Marcel Proust "A la recherche du temps perdu"
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マルセル・プルーストの名作『失われた時を求めて』についての解釈、感想を随時載せるページです。
20世紀文学の最高峰と言われるこの作品、回想を語りながらその中に自分の内面を発見していくという形式で、
他の文学に与えた影響は計り知れないとのこと、この最高峰の古典を是非自らの手で読み解きたいと思っているわけです。
ただしこの本、全部で1万ページにおよぶ膨大な分量で、一体何時読了できるのかさっぱりわかりません。
というわけで、読書が進むごとにここでご紹介することにいたしました。
マドレーヌを入れた紅茶を飲みながら
第一篇「スワン家の方へ」 第一部「コンブレー」読了を記念して (1999/10/12)
テキスト : ちくま文庫『失われた時を求めて第1ー10巻』、井上究一郎訳(1992)
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第1篇 「スワン家の方へ」
第1部「コンブレー」
ママの想いと「マドレーヌ」:
まずは小さいときに感じた眠りについての記述から始まる。もう寝なければならない時間になり、一人でベッドに行きママの接吻を待っているときの様子、ママが来客の相手をしなければならないため部屋に来られなくなったとき、「私」がフランソワーズを使ってママを呼び寄せようとするたくらみが失敗に終わったときの悲しみは実によく描けていて読みごたえがあった。ああ、なるほど、この小説は作者の幼年の回想から始まるんだな。。
そして有名な「プチット・マドレーヌ」の場面へ(P.74-79)。なるほど、マドレーヌ入りの紅茶に触発されてコンブレーの思い出が一気に頭の中に展開する。ぼだい樹花を煎じたものにひたしてレオニー叔母が出してくれたマドレーヌのかけらの味覚と今「私」の目の前にあるマドレーヌのかけらが呼応して回想のdriving
forceとなっているが、ここでは物質により触発された過去の事象が極めて精緻に記述されている。いろいろな匂い、味、風景などが個人の特定の思い出に結びついていることは我々も経験上よく知っており、自分でも経験したことがあるがそれをこのような詳細な報告の形でまとめたという点で高く評価されているのであろうか。
実は、先日この「マドレーヌ体験」とも言うべきものが自分自身にも訪れた。以前に研究生として派遣されていた大学の先生を訪問した時のことである。その先生にお会いするのは約3年ぶりであった。先生がみかんを手に持って部屋に入るのを見たとき、今まで忘れていた〜記憶の中に埋没していたというべきであろうか〜研究生時代の生活、先生とのやりとりが鮮やかに蘇ったのである。大学の周りの食堂、よく通った通学路などは懐かしかっただけで、先生の手のみかんを見た時のような鮮やかなイメージは想起されなかったのである。昔経験したことの鮮やかなイメージが蘇ることとなつかしい思い出というのは決して同一ではない。前者は経験したまま記憶の中に埋もれていることで、通常の我々の意識からはアクセスできないのではないか。いや、もしかしたら後者の「懐かしい」思い出というのは自分の頭の中で何回も意識的に想起しているため修飾され変形し、オリジナルからはかけ離れてしまっているのではないかと思われる。我々が昔を懐かしむとき、そこで自分の都合の良い作り換えをしているのではないだろうか。
高級娼婦(ココット)の場面(P.128-130):
娼婦を観察する「私」の目もなかなか鋭い。自分の家族の従兄弟の娘とそうはちがっていなかった、どうしても良家の若い娘であると私に考えさせると率直に感想を述べた後で、「父のなんでもないつまらない話をとりあげ、それ微妙に細工し、それにひとつの表現を与え、それに貴重な名を冠していた」と観察している。相手の男の話を加工し、それがいかにつまらないものであっても大変価値のある話に修飾してしまうのは高級娼婦の特色であると思われる。娼婦の真の価値は男のstatementを持ち上げ、非常に大きな価値があるかのごとく思わせることなのである。
読書についての考察(P.141-143):
「我々がその人間にどんなに深く共感しても、その大部分は我々の感覚で知覚されるものである。他人の不幸に我々が心を痛めるのは彼について我々が持っている概念の総体の一部分でしかない。」 これは、「人は自分自身が経験した範囲でしか世界を知覚できない」ということ。痛みを本当に知った人にしか他人の痛みを知ることができないという科白と同じである。プルーストはここで小説家の発見について触れており、小説の世界の中で我々は作中人物の行動、感情を自分のものにすることができるといっている。さらに興味深いのは、小説家は感動の強度を調節でき、例えばどんな感動も10倍になる状態に我々を導くことができるのである。すると実生活でそれを知るのに数年かかることを一瞬のうちに体験することになるのだという。優れた(=読んだときに深く心を動かされる)小説というのは読者に働きかけて内的経験を豊かにする作用があるのだろう。
面白いのは、感動の強度が違うと知覚の質が異なってくる、と述べられていることだ。実人生でゆっくり起こること(=強度が低い)はまざまざと知覚できない→その正体をはっきりと知ることができない→心の変化の感覚そのものを知覚することができない となる。一方小説家がその感動を10倍にも高めてくれると我々はそれを知覚し、正体をはっきりと捉えることができる。よって我々の心は自分自身の心の変化をとらえることができるのである。これが小説を読むことの大きな利得のひとつであることは間違いがないであろう。
第2部「スワンの恋」
この章はスワン氏とオデットの恋の様相が語られている。はじめはスワン氏とオデットの恋はうまくいっているのだが、次第にオデットがスワンに対して冷たくなり恋は成立しないかのように思われる。語り手が語るのは主にスワンの心境であり、オデットの冷たい態度に対してスワン氏の心がどのように反応したのかが詳細に語られる。この章だけを取り出して他のフランスの恋愛心理小説と比較してみるのも面白いだろう。私が今までに読んだ小説のパターンとは明らかに異なっており、フランスの恋愛小説の奥の深さを感じさせてくれた。
共和国大統領とのランチ(P.362-364)
スワンが大統領とのランチに招かれていることをしゃべる場面。スワンはそれが決してたいしたものではないと強調して周りに嫉妬がわき上がるのを抑えようとする。コタールはスワンの言葉を真に受けてグレヴィ氏の招待の価値を大した物だとは思わないようにする。コタールは自分自身の心の動きについてもっとよく考えたほうがよいであろう。
恋を生み出す様相(P.387-388):
愛する人になる条件は何か?それは他の人以上に我々の気に入っている必要はなく、他の人とおなじほどに気に入っている必要さえもない。その人を占有しようとするきちがいじみた苦しい欲求を感じた時、それが恋を生み出す。これはその人がわれわれの身近からいなくなった瞬間に我々を不安にする欲求が頭をもたげてきた時、それを恋の始まりと定義する。人は何かを失ったときにはじめてその真価について考え始め、自分の心の動きを知るのである。これは真実であると思うし、失われた恋人や友達を求めて旅に出る(必ずしも物理的にさまようことを意味しない)という形式を取る小説は数多い。

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