| 作品番号13 | 2003/10/13登録:2005.3/20追加 |
| 作家/作品 | 福永武彦/廢市(はいし) |
| テキスト | 新潮社『福永武彦全集』第6巻/福永武彦『廃止・飛ぶ男』、新潮文庫 |
| 特記事項 | 福永武彦研究会第56回例会(2001/5/12)発表済み 会誌「福永武彦研究」第7号論文投稿済み |
廢市(廃市)という作品について
この作品は文庫本『廃止・飛ぶ男』に収められており、私の福永読書の歴史の中で比較的早く読んだ作品です。初めて読んだのは、確か中学校3年生くらいの時だったと思いました。その当時はあまり感じなかったのですが(中学生のガキだったから当たり前か(^_^;))、改めて読み直してみると人間関係の織りなす”悲劇”というものが鮮やかに浮き上がってきて、なかなか味わいのある作品だと感じました。この作品は大林宣彦により映画化されており、DVDが手に入ります(パオニア株式会社、PIBD-1058、4700円。本編105分+特典映像35分) 映画を観た私の感想ですが、映画は作品と大きな違和感はなく、なかなかよくできていると思いました。紹介文はこちらにあります。また、本作品解釈は再考して論文化されており、会誌『福永武彦研究』第7号に掲載されています。作品の構成と特徴
物語は「僕」が偶然見つけた小さな新聞記事をきっかけに、10年前の「廢市」での出来事を回想することから始まる。10年前、「僕」は大学の卒業論文を書き上げるため、親戚の紹介を頼りにして「僕」はある古い町で過ごすことになった。そこは運河が縦横に走り、昔ながらの古い家々が並んだ美しい町であった。世話になった旧家には闊達な娘「安子」がおり、僕は安子にいろいろと世話になり、「僕」は次第に安子に惹かれていく。しかし、安子には表面的な闊達さとは裏腹に、苦しみの中でもがいているのであった。 「こんな死んだ町、わたくし大嫌いだわ」、安子にこう言わしめる町の雰囲気と密接に結びついた人間関係、そしてその中で発生する心中事件と物語は進行し、外者の「僕」は次第にこの町が持つ悲劇的な要素を知るようになる。作品の解釈

図1:「廢市」の人間関係図

図2:心中事件の分析
図1では廢市世界における人間関係の格子を図示化した。貝原家の姉妹である郁代と安子は気品高さの点で共通点を有するが、快活さ、美しさの点で似ていない。郁代は美しいがゆえに悲劇的といった要素を持ち、廢市の町が持つ閉塞的な雰囲気と一体化して作品中に描かれている。ここに秀と直之が絡んで図示したような人間関係の格子が出来上がる。10年前の「僕」は、いわば「よそ者」の立場からこの格子を眺めている。
図2では直之と秀の心中事件を分析した。ウェブマスターは廢市には3つの世界が描かれていると解釈し、それら世界の拮抗が物語を進展させていく原動力になっていると捉えている。
世界Aは廢市の静的な世界で、旧家が建ち並ぶ美しい町並みと、そこに住む住人を表している。「僕」はこの世界のことを最初は美しいと感じるが、実はここには閉塞感とすさまじいばかりの負のエネルギーを有しており(ここで言う”負”とは、進歩性、解放性に対して”負”という意味である)、これが秀を軽蔑させ、直之に対して攻撃性を発揮する。郁代は世界Aの代表的住人である。
世界Bは世界Aに拮抗し、閉塞感から逸脱するエネルギーを有する世界である。ここには直之と安子の持つ「廢市=死んだ町」という認識が含まれている。安子は世界Aと世界B両方の属性を有しており、彼女の若さによる生のエネルギー発散がこれを支えている。
世界Cは秀に代表されるつかの間の安らぎの世界である。直之も秀も、この関係がいつまでも続くとは思っていない。しかし直之はそれを求めずにはいれらない。ここで世界Aは世界Cと完全に断絶しており、一切交流はない→従って郁代は秀の存在を許せないし、理解もできない。
図3ではこの物語の作品分析を図示した。 ウェブマスターは、この物語が10年前の回想から始まることにこだわり、現在の「僕」と10年前の「僕」との関係に特に注意して考察した。現在の「僕」は”昔のことを思い出す暇も必要もない”とあることから、10年前の体験が現在の「僕」に何らかの影響を与え続けているとは考えにくい。しかしその生活には、”何かが欠けていた”状態が続いていたのであった。これは「人生の本質から遠く離れた」状態が続いていたと言ってもよいであろう。 ここで廢市消失の記事を発見したということは、現在の「僕」が10年前と何ら変わっていないことを示唆している。そしてこの「僕」の状態が必然的に新聞記事を発見させ、物語の立ち上げとなっている。
「僕」は10年前の出来事を回想し、当時心中事件に遭遇したことで郁代、安子、秀という3人の女性の中にあるそれぞれの美を意識した。「僕」は心中事件に深入りをしないおかげで客観的に観察できる立場にいた。3人の女性の美はあたかも超高感度フィルムで撮影したかのごとく「僕」の中にイメージとして取り込まれる。しかし(ここが大切なところであるが)、このイメージは「僕」の中に封印され、徐々に悲劇が進行する間じゅう「僕」は自分の気持ちに気がつくことはなかった。心中事件が発生し、「僕」が廢市を去る時になって、封印が解けて「僕」は安子に対する自分の気持ちを意識する。 しかし(ここも大切な点であるが)その後10年の間、「僕」がこの問題について深く考えることはなかった。この情報(=安子の美に「僕」が魅力を感じたということ)は僕の中でずっと凍結されたままになっており、最後の別れの場面で安子が持つ美のイメージが廢市の中に永遠に固定され、それに伴って「安子の美」も「僕」の中で永遠に固定されることを意味している。回想を始める前の「僕」は10年前と何ら変わっていない。しかし、回想後の「僕」には、10年間凍結されたままになっていた情報が過去から届けられる。この情報とは、「僕」の中で永遠に固定された「安子の美」のイメージであり、これこそがまさに今後の「僕」が「人生の本質」に近づくために必要とされるものなのである。
<藝術の意味について> 福永には「未来都市」という作品がある (この作品の解釈はこのHPに収められています。こちらです)。「未来都市」も「廢市」も、現在の語り手「僕」が過去を回想する形式を取るという類似の作品構造を持っている。しかし「未来都市」が情熱に支えられ、生への燃焼を全面に押し出した作品として仕上がっているのに対し、「廢市」では情熱の持つ意味は薄い。筆者は「廢市」では語り手「僕」の過去-現在をつなぐ線を重視した作品構造を持っていると考えており、本論考ではここに物語の内的必然性を見出そうと試みた。さらに回想中で語り手「僕」がどの程度事件に積極的に関与するかについても両作品では異なる。「未来都市」での「僕」は哲学者と対峙し、<神性放射>と戦ってこれに対して勝利を収めるが、一方「廢市」における「僕」は恋愛事件の傍観者でありその進展に対してなんら影響は及ぼさない。
どちらの作品にも<藝術>という言葉が現れる。「未来都市」では主人公「僕」は元画家であり、未来都市に送り込まれた後でも「僕」個人の<暗い情熱>に基づいた絵を描き続ける。これが直ちに生への情熱に直結しており、この情熱が僕を未来都市から脱出させている。一方「廢市」における藝術とは頽廃的なニュアンスで捉えられ、滅びゆく町の美しさと密接に関連している。ここには「未来都市」に描かれた<生への情熱>といったものではなく、むしろ<生への情熱>を破壊する<負のエネルギー>を生み出す作用がある。このエネルギーは郁代の上に表現され、安子、直之や秀を容赦なく攻撃する。そしてこの<負のエネルギー>は廢市という町の雰囲気と呼応する形で物語中に展開される。このように、両作品で<藝術>は反対のベクトルを持つエネルギーを生み出しており、作品中に描かれた世界の雰囲気と密接に結びついていると思われる。
ウェブマスターの読みの結論
物語の形式は「未来都市」に似るが、<プロットを支える基盤>および作品の<内的必然性>は異なり、「未来都市」が情熱に支えられ、生への燃焼を全面に押し出した物語であるのに対し「癈市」では情熱の持つ意味は薄く、過去から未来へ向けてメッセージが託された作品であると解釈した。この違いは現場での語り手「僕」が事件に積極的に介入するか否かという物語の違いに現れており、各作品の<内的必然性>と密接に関係している。
大林宣彦監督が、この作品を映画化しています。作品にできるだけ忠実になるべく、努力が払われている作品ですので、「廃市」ファンの方は鑑賞する価値があると思います。紹介文はこちらから。