私の読書ノート

読書ノートから、お勧めの書籍(文学作品の朗読を含む)をご紹介します。

伊藤計劃『ハーモニー』、早川SFシリーズJコレクション(2008)

本書はバイオ系のSFで、ユートピアとはどのようなものなのかをテーマにしたものです。話の骨子部分は比較的シンプルであって、人間が「ユートピア」を作ることを試みたところ、一番邪魔なのは人間の意識そのものだった、というお話です。人間の意識というのは何故存在するのか、というのはサイエンスや哲学の真面目なテーマですが、社会行動として理論と現実を完全に一致させるには、意識は不要、というのがこの物語の設定になっています。

21世紀後半、世界的な核戦争の勃発と、核戦争の影響により変異したウイルスの攻撃に曝され、人類は未曾有の危機を迎えますが、その危機を脱した後には高度な医療技術に立脚した管理社会を築き上げます。人間はWatchMeと呼ばれる体内監視エージェント(マイクロロボットの類ですかね)を埋め込まれ、異常が発見されると直ちに治療薬が体内で生成され、健康かつ長寿を手に入れます。WatchMeによる監視は身体の健康状態に留まらず、心の状態にも及び、自殺は厳重に禁止されています。

自殺などあり得ない、高度に管理された世界の中で信じられないような大量の自殺が発生。それに引き続き動機が全く不明な殺人事件が至る所で勃発して世界は大混乱に陥ります。そしてそれは意識こそ人間の尊厳と考える人々と、システムが成熟した世界ではかえって意識は不要と考える人々の対立によるものであることが次第に明らかにされていきます。そして人類は最後に意識を捨て去り、完全に社会的な存在へと生まれ変わります。

物語はここで終わりですが、この話の味わい所はラストシーンに集中しています。意識こそ人間の尊厳という思想、そしてその意識を捨て去ることは何を意味するのか。それは”人間の死”なのか、それともシステムが成熟した社会では意識は不要で、むしろ積極的に捨て去るべきものなのか、作者は結論を明示しませんが、確実に言えることは意識の死は魂の死と同じである、と考えている節が見て取れます。

さようなら、わたし。 さようなら、たましい。 もう二度と会うことはないでしょう。

それはWatchMeがオンラインになり、無意識が「降ってくる」直前、トァンがつぶやいた最後の言葉。これから失われる、数十億の魂に向けられた鎮魂のことばだった。

私の心に一番響いたのはこの部分です。意識を捨て去ることで人間は完全に社会化され、現実世界は純粋理論との完全に一致し、ユートピアが築き上げられます。

意識が失われることは魂の死、”わたし”という意志の死、消滅であることは間違いのない事実でしょう。”わたし”という意志が考え、決断し、物事を実行するのは事実で、何かを考え選択するのも”わたし”が行うというのはごく自然に納得されることです。主体的に考え、判断する意志を持たない人間で構成されている世界というのは、もしかしたら本当にユートピアなのかもしれません。ただし、そこの住民は幸福感を”感じる”ことができないように思いますが・・・結局、自分自身で幸福を感じ取るには”わたし”という意識が機能して意志が働いていることが必須で、しかし一方で”わたし”という意識があるうちは人間は完全に合目的的にはなれないという、永遠の自己矛盾が存在します。話の中では、ヒロインの御礼ミァハは意識を持たない少数民族の人間で、その民族は何千年と生きてきたことになっているという、伏線が一本引いてあるのです。この伏線は意外と重要で、ミァハの民族が意識を持たずに数千年生きた、という事実を敢えて導入することで物語全体のプロットが説得性を増します。

ユートピアやデストピア(ユートピアの反対の世界)は小説ではしばしば取り上げられますが、ユートピアの話を美しく描いている作品には今までお目にかかったことがありません。福永武彦「未来都市」は一見ユートピアを描いていますが、それは人体実験の犠牲の上に成り立つ虚栄の世界で、「哲学者」の死と共に滅び去ります。「未来都市」では既に出来上がっているユートピアに「僕」が紛れ込むところから物語が始まりますが、『ハーモニー』では数多くの犠牲の上にようやくユートピアが実現します。にもかかわらず、さようならという言葉は『ハーモニー』の方が相応しい。ユートピアを享受する人類はどこにも居ないと暗示されているからに他なりません。

コメントがありましたら文学作品を読むblogまでお寄せ下さい。


 


伊藤計劃著
『ハーモニー』
(2008)


私の読書ノート バックナンバーリストはこちら
読書ノート No.30 2009/6/13
トップページへ
トップページへ