人間の様々な精神活動の実体は、脳内をかけめぐる電気的なパルスや化学反応の総合結果であり、他の動物と人間を区別している特徴−思考、感情なども原理的には全て脳内の電気的、化学的な働きに還元することができると考えられています。最近はコンピュータの発達に伴って、シミュレーションを活用した知能研究も進歩し、複数の科学の分野が人間の思考、感情の解明を目指してアプローチしています。これらの研究が明らかにしたところによれば、人間”らしさ”というのは脳のハード・ソフトに制約される一定の枠組みの中で発揮されるものであって、その枠組みを知ることが人間を理解する上で大切であると考えられているようです。
私は、文学作品というのは人間らしさの極みとも言うべき産物だと思っていますが、その中で展開される様々な物語は上記のような、脳の機能と構造の制約を受けています。さらには、今のところ「死」を回避する方法は知られておりませんし、いったん死んだ後で生き返る方法も知られておりません。人間の生には時間的に見て明かな限界があるのです。従って、科学的な側面から研究された人間を知ることは、文学作品の解釈に深みを与えてくれるに違いありません。ここでは主に1)生物の中に占める人間の位置付けと特徴 2)脳の機能と働き 3)人工知能研究 の3つの側面から人間に対してアプローチしたもので、基礎的な知識を得るには大いに役立つと思われるものを取り上げていきます。
●スティーブン・ピンカー著、山下篤子訳『人間の本性を考える(上)(中)(下)』、NHKブックス(2004年) [2006/11](お勧め)
言語学者であるピンカーが書いた本で、人間の性質〜才能、暴力、思いやりなどなど〜について解説した本。ピンカーにはこの他にも『言語を生み出す本能』や『心の仕組み』という著作(邦訳があるもの)があり、どれもわかりやすくおもわず引き込まれてしまう面白さがある。この、『人間の本性を考える』では文学作品を5つほど取り上げて、人間の本性についての考察を行っている。その中のひとつの課題が「悪」であり、作品としてはジョージ・オーウェル『1984年』やハックスリー『素晴らしい新世界』が取り上げられている、これらはいずれも”反”ユートピア小説であり、福永武彦「未来都市」と対比して読むと面白い。(作品解釈への反映についてはこちらからどうぞ)
ピンカーのこの書は、人間の才能・能力といったものがあらかじめ決められているもの(先天性)なのか、それとも後から教育や文化によって形成されるものなのかという論争を取り上げる。結局のところ、私たち人間は遺伝子によって設計されており脳もその例外ではなく、可塑性があるとは言っても無限ではなく、ハードウェアの制限を厳しく受けているということを様々な実例から検証していくのだが、これが意外と受け容れら難いという面があることも説明していく。”文化”というものがどこまで力を持つのか、その限界はどこら辺にあるのかといった考察はとても歯ごたえがあり、面白い。
●マッド・リドレー著、中村桂子、斉藤隆央訳 『ゲノムが語る23の物語』、紀伊国屋書店(2000年)[2006/3]
いわゆるヒト・ゲノム計画に関する書籍で、なかなか良い入門書だと思う。23本の染色体(人間の染色体は22本+XまたはYで合計23本)について、トピックスを取り上げて解説するというもの。生物に関わりのある大学1−2年生以上向きだが、生物学に興味を持っている熱心な高校生ならば頑張れば読めると思いますので、是非チャレンジを(o^^o)!
●リチャード・ドーキンス著、日高敏隆ら訳 『利己的な遺伝子』、紀伊国屋書店(1991年) [2006/3] (お勧め)
かなり有名な本で、関連する解説書も多数出版されているのでご存じの方も多いと思う。全部で500頁ある結構なボリュームを持った本であり、内容的にも結構ハードである(と私は思う。中学生でも楽に読めるという外国の書評もあるが、それはいくらなんでも無茶だろう(^_^;)と思いました。この、利己的な遺伝子(セルフィッシュ・ジーン)の考え方を創案した人物が自ら書いた啓蒙書であり、懇切丁寧に解説されている。生物の行動や進化を考える際の基本は、基本は遺伝子の複製ですよ、その遺伝子は自分自身が増えるように機械的に振る舞うのですよ、ということで、複雑に見える生物の行動はこれで統一的に説明できるとするもの。また頁のかなり部分を割いてダーウィンの進化論の検証が述べられているのも特徴。これを読んだからと言って文学作品の解釈に即効性があるわけではありませんが、人間行動について考える上での基礎文献として有効でしょう。
●J.メイナード=スミス著、木村武二訳 『生物学のすすめ』、紀伊国屋書店(1990年) [2006/3] (お勧め)
スミスの研究は、上のドーキンスの本の中でもしばしば引用されている。『利己的な遺伝子』に比べると半分程度の厚さの本で、ドーキンスの本からくせを消してもう少し一般化し、教科書風に仕立て上げたものと言えるかもしれない。生物学一般の知識が一通りレビューされているので、「ドーキンスはボリュームがあってちょっと・・」という方にはこちらがお勧め。高校程度の生物学の知識があれば問題なく読めるが、多少生化学や分子生物学の内容が出てくることはご留意あれ。この本の思想は、「生物体全体の性質はその部分部分についての知識からは説明できないという考えに立ち、発生、行動、知覚などの現象についてはそれらを直接研究対象とし、そのレベルでの法則性を探求すべきである」というもの。文学の対象になっている人間関係はここに挙げられているものよりもさらに複雑な現象ではありますが、アプローチの仕方は同じかと思われる。
●広中平祐企画監修、吉成真由美ら著『心とコンピュータ』、ジャストシステム刊(1995年) [2006/3] (お勧め)
これもまた古い図書で恐縮ですが、コンピュータと脳についての面白い論説文が集められています。95年というとWindows95が発売され、世の中がブームに湧いた時代でコンピュータに対して色々な期待を抱いていた人も多かったでしょう。ご存じの通りジャストシステムはワープロソフト「一太郎」の製造元であり、Windowsブームに合わせて企画をしたのかもしれません。
内容は、広中平祐氏が主催する「数理の翼」夏季セミナーで講演された内容を元にしたとあり、参加メンバーおよび内容は錚々たるものです。この、数理の翼セミナーは主たる受講者が高校生でありますので、内容は高度でわかりやすいことが要求されており、それがそのままこの本のコンセプトともなっています。実は私も大学1年生の時にこのセミナーへの参加申し込みをしたことがあるのですが、残念ながら行くことはできませんでした。
目次をご紹介すると、以下のようになります。
脳科学とは何か(吉成由美子)
学習と記憶(利根川進)
生命とコンピュータ(北野宏明)
脳・心・コンピュータ(松本元)
脳とは何か(養老孟司)
生命の特質を様々な側面−言語、情報処理、推論などーの方法で探っていくというもので、各トピックが独立した講演内容となっています。特に文学作品に関連した話題が出てくるわけではありませんが、人間の認識、情報処理、感覚について、一般の啓蒙書よりもう一歩突っ込んで知りたい、興味がある人にとってはお勧めです。