文学作品を読み解くために その6
<文学作品を読み解く上で有用な本、ツール、技術についての紹介>

作品論、作家論の活用

(2006年2月26日設置)
ここでは、作家のプロファイル、その作風、その作品(作家)を研究している研究者についての情報をご紹介します。具体的には誰かが自著の中で福永武彦のことを論じていたり、特定の作品について感想を述べていたり、情報提供をしていたりといった内容です。今までは掲示板へ随時アップロードしていたのですが、この手の情報は比較的目に付きますので、まとまった場に集約しておいた方が望ましいと考えたものです。基本的にはある程度の分量があるものはここへ集め、単発的なものは掲示板へ記載するつもりです。


●上野千鶴子、小倉千加子、富岡多恵子『男流文学論』、ちくま文庫(1997年)
男性作家6名、吉行淳之介、谷崎潤一郎、小島信夫、村上春樹、三島由紀夫について、その作品評論をまとめたもの。対話形式でまとめられており、言いたい放題でなかなか面白い(笑)。著者の3人を見てもわかるように「女」、「男」という目を非常に強く意識しているので、その点を痛快と感じるかそうでないかは読者によりけりだろう。本HPに掲載した、村上春樹『ノルウェイの森』(私の読み時はこちら)についての書評も掲載されている。『ノルウェイの森』については、是非女性の方がこの書評を読んでどのように思われたか聞いてみたいところであります。

●中島義道著『私の嫌いな10の人びと』、新潮社(2005年)
中島氏の著作は文化の違いや時代の違いを考えるのに有益だとして、こちらで数冊紹介しています。私は氏の主張や文体が結構好きなので、本屋で見つけて迷わず購入しました。タイトルは以前に上梓された『私が嫌いな10の言葉』(紹介文はこちらのページ)を踏まえて付けられており、内容もその続編となっています。

・第5章−文学研究という壮大な無駄、サン−テグジュペリ、ルナールの日記 ・第7章−小谷野敦氏との喧嘩、小浜逸郎氏との幻の書簡集 ・第9章には三島由紀夫、川端康成の作品についての考察が載っています。川端康成『伊豆の踊子』について、氏は一高生と踊り子の間に横たわる差別の現実が克明に描かれた作品であると指摘して解釈しています。

●中島義道著『ぐれる!』、新潮新書(2003年)
ぐれて生きることを勧める中島氏のエッセイ。ここで氏が定義している「ぐれる」とは、現代日本の二大潮流である仕事中心主義にも家族中心主義にもなびかないことという意味。様々なぐれ方の紹介があり、文学作品からの引用がある。第4章は「神さまにぐれる」というタイトルで、いろいろな作家を挙げてどの程度ぐれているかを評価している。明確にぐれた作家として、三島由紀夫、太宰治、永井荷風、林芙美子、夏目漱石らが挙げられており、あまりぐれていない作家として宮沢賢治、三浦綾子、武者小路実篤らが挙げられている。ぐれたように見えてそうでもない作家として、遠藤周作、萩原朔太郎、橋本治、岡本かの子、よしもとばなな等の名前がある。切り分けの理由が面白いので、(役に立つかどうかは別として)一読の価値あり。

●曾野綾子『聖書から学ぶ人生』、新潮カセット講演集、新潮社[2006/3](お薦め)
これは書籍ではなくて、講演をカセットに録音したもので、カセット2本に計4本の講演が収められています。聖書の中から以下の4点の論点をピックアップし、曾野女史の聡明な語りでわかりやすく、面白く解説されています。文学作品の中には宗教的な要素を組み込んだものも多いのは今更言うまでもありませんが、作品理解のためにも宗教について知っておくことは必須です。福永武彦の作品の中にもキリスト教の要素を含んだ作品がありますし、福永作品を理解するためにも有用かと思われます。(もちろん、この作品単体でも充分に楽しめます)。以下、簡単に内容を紹介します。

講演1:愛と苦しみについて
この講演では、人間の観察とその考察について述べられています。聖書は、「人間はデタラメでいいかげんである」という確認から入り、「素晴らしいものである」というのは終着点(最終目標)であると解説されます。十二使徒の中のペテロを取り上げ、彼が自分の身を守るために三回嘘をつく場面を例として挙げています。復讐はいとも簡単にエスカレートするが赦すのはとても難しいこと、他人を信じ愛することがいかに難しいかについて触れられ、聖書がそれをどう解釈しているのかが解説されていきます。自然発生的に好きになることを聖書は「愛」とは言っておらず、求めているのは「アガペー」の方の愛であり、これは苦しみと苦味を伴ったものである。本当の報いというのはこの世にはなく、来生にあるということ、つまり報いられないから美しいというコンセプトである。

講演2:神の教育論
この講演では、聖書の中で教育がどのように取り上げられているかを紹介しています。 (1)最初に採り上げられているのは現在世の中では就いている職業にランキングが存在しますが、そのようなランキングを(本人が)本当に気にせずに職業を選択できるようにするのは、考えるほど容易ではないという話です。コリント人への手紙の中に書かれた、「身体で無駄な場所はどこにもない」というくだりを採り上げ、職業選択の自由について解説をされます。臨教審(今は存在しませんが)の中で行われた議論の中で、職業に貴賤無しという考え方を徹底しようという話があったらしいのですが、そのような思想を根付かせるためには宗教的な基盤が必要であると指摘されます。 (2)次に、人間は雑多な環境の中で自分自身を自ら教育していくことが求められる、という話です。ここではマタイの福音書の中にある、毒麦を抜く話を紹介しつつ、何が良くて何が悪いかというのは人生相当後になってみなければわからない、また人間の場合はあるきっかけで毒麦が善良な麦に変わることがいくらでもあると紹介。

講演3:連携について
ここでは、弱者救済の美学についてのコメントがとても面白い。難民救済のために資金を提供する場合、その人たちの面倒を後々までずっと見るのか、先進国がこの先数世代にわたって彼等の面倒を見る覚悟があるのか考えているか、たかだか数千円から一万円程度の金額で「良いことをした」という気持ちを買っているだけではないかと指摘。ここで必要な視点は、やたらと平等を主張するのではなくて、差異を認めるという発想である。その違いを認めることで「連帯」の思想が生まれてくる。心はどうでもよいから、やることだけはやりなさいという大人の態度が求められているのである。

講演4:善人と悪人
”悪”についてもっと学ばなければならない−そこから私たちのより良い生き方も見えてくるという骨子で話が展開する。聖書の中の物語はインチキ、デタラメ、ずるい人の話で満ちあふれており、立派な人の模範的な物語というのはほとんど無い。女史は聖書の中では一人の人間の中に、善と悪が同居している様が描かれていることを指摘する。人間は肉体的な辛さを通して生きていかなければならず、人間の持つ「弱さ」について着目し、自分にかわいく他人に厳しいということをきちんと認識しなければならない。文学で人間を描く場合には、人間を過不足なく描かなねばならず、それが文学の使命でもある。

●曾野綾子『自分自身のための人生』、新潮カセット講演集、新潮社[2006/3]
上記「聖書から学ぶ人生」に続く講演カセットです。上の講演とコンセプト的に重複する内容もあり、(私的には)上記カセットを聞いたときよりも感動は大きくありませんでしたがそれでも充分おもしろく有用であることには違いありません。カセット1本で値段は2000円でした(AMAZONで新品が購入可能)。

講演内容:小説とキリスト教から学ぶ、自分を疑い、人を疑う、サハラ砂漠での体験、聖書の言う「愛」、戦後教育の問題、与えることの幸福
サハラ砂漠での旅行体験から筆を起こし、女史が受けた教育の紹介、臨教審(臨時教育審議会;今はありません)でのやりとりについて言及していきます。教育は誰もが関心を持つ話題でありながら、意外と客観的な話が出来ない(つまり、自分が受けた教育を絶対無二と頭から決めつけてしまう)ことが多いのですが、女史の言葉はそのようなことはなく、ご自身の経験と臨教審での活動の2つを軸として話が展開されます。ここで「教育」というのは、学校で知識を取得するという意味ではなく、生きるための知恵という位置付けで語られているわけです。この、「生きるための知恵」の視点に立って、ユダヤ人の生活、そして聖書の中で語られているエピソードの紹介が続き、一貫した内容となっています。(蛇足:文学作品の解釈と直接関係はありませんが、最近「格差社会」という言葉を頻繁に聞くようになっていますが、その中で子どもの教育が大変大きな論点として採り上げられています。まぁ要は子どもの教育が大事→子どもの教育にどれだけお金がかけられるか→金がかけられない家庭は下流 といった、単純かつ劣悪な議論なのですが、この講演では「教育」について別の視点から採り上げていますので、聴講する価値があるかと思いますよ。)


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