私の読書ノート

読書ノートから、お勧めの書籍(文学作品の朗読を含む)をご紹介します。

外山滋比古『ことばのある暮し』、中公文庫(昭和63年)

外山氏の著書(の一部)は、中学生か高校生の時の国語の教科書で読んだ。『未知を読む』という著書の一部で、読みをアルファー読みとベーター読みに分け、ベーター読み(自分が知らないこと)の読み取りを最終目標に置くべきだ、との主張だったように思う。外山氏はこの他に言葉に関連したもいくつかの著書を書いており、これもそのうちの一冊。自宅の近所に開店した古本屋を表敬訪問した際に発見し、購入。

『未知を読む』は論説文で教科書的な臭いの強い作品だが、こちらは日常生活と言葉に関するエッセイである。この本が書かれたのは昭和63年と今から20年以上も前であり、インターネットはおろかパソコン通信も無い時代のことであるから、パソコンやコンピューター通信の話は無い。その代わりに手紙についての記述が豊富であり、優雅な雰囲気が漂う。私たちは(少なくとも私は)手紙のやりとりというのは年賀状くらいしかやっていないため、電話もなかった時代に手紙や電報でメッセージをやりとりしていた時代のことは大変面白く読ませてもらった。当たり前であるが昔と比べ今は情報の伝達手段、伝達速度は桁違いに速い。

年賀状についてのエッセイでは、子供が年賀状を出すから是非そちらからも書いてやってくれと頼む親の話、著名は手書きにする、印刷だけの賀状は心が荒れている等々、とても繊細な言葉(と言葉を使った伝達手段)についてのエッセイが続く。年賀状は全て印刷で手書きの部分が何もないのは、私も抵抗があるのだが(と言いつつ今年はそのようなものを出してしまったが(^^;)、このような感覚は情操教育により養われるというのは納得できる。ちなみにコピーの賀状(そのようなものは見たことはないが)は添え書きが全くないものよりも悪いとのこと。そう言えば以前にショート・ショートで、相手の名前の部分をブランクにしたラブレターを大量にコピーして名前の部分だけをその都度入れて出した男の話を読んだことがある。友人が何故そんな馬鹿なことをしたのかと問い詰めるが本人には責められている理由が全くわからないという筋書きだったが、酷くなるとこういうことも起こりえるかもしれない。相手が一人の場合は、文章で心を伝える手段は今でも”手書き”が基本だろう。

読書について書かれた章では、著者は本が多すぎること、簡単に手に入ることを嘆いている。現代の我々はたくさんの本だけではなく、ネットもあるし携帯電話もあるしと読書に割く時間はますます減っていると言えるだろう。著者が勧めている、難解な本を繰り返し読むことはますます出来にくくなっていると感じる。意識的に読書のための時間を作ればよいのではないか、と単純に思われるだろうが、いろいろなモノがあるととりあえずはそれを利用してしまう、というのも人間の性であるので、そう単純な問題ではないように思う。現代の最先端のツールを使って読書の効率が上がるという話を私は知らないし、やはり読書は自分の頭でするものであるので脳の処理速度が上がらない限りは無理だろう。

ここで面白いのは、昔は親が子供が小説を読むのを嫌い厳しく禁止した、しかし子供は親の目を盗んでこっそりと読んでいたという下りである。禁止されればやりたくなるので、こっそりと読んだ小説というのは鋭い喜びを与えてくれるが、親の干渉が弱くなり、刺激が強くなってくると鋭い喜びは減ってしまうと指摘する。外山氏は「世も末だ」と嘆くばかりで有効な処方箋を出さないのは、やや無責任な感じがしないでもない。 現代(2009年)はますます刺激が強くなり、ネット、ゲーム、携帯電話はあり、テレビチャンネルの選択肢は増える、映画のDVDも手軽に手に入るし、外山氏が嘆いた時代よりもさらに読書を取り巻く環境は悪化している。読書に代わる代替手段があるのか、あるいは今後出てくるのかについては正直言ってわからないが、いっそのこと読書を厳しく制限し、古本を含めて書籍の流通にも制限をかけて価格をつり上げれば、昔のような刺激が戻ってくるのかもしれない。まあ、非現実的な考えだとは思うが(^^;

「私の読書ノート」には、外山滋比古が著した下記の本の感想文もアップロードされています。
男の神話学
ライフワークの思想

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外山滋比古 著
『ことばのある暮し』
(昭和63年)


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読書ノート No.31 2009/6/21
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