私の読書ノート

読書ノートから、お勧めの書籍(文学作品の朗読を含む)をご紹介します。

中島義道氏の「死」に関して綴られたエッセイである。人生に対してポジティブな姿勢を真正面から否定し、「我々は別に楽しいから生きているわけではない」とする前提から出発した、哲学的な考察。最初の部分を受け容れられるか否かで(あるいは、哲学や人生論に読者が何を求めるかで)、読者層を選ぶようになっている。前提がある程度納得できないと読者にとって有害であるとすら言える本。

<目次>
1章 死だけを見つめて生きる
2章 幸福を求めない
3章 半隠匿をめざそう

第1章では、人生は生きるに値するか、なぜ自殺してはいけないかという問いがなげかけられ、氏の解釈が展開される。人生は楽しいわけではない(=我々は楽しいから生きているわけではない)から、いくら楽しいことを説いても自殺する人を思いとどまらせることはできない。それでは、自殺する人を思いとどまらせるのは何か。氏は「あなたがいなくなってしまうと寂しい」という心の底からの叫びである、と言う。氏はこの言葉に対して、「この程度の浅い考え」と言っているが、私にこれが浅い考えであるとは思えなかった。

福永武彦『草の花』の主人公、汐見茂思はサナトリウムで自殺行為に近い無謀な手術を受けて返らぬ人となった。その彼の気持ちが、point of no returnの向こう側へ言ってしまうのを、語り手「私」は思いとどまらせることはできなかった。おそらく汐見に何を言っても無駄だったろう。この本を読みながら私は漠然とそのようなことを考えていた。藤木千枝子だったら汐見の気持ちを思いとどまらせることはできたのかもしれないが、それはそもそもあり得ない話なのである。

「今生きている私は、なぜ死ななければならないのか」という問いに射貫かれて生きる者は、哲学者の素質を持っているという。少なくとも地球上の生物はいずれは死ぬ(個体としての生は失われる)のであるが、現在の学問ではなぜそのような設計になっているのかをきちんと説明することはできないのであるが、死んでしまったら私たちの意識がどのようになってしまうのか、消滅すると言っても自分自身の感覚としてそれを疑似体験することは不可能である。他の人はは、特に科学者に多いように思われるのであるが、「宇宙や地球の歴史から比べれば、人間の一生なんて小さい。だから気持ちを大きく持て、小さいことは気にするな」といった論理を展開する人がいる。気持ちはわからなくもないが、でもそれは比較対象の選定が間違っているように思う。科学的な議論をしているのならばともかく、哲学的な問いの出発点はあくまで「私」の感覚に立脚したものでなければならない。宇宙や地球と比較することはベクトルの方向がずれていると言わざるを得ない。

面白いのは氏がこの著書の中で指摘してるように、想起能力が衰退すると同時に「私」という言葉を正当に使用する能力も衰えるらしい。これは、「私」という概念があやふやになって、現実と非現実の区別がつかなくなっていくことであるが、アルツハイマー病や痴呆の症状がまさにこれに当てはまる。アルツハイマーや痴呆の研究は近い将来に哲学者の興味対象となり、そこから実りある研究成果が上がるのではないだろうか。私自身は痴呆やアルツハイマーについて詳しくは知らないのであるが、「私」という概念の喪失と「死への恐怖の喪失」は比例しているのではないだろうか。もしそうであるならば、死への恐怖を解明する、あるいは対処する鍵がここにあることになると思うのである。

第2章では、幸福と悪に関しての記述が収められている。氏の哲学に対する考え方も紹介されていて、「哲学はあくまでも自分のため」、「全身の実感とともにわかるわかり方以外はあり得ない」といった記述がある。この章で面白いのは、現代大学生に対する氏の評価である。氏は日本の豊かな社会が産んだ成果の一つとして、氏の時代(40年以上前)に比べて遙かに好ましい(一言で言えば、育ちが良い)としている。ただし、生きる力が弱すぎる危惧はあるが、と述べているが。

この、生きる力に関してはさらに記述があり、弱さを決して武器にしてはならない(それは卑怯である)と述べている。”弱いだけの善良な人”、という記述を見たとき、私はすぐに川端康成『川のある下町の話』に出てくるふさ子や、室生犀星『或る少女の死まで』に出てくるS酒場の少女を想起した。なるほど、彼女たちは”善良”ではあるが、それ以上の取り柄は無い、という設定で物語の中に描かれている。いずれの作品も私は大好きであるが、この本に書かれた視点で見ると生きる力は弱いと言わざるを得ない。文学作品が担っている重要な役割の一つに、いくら理不尽であろうとも、現実を情け容赦なく記述することが挙げられる(と、私は思う)のであるが、中島氏はこのような現実から決して目をそらしてはいけないと伝える。それこそが、生きる力になるのだ、と。

国家間および時代間の考察も面白い。東京オリンピックが開催された頃の日本は、元気であったが故に繊細さに欠け、下品な国であったと述べる。全世界(これは欧米諸国のことであろうか)から非難され、下品の限りを尽くし働きに働き続けた結果、今日の日本の若者達を作り上げているとすればなんとも皮肉であるが、それからも「決して目をそらしてはいけない」のである。私は、このような考え方に触れたのはこれが初めてなのであるが、頑張っている国ほどがむしゃらで、品がないという主張は面白い。ここの部分だでもこの本を読む価値があるように思う。

第3章では、第1、2章の内容を受けた著者の結論が書かれている。すなわち、「半隠匿をめざす」というのがそれだ。自分自身の仕事や役割に対して過度な思い込みを抱かないこと、成功者をあまり称賛しすぎないことの2点がまずは挙げられる。地上には人生を賭けるほどに値する重要な仕事は存在しない、それから成功には必ずなんらかの偶然に恵まれており、それは純粋に運により左右されるからである。そして、その仕事の成果も仕事を成し遂げた本人も、「いずれは世の中から消滅する」のである。それから決して目を反らしてはならない。

半隠居の方法や氏の実践状況が次々と紹介されていくのだが、これは個別のケーススタディであって面白いかどうかは人によると思う。読者の置かれている環境にも依存するだろう。一応の結論になっているのだが、第3章だけ読んでもこの本から得られるものは少ない。むしろ、第1,2章を読んで第3章は読んでも読まなくてもよい、というのが一番得るところがあるように思う。

中島義道氏の著書は、他にも『私が嫌いな10の人びと』『戦う哲学者のウィーン愛憎』を紹介しています。
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中島義道 著
『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?』
(2008)


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読書ノート No.44 2009/12/31
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