になっている。

「未来都市」では悪を形成するノイロンが特定され、それを破壊する神性放射を使えばユートピアが実現するという筋書きである。人間の意識の一部を人工的に切り取るという設定がポイントであり、人間という生物の中に「悪」が潜んでいるのでそれを取り除こうとする発想である。ここでは一見人間の意志は尊重される。いや、尊重されるどころか人間の意志は至高のものとして取り扱われ、市民は何らかの芸術活動に従事することが求められている。 『ハーモニー』で最後に実現されるユートピアも、人間の意識を人工的に切り取るという点では同じである。意識に対する操作は「未来都市」に比べて『ハーモニー』の方が徹底しており、意識を消失させられた人類には「未来都市」のような逆転はあり得ない。(さらに言うと、哲学者のような独裁者1人が支配する世界ではないので、ますます逆転はあり得ない)

「未来都市」は人間の意志を尊重した作品であると、以前に指摘した。この思いは今でも変わらないが、『ハーモニー』では人間の意志というものが果たしてどこまで大切なのか、価値を置くほどのものなのかについて疑問を投げかけていると言えなくもない。では、人間の意志よりも大切なもの、それを捨て去っても手に入れる価値があるものは何かという問題になるが、それは人間が完全に社会的な存在になること、行動理論と完全に一致することである。ここは人間同士の対立による争いや混乱とは無縁の世界であり、人類は永遠の繁栄を約束されるというわけである。価値観をここに置くのであれば、『ハーモニー』が描くユートピアは充分に説得力がある。(ついでに言えば、人間が完全に合目的的に動くのであれば地球環境も改善されるだろう) ただし、おそらくこの小説を読んだ大多数の方はここに提示されたユートピアを理想的な社会だとは思わないだろう。それは、我々が意志や魂といったものが大切だと考えているからであり、場合によってはなによりも優先順位高く守ろうとするからである。小説の中に出てきたような、意識を捨て去って数千年生きてきたチェチェンの山奥の少数民族というのは、現実には見つかっていない。我々は自分たちの意志を尊厳する方向でしか未来を思い描くことはできないし、またそうすべきである。それに伴う人間同士の対立は、その英知を以てして解決の道を見出さなければならない。

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